M17星雲の光と影

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2006.12.12
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テーマ: 感じたこと(2902)
カテゴリ: その他
今から40年以上前、「草加次郎」事件と呼ばれる連続爆破事件があった。

昭和38年9月、東京の営団地下鉄銀座線の車内で座席の下にあった手製爆弾が爆発、乗客10名が重軽傷を負った事件である。時限爆弾の電池にはマジックで「次」、「郎」と書かれていた。

翌日、吉永小百合宅に「急行「十和田」に乗車し、合図が見えたら100万円を投下しろ」という脅迫状が届く。封筒の裏には「草加次郎」の名があった。

前年の11月には島倉千代子後援会事務所に爆薬入りの封筒が届き、発火する事件も起きており、同月、飲食業の女性宅で同様の封筒が発火、有楽町の映画館でも同じく爆薬入りの封筒が発火。世田谷区の電話ボックスでも同様の爆発事件が起こっていた。

前代未聞の連続爆破事件として社会に大きな衝撃を与えたといわれている。とはいえ、当時、小学校入学前だった私はこの事件の詳細を覚えているわけではない。ただ「草加次郎」という名前だけは頭に刻みこまれた。

結局、犯人は特定されず、逮捕もされなかった。当時、テレビのドキュメンタリー番組でもこの事件が取り上げられ、おそらくはNHKの「現代の映像」だったと思うが、その事件の特集が組まれた。小学校の低学年だった私は、その再現映像に食い入るように見入った。

そこは地下鉄の車内だった。座席には乗客が座っており、いくつか空席も見える。しばらくすると、次の駅に停車する。ドアが開き、人間の形をした真っ黒な影がゆっくりと車内に入ってくる。空いている座席に腰を下ろし、しばらく電車に揺られた後、彼は爆発物の入った封筒をそっと座席の下に置き、そのまま降車していく。おそらく当時の映像技術だから、それほど凝った技法が使われていたわけではなかったろうが、通常の車内風景の中に人間の輪郭をした真っ黒な影があらわれ、やがて消えてゆくさまに子供ながらも強い恐怖心を抱いた。私は幽霊やお化けや暗闇にはさほど恐怖心を覚えなかったが、その黒い影にはこころの底から震えるほどの怖ろしさを感じた。

ほとんど音楽も流れない。時間を追って犯人の足跡をたどる淡々としたナレーションを背景として、黒い影がゆっくりと移動していく。その映像をその後、何度も夢に見た。



夜の九時過ぎだったろうか。小学校3年生くらいの私は、いつものようにバットの素振りをしていた。秋から冬にかけての寒い時期だったように思う。素振りを終えて、バットを裏庭に面した台所の傍にある井戸水用のポンプの脇に立てかけた。そして、体の向きを変えて家に入ろうとしたその時、裏庭の向こうに黒い人影があることに気づいた。

その影は、風呂場の扉の下のほうにしゃがみ込んでいる。扉は木製の古いもので、扉と壁の間には細いすきまが開き、そこから光が細く洩れている。風呂場の中からはお湯をかける音が響いている。ちょうどその時、母親が入浴中だった。

私はその場にたちすくんだ。動こうとしたのだが、どうにも体がいうことをきかない。5~6メートルほど先の影を見つめたまま、その場にじっと立っていた。

そのうち、影が中腰になって、風呂場の扉のほうに上体を傾けた。私は混乱した頭のなかを懸命に整理しようとした。「あいつは風呂場をのぞいているんだ」。ようやく今の状況をことばにすることができた。そして、なんとかしなければならないと思った。でも、体は動かない。数歩歩けばいま置いたばかりのバットが立てかけてある場所までいける。そこまでいこうと思うのだが、体の自由がきかない。それでもなんとか右足を持ち上げ、その足を踏み下ろした時、落ち葉が「がさっ」と音を立てた。

黒い影が中腰の姿勢のまま、こちらを振り向く。風呂場の扉の隙間から夜の闇の中に細い光の筋が放射されているが、そのかすかな光はその影をいっそう黒々と見せるだけで、姿形はいっこうに明らかにならない。やがて、その影は上体を起こし、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。

その時に私が何を考えたか、よく覚えていない。とにかくあれほどの恐怖心を感じたことはそれまでなかったと思う。父と兄は居間でテレビをみている。母は入浴中である。裏庭の暗闇の中にいるのは私と黒い影だけだ。

私は懸命に自分を落ち着かせようとした。数日前に近所で「のぞき」の被害があったという話をかすかに思い出した。そして、怖ろしさと同時に、正体のよくわからない憤りを身内に感じはじめていた。うまくことばにできないが、おそらくは「母親が見知らぬ人間に汚されている」というような屈辱感と怒りがこみ上げてきたのだと思う。だから、私は足をすくませながらも、なんとかバットを取りに行こうとした。しかし、最初の一歩を踏み下ろしたまま、足はその場ですくんでしまった。影はゆっくりとこちらに近づいてくる。やがて、目の前を横切り、背中を見せ、裏庭から音もなく出ていった。急ぎ足でもなく、こちらを見ることもない。何事もなかったように、できるだけ平静さを装いながら、影は徐々に小さくなり、やがて消えていった。かたわらを通る感触では、何となく大学生の男のように思えたが、確信はない。当然ながら、自分よりもはるかに大きな影だった。

その巨大な黒い影の残像は私のこころのなかにずっと残った。強い憤りと自分のふがいなさに対する自責の念が徐々にこみ上げてはきたものの、それを圧倒するほど巨大な影がこころのなかに不気味に広がっていった。

その日の記憶を振り返るたびに、テレビで見た「草加次郎」の映像がそれに重なる。人相も年齢も性別さえも判然としない真っ黒な巨大な影。それのもたらす根源的な恐怖と畏怖。

それから長い間、その影は自分のこころの中に居座っていた。でもやがて大人になるにつれて、その陰は徐々に小さくなり、ついには消えてしまった。

私はあの影のなかにいったい何を見たのだろう。そして、どのような恐怖が私のこころを深くとらえたのだろう。おそらくそれは自分の身の危険というような具体的なものではなかったように思う。もっと漠然とした、それでいながら根源的な恐怖をあの時の自分は感じていた。



次々と爆弾を仕掛け、人々を恐怖に陥れる無差別的な暴力、暗闇のなかで息を潜め、風呂場の扉に身を屈める歪んだ性に対する好奇の眼差し。

それらの暗い影があるいは自分のこころの中にも存在しているのではないか。その予感と不安。外部にある暴力や性を怖れるというよりも、むしろ自分自身のこころの奥深くに存在する暴力と性への欲望と怖れを私はその時、感じとっていたのではないだろうか。

あの時、私があれほど二つの暗い影におびえたのは、自身の中にある暗部への根源的な怖れだったのかもしれない。今になって、そう思うのである。








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Last updated  2006.12.13 06:36:01
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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