Nonsense Story

Nonsense Story



「それって・・・・・・」
 声を発したぼくに、片岡が顔を向けてくる。眼鏡のせいか知的な印象を受けるその顔からは、どんな感情も読み取れなかった。
「俺と彼女は知り合いだったってこと。あの日、会いたいって言ってきたのは彼女だけど、あの映画を観たいって言ったのは俺なんだよ。だから、ごめん。赤松さん」
 片岡は赤松に向き直ると、頭を下げた。赤松が慌てて立ち上がり、片岡の顔を上げさせる。
「そんなの片岡君のせいじゃないよ。謝ることない」
 赤松の言うとおり、片岡のせいであるはずがない。あの女性は女子トイレで倒れたのだ。映画の後、トイレは人で溢れていた。どっからどう見ても男である片岡が、入っていってどうこうすることは、どう考えても不可能だ。
「だって彼女が倒れた原因は低血糖だったんだもん。わたし、あの話の版権を持ってる出版社の人に頼んで、倒れた人の様子を少し聞いてきてもらったから。低血糖症っていろんな症状があるけど、ひどくなると昏睡に陥ることもあるんだって。彼女、手足がしびれるとか、頭痛やめまいがするなんて言ってなかった? 景色が霧がかって見えるとか」
 片岡は、特に何も、とかぶりを振った。
 赤松の説明を聞いて、ぼくは少し拍子抜けしていた。まだ赤松が落ち込んでいるんじゃないかと思って、そのことには触れないようにしていたのだ。
「でも、俺があの映画を観ようなんて言わなければ、あの女があそこで倒れることもなかったし、赤松さんに罪悪感を抱かせることもなかった。せめて、俺が映画の後もあの女と一緒にいれば・・・・・・」
 片岡はなおも申し訳なさそうに続ける。
 彼は、映画が終わってすぐにトイレへ入った彼女を置き去りにして、外へ出たらしい。
「あんなことになるなんて予想できなかったんだから仕方ないよ」
「だけど、なんで倒れたのが自分の連れだったって分かったんだ?」
 ぼくは二人の会話に割って入った。
「あの人は女子トイレで倒れてたんだから、片岡は彼女があんなことになってたなんて知らなかったはずだろ」
「身元を調べるために探った荷物の中から俺宛ての手紙が出てきたらしい。あの女は天涯孤独ってやつでな、身内がいないんだ。それで、手紙の宛て先であるうちに連絡が来たんだよ。連絡が来たって言っても、ばあさんが『うちは関係ない』ってすぐ切っちゃったから、詳しいことは何も知らないんだがな。低血糖が原因というのも、今初めて知った」
「手紙には何て?」
 訊いてもいいものかと思ったが、口が勝手に動いていた。
「受け取ってないから知らない」
「そっか」
 そこで少し会話が途切れた。クレープを食べている子供の喋る声が、とても大きく感じられる。その騒々しい沈黙を、赤松が遠慮がちに破った。
「彼女、白石久美子さんていうんだよね。意識は戻ったけど言語障害があるみたいで、今も搬送先の病院で入院治療を続けてるって」
「そうか」
 片岡はため息を吐くように言った。
「わたしも映画のショックのせいじゃないって分かって少し安心した。片岡君も、もう自分を責めるのはやめよう」
「赤松さん、俺は、あの女が倒れたのが俺のせいでもちっとも構わないんだよ。ひどい奴だと思われるかもしれないけど、実際にあいつは俺達の両親を奪っていったようなもんだし。ただ、赤松さんを巻き込んでしまったみたいで申し訳ないと思って。それだけ謝りたかっただけだ」
 突き放したような片岡の物言いに、赤松は小さくごめんなさいと呟いた。
 片岡は赤松から顔を逸らし、斜向かいのテーブルでクレープと格闘している子供に目を向けた。母親が男の子の口の周りについたクリームをティッシュで拭ってやっている。いつの間にか、父親らしき男性が彼らの向かいに座っていた。子供の喚声が、閑散としたフードコーナーに響き渡る。
「休日の正しい家族の在り方って感じだよな、ああいうの」
 ぼくと赤松が注目する中、片岡が口を開いた。
「俺、ああいう経験ないんだ。物心ついた時には母親が入退院を繰り返しててな。親父は会社と病院の往復で、俺と妹はほとんど母方のばあさん家に預けられてたんだ」
 片岡のお母さんは、妹の明代ちゃんを産んでから体調を崩し、亡くなるまでほとんど入院生活を送っていたらしい。たまに一時退院しても、子供たちと出掛けたりできるほど体調の良い日は稀で、外出は仕事の忙しい片岡の親父さんの代わりに、おばあさんが付き添う形となっていた。
 おばさんの闘病生活は二年以上に及んだ。ずっと担当してくれていた看護師は、おばさんのケアだけでなく、看護に疲れた家族にもとても親切で、片岡の親父さんは次第に彼女に頼るようになっていく。それに伴い、親父さんが片岡達の預けられている奥さんの実家に立ち寄ることも少なくなっていった。
 そして片岡が六歳、明代ちゃんが二歳の時、親父さんは家族の前から姿を消す。
「母さんは何も言わなかったけど、よっぽどショックだったんだと思う。見る見る容態が悪化して、一週間も経たないうちに息を引き取った」
 クレープを食べ終わった子供は、今度は父親に手を引かれてフードコーナーを出て行った。
 ここは少しクーラーが効きすぎているなとぼくは思った。
「親父の駆け落ちした相手、白石久美子は、母さんの担当看護師だったんだ」
 片岡は、なんでもないことのように淡々と語った。
 それがよけいに痛々しくて、ぼくはテーブルに置かれた赤松の日焼けした手の甲をずっと見つめていた。赤松もうつむいたまま話を聞いていた。
 おばさんは、愛する夫と信頼していた女性、二人に裏切られたのだ。駆け落ちを知っても何も言わなかったのは、自分が病気で二人に面倒をみてもらっていたという負い目があったからかもしれない、と片岡は言った。
「俺と明代は正式にばあさん達の家の子供になった。もともとずっとそこで生活してたようなもんだから、特別に変わったことなんてなくて、両親がいなくて寂しいともあまり思わなかった。まだ病院に行けば母さんがいるような気がしたし、親父はいつも忙しそうで滅多に顔なんか見てなかったからな」
 それでも、夕方は片岡にとって嫌な時間だった。近所の子供達と遊んでいると、晩御飯の準備ができたと親が迎えに来る。片岡にも迎えはあったが、それはおばあさんの役目だった。
「あの時と参観日や運動会だけは、自分達には親がいないんだなぁって実感したよ」
 参観日や運動会はどうしようもないが、夕暮れ時のやるせない気持ちからは逃れる方法を見つけた。片岡は友達と遊ぶことをやめたのだ。
 ずっと一人で本を読んで過ごす。もともと本好きだった彼は、友達と遊ぶ楽しさよりも、夕方の寂しさからの解放を選んだ。本を読んでいる間は両親がいないことも忘れられたし、登場人物に感情移入すれば自分に両親がいるように錯覚することもできた。それは読み終わった時に、あの夕暮れ時と同じような気持ちを味わうという危険を伴っていたけれど、すぐに次の本を読み始めれば忘れることができる。
 そうして片岡は、どんどん同級生と関わることをやめていった。


つづく



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