22話 【合言葉】


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22話 (合) 【合言葉】―アイコトバ―



≪01:9月8日、10時03分、ユナイソン本部15階会議室≫


鬼無里火香(キナサヒカ/29/名古屋市在住)の悩みは増え続ける一方だ。
職場においてもプライベートにおいても、蔓延る問題は根深く、尽きることを知らない。
今朝も枚挙に暇がないほどの溜息をつく。彼女のそれは今や、いつどこにいても聞くことが出来た。
しかし溜息にだってTPOが存在する。今回は明らかにタイミングが悪すぎた。
15階会議室では日課の定例会議が進行中。身振り手振り話すメインの人間を差し置いて、会議を中断してしまうほどの溜息をついてしまう。
室内には水を打ったような静けさと冷ややかな空気が流れ、起立の姿勢で壁際待機していた秘書仲間が「んんっ」と小さな咳払いをして諌めた。
我に返った火香が顔を上げれば、円卓の騎士のごとく円を描いて着席する重役たちから絶対零度の鋭い視線が無数に突き刺さっていた。
「鬼無里君」
両肘を机の上に置き、顎の下で両手を組むのは、あろうことかユナイソンの代表取締役社長兼COO(最高執行責任者)だ。
自分の直属の上司であり、彼を守ることはあっても決して裏切ってはならない相手の顔に泥を塗ってしまったことになる。火香は咄嗟に頭を下げた。
「申し訳御座いません、お祖父様」
白けた空気は広がる一方だ。
「た、大変失礼致しましたっ、COO!」
二重の落ち度を恥じて火香は頭を下げた。そんな冴えない状態が、このところ頻繁に続いている。


≪02:9月8日、10時15分、ユナイソン本部秘書課詰め所≫

「出張中のCEOがあの場にいらっしゃったら、いくらあなたがCOOの身内でも速攻クビだったわよ、クビ!」
「最近たるんでるんじゃない? 妙な噂も聴くし、気を引き締めて仕事なさい」
会議終了後に秘書仲間からちくちく刺され、火香は猛省するしかなかった。言われていることは至極正論で、ぐうの音も出ない。
既に今日だけでも『申し訳ありません』の謝罪回数が二桁に達しようとしていた。
「鬼無里さんに内線よ。人事部長から」
火香はぎくりと顔を強張らせた。弾劾裁判は中断されたことになるが、如何せん、仲裁した相手が人事部長となると話は別だ。
今しがた『妙な噂』と揶揄されたばかりで、案の定、秘書室が妙な空気に変わってしまう。
「お電話代わりました、鬼無里です。……分かりました、すぐ行きます」
受話器を置くと、白々しく秘書たちが自分の仕事をし始めた。聴き耳を立てていたことは分かっている。バレていないとでも思っているのだろうか。
いつだってそうだ。火香の行動に逐一目を光らせている割には誰も踏み込んで尋ねようとはしない。
立ち入り禁止テープで区切られた境界線の奥を覗きたくても、野次馬のように思われるのは心外で、プライドが許さないのだろう。
だから彼女たちは口々に噂をする。せこせこと掻き集めた小さな情報の欠片を披露し合い、ああでもないこうでもないと談義し、勝手に推理をでっち上げて。
秘書たちによれば、いまの火香は要注意人物なのだそうだ。さきほど電話をかけてきた人事部長もろとも。
今回の電話は秘書たちの格好の的。鴨がねぎを背負って来たことになり、会話内容を知りたくて手薬煉を引いて報告を待っているに違いないのだ。
現にちらほら視線が合うも、ふいっと逸らされてしまう。横たわる無言を無視する勇気はない。火香は正直に話した。
「あの……人事部から、本日付で異動してきた社員の案内を頼まれたので、行って参ります」
「勿論いいけど、COOに付いてなくていいの?」
「はい。『待機』状態ですので大丈夫です」
「そう」
「では……失礼します」
居たたまれず逃げるように部屋を出る。後ろ手にドアを閉めるなり、火香はその板に背中を預けた。
深い溜息と共にずるずるとへたり込む。ちっとも生きた心地がしない空間だった。
ユナイソン本部において、実しやかに囁かれている噂が本当ならば、己の身も危うく、それこそ籍を失いかねない。
妙な噂――。人事部長である千早凪が悪事を企てているのではないかという疑惑だ。
火香が噂の存在を知ったのは2ヶ月ほど前。仕事帰りに立ち寄ったカフェで、衝立を隔てた奥のテーブルに座っていたのが2人の秘書だった。
まさか火香が入り口手前にいるとは夢にも思っていない2人は、職場エリアを離れたことで開放的な気分だったのか、社外秘扱いの話題を口にしていた。
ユナイソンのCEOとCOOの対立がいよいよ本格化しだしてきたこと、人事部が奇妙な接待をしていること、時期外れの異動がありそうなことを。
耳をそばだてていた火香は聞き終えたあと、二重にショックを受けた。
火香の立場を考えれば無関係どころか円の中に入ってしまっている。それなのに動きが読めていなかったなんて不甲斐ないにも程がある。
派閥争いのマイナスになることは避けろと釘を刺されていたにも関わらず、よりによって自分が足を引っ張ってしまっているのだから世話はない。
そろそろ起死回生の名誉挽回をしなければ。かといって今まで名誉を築いてきたのかと尋ねられれば、それはそれで答えづらい質問だが。
「人事部はどうしていつも私を指名してくるのよぅ……」
頼みやすいからなのか、火香は事あるごとに人事部長から雑用の指名を受けている。
それもあって、秘書たちから『鬼無里火香も人事部の仲間ではないか?』と疑われ、悪事加担に対する疑惑の目が向けられていた。
(全くの濡れ衣なのに……)
つい恨めしい言葉が口を突いて出るが、仕事は仕事。与えられた任務を全うするため人事部のあるフロアへと向かった。
『人事部に異動してきた不破犬君くんを案内して欲しい』――それが人事部長である千早凪の依頼だった。
エレベータを呼び寄せたものの、パネルによればどの基も下層階にあるらしく、しばらく来る気配はない。
「私、あの頃から少しでも成長してるのかしら……」
火香の眉根が寄り、寂しげな瞳がわずかに揺れた。


≪03:過去 ―― 入社2年目≫

その時点では比較的穏やかだったのだ。東の空に太陽が昇り、木々の隙間からは爽やかな光がシャワーのように降り注いで。
あぁ新しい朝が始まるのだなと、清々しい気持ちにさせてくれる空模様。だがそれも、建物に着くまでのあっけない短さだった。
「はい! 乗ります! そのエレベータ、乗らせてくださーい!」
火香の願いは聞き入られなかった。エレベータ内はどう見積もってもぎゅうぎゅうで、人っ子一人乗れる空間はない。
境界線の向こう側にいた――火香にしてみれば、エレベータに乗ることが出来た勝ち組である――上司が、ピッと親指を上に向けた。
「鬼無里は階段な。ほら、GO!」
「そんな殺生な! 急いでるんですよぉ~! 荷物だってホラ!」
「A基は定員オーバーだ。そんな荷物を抱えてたんじゃ、なおさらな。大人しく隣りのを待つか、階段で行け」
「そんな……」
なおも縋ろうとする火香を門前払いするかのように扉が閉まり、無情にもエレベータは上昇して行った。
「むっ、無理よぅ、階段で16階までなんて……先輩のアホナス~」
愚痴を零しながら仕方なく上ボタンを押し、B基かC基が戻ってくるのを待つことにする。
するとスマホからメロディが鳴り出し、聴き慣れた火香の身体は反射的にビクリと震えた。ディスプレイには『早く!』とある。ストレートなオーダーだ。
「す、すみません! でも、どうしようもないんですぅ!」
スマホに向かって謝罪してからポケットに戻そうとする。しかし持ち前の要領の悪さから、抱えていた書類の束もろとも床にぶちまけてしまった。
わたわたと回収している間に念願のC基が到着するも、「あっ、ちょっ、待っ……!」などと、もたつている間に行ってしまう。
半べそになりながらも更に「↑」を押し、その間に書類を回収。今度はB基がやって来た。
「良かったぁ。今度こそ、これに……」
立ち上がった途端、乗り込む人波に押しやられ、またしても、いや、今度は身体ごと床に放り出された。
ひとの往来が激しい1階フロアで一体自分は何をしているのか。恥ずかしくて仕方ない。今日は一段と運についで要領が悪過ぎやしないだろうか。
やがて勝ち組上司を乗せて行った忌々しいA基が戻って来た。散らばった紙を掻き集め、駆け足でA基に乗り込む。
ドアが開いたままだったのは、開ボタンを押しっ放しにしてくれている人物がいたからだと遅蒔きながら気付いた。
「何階?」
「16階です! ……あぁ良かった、乗れて……」
安堵心からか、そんな言葉が思わず口から漏れていた。
「『ようやく』乗れて?」
からかう口調で男は言った。驚いた火香は乱れた髪や制服の着崩れを直していた手を止め、声の主を見やった。
短髪、同年代の男性。背広を着ているが、暑いのか、中に着ているカッターシャツの襟元ボタンが外されていた。そのラフさが良く似合っている。
煙草でも咥えさせたら絵になるかも? 頭をよぎる想像図を慌ててかき消し、『ようやく』の意味について考える。
まさか自分がA基・B基・C基、全3回のチャンスを逃したことを、彼は把握しているとでも言うのだろうか。
ひょっとして1順前のA基に乗っていたけど、心配になって降りてきてくれたとか? いやいやまさか! いくら何でも考え過ぎだろう。
「ずっとボタンを押して待っていて下さったんですか?」
「ん? あぁ、待ってたのは確かだけど」
「ありがとうございます。あなたも急いでらしたんじゃないですか? 申し訳なかったです」
「いや、別に大層なことをした覚えはない。礼も詫びもいいよ」
「でもあなただけが気遣ってくれたんですよ?」
「たまたまさ。俺以外にもあんたを助ける人間はいたはずだ」
そんな奇特な人は稀中の稀だと思うけど。咽喉元まで出掛かった言葉を飲み込む。あまりしつこく言っても小うるさいだけだろう。
「あの、お名前を伺ってもよろしいですか?」
「……なんで?」
相手の警戒するような声を聞き、火香は慌てて「いえ、無理強いはしません」と付け足す。男は数秒ほど黙ったあと、観念したのかぽつりと呟いた。
「……麻生だ」
「麻生さん――もユナイソンの社員なんですね。黒バッジということは、本部ではなく支店配属の方ですか」
「へぇ、詳しいんだな。見たところ同年代のようだから、てっきりおたくも新入社員かと思ったんだが」
「麻生さんは新入社員なんですね。あ、私は2年目なんです」
「おたくはどうやら俺とは違う身分らしい」
麻生は火香の襟元に光る紫の紋章を見やった。紫と言えば本部のキャリア組、それも上層部の人間しか身に付けられない。
火香はその事に気付いてうな垂れた。自分の置かれた異様な立場を思い出す。その責務の重さも。
2級の秘書検定資格で採用して貰えたのは運の良さに加え、雇っても大丈夫だろうという判断なのだろうが、祖父の存在もあるのかしらと思わなくもない。
秀でたものもないのに紫バッジを身に着けているのはプレッシャー以外の何物でもなかった。事実、影では無能呼ばわりされてしまっている。
押し黙ってしまった火香に、麻生は困った顔で詫びた。
「地雷だったか? 無神経なことを言って悪かった」
「あ、いえ。大丈夫です」
でも、なんとなく気まずいかも……。そんなことを考えていると、エレベータは15階に止まった。
「じゃあお先」
「は、はい! あの、やっぱり、お礼は言わせて下さい! 嬉しかったので……」
閉じかける扉の向こうで、麻生は苦笑をして火香に手を振った。
扉が閉まり、火香を乗せたエレベータが上昇して行く。その様子を麻生は見守った。
「あぁ、いたいた! ようやく来たか」
野太い男性の声が背後から聞こえて来た。ドスドスとその大きな体躯を揺らし、麻生目掛け近付いて来る。
「申し訳ありません。待たせしてしまったようで……」
「初めての本部に迷いでもしたか? 面接でドライブが好きだと言っていた君らしくないな。まぁいい、君で最後だ。行くぞ、麻生君」
「はい」


*

「火香、12部ずつコピーしてあるこれを、今すぐ15階の会議室まで持っていってくれないか」
「畏まりました」
祖父にして直属の上司から紙を受け取りながら、火香はふと考える。もしかして麻生さんはこの会議に呼ばれたのではないかしら。
ピンヒールの音をも吸収する高価な絨毯を歩きながらいそいそと階下へと向かった。
「失礼します」
ノックを2回。返事を待って入室する。火香がドアを開けると、会議につきものの独特な雰囲気をその肌に感じ取った。
ピリリとした空気はどの身分だろうが関係なく、常に同等だ。そして会議と名の付くものは、いかなる中断を嫌う。
案の定、火香は会議室中の視線を受け止める羽目になったが、いちいち気にしているようでは秘書など務まらない。
「会議を中断させてしまい、大変申し訳御座いません。
お手元の資料11ページ目がこちらの不手際により落丁しております。刷り直した部分をお配りしますので目をお通し下さい」
新入社員10人分、本社の人間2人分、計12人に対し、紙を手渡していく。
麻生と目が合う。やはり麻生は新入社員の代表として会議に呼ばれていたのだ。心なしかバツが悪そうなのは、先の経緯があったからだろうか。
(へぇ……。優秀なのね、麻生さんって)
「鬼無里さん、ありがとう。助かったよ」
「いいえ。それでは失礼致します」
「中断させて悪かった。では柾君。さきほどの話の続きを聞かせてくれ」
「はい――。2年後のスーパーマーケット市場は一般企業と同じように……」
沈着冷静に説明を続けるのは、黒髪に眼鏡をかけた、シャープな印象を与える男性だ。
(この柾さんという人、随分優秀みたい。……ゆくゆくはここにいる人たちも勢力争いに巻き込まれてしまうのかしら)
本部は2大勢力に分かれてしまっていた。CEO派とCOO派の意見が食い違うようになってから、既に何年経過してしまっているだろう?
当然今日足を踏み入れた新入社員はユナイソンの勢力図なんて知り得ないはず。
いつか出世したとき、どちら側に付くのか選択を迫られる日が来るかもしれない。
(でも優秀な新入社員は、早々に勢力争いに巻き込まれてしまうと聞くわ。彼らがCOOの敵になったら脅威かもしれないわね……)
火香は深い溜息を漏らし、静かに会議室を出た。こんな殺伐とした勢力図、さっさとなくなってしまえばいいのにと思いながら。


*

静寂な午後。突如祖父の詰め所であるCOO室の机の上で鳴り響いたその着信音は、まるで警鐘を模したように不気味なものだった。
「はい、秘書課鬼無里です」
「私だ。大変なことになった」
「おじいさ……いえ、COO。何があったんです?」
「社内で盗撮犯が捕まったそうだ」
「え?」
「生憎私はそちらに行けそうにない。代わりに様子を見てきてくれないか」
COOは現在、経産省の用事を果たすべく、中部経済産業局へ赴いていた。あと1時間ほどで迎えに行くことになっていたのだが――。
「私は自力で戻るから迎えは不要だ。その代わり、そちらの対応を完璧にこなして欲しい」
「は、はい。畏まりました」
大役を任され、火香の緊張度は一気に増した。そして疑心度も。盗撮犯? このオフィスビルで?
誰かがCOOに連絡を入れたようだが、自分は階こそ違えど事件現場と同じ建物内にずっといたというのに、なぜ連絡がこうも遅いのだ。
しかも祖父からは端的なあらまししか告げられておらず、結局要領を得ないまま指示された場所へ向かうしかない。
連絡網はどうなっているのだ。もしや無能な自分は関わらせては貰えないのだろうかと卑屈なことを考えながらも部屋を出る。
廊下に出ると、微かにパトカーのサイレン音が聴こえてきた。どうやら近付いてくるようだ。階下を覗けば、遠目ながらに赤く回転しているランプが見えた。
いよいよ盗撮犯云々の話が現実味を帯びてきた。社内で事件が発生してしまったのは本当らしい。
電話でCOOは『盗撮犯』と言っていた。盗撮というからには被害者がいるかもしれず、心無い犯行によって心に深手を負ってしまっているかもしれない。
メンタルケアの対策も必要だと火香は心のメモに記す。そうだ、逆上した犯人によって傷を付けられた可能性だってある。救急車は呼んでいないのだろうか。
(やることはいっぱいある。重要度を間違えないようにしなければ)
時間の経過と共に、サイレンを聴き付けた社員がわらわらと廊下に出てきては口々に情報交換をしているようだが、どれも的を得ない、無意味な談義だった。
野次馬たちが点在する通路をすり抜け、火香は3階へと辿り着いた。既に2名もの警察官が到着しており、身近にいた社員から話を聴いているようだった。
その輪の中心にいたのは柾と麻生で、火香は驚いた。慌てて掛け寄るとIDカードを関所の通行手形よろしく警察官に見せた。
身分を明かしたことで、幹部の秘書なら話が通じると思ったに違いない。警察官は火香にも同席を頼み、5人でのやり取りが始まった。
ちらりと麻生を見れば、顔見知りが増えたことに安堵したのかほっとした表情を浮かべ、火香に笑み返した。火香も少し落ち付くことができた。
「刑事さん、盗撮犯を掴まえたとの連絡が入りましたが、一体どういうことですか? 弊社の警備員はどこへ……? 姿が見えないようですが」
「あぁ、既に警備員の方とは二言三言交わしましたので、持ち場へ戻ってもらいました。今から、このお二方から事情を聴くところです」
若い警察官に促された『お二方』――麻生と柾が顔を見合わせる。どちらが言う? と決める間すらなかったのに、答え始めたのは柾の方だった。
「会議が終わり、僕らは帰るところでした。エレベータで15階から1階まで下りようとしたのですが、3階で異様な数の主婦が乗ってこられ――」
ブブー! と積載量限界値を告げるブザーが鳴り響いたのだと説明した。
「『あと2人乗るのよ』という話だったので、だったら僕と麻生が辞退して、3階から1階まで階段を使おうという判断を下しました」
「なぜそんなにも主婦が? 3階で何をしていたのです? 秘書の鬼無里さんはご存知ですか?」
警察官に尋ねられ、火香は記憶の箱から引き出しを開けた。するすると今日のスケジュールが出てくる。
「はい。本日は3階ミーティングルームにおきまして、若い奥様方による『買い物客の滞在時間リサーチ』と称してアンケートを実施しておりました。
アンケート実施時間は1時間半を予定していたので、ちょうど麻生さんや柾さんが会議を終えた時間と重なったのだと思われます」
「モニターアンケートというやつですか」
「その通りです。アンケートに答えてくださった方には謝礼として3千円分のユナイソン商品券と、ちょっとした粗品が渡されるとのことで、好評を得ています」
「そうなんですね。柾さんたちが3階で降りたことは分かりました。それからどうしました?」
話を振られ、再び解答権は柾へと移った。
「これから駅に向かうのだし、先にトイレに寄っておこうという流れになりました。1階より3階の方が空いているに違いないと、意見が一致して」
「なるほど、理に適ってますな」
今まで流れを若い方に任せ、自分は1歩ほど後ろに控えていたベテラン風情の警察官が相槌を打ってきた。柾は続ける。
「2人で男性用トイレに入りかけると、女性用トイレから忍び足風にこそこそと様子を窺いながら歩いて来る若い男とばったり出くわしました」
咄嗟の出来事に理解が追い付かず、虚をつかれた2人は犯人の通過を許してしまった。
それでもなんとか瞬時に我に返ることに成功した2人は、急いで犯人に駆け寄ると、その腕を捕らえ、110番通報に成功した。
証拠品のスマホは押収済み。その犯人は現在、別の警察官たちによって、問題が起きた女子トイレ前で事情聴取中――という話だった。
「鬼無里さんに伺いますね。今回アンケート層が若い主婦だということは事前告知があったのですか?」
「はい。大体いつも定期的に募集をかけているんです。今回は50代以上の男性対象だとか、今回は女子大生対象だとか、そんな感じで」
「層が違えばアンケートの内容も変わってきますものね。場所はいつも3階のミーティングルームで……?」
「そうです。使い勝手のよい部屋なので、専らそこで実施しています。それに、4階以上は一般人がおいそれと入れないようになっているんです」
「まぁ企業秘密もあるでしょうしなぁ」
警察官たちはメモを取りながら頷き合っている。今のところ、火香たちの説明に破綻はないと判断しているようだった。
「事前に若い主婦が大勢集まることを知っていた可能性がありますね。タイミングを見計らって3階のトイレで待ち伏せ。盗撮する機会を狙っていた……」
「まぁそう考えるのがスマートだわなぁ」
「向こうの話、そろそろ終わってるかもしれません。照らし合わせてきましょうか」
「あぁ、そうしよう。こちらも粗方まとまったしな」
相性がいいのか、はたまたプロだからだろうか。老若の警官たちは、年が離れていても息が合っている。阿吽の呼吸でスムーズにまとめ上げていた。
「御三方とも、捜査への御協力ありがとうございました。一応念のために、柾さんと麻生さんの個人的な連絡先を教えて貰ってもよろしいでしょうか」
「構いませんよ」
「すみません、助かります。……こういうの、中には嫌がるひとも多くて」
「お察しします」
「ありがとうございます」
話が円満にまとまり、警察官2人は事件現場の方へと引き上げて行った。


*

(これ、聴取は無事に終わった……ということよね? COOから任された『大役』をきちんと果たすことができたのかしら……)
火香はそのことばかりに気を取られ、自分を呼ぶ麻生の声にまったく気付いていなかった。
「……さん。鬼無里さん?」
声のボリュームを若干大きくしてくれたお陰で、火香はやっと自分が呼ばれていることを知る。
「あ、はい!」
「お疲れさん」
「それはわたくしが言うべき言葉です」
咄嗟に火香は秘書然として受け答えた。誠実な対応には、それなり以上の御礼を。それが秘書たる務めだ。
「麻生さんと柾さんが冷静沈着に犯人を捕まえ、110番通報してくださったお陰で、被害を最小限に食い止めることが出来ました。
被写体に収められてしまった不幸な主婦の方につきましては、警察にどなたかだったのかお聞きして、心から謝罪をしたいと思います」
「まぁこれだけのビルだ。そこかしこに監視カメラはあるはずだし、被害者を特定するのも難しくはないだろう。
だが個人的には、撮影されてしまった御婦人のことを思うと、果たしてご家族に報告しなくてはいけないのか、いささか疑問だ」
柾は冷静だった。
「ですが……」
「主婦というからには、愛する旦那と子供がいるんだろう。
綺麗な日本語を駆使して懇切丁寧に説明したところで、言っていることは『おたくの奥さんの恥ずかしい写真を撮られてしまいました』、だ。
そんなの聞かされて、心穏やかでいられるか? 『あぁそうですか。犯人もちゃんと捕まったんですね。じゃあいいです』なんて納得するとでも? 
なるはずがない。僕ならごめんだ。単にモヤモヤするものを抱えるだけのように思えるが」
「つってもなぁ……。黙ってはいられんだろ。やっぱりこういうことは被害者に報告する義務があるんじゃないのか?」
お前の気持ちも分かるが、とも伝えつつ、麻生は反論した。火香も同意見である。
「さてね。そこまでは知らないし、今のはあくまでも僕個人としての意見だ」
にべもない柾の返答に、麻生と火香は顔を見合わせた。麻生は肩を竦めている。火香は最短で方向性をまとめた。
「よくよく考えますと、いま決めてしまっていいような軽い案件ではありません。他の秘書や上司は勿論のこと、弁護士や警察とも相談して決めたいと思います」
「賢明な判断だと思う」
「そう仰っていただけると自信が持てます。ありがとうございます」
「よし! さ、これで区切りはついたな。大分遅くなっちまったが……。んー、店の方にはどう説明したもんかなー」
「説明したところで信じてくれないかもな」
「そうなんだよ」
苦笑し合う柾と麻生に、火香は遠慮がちに申し出た。
「そのことでしたら問題ありません。この後すぐにでも私の方から各店長宛てに連絡を入れますし、臨時のお手当を配給するよう、上司にかけ合うつもりです」
「ほんとか? さんきゅ。助かるよ」
「秘書室から連絡が入れば、店長も信じざるを得ないからな。一安心だ」
麻生たちの心配は全くの杞憂だろうが、火香のひとことが加われば鬼に金棒なのは違いないだろう。
「じゃあ鬼無里さん。俺たちそろそろ行くわ」
「はい、麻生さん。お気を付けて」
「また機会があれば」
「そうですね、柾さん。それまでどうかお元気で」
「あぁ」
「そうだ。なぁ柾、駅に戻りつつ、どこかで食べていかないか? ちょっと遅いが、昼飯にしようや」
「そうしよう」
「……『ようやく』ありつけるわけですね」
火香のツッコミに麻生はキョトンとしていたが、エレベータ内でのやり取りを思い出したのか、なるほど、と笑った。
「どうもそんな感じみたいだ」


*

≪04:9月8日、11時40分、ユナイソン本部1階フロア≫

不破犬君の案内を終えた火香はそのまま昼休憩をとることにした。ビルを出て数ブロックも歩けばコンビニがある。そこで数点見繕うつもりでいた。
ところが入り口を踏み出した瞬間スマホが鳴り出した。相手はCOO。反射的に通話ボタンを押し、耳に宛がう。
「火香、すまないが今すぐ来てくれないか?」
「畏まりました。いま1階ですので、エレベータが来次第そちらへ向かいます」
昼休憩はずれ込むことになりそうだが、四の五の言っている場合ではない。踵を返し、伽藍堂の1階フロアに戻る。
いい具合にエレベータが降りてきた。過去を思い出したばかりなので、つい笑みが零れる。だが開いたエレベータを見て、火香は思わず目を見開いた。
(えぇ!? どうしてこんなにも人が多いの!?) 
悪夢が蘇る。こんな時、得てして悪夢は現実になるのが世の常。
エレベータから吐き出された大人数が一斉に歩き始め、あれよあれよと人の波に追いやられた。一瞬手の力が緩んでしまい、携帯電話とポーチを落としてしまう。
拾うためには地面に視線を落とし、小さな歩幅で歩かなければならない。そうなると前を向いていないのだから、他人とぶつかってしまう確率も高いわけで。
しゃがんでいた火香に誰かが気躓いた。臀部に靴の衝撃を受け、痛みと同時に「すみませんでした!」と条件反射のように謝罪の言葉が出る。
アンケートモニター参加者らしき一般人から『ちっ』と舌打ちを食らい、いっそ「どこ見て歩いてるんだ!」と罵られた方がマシな気分だった。
結局自分だけが取り残され、再びフロアは静かになった。
「はぁ……」
せめて何か一つで良い。問題が解決してくれれば溜息の回数も減るに違いない。
上体を起こし、散らばったものを回収する。仕方ない、次を待とう。
スカートの埃を払った火香の目に、あのビジョンが再現される。
開いたままのA基――いつの間に降りて来ていたのだろう? そして開ボタンを押す、あのシルエット。
あの仕草には見覚えがある。A基の中で、その人物は開ボタンを押し続けてくれていた。
自分を待ってくれているんだろうか? そうでなくとも、自分はあれに乗らなければならない。遅刻は許されないのだ。
駆け足でA基に乗り込む。火香が入るなり、ドアはすぐに閉められた。その人物は、からかう口調で話し掛けてきた。
「よかったな、『ようやく』乗れて。行き先は16階でいいのか?」
「はい、お願いしま……」
驚いた火香は男を見返す。これはデジャビュだろうか。
短髪の男性社員だった。背広を着ているが、暑いのか、カッターシャツの第1ボタンはわざと外されている。けれどもそのラフさが良く似合っていた。
恐らく、目的の階に到着する頃にはきちんとボタンを留めるのだろうが――。
「……ありがとう! 助かりました」
お礼を言うが、途端に顔をしかめられてしまう。9年前もそうだった。全く同じ反応だ。
「礼はいらないって、前にも言ったろ?」
麻生は照れ臭そうに笑い、火香も自然と笑顔で麻生を出迎えた。
「こんにちは、麻生さん!」
「久し振り。これからよろしくな」
「こちらこそ!」
火香は久し振りに自分の中に新鮮な風が吹き込んでくるのを感じた。燻っていた停滞感を吹き飛ばす、爽やかな息吹を。
(麻生さんと本部で一緒に働くことになるなんて、人生何があるか分からないものね)
かつて事件をスムーズに解決した二人組の片割れ、麻生環との再会。これは幸先がよさそうだ。
(ひょっとして心配事を解消できる日が来たりして。……な~んて、そんなわけないか)
漠然とした予想はそう遠くない未来に的中することになる。
その『1つ』が連鎖反応を起こし、幾つもの悩みが解消されていくことを、いまの火香はまだ知らない。


≪05:9月8日、11時45分、ユナイソン本部1階フロア≫

麻生環はそびえ立つ本社ビルを見上げる。初めて足を踏み入れたのは新入社員の頃。あれから9年の月日が流れたことになる。
時間が経過する早さに驚きを抱きつつ、麻生はすいと視線を下げ、ユナイソン本社の入口を跨いだ。
慌ただしく往来する本社の人間たちは、スーパー業界の一員ではないように思えてくるから不思議だ。
ここでは粗利もチラシも客も関係ない。まるで総合商社のビジネスマンが集うさまに似ている。
通い慣れたスーパーとはまるで違う空気の質に、麻生は違和感を覚えた。果たして自分に本部勤めが務まるのかという不安がもたげてくる。
肩に食い込む鞄の紐を掛け直し、手入れの行き届いた靴をカツンと鳴らして受付へと向かった。見目麗しい女性が礼儀正しくお辞儀する。
「ユナイソンへ、ようこそいらっしゃいませ」
「今日付でこちらに異動することになっていた麻生環です。12時に来るよう言われていたのですが。家電の部署は何階ですか?」
社員証を提示した麻生に、受付の女性は柔らかい口調で「8階へどうぞ」と告げる。その言葉に従い、エレベータまで移動する。その時だった。
「きゃわぁ!」
このビルにそぐわない、おかしな悲鳴が聞こえた。何事だろうかと辺りを見回すも、人が多く、どこで何が起こっているのか見当もつかない。
エレベータから降りてきた男性が「またあいつか」と呆れた声で呟くのを耳にし、或いは日常風景だからこそ皆知らん振りをしているのだろうかと首を傾げる。
麻生はエレベータに乗り込むが、他に乗る人はいないらしい。先ほどの集団は全員降りた者たちだったようだ。
閉ボタンを押そうとした麻生は、目の前に黒い塊を見付けて絶句する。
その塊はよくよく目を凝らすと人の形をしていた。黒く艶やかな髪をシニョンにし、ライトグレイベースのオフィスカジュアルな服装をまとっている。
女だと分かったのは、スカートから伸びた足がベージュ色のストッキングを穿いていたからだ。女性は床に散らばった私物を拾い集めているところだった。
(際どい格好……)
呆れつつもつい目がそこに行ってしまうのは、悲しきかな、男の性ゆえだろうか。
拾い終えた女性はスカートの裾を払う。その顔を見て、麻生は眉をひそめた。女性に見覚えがあったからだ。
彼女はエレベータが自分を待ってくれていたことに気付くなり、慌てて駆け込んできた。これでやっとボタンが押せる。
「よかったな、『ようやく』乗れて。行き先は16階でいいのか?」
若干緊張気味のていで麻生は尋ねる。なにせ女性とは9年振りの再会なのだ。つい嬉しくなってしまう。
「はい、お願いしま……」
女性は麻生を見上げた。その目が見開かれる。
「……ありがとう! 助かりました」
まさかお礼を言われるとは思わなかった。気付いたのは自分だけで、女性の方は気付かないままだとでも言うのか。
「麻生さん!」と呼んでくれることを期待していただけにショックで、つい拗ねた口調になってしまう。
「礼はいらないって、前にも言ったろ?」
女性はキョトンとしつつも、次の瞬間にはふわりと笑みを浮かべていた。麻生に気付いた証拠だ。
「こんにちは、麻生さん!」
「久し振り。これからよろしくな」
差し出された右手を握り返す。鬼無里火香との再会は、こうして果たされたのだった。


2007.05.10
2019.08.09
2023.08.22



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