Nonsense Story

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きみのこと 1


 智樹がノベオカ楽器店に入ると、フジコちゃんがいた。
 フジコちゃんというのは本名ではない。名前を知らないので、智樹が勝手にそう呼んでいるだけだ。心の中だけで。もちろん、そんなふうに呼ばれているなんて彼女は知らない。
 マンガのルパン三世の峰不二子から取ったのだが、彼女は色気もなければナイスバディでもない、ただの一女子高生である。ちょっと地味すぎるくらいの。一度だけ聴いた彼女の演奏曲目が『ルパン三世のテーマ』だったので、そんな仮名を付けてしまった。
 フジコちゃんは学生服の紺のブレザーにチェックのフレアスカートという出で立ちで、レジの傍らの小さなショーケースを覗き込んでいた。
「リード?」
 営業スマイルを作って智樹が訊いた。彼女は高校の吹奏楽部でアルトサキソフォンを吹いているのだ。
 去年の春、サックスを吹き始めたばかりだった彼女は、しょっちゅうリードを割ってしまって、この楽器に向いてないんだと嘆いていた。実際、お小遣いの大半は、楽器の先っぽに付ける小さな木片に消えているようだった。
「今日は違うんですけど・・・」
 少し困ったように彼女は言った。
「じゃあ、グリスかな?」
「そうでもなくて・・・・」
 心なしか、フジコちゃんの頬が赤くなっている。智樹はピンときた。
「またリード買うお金が足りなくなっちゃった?」
「あ、あの時は、ほんとにすみませんでした!」
「いいよいいよ。あのお金は結局返してもらったんだし。」
 彼女はこの店に来はじめた頃、一箱十枚入りのリードを半月に1回の割合で買いに来ていた。それがだんだんと間隔が開いて、一月からニ月に一回になった頃、レジの前で彼女は固まった。そして自分の財布を覗き込んだまま、見る見る赤くなっていった。智樹はフジコちゃんより背が高いので下を向いている彼女の顔を見ることはできなかったが、彼女が長い髪を耳のあたりで二つにわけて結んでいたので、むき出しになった首が赤くなっているのが丸見えだった。
「お金忘れちゃった?」
 智樹がなるべく優しい声を出すと、
「ごめんなさい。三百円足りません・・・・」
 彼女は今にも消え入りそうな声で答えた。そして、急に大きな声を出した。「あの、一度家に戻ってお金とって来ます!」
 急いで財布をしまい、傍らに置いていたサックスの楽器ケースを提げて店を出ようとする彼女を呼び止め、智樹は言った。「あと十五分で閉店なんだけど。」
 フジコちゃんは絶望的な顔をし、智樹は苦笑した。
「いいよ。三百円まけてあげる。リードがないと楽器持って帰っても練習できないでしょ」
「そんな、悪いです!」
 今度は、彼女は恐縮した。顔の前で必死に手を振る。その拍子に楽器ケースが落ちそうになり、慌てて両手で取っ手を持ち直している彼女を見て、智樹は提案した。
「じゃあ、俺が三百円出すかわりに、それで何か演奏してよ。」
 彼女は渋りまくったが、結局、智樹も聞いたことのある曲をと『ルパン三世のテーマ』を演奏してくれたのだった。
 それでも後日、「どうしても」と三百円を返しに来て、何度もお礼を言って帰っていった彼女は、智樹にとってちょっと来店が楽しみな客の一人だった。
 今日は八月十六日。うっかり者の彼女のことだ。予備のリードを買い忘れたままお盆休みを迎え、盆明けに急いで店に来てみたら、肝心の財布がすっからかんだった、なんてことも有り得ると思ったのだが。
 リードでもグリスでもないなら何だろう。まさか、楽器を買いたいなんて言うんじゃないだろうな。お盆に親戚連中からお小遣いをたくさんもらったから、なんて。
 それだと困ったことになる。ここの店主はピアノの調律を主な業務としており、フジコちゃんが買いに来るような消耗品は、おまけで置いてあるにすぎない。割と近い範囲に学校が点在している為、彼女のようなお客を見込んで少しだけ置いてあるのだ。パンフレットはあるので取り寄せなどはできるのだろうが、智樹には経験がなかった。
 店主とはさっき、店の前ですれ違った。調律に行ってくるからあとよろしく、とのことだった。店内にお客を残して出かけるとは、なんて経営者だ。
 店に誰もいない今、彼女がパンフレットを出して「これを購入するには・・・・」なんて言い出したら、店主が調律に出かけている間、店番をしているだけの智樹には答えられない。店主もそういうお客が来るとは夢にも思っていないようで、ピアノ以外の楽器購入の相談への対応の仕方は聞いたことがない。ちなみに、ピアノは店主の知り合いのやっているピアノ専門店を紹介することになっていた。
「お店、辞められたわけじゃなかったんですね」
 智樹の不安をよそに、フジコちゃんはのんびりと言った。
「え? あ、辞めたんだよ。」
 会話の流れの不自然さに、二人はしばらくポケッとした。
「ごめん。説明足りなかったよね。俺、バイトだったんだけど、今年の春に大学卒業して県外の会社に就職したの。で、卒業と同時にここのバイトも辞めたってわけ。」
 智樹はやっと状況を把握して、説明した。「今日はピンチヒッターで、一日だけ復帰してんの。」
「そうなんですか。就職おめでとうございます。何ていう会社か聞いてもいいですか?」
「N電気っていう所なんだけどね」
「N電気? 聞いたことあります。すごいですね。大手じゃないですか。こんなところでバイトなんてしてていいんですか?」
「バレたらマズイだろうね。ま、一日だけだから」
「今日、会社は?」
「うちの会社、普通のところとちょっと休みがずれてるんだ。十五日から十八日までが盆休み。昨日帰省してきて、ここにもちょっと挨拶に寄ったら、店長に捕まって頼み込まれちゃってさ。急にバイトの子が休むって言い出したらしい」
「そっかぁ。四月から姿が見えないなって思ってたら、そういうことだったんですね。何かあったのかと思っちゃいました。・・・・今日も少し様子が変だし」
「えっ」
 ついでのように発せられたフジコちゃんの言葉に、智樹はどきっとしたが、営業スマイルを崩さないように言った。「いつもどおりだと思うけど」 嘘ではない。一昨日から、今の状態がいつもどおりの智樹なのだ。一昨日から変になったともいえるけれど。いや、それよりもっと前からかもしれない。
「そうですか・・・・・・」
 フジコちゃんは少し訝しげだったが、すぐに花が咲いたような笑顔になった。「じゃあ、私、運が良かったんですね」
 しかし、その表情は長くは続かなかった。すぐに顔をうつむけてしまったのだ。その顔は赤くなったかと思うと、見る間に青くなった。彼女は百面相が終わると、今度は狭い店内に一台だけ置いてあるアップライトピアノの方へ行き、その陰に隠れるように縮こまった。
 ピアノは入り口から見て左側の壁へ背中をつけるようにして置かれていた。それはピカピカに磨いてあり、黒々とした体に店内を歪んだ形で映している。でもレジ側で小さくなっているフジコちゃんの顔は、陰になっているのか映っておらず、その表情をうかがい知ることはできなかった。
「どうしたの?」
 智樹が彼女のいるピアノの方へ一歩踏み出した時、入り口のドアに付けてある鈴がチリンと鳴って、高校生くらいの女の子が三人入ってきた。


-つづく-



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