Nonsense Story

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ポケットの秘密 1




 私のポケットには、カッターナイフが入っている。
 ごくごく普通の、どこにでも売っている、白い事務用カッター。
 ひとつだけ特徴を挙げるとすれば、それにはシールが貼ってあるということくらい。指で擦って貼り付ける、あのシール。はげかけているのでよく見えないのだけど、レーシングカーの写真が印刷されているように見える。
 時々ポケットに手を入れて、硬くずっしりとした物体に触れる。すると、すっと心が落ち着く。
 物を切ったりするのではなく、ただポケットにこのカッターが入っているということが、私を安心させる。
 私には彼がいる。世界で唯一人、本当の私を知っている人。




「ナイキのエアズームだぞ! 税込み一万二百九十円!」
 藤田は真新しいランニングシューズをぼくの目の前に突きつけた。
「だから何だよ?」
 背中は壁。ぼくは顔を藤田の方へ向けたまま、カニ歩きで少しずつ横に移動していった。
「やっと手に入れたんだよ! お年玉となけなしの小遣い貯めて、やっと手に入れたんだ。それを、お前にやってもいいって言ってるんだ! それでも陸上部へ入らないって言うのか? 俺の好意を無駄にするのか!?」
「何と言われようと、入部する気はない。それに、足のサイズが違うだろ」
「お前はこの靴の良さが分かってない!」
 どんなにいい靴だろうと、サイズが合わないんじゃ履けないだろうが。
「そんなにいい靴なら隠しとけよ。今流行ってる靴泥棒に盗まれるぞ」
 ぼくは冷めた目で言った。
 最近、うちの学校では靴の紛失が続出していた。無くなった靴は誰かに盗まれているという噂である。同じリスクを負うなら、安物のボロより高価な新品だろう。こんなのをひけらかしていると、すぐに目を付けられそうだ。
「だから、いつも下駄箱に置かずに、教室に保管してるんだ」
 藤田は両手でランニングシューズを抱きしめた。
「とにかく、俺は陸上なんてやらないから!」
 ぼくは言うなり、体の向きを変えて駆け出した。奴の両手が塞がる時を待っていたのだ。
 右手に教室、左手に窓を見ながら、ぼくは廊下の端まで走った。突き当たりの階段を一階まで駆け降り、隠れられそうな所を探す。
 首をめぐらせていると、トイレの衝立の前に赤松が立っているのが見えた。ぼくは彼女の制服の袖を引っ張った。
「悪い! かくまって!」
「え?」
「陸上部の藤田が来るから、俺のこと聞かれたら外へ出たとでも言っといて」
 藤田が追いかけて来ているはずなので、詳しく説明している暇はない。ぼくはそれだけ言うと、ぽかんとしている赤松を残し、男子トイレに飛び込んだ。
 藤田は陸上命の今どき珍しい熱血スポ根高校生だ。半年ほど前からぼくに付きまとい、陸上部へ入れとしつこく勧誘してきている。面倒臭いことの嫌いなぼくは、部活動などに興味がないので、毎回全身全霊を賭けて断っているのだが、あきらめる気配がない。まるでスッポンのような奴だ。
 しかし、まさか新品の靴で買収してくるとは。
 ぼくがトイレの衝立に背中を付けたと同時に、軽快な足音がして藤田がやって来た。予想通り、赤松にぼくの行き先を訊いている。
「外へ・・・・・・」
 赤松はしどろもどろだ。困惑している姿が目に浮かぶ。彼女は親しくない人間と話すのが苦手なのだ。もっとも、赤松と親しい人間なんて、この学校にはぼくくらいしかいないと思うが。
「まさか隠してるんじゃないよな?」
 赤松の声は聞こえなかったが、藤田の足音が遠ざかった。きっと赤松が首を横に振ったのだろう。
 ぼくはそっと衝立から出ようとしたが、また藤田が戻って来たので首を引っ込めた。
「靴、あるんだけど。土足で出たわけ?」
 藤田の声だ。靴を確認しに行くなんて、用心深い奴。
「え・・・・・・? そ、そうかも」
 消え入りそうな赤松の声。
 藤田は少し苛々しはじめたようだった。大きなため息が聞こえる。
「なんできみみたいなのが、あいつと・・・・・・」
「ごめんなさい・・・・・・・」
 なんでそこで謝るんだよ。
 今度は、ぼくが赤松に対して苛立ちを覚える。もっと堂々とできないもんかね。
「赤松さんってさ、援助交際してたって本当?」
 しばらくの沈黙の後、藤田がいきなりとんでもない質問を浴びせかけた。声は明らかに軽蔑の色を帯びている。
 赤松は首を横に振ったに違いない。藤田は続けてこう言った。
「でも、見たって人間が実際にいるんだよ。きみと中年の男が一緒に食事してるところ」
「違っ・・・・・・」
 珍しく、赤松が反論する気配を見せた。がんばれ、赤松。思わず心の中で声援を送る。
「どこが違う? 女の子の方は間違いなくきみだったって話だけど」
「だから、一緒にいた人は中年のおじさんなんかじゃなくて。確かに髪の毛薄くなってるけど、まだ二十代で・・・・・・」
 おいおい。
 ぼくは呆れ果てた。反論するところが違うだろう。それじゃあ、誤解してくださいと言っているようなものだ。
「どっちにしても関係あるんだろ? そういう人が陸上部の人間と付き合いあると困るんだよね。あいつには部に入ってもらうつもりだし。今のうちにあいつと手を切ってよ」
 藤田はしゃあしゃあと、失礼かつ勝手なことを言い放った。
 さすがにぼくも黙ってはいられない。勢い込んで、衝立から出ようとした時だった。
「藤田くん、その言い方はないんじゃない?」
 壁で仕切られた女子トイレの方から、女の子の声がした。
 ぼくは洗面台に足をかけ、衝立の上から外を見た。衝立の反対端、つまり女子トイレの入り口付近に、さっきまではいなかった二人の女生徒と一匹の犬が立っていた。
 二人の女生徒は、一人は背が高く、もう一人はかなり低い。犬は、最近この学校に住み着いた野良犬だった。
「年上の人と一緒だったからって、援助交際とは限らないじゃない。それに、手を切れって、あなたが強要することじゃないでしょ」
 背の高い方が言う。
「そうよ。赤松さん、怯えちゃってるじゃない」
 と、背の低い方。
 たしか、ダムとディーってこんなじゃなかったっけ。不思議の国のアリスなんて読んだこともないけど。
 赤松はといえば、俯いているので表情は見えないが、この展開に助かったと思うどころか、おろおろしているに違いない。
「分かったよ。悪かったよ。でも、援交してたのが本当なら、なんとしてでも別れてもらうからな」
 藤田はそう言うと去って行った。女の集団って強い。
 ぼくは衝立の上から、「別れる前に付き合ってもいねーよ」と小さく毒づいた。
 すると、三人の足元にいた犬が、上を向いて一声吼えた。一斉に、三つの顔がこちらへ向く。
「ずっと見てたの?」
 真ん丸い目を見開いて、背の低い子が言う。
「見てて助けなかったなんて、最低。行こ、赤松さん」
 背の高い方が赤松を促し、階段のある方へと歩き始める。赤松はこちらを気にするように、ちらちらと視線を寄越していたが、二人に挟まれる格好で行ってしまった。
 ぼくが洗面台から降りると、犬だけが衝立の向こうで待っていた。大きな白い犬だ。ぼくの顔を見て、ちぎれるんじゃないかと思うくらい尻尾を振っている。
 何故学校に犬がいるのか。
 正確なところは知る由もないが、たぶんこの犬は捨てられていて、通学途中にでも餌をやっていた生徒について来てしまったのだろう。
 学校にはたくさんの人間がいる。その中には、犬好きの人間も少なからずいる。ここにいれば、その中の誰かが食べ物をくれるということに気付き、ここに住みつくことにしたと思われる。
 立つと、ぼくの太ももくらいまである大きな犬なので、教師の中には生徒を危険な目に遭わせる可能性があるからと、処分を検討する者もいた。しかしその案には、犬好きの生徒だけでなく、他の生徒からも「かわいそう」という苦情が相次いだ。おまけに保護者からも「教育上よくない」との意見が出され、犬はめでたくここに居座れるようになった次第である。
「赤松いないから、餌はないぞ、タカヨシ」
 ぼくは身をかがめて、犬に言った。
 ぼくと赤松は『タカヨシ』と呼んでいるが、立派なメス犬である。彼女はボロボロになった赤い首輪をしているのだが、そこに『タカヨシ』と書いてあったのでそう呼んでいる。きっと飼っていた人間が、子犬のタカヨシを見てオスだと思ったのだろう。
 赤松は言葉の通じる人間とうまく喋れないせいか、言葉の通じないタカヨシを可愛がり、よく弁当のおかずをおすそ分けしていた。
 言葉の意味が分かったのか、タカヨシは悲しげに「くぅーん」と鳴いた。


つづく



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