M17星雲の光と影

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2006.12.11
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カテゴリ: 文章論
文章を書くことは「吐く」ことではないかと思う。

ブログを書いていると、時折「よくそんなに書くことがありますね」といわれることがある。「書くことなんて、とくにないですよ」と答えると、相手にきょとんとした顔をされる。「だって、書いてるじゃない」。相手の顔はそういっている。たしかにそうだ。これまで200本以上の文章を書いている。とりたてて書くべきこともないのに、文章が書けるのはなぜか。それは「文章を書いているから」である。

なんだか話がどうどうめぐりで意味をなしていないように聞こえるかもしれないが、書き手の実感としてはそうとしかいいようがないのである。

ある程度まとまった分量の文章を書くようになって、以前と何か変わったことがあったかと聞かれると、うーんと考えこんでしまう。とくにものの考え方が変わったわけではないし、文章力が格段に向上したとも思えない。別に謙遜しているわけではなく、できたら「いやー、文章力がついちゃって、困った、困った」くらいはいいたいのだが、そんなことはない。断じてない。いくらなんでもそんなでたらめを口にするわけにはいかない。ある程度の正直さは生きる上での美徳のひとつである。ニック・キャラウェイくんもそういっている。そうですよね、ギャツビーさん。「『ある程度の』は君がつけ加えたことばだろう、おーるど すぽーと」。あ、ばれたか。

それはさておき、ブログを始める前にも、職業上の理由からある程度、文章は書いていた。以前書いた自分の文章を何年か後に読み返す機会もあった。その時には「ふーん、まあ、こんなもんじゃないかな」と思っていた。発想も今とあまり変わってないし、とくに感心もしないが、とりたてて失望もしない。良かれ悪しかれ、これが自分の文章なんだろう。そう思っていた。

しかし、ブログを初めて何ヶ月かたって、数年前に書いた自分の文章をたまたま読む機会があると、そこに微妙な違和感を感じるようになった。うまく説明できないが、なんだか読んでいて息が詰まるような気がするのである。内容的には以前と同じように「まあ、こんなもんだろう」と思うのだが、読んでいてスムーズに呼吸ができない。要するに、文章が「息をしていない」のである。こういう感覚は以前には味わったことがない。変化があったといえば、これくらいだろうか。

かなりの分量の文章をある程度コンスタントに書くようになって、「文章は呼吸だな」ということをあらためて感じるようになった。考えてみると、これはあまりにもあたりまえのことである。生身の人間が自分の思いをつづっているんだから、その文章も当然、生きており、生きている以上、呼吸するにきまっている。でもそんな単純なことが以前には「実感」としてわかっていなかった。だから、その当時の文章は息をしておらず、読んでいても息苦しい。おそらくそういうことなのだろうと思う。

文章を書くためにはどうすればいいか。その類のハウツー本は本屋にあふれている。私はそういう本を一冊も読んだことがないが、なぜ読まないかというと、最初の一歩がまちがっていると思うからである。

文章を書くためには本を読んで、何事かを吸収すべきである。その第一歩が誤っていると思う。要するに、その発想は、自分には足りないものがある、それをまず吸収して身につければ、文章が書けるようになる。そういうことだろう。「まず吸うこと」、その第一歩がおかしいと考えるのである。



いったいこのプロセスのどこに問題があるのだろう。私はプールでじたばたと体を動かしてもがきながら考え、ある日、忽然とその理由に思い至った。私は息を吸おうとばかりしていて、吐いていなかったのだ。水中で息を止め、水上で息を吸おうとしてもうまく吸い込めないのはあたりまえだ。だって、息を吐いてないのだから、吸えるわけがないのである。

なんだ、そういうことか。そう思った私は顔を水面につけて、勢いよく水中に息を吐き出す練習をした。ほとんど無意識のうちに呼吸をしているふだんとは違って、水中で息を吐くことにはそれなりに意識的な努力が必要だ。吐く息をいったん口の中にためて、せーのーで「ぶふう」と一気に吐き出す。そうやって息を吐き終わると自然に顔が水上に上がる。目の端にちらりと青空が見える。その瞬間、すっと息を吸い込む。ああ、吸えた。ざぶんと顔が水に浸かる。再び、ぶふぁっと水中に息を吐き出す。顔を水面から上げる。その繰り返し。ああ、泳いでる。自分は泳げるようになったんだ。

私が泳げなかった原因は「吐く」ことを忘れていたからだった。吐けば吸える。これは理の当然である。しかし、私は呼吸というのは、「吸ってから吐く」ものだと思っていたのである。でも、よく考えてみると「呼吸」という文字の成り立ちそのものが「吐いて吸う」形になっている。世にある多くの呼吸法も、まずは深く静かに体内の息を吐ききることから始まっている。そのことの意味を考えるべきだった。呼吸における最初の一歩はまず「吐く」ことなのである。

この時の記憶は鮮明に残っている。そして、文章を書くことと「泳ぐ」こととの間には意外に共通する部分が多い。まず、どちらも生まれつきではなく、後天的に身につけるものであるということ。次に、どちらもとりあえずやってみなければ話が始まらないということ。模範文例を繰り返し熟読し、暗唱しても、それだけで思い通りに文章が書けるわけではないし、インストラクターの模範泳法をビデオで仔細に分析しても、それだけですいすいと泳げるようになるわけではない。

さらにどちらも「吐く」ことから始まるという共通点をもっている。

しばしば誤解されていることだが、人は何か書くべきことがあらかじめあって、それを忠実に書き写しているわけではない。たしかに何かを書こうとして文章は書き始められるわけだが、書き終えて出来上がった文章は、当初のイメージとはかなり違うものになっている。文章を書くということは、自分の思いをまず「吐き出す」ことによって、呼吸のリズムを作り出し、そのリズムに沿って自分の考えを生成し、形成していくことなのである。

とりあえず書いて、自分の思いを吐き出す。吐き出すことによって、物事を吸収する態勢ができる。街を歩いても、本を読んでも、音楽を聴いても、人と話をしても、それらを「吸う」ことができるようになる。当然、さっき自分自身で出した呼気をもう一度吸い込むこともその中に含まれる。このようにして「吐いて吸う」サイクルができ、そのリズムをもつことによって、文章ははじめて生き物となる。呼吸をして動き出すようになる。そういうことではないだろうか。

だから、とくに書くべきこともないのになぜ文章が書けるのかと問われたら、「書いているから」としか答えようがないのである。それは「吐いているから」といっているのと同じことなのである。

吐くことを起点として文章の駆動装置にスイッチが入り、そのエネルギーを利用して、世界を自分の肺の中に吸い込む。それを体内に循環させて、自分の息として再び吐き出す。それらを「すう、すう、はっ、はっ」とリズミカルに繰り返すことで、文章が少しずつ形をとりはじめる。それが書くということではないだろうか。

人間の肺活量が吐く息の量によって測られるということの意味を、われわれはもう一度考え直してみる必要がある。

文章を書くことは「吐く」ことだ。







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Last updated  2006.12.11 22:48:49
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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