「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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24話 【Unbosom Oneself!】
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24話 (―) 【Unbosom Oneself!】
■ 麻生 ■
意外にも柾より先に目覚めた俺は、朝方5時を境に浴場が男女で入れ替わると聞いていたので朝風呂に入ることにした。
今は浴衣を着用しているが、効率を考えると入浴後に私服を着た方がいい。
そう思って荷物を詰め替えていると、耳障りな音を聞き付けたのか、柾が起きたようだった。
「……おはよう、麻生」と発した声は明らかに寝起きそのもので、申し訳ない気持ちになる。
「わりぃ。起こしちまったか?」
「いま何時だ?」
頭を上げ、ベッドの木枠に備え付けてあるデジタル時計を見た柾は、06:27の羅列を確認するなり再び布団の中に潜り込んでしまった。
「俺、ひとっ風呂浴びてくるけど」
「行って来い。僕は寝る」
これ以上声を掛けるのも面目ない気がして、なるべく静かに部屋を出た。
*
部屋へ戻ると、柾は既に着替え終えていた。それどころか、身嗜みすら整っている。
「お前、二度寝したんじゃなかったのか?」
「あれから15分ほど布団の中でまどろんでた」
「ふーん」
特に意味もなくテレビをつける。名古屋も下呂も番組表は変わらない。押せば思い通りのチャンネルにあり付けた。
ローカル番組にすると、馴染みのお天気キャスターが笑顔で東海三県の天気予報を告げるところだった。
彼女は言う。東海地方の梅雨入りは今週末になる見込みです。今日は梅雨入り前最後の青天となりそうです。やや汗ばむ陽気となるでしょう。
「麻生」
「んー?」
「隠しごとはしたくないから言うが。昨日、正式に千早歴に告白した」
今更何を聞かされても驚かない。こいつが恋愛で立ち回る時、俺にはいつも事後報告だった。その耐性はとっくに養われている。
俺は何も答えなかった。その沈黙を、柾がどう捉えたのかは知らない。
ただ、黙ったままでは気の毒に思えたので、「やっとか」と悪態をついておいた。すると、
「麻生も――僕に倣って彼女に告白するもよし、単に静観するもよし。本音を言えば、お前の出方が楽しみで仕方ない」
彼女から色よい返事が貰えると確信していて余裕綽々な気分なのか、或いは、動くだけ動いたから後は『果報は寝て待て』の心境なのか。
どちらにせよ、柾は既に高みの見物を気取り始めている。
俺には1つだけ引っ掛かることがあった。その疑問をぶつけてみる。
「いつの話だ?」
「お前と、浴衣着の色男が2人掛かりで千早凪を取り押さえていた時だ」
嫌な予感がした。つい鋭くこう尋ねていた。
「ちぃに何かしたか?」
「押し倒して耳元で囁いた。キスは寸止め。……でもこう言ったところでお前は」
「襲ったんじゃねぇか」
「――と解釈するに違いないだろうから」
次の瞬間、柾は俺の肩をとんと押した。何の前触れも予告もなく。よろめいた俺は、尻餅をつくような形でベッドに座るはめになった。
「おい! 急になにすん……」
起き上がろうとして肘をスプリングに宛がうと、上から柾がにじり寄って来た。……おいおいおいおい、何の冗談だよ、これは!
「こうやって押し倒して、耳元で口説いた」
やめろやめろ! おい、耳元で囁くなって……! うわやべ、背筋が寒ィ……!
身体じゅう怖気が走る。ぞわぞわと不気味さを感じていると、急に腕を掴まれ、一気にぐいっと引っ張られた。
「おわっ!?」
「僕がしたことと言えば、こんなところかな……。押し倒したと言っても、押して・倒しただけの話だ」
「……ちぃは何も言ってなかったぞ」
「何だって?」
「浴衣や髪も乱れてなかったし、お前とそんなことがあったなんて一言も言わなかった。そんな素振りは全く見せなかった」
「麻生こそ、いつ会ったんだ?」
「俺がこの部屋に戻ってくる直前だ。お前が告った後だろう?」
「みたいだな」
確かに、ちぃが俺に報告する義務なんてないよな。でも……。
俺は彼女を誤解していたのか? 動揺する出来事に見舞われたら、俺には打ち明けてくれると思っていた。
それは独り善がりな思い込みで、俺には報告する価値もなく、どうでもよかったんだろうか。
柾からの告白は、ちぃにとって『大事件』だったはずだ。あのタイミングでバッタリ出くわしたのだ。報告するチャンスだっただろうに。
頼って貰えなかったことがこんなに寂しいとは思ってもみなかった。親しい仲と思い込んでいたのは俺だけか。
「俺の出方が楽しみだって言ったよな?」
その質問に柾は目を細め、口元を緩めた。肯定の合図――そうか。
「男らしく振られて来てやるよ。だから酒、たっくさん用意しといてくれ」
■ -- ■
行きと同じバスなのに、復路は少し勝手が違った。
一晩で人間模様が変わった。取り巻く環境や空気も。
そしてまた、変化が起ころうとしていた。
「彼女の視線……」
「おい、やたら……じゃないか?」
■ 麻生 ■
バスはサービスエリアへと滑り込み、20分の休憩時間が設けられた。
自動販売機でミネラルウォーターを買い求めて咽喉の渇きを潤していると、千早凪が近付いてきた。
「おい、麻生」
「なんか用かい」
ちぃの保護者は、いつもの如く「歴が」と切り出した。
「俺の気の所為ならいいが、やけに麻生のことを見てないか? バスに荷物積み込む時とか、バスに乗り込む時とか。
さっきもお前の後ろ姿をじーっと見てた」
どんな勘違いしてんだろうな。見当外れも甚だしいぜ、全く。
ちぃが俺を見てただって? そんなはずねぇだろ。彼女が追ってたのは、俺の隣りにいた柾の姿に違いないんだから。
「歴のやつ、何か麻生に伝えたいことでもあるのか?」
困惑気味の言葉を聞いた瞬間、俺は、あ、と思い立った。
ひょっとして、ちぃは悩みに悩んだ末、柾のことを俺に報告したくてタイミングを見計らっていたのではないか?
あり得ない話ではない。だが、そうだとしても、この保護者に悟られるわけにはいかなかった。
「そんなに見られていたら俺でも気付くはずだ。そんな気配は全く感じなかったぜ」
無関心を装うと、渋々納得したのか「そうか」と呟き、バスへと戻って行った。
■ 柾 ■
『僕に倣って彼女に告白するもよし、単に静観するもよし。本音を言えば、お前の出方が楽しみで仕方ない』
麻生を炊き付けたのは僕だ。それは否定しない。
だが一晩経った千早の様子は明らかにおかしかった。
朝からずっと彼女の視線は麻生へと向けられている。周囲もそのことに気付いたようだった。
「彼女の視線が麻生に釘付けなんだが」
「おい、やたら麻生を見てないか?」
車内やサービスエリアで囁き合う声が癪に障る。
麻生を見詰めてばかりいる彼女を見て思うのは、彼女が好きなのは麻生なのかという疑問。フラれたのは僕の方かという一抹の不安。
■ 歴 ■
サービスエリアで20分ほど時間が与えられたのだけれど、身動(みじろ)ぎ出来ずにいた。
通路側に座っていた透子先輩が、私の右肩にもたれかかり、すやすやと寝息を立てていたからだ。
下車するため、後ろの座席から通過しかけた芙蓉先輩が足を止める。私を見て「不憫ねぇ」と苦笑する。
「潮ったら爆睡じゃない。運行中ずっと千早の肩を借りてたの?」
「ずっとというわけではないんですけど。どうも寝不足みたいで」
「ね、寝不足……。生々しいわね。でも千早、あなたも降りたいでしょう?」
実を言えば下車したかったから、私は小さく頷いた。
「潮。起きて、潮。ほら」
芙蓉先輩は、手の甲を使って透子先輩の頬を軽く叩いた。叩いたと言っても、それはどこまでも軽い『叩く』で。
寝惚け眼を擦りながら起きた透子先輩は、覚醒とともに状況を把握したのか、ひたすら私に謝罪の言葉を向けたのだった。
「ごめん、千早さんほんとにごめん! 重かったでしょ!? もしかしてずっと肩借りてた?」
その質問には首を横に振って否定する。でも芙蓉先輩は違った。やれやれと首を竦めたのだ。
「優しいわね、千早は」
寝た子を起こすようなこと言わないで下さい……! 案の定、透子先輩は「やっぱりずっと肩を借りていたのね」とショックを受けてしまった。
「それよりも、降りません?」
私は人差し指をサービスエリアの建物へと指し向ける。
大好きなスターバックスにあり付けた透子先輩はよほど嬉しかったのか千円に近いお金を惜しまず投資して、トッピングを追加しまくった。
サイズはグランデ。ドーム型の蓋から、はみ出んばかりのホイップを舌で舐め取り、それを口に含んで堪能する。
「ん~美味しい。ねぇ千早さん」
「はい」
「千早さんの視線を追うと、もれなく麻生さんに行き着くんだけど」
「!? 見てません、誤解です。麻生さんの隣りにあるプランタを見てました」
「バレバレ」
今度は私がショックを受ける番だった。露骨に態度に出ていたなんて思ってもみなかった。
麻生さんと接触して事情を説明する。反応を引き出してみれば何か分かるかもしれない。
姫丸さんから貰った、知恵と激励。でもその計画を遂行するには勇気がいる。麻生さんと2人きりになれて、邪魔が入らない空間でないと。
それなのに麻生さんは常に誰かと一緒で(主に柾さんだ)、声を掛けるタイミングにあり付けなかった。
旅行中は無理かしらと肩を落とし始めていたのだ。
「千早さん、こんな時の為にケータイがあるのよ」
まるで私の心を見透かしたかのように透子先輩は私のバッグを指し示した。
「知ってるんでしょ、麻生さんのメアド。こっそり伝えるにはもってこいじゃない」
そう言えば、そんな便利な文明の利器を持っていた。
なまじ職場の人とは頻繁に会えるし、そもそも社宅に住み始めてからは特に携帯電話の出番もなかった。
加えるならば、今まで睦みごとに使ったことがなかっただけに、うっかり失念していたともいえる。我ながら恋愛レベルが低い……。
「あるんでしょ、伝えたいこと。ちゃんと言わないとね。後悔するよ」
私みたいに、と寂しく呟く透子先輩。
「先輩はどなたに伝えたいんです?」
「え?」
「伊神さん……じゃなさそうです。今も誰かに伝えたがってる気がします。ひょっとして、不破さんですか?」
「……伊神さんと付き合い始めたこと、伝えたんだけどさ。その時にめちゃくちゃ怒らせちゃって」
「じゃあ、透子先輩もメールしないと」
「不破犬君のメアドなんて知らないもの」
「知らないんですか!?」
「聞いてないし、あっちから聞かれても断わってたから」
これには驚きを禁じ得なかった。てっきりお互いアドレスを交換し合ってるものだとばかり思っていたから。
「伊神さんのケータイの番号とメアドを知ったのも今日なんだよね。……私、そんなに変かなぁ?」
「いえ、必要がなければ別に構わないと思いますけど……」
現に、今まで不便さを感じなかったわけだし。それでコミュニティが成り立つならば、問題はないと思う。
「メールで約束取り付けちゃいなよ。柾さんにも知られたくないんでしょ? だったらそれしかない。旅行中は人の目が多過ぎる」
伊神さんとの交際がものの数時間で周囲の知るところとなった経験者の言葉には、重みがあった。
「メールだと文面もじっくり考えられるしさ。面と向かい合っちゃうと、緊張して支離滅裂になる可能性もあるじゃない?」
姫丸さんに引き続き、本日2つ目のアドバイスは透子先輩から。
次の瞬間にはどんな文面にしようかと使い慣れない頭をフル回転させていた私だった。
*
「千早がずっとケータイをいじってるわ。珍しい光景ね」
「一所懸命文章を打ってるみたいですよ。書いては消して、推敲の上に推敲を重ねて。未だにタイトルのこんにちはしか決まってないみたいで」
「まるで一世一代のラブレターね」
「ラブレター? あぁ、そうなのかな……?」
「あの……ラブレターじゃありません」
背後から聞こえてきた芙蓉先輩と透子先輩の会話をすかさず否定する。根も葉もない噂に発展するのは懲り懲りだった。
下呂から3時間。私たちは無事帰路に着いた。
行きと違い、帰りは積み重なった疲労ゆえか、車中ではほぼ全員が眠っていた。
1泊2日の社員旅行は、皆にとって深い思い出になったと思う。私自身、心臓に負担を掛けたであろう体験を幾つか済ませている。
ところで今はバスから降り、女性3人で社宅まで帰る途中だった。
時間も15時を回ったばかり。ゆったりした旅だったわねと芙蓉先輩は笑い、透子先輩もそうですねと頷いていた。
「潮はこれから伊神とデート?」
「多分……そうなると思います」
顔を赤く染めた透子先輩の右手にはいつ着信が来てもいいように携帯電話が握られている。
「八女先輩こそ、杣庄とデートですか?」
「ううん。今夜は唄ちゃんと会う約束があって」
「杣庄の妹さんと? 珍しいですね」
「素直な子よ。本当の妹みたい。所作も可愛くて」
「凄い光景でしょうね。美少女と美女が並んでるのって。……何気に杣庄って、恵まれてやいませんか?」
「あら、違うわよ。恵まれてるのは私の方」
「うっわー、ご馳走様です」
マンションに到着すると、「お疲れ様」と労い合って、それぞれの部屋へと散って行った。
玄関の鍵を開け、旅行カバンから洗濯物を取り出し洗濯機へ。あらかた片付けを済ませてからソファーに腰を下ろした。
ケータイを打ち終わったのは30分後だった。文面を10回読み直し、深呼吸する。静寂の中、カチカチカチと腕時計の音。
――あぁそうだ。この腕時計、麻生さんから借りたんだっけ。
きゅん、と胸が締め付けられる感覚。その想いを自覚しながら、私は送信ボタンを押した。
件名
こんにちは
内容
お疲れ様です、麻生さん。あっという間の社員旅行でしたね。
ところで、急に改まったメールを送ってしまってごめんなさい。
実は麻生さんと直接会ってお話ししたいことがあります。
麻生さんの都合の良い日で構いません。時間もそんなに掛からないと思います。
返事をお待ちしています。
メールを送った数分後、鳴ったのはメールではなく着信音だった。『麻生さん』の表示を見て息を飲む。
「はい、千早です」
「なんだ、このメール。急に改まったりして」
受話器の向こうで笑う麻生さんの声がした。
「ごめんなさい。文面の通りです。電話ではちょっと話しづらくて……」
「そうみたいだな。分かった。今日でもいいのか?」
「大丈夫です。何時でも構いません」
「さんきゅ。18時に、角のコンビニまで来れるか?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ悪いけど、そこまで歩きで来てくれ。コンビニの駐車場で拾うから」
敢えて社宅マンションの共同駐車場ではなくコンビニの駐車場を指定したのは、人の目を避けたい心中を察してくれたのだと思う。
電話を切り、時間を確認する。限られた時間内で、せめて身だしなみだけは整えておくことにした。
*
磨きあげられた1台のホワイトパール、プリウスαが約束の18時より5分早い時間に滑り込んだ。
私はコンビニの出入り口より僅かに離れた位置、外で待っていたので、運転席の麻生さんは瞬時に見付けてくれたようだった。
麻生さんはステアリングから手を離すと、フランクな挨拶をするように片手を挙げる。
車に駆け寄り窓越しに対面すると、麻生さんが「助手席に乗ってくれ」と顎をしゃくったので、その言葉に従い助手席側へと回った。
麻生さんの車には初めて乗る。助手席のドアポケットには高速道路のSA・PAで自由に貰えるマップが何枚か差し込んであった。
東名自動車道、北陸自動車道、中央自動車道。パッと見て確認できたのはその3種類だったけれど、実際にはもっと持っているのかもしれない。
内装はいたってシンプルだ。兄もそうだけど、麻生さんも車中に物を置かない主義のようだ。
カーナビは地図案内として使われており、CDの類が見当たらないのはトランスミッター経由でiPodを流しているからだろう。
車内からは新品の椅子の匂いがした。そう言えば、以前乗っていた車を下取りに出し、買い替えたという話を少し前に聞いていたような……。
って、それよりも。
「麻生さん、急にごめんなさい」
「ん? いや、俺は別に用事もなかったし。それよりどこ行こうかね」
どこ行こう?
「あ……本当ですね、どこ行きましょう……」
自分のことばかり考えていて、そこにまで気が回らなかった。
「特に候補がないなら、俺のワガママに付き合って貰おうかな」
「? どこに行くんです?」
「秘密。でも、損はさせないぜ」
私の方は、特に候補もない。話せればいいとしか思っていなかったから。「お任せします」と告げるに留めておいた。
「先に腹ごしらえしても大丈夫か?」
「え? 早いんですね。あっ、いえ、全然構わないですよもちろん」
「すまんね。これもワガママの一部なんだ」
旅行の計画を立てる無邪気な子供のように、その微笑みにはたっぷりと茶目っ気が含まれていた。
何を食べたいか聞かれ、素直に「温かいお蕎麦です」と答えると、麻生さんは自分がよく通う和食麺処へ連れて行ってくれた。
車内でもお店でも、麻生さんは私を促そうとはしなかった。
帰り掛けの方が伝えやすい話題でもあったし、どちらともなく感覚的に本題を避け(空気を読んだとも言える)ては、軽いネタで盛り上がった。
*
まるで夢を見ているようだった。或いは、夢の中にいるかのようだった。
現実離れした景色の中に、私と麻生さんは立っている。
仄暗い草むら、細くて長い用水路、照り輝く月明かり、辺りを飛び交うホタルたち……。
「うわぁ……!」
初夏にのみ許された、儚い現実が目の前にある。
手を伸ばせば触れる位置に、黄緑色の光を明滅させる浮遊生物たち。それは神秘的な光景としか言いようがなかった。
「凄いです! 凄い! うわぁ、綺麗っ」
「……こら、千早歴」
離れていくホタルを追う内に、気付けば私自身が麻生さんから離れてしまっていた。
「俺以上にはしゃいでるなー」
「私、本物のホタルを見るの、生まれて初めてなんです! だからとても嬉しくて」
来た道を戻り、麻生さんの横に並び直す。その横をホタルがすい、と流れてゆく。
「あ! そこにも」
いちいち反応する私がおかしかったのか、麻生さんは吹き出した。
「キリがないだろ。もう少し奥に行けば、もっといるから」
「あ……はい。はしゃぎすぎました……」
「……昔はさ、自転車で10分も漕げば、こんな景色はざらに見れたんだ。俺の実家でも。
水が汚れ、空気が汚れ、ホタルの生態系も崩れ、今では岐阜でも限られた場所でしか見れない。悲しいよな」
「そうですね……。えぇ」
しんみりした気持ちになる。そんな私を気遣ってくれたのか、麻生さんは私の手を握り、一気に駆け出した。
「麻生さん!?」
「驚くなよ、……ほら!」
驚くなよ、なんて土台ムリな話だった。
草むらを抜けた先。360度のパノラマ世界に乱舞する、無数のホタルたち。
足が震える。胸が震える。自然のちからが成せる業。そうとしか思えない光のパレード。私はいたく感動した。
「私……この景色を一生忘れません」
忘れない。忘れたくない。ううん、忘れようはずがない。
ホタルを見るたび思い出すだろう。今日のことを。
ホタル、と聞くたび思い出すだろう。旅行のことも。
「麻生さん」
「ん?」
「ありがとうございました!」
心からお礼を述べると、麻生さんは、とぼけた口調でこう言った。
「俺のワガママに付き合って貰っただけだ。礼を言うのは俺の方。ありがとな、ちぃ」
*
草の上に座り、ホタルを観る。風を受ける。星を見上げる。月光を浴びる。自然はどこまでも優しかった。
これらがなければ闇は闇でしかなく、暗いままだったのに。温もりを含んだ光を知ってしまった。その心地よさにも。
「ちぃ」
麻生さんが私を呼ぶ。
その声は、本来の目的である私の話を促しているようでもあったし、麻生自身がなにかの話を切り出すきっかけのようでもあった。
3秒待った。麻生さんは何も言わない。だから私が口火を切った。先陣を切り込ませて貰った。
「麻生さんが、気になるんです」
隣りにいた麻生さんを見る。驚いた顔で私を見ていた。
「柾さんも、気になるんです」
まだ何も言わない。そもそも私はそこで止める気はなかった。麻生さんが耳を傾けてくれる限り、伝えきってしまおうと思っていたから。
「昨日、柾さんに告白されました。今まで何度も好意を示してくれたけど、全てはぐらかして、逃げていました。
そもそも、一定の距離から近づかないようにしようと誓ったのは、柾さんが既婚者だったからです。私、不倫はしたくなかった……。
恋に不慣れなものだから、柾さんの一挙手一投足にどきどきしたり、臆病だから戸惑ってしまったりして。
すぐに身を焦がしてしまいそうで、柾さんと接するのが怖くもあったんです。
でも……。一番大きな理由は麻生さんなんです。お話ししている内に、段々……、あぁ、素敵なひとだなって思うようになって。
私の中で、麻生さんの占める割合がいつの間にか大きくなっていたんです。会えば嬉しいし、話せば楽しくなる。ドキドキする……。
この感情に、どんな名前を付けたらいいんだろうとずっと考えてました。私は……恋だと思うんです。2人の素敵な紳士に向けての」
姫丸さんは言った。
『柾さんから告白されて戸惑っていると、正直に伝えればいい。何かしら反応を得られるでしょう。そこで歴さんの気持ちも定まるかもしれない』と。
私もそのつもりだった。
でも、この美しい景色を見ていたら。この切ない空間に身を委ねていたら。
勿体ないと思ったのだ。勇気を出さないことが。駆け引きや打算と言ったものが、狡猾なもののように思えてきて。
感情は計算できない。シミュレーションしても意味がない。無味乾燥で味気ない。
だから素直になる。さらけ出す。
相手が麻生さんだからこそ、心の内側から湧き出る本心を、ありのまま伝えたいのだ。このひとには自然体の私を見て貰いたい。
「……うそだろ? ちぃが俺を……?」
かすれた声で、問い返す。
「考えてもみなかった。……そりゃ、そうだったらいいなとは願ったが……」
戸惑いを隠せない麻生さんは、幾分か歯切れが悪かったものの、すぅと一呼吸して私を正面から見据えた。
「俺も好きだ。ちぃのこと」
その言葉に身体が、心が、じんわりと温かくなる。でもすぐにそれは沸点へと到達し、火照りへと成長した。
頬も、のど元も、胸も、血潮も。熱くなる。全部が全部、熱くて熱くて仕方ない。
「もう隠す必要もないな。理由もない。これ以上自分の心、偽れないわ。柾への遠慮? くそくらえだ、そんなもん」
麻生さんは、ふっと自分を笑ってから私を見た。鼓動が跳ね上がる。
「付き合ってくれ、千早歴」
はい。
その一言が、どうしても言えなくて。
のど元まで出掛かっているのに、言ってしまえば楽になれるのに、麻生さんとなら幸せが築けると予測できるのに……。
そんな私を見て、麻生さんは「そうか」と笑う。優しく笑う。微笑むように笑う。何かを理解したように。
どこまでも優しい声音で。海よりも空よりも広い優しさで。
麻生さんは私を尊重してくれる。その優しさが、辛くて痛い。
だから……。だから私は、これだけを言葉に乗せた。
「ごめんなさい。私、麻生さんとは付き合えません」
優しい麻生さんに、これ以上甘え続けるわけにはいかない。2人の男性に好意を寄せるなど、決して許されない。
麻生さんは紳士(ジェントルマン)だから。
私はそれに見合うだけの、淑女(レディ)になるの。
*
ホタル、いつまで観てる気だ? と麻生さんが尋ねるので、飽きるまでですと答えた。
それでもずるずると、長いことその場所に留まってしまった。決して飽きなどしなかったから。
「だめですね。どうしても離れがたくて。……帰りましょうか、麻生さん」
後ろ髪をひかれる思いで駐車場へと戻ることにした。
私も麻生さんもまだ余韻に浸っていたのだろう、車中での会話は少なかった。
やがて行きに拾ってもらったコンビニを通過し、物想いに耽る間もなくマンションの駐車場へと到着。
エンジンを切り、ステアリングを離した麻生さんは助手席に座る私の方を見た。
「こんなことを言うと、未練たらしいとか、往生際が悪いなんて思われそうだけど」
「……?」
「ちぃ、俺は待てるぞ」
「っ……!」
なぜ、そんな穏やかな顔で言うの。
苦しい。苦しいです。
好き。麻生さんが好き。
好き過ぎて、あぁ、じゃあ柾さんはどうなの? 同じぐらいの感情を抱けるの? 鈍ってしまう。疑ってしまう。
「だめですっ。私は麻生さんを振ったんです。ごめんなさいしたんです。どうして? どうしてそんなに優しいんですか!?
残酷です、麻生さんは私を苦しめる、ひどい人ですっ」
「残酷なのはそっちじゃないか? 2人の男を好きになって、そのことを馬鹿正直に打ち明けて。
本来だったら『はぁ?』って思うところなんだろうけど、ちっともそうさせない。ちっとも嫌いになれやしない。……ほら、どっちが残酷?」
昨晩、不破さんが言っていた言葉を思い出す。『歴さんの優しさは、時に残酷だ』。これは、そういうことだったの?
「黙っていれば二股だって出来るのにな。ちぃはしないんだな。そういう選択肢があることすら知らないんだろ?
俺を振って、柾も振るか? いや、事実、そうしかねないな。あんたはそういう女性だ。黙って身を引く。まるで美談」
「私は……」
否定できなかった。うっすらと、そうしようと思い始めていたのは事実だから。つまり図星だった。
「なぁ、自惚れてもいいか? さっきのゴメンナサイ、聞かなかったことにする。どうも、ちぃの本心じゃないような気がするし」
「麻生さん、駄目です。駄目ですよ……! 柾さんにも麻生さんにも申し訳なくて、私っ……! お願いですから、聞き届けて下さい!」
「こら。お前さん、俺を馬鹿にしてんのか? さっき俺に恋してるって言ったその口で、何を詫びることがあるんだ。
俺を振るなら、俺を嫌いになるだけの理由を作ってからにしてくれ。ちぃの言ってることは支離滅裂だ。繋がってない。納得しかねる」
「む、むりぃ……。~~無理です、今は。麻生さんを嫌いになるなんて……」
「それも優しさなんだろうけど、優しさだけが横行してちゃ恋愛はできないな。それにな、俺のことを優しいと思うのは間違ってるぞ、ちぃ」
そう言うなり、麻生さんの腕が私目掛け、伸びてきた。後頭部を掴み、前方へと引き寄せる。
キスは突然のことで、私は咄嗟に身を退こうとした。でも麻生さんは再び私を捕らえ、唇を合わせる。
いやじゃない。
だから私は自分で自分がいやだった。麻生さんが好きなんだと如実に証明されたみたいで。事実を真正面から突き付けられたみたいで。
助けて。助けて下さい。誰か私を。誰か助けて。
溺れる。溺れてしまう。恋に。麻生さんに。からだとからだの触れ合いに。
気付けば3度目のキスは私からせがんでいた。
もう戻れない。
なにもかも、変わってしまった。
なにも、かも。
ホタル観賞のムードに流された? あの雰囲気がそうさせた? 違う。単に、麻生さんへの想いを再確認するきっかけになっただけ。
ずっと『恋』という名詞が持つ、見えない不安を恐れていた。
打ち解けて、仲良くなって、でもいつか別れる時が来て、それに伴う心の痛みを想像しては怖がって……。
でも今、恐れていた数多のものが融解し始める。注がれた、愛情という名のエネルギーによって。
「麻生さん……」
「謝らないからな。煽ったのはちぃだ」
不貞腐れた顔で、麻生さんはキスの弁解を始めた。私は思わず笑ってしまった。
「ひどいのはそっちです。今の、私のファーストキスですよ。どうせなら、さっきホタルの飛び交っているところがよかったです」
「な……っ」
私の告白に、麻生さんは絶句した。
「マジか? 初めて? それなら謝る。ほんとにごめん。しかも内心『光栄だ』なんて思ってるくらいだ。俺としてはかなり嬉しいんだけど」
「……素で……素で赤裸々に報告しないで下さい……そういうことは……っ」
うぅっ、恥ずかしい。
顔をそむけた私の頬に、麻生さんの手が添えられる。くい、と動かされ、再び麻生さんと向き合う私。
彼の瞳には慈しみが込められ、口元には柔らかい笑みが浮かんでいた。
愛する者を愛でる顔付き。愛しい者に『愛しい』と伝える仕草。愛する者に己の想いを打ち明ける行為。
吸い込まれていた。麻生さん自身に。その瞳に。
そこに映し出されているのが他の誰でもない、私なのだと思うと身震いしてしまう。高鳴る胸の鼓動音が、車内の狭い空間で今にも轟きそうだ。
「ちぃ、好きだ」
真剣な声。誠実な言葉。貴方から色々なモノを私は貰い、受け取った。
私は何が返せるだろう?
『返さなくていい』。麻生さんなら、きっとそう言う。
麻生さんの顔が近付き、唇が触れ合う。
私は静かに目を閉じた。
麻生さんのキスは、愛情や情熱といった熱源を帯びたものだったけれど、どこまでも優しくて、時には貪るように過激的だった。
2012.05.17-2012.06.27
2019.12.23 改稿
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