存生記

存生記

2011年01月23日
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「カティンの森」をDVDで見る。ソ連がポーランド将校たちをカティンの森で虐殺した事件を描いている。虐殺は、ポーランド軍への壊滅的な打撃を与えるためだったのか、捕虜として連行する手間を省くためだったのかはわからない。ポーランド軍に破れた赤軍の恨みをスターリンがはらそうとしたという説もあるようだ。いずれにせよ国内の大粛清を考えれば、当時のソ連がやりかねない大量殺人である。ソ連に滞在していた日本人の共産党員まで粛清されたらしい。

 映画では、銃殺される前に将校たちは首に縄をかけられ後ろ手で縛られる。これがおそらく「ロシア結び」なのだろう。カティンの森の事件はナチスドイツとソ連がそれぞれ相手の蛮行だと決めつけたが、これがソ連側の仕業だとする証拠になったときく。

 最近、A・J・P・テイラーの『第二次世界大戦の起源』(吉田輝夫訳、講談社学術文庫、2011年)を読んだばかりだったので、この映画は興味深く見られた。この本では、ヒトラーが神経戦を得意として実体以上に軍事力を大きく思わせる外交戦術で次々に領土を拡げていく様子が論じられている。ところがポーランドの思わぬ強硬姿勢に難渋し、ついには軍事侵攻に踏み切り、ヒトラー自身予想だにしていなかった第二次世界大戦へと拡大してゆく。強気なポーランドの背景にはイギリスとの同盟が関係していただろうが、実際には英仏軍は約束どおりの援助は行わず、独ソがしめしあわせて侵攻によってポーランドは分割される。

 当時のポーランド軍については、騎兵がドイツの戦車軍団に突撃して潰走したという従来のイメージを覆す説が定説になっている。ポーランドには強気にでるだけの理由があった。英仏が自分は犠牲を払わずに利益をあげようとする態度がヨーロッパ各国の不信感を増幅させ戦力均衡を揺るがし、ドイツにつけ込む隙ができたのは事実だが、連合国でポーランドはそれなりの軍事力を保持していた。イギリスに逃れたパイロットたちはイギリス空軍の作戦に参加し、有名な「バトル・オブ・ブリテン」で多くのドイツの戦闘機を撃ち落としたという。とはいえ結果的にそれが過信となって、独ソとの緊張を緩和する外交を怠った。

 データを見ると、ポーランド軍は旧式の装備にも関わらずドイツ軍にかなりの物的損害を与えている。ポーランド軍は侮れないという情報がソ連にも伝わっていたのか知らないが、結果としてカティンの森のような惨殺事件が起きた。ポーランドがダンツィヒを諦めていたらカティンの森の事件は起きなかったのかどうか。それはわからない。いずれ独ソは激突する運命にあったようにも思われる。そうなれば結局、ポーランドの悲劇は避けようがなかっただろう。





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最終更新日  2011年01月24日 02時37分30秒


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