「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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Nonsense Story
秘薬 1
秘薬 1
気をつけなさい。あの子はあまりモテないけど、変なものに好かれる
性質
(
たち
)
だから。
わたしが旦那との結婚を
極
(
き
)
めた時、
姑
(
はは
)
が
云
(
い
)
った。
その時はわたしを牽制しているのかと思ったが、どうもそうではないらしい。彼女は、実の息子である旦那よりも、嫁のわたしを可愛がる。
その姑から、猫が変なものを吐いたと電話があった。旦那が持って行ったものを
服
(
の
)
ませてみたところ、けろけろと吐き出したのだという。嘔吐の前後で特に変わった様子はないというので、翌日に動物病院へ連れて行く約束をして、電話を切った。
姑は一ヶ月ほど前から、野良猫の世話に必死になっている。時折、彼女の庭に顔を見せに来ていた雌猫が、悪性の腫瘍に侵されているのだ。シリンジで強制給餌をしたり漢方薬を服ませてみたり。医師に匙を投げられたにも拘らず、自分が治してやるからと、寝る間も惜しんで看病に当たっている。姑の愛情溢れる看護の賜物か、一時は衰弱しきっていた猫も、今は食欲を取り戻している。
あの猫は、一人暮らしの姑にとって第二の家族のような存在なのだろう。結婚を期に、一人息子を家から連れ出してしまった身としては、いささか申し訳ない。
それにしても、旦那は何を持って行ったのだろう。
子供の日で休みだった今日、潮干狩りに行っていた旦那が帰ってくるのを待って、訊いてみた。酒蒸しにした浅蜊で一杯やりながら、彼は上機嫌で答えた。
「ほら、おれが金沢に出張に行った時に、土産に
購
(
か
)
った根付と交換して帰った薬だよ」
「あれでは薬にならないと思うけど」
わたしは呆れて返した。
「薬にならなくても、毒になることもないだろ」
「・・・・・・それはそうね」
潮水に浸けた浅蜊に、潮が飛び散らないよう新聞紙を被せながら、わたしは安堵のため息を吐いた。
姑からの電話で、てっきり旦那が持参した物の
所為
(
せい
)
で猫が吐き気をもよおしたのかと思ったのだ。だが、考えてみれば、猫とは自ら繕った毛玉を吐き出す生き物である。吐いた物がどうあれ、彼が渡した物が例の物であるなら、まず関係はないだろう。
新聞紙の下で、浅蜊がプツプツと音を立て始めた。
以前、旦那は仕事で金沢へ一泊三日の出張へ行った。何故三日なのに一泊なのか。帰りは寝台急行に一泊したからである。まだ、わたし達が夫婦ではなかった頃のことだ。わたしへの土産に、招福の根付を
購
(
か
)
ったと金沢から電話を
呉
(
く
)
れたことを憶えている。
真冬の京都駅で、青一色の車体がそうっとホームに入ってきた時、彼は貨物列車が通り過ぎる時のような威圧感を覚え、寒さも相まって身震いしたという。しかし、車内は外観から想像したよりは明るく、上下二段の寝台は古臭く狭いなりにこざっぱりとしていた。
やっと車内の暖かさが体に馴染んで来た頃、彼は
手水
(
ちょうず
)
に立った。用を足している最中に明朝まで車内アナウンスが流れない旨を告げる放送が流れ、個室から出ると通路の
燈
(
あか
)
りが絞られていた。薄暗くなったせいか、車内は一段と古臭く感じる。人の話し声も全く聞えず、彼は気にならなかったはずの走行音の高さを感じた。
仕事の疲れも出たのか、列車の振動に、覚束無い足取りで寝台に戻ろうとしていると、向かいから来た人物とぶつかった。
「すみません」
よろけて倒れそうになった相手の腕を、咄嗟に掴んで詫びる。相手はまだ若い青年だった。今どき珍しいインパネスに身を包んでいる。
「いえ、こちらこそ」
そう
云
(
い
)
って恥ずかしげに顔を上げた青年は、乏しい光源の中でもはっきりと見て取れるほど、思い詰めた
貌
(
かお
)
をしていた。
「大丈夫ですか?」
電車に酔ったのかと、相手の顔を覗き込む。
「僕は大丈夫です。すみません」
青年は彼の
睛
(
め
)
から逃れるように顔を逸らすと、横をすり抜けて行こうとした。しかし、すぐにその場で蹲る。やはり具合が悪いのではないかと、インパネスの背中に問いかけようとした時、青年が振り向いた。これと云って、金色の根付を摘まんだ手を彼の方へかざす。
彼は、あっと声を上げて、上着のポケットを確認した。みやげ物屋の舗名が印字された袋が、口を開けた状態ではみ出している。
先刻
(
さっき
)
ぶつかった時に中身が飛び出したらしい。
「ありがとう。彼女へのお土産なんだ。ポケットに入れてたの忘れてた」
「これは本物の金ですか?」
「金沢のお土産だから、一応、金箔を使ってあるらしいけど」
青年はしばらく根付をためつすがめつしていたが、やがて思い切ったように立ち上がった。
「あの、これを譲っていただけませんか? 実は、一緒に旅をしている妹の具合が良くないのです。これがあれば、薬ができるかもしれない」
青年は、縋るような
睛
(
め
)
で懇願してくる。妹のことを本気で案じているのだと知れた。
「妹さん、そんなに悪いの?」
青年が重々しく
肯
(
うなず
)
く。
「だったら次の駅ででも降りて、病院に行った方がいいよ。夜間でも診てくれるところがあるでしょう」
彼の提案に、しかし相手は表情を曇らせてかぶりを振った。
「それはできません。とても急いでいるのです。それに・・・・・・」
唇を噛んで云い淀む。血が滲んでいるかのように赤い唇と、思い詰めた表情に、彼はそれ以上すぐに病院へ行けとは云えなくなった。
根付が薬の材料になるなど青年の思い違いにしか思えない。だが、何か病院に行けない事情があるようだ。青年の気が済むならと思い、彼はそれを譲ることにした。
青年は何度も頭を下げると、自分のいる寝台に彼を案内した。彼が妹さんの様子を見たいと
云
(
い
)
ったのだ。もし一刻を争うような状態なら、青年が何と云おうと車掌にでも頼んで、車内に医療の心得のある者がいないか、訊いて貰う
心算
(
つもり
)
だった。
くすんだ色のカーテンを開けると、儚げな日本人形のような娘が、寝台に仰向けに横たわっていた。
「すぐに調合してきます」
青年が、大きな黒鞄と先ほど渡した根付を持って出て行く。彼は青年の使っているという向かいの寝台に腰掛けて、微動だにせず
睡
(
ねむ
)
る娘を見つめた。
娘は長い黒髪を上の方だけ束髪にし、残りを垂らしている。寝台の下に編み上げのブーツが置いてあり、毛布の中から矢矧の小袖が見えているから、下は袴だろうか。まるで祖父母の時代の女学生のようだ。インパネスの兄に袴姿の妹とは、古風な
形
(
なり
)
をした兄妹である。
娘の肌は、暗がりでも雪のようだと思えるほど白かった。
白皙
(
はくせき
)
というよりは蒼白に近い。陽を浴びてきらきらと輝く雪ではなく、月のない夜にぼうっと浮かび上がっているような雪だ。
ひたひたと、寒さがしのび寄ってくるような夜だった。暖房が効いているとは思えないくらいの寒さである。雪が降っているのかもしれない。
娘はしんしんと睡り続けている。重病人ということだが、既に死んでいるかのようだ。
彼はふと不安を覚え、娘の胸に耳を充てようとして
躊躇
(
ためら
)
った。なんとなく失礼かと思い、心音を確かめるのは諦めて、手首を取って脈を診る。拍動は感じられない。
頸
(
くび
)
にも触れてみたが、血の流れは感じられなかった。
秘薬 1 ・
2
/
目次
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