27話 【It's Scary!】


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27話 (―) 【It's Scary!】


【01】

7月19日 被害アイテム:メンズ用シェービング(替刃)348円/シェービングジェル798円/ヘアワックス1,198円
7月20日 被害アイテム:ワイヤレスイヤホン4,880円/単3形4本付き急速充電器セット2,480円
7月21日 被害アイテム:メンズ傘4,500円/高級蜂蜜3,800円

千早凪が出勤すると、万引きの被害報告が上がっていた。
提出されたての被害報告書に目を通した凪はわずかに顔をしかめた。顔をあげれば、万引き被害に遭った売り場担当者の面々が並んでいる。
最近立て続けにやられており、被害額は少ないながらも犯罪には違いない。
初日の被害者、コスメ売り場担当の柾は腕を組み、今しがた顔をあげた凪と視線を交わす。
麻生は2日目に被害にあった。胸に去来するのは憎き犯人への憤りか。
柾と同様腕を組んではいるものの、「ちくしょう」という表情を作ってそっぽ向く仕草からは露骨な憤怒が見て取れ、本気が窺えた。
その一方、困り顔をしていたのは3日目に被害を受けた平塚だった。
万引きを防げなかった失態と、3日連続で犯行に及ぶという過去に類をみない悪質な手口には言い知れぬ不気味さをその身に感じているようで、不安気な様子だ。
「同じ犯人だと思うか?」
3人を順繰りに見やり、凪は静かに問う。キャリア組の出身で、現場に就いたのは彼ら3人より大分あと。経験不足は否めない。
その凪は『同一犯』という印象を抱いていた。理由はない。ただ直感が告げていた。
だからこそ危うさを孕んでおり、周囲の意見も取り入れながら進めようと肝に命じていた。
「どうだろうなぁ。防犯ビデオを見せて貰ったが、腹立たしいことに犯行場所は全て死角だった。それに不審人物の姿も特に認められなかった。
だが、むしろそれが万引きに手慣れたプロの犯行を物語っているのかもしれないぜ」
ぶっきら棒に麻生は言う。「同感だ」と柾が続く。
「映っていない。故に犯行時刻も不明だ。おまけに客が多い土日祝を狙ってる。人混みに紛れて瞬時にやられちゃお手上げだ。麻生の言うようにプロなら尚更」
「単価がそれほど高くないんですよねー。それもまた、盲点をついているというか。
ほら、『どうせ盗るなら高価なものを盗ってやろう』っていう思考になってもおかしくないじゃないですか。
それなのに、実際に盗まれたのは、どれも5千円以下の品ばかり。ポケットに忍ばせられるものが目立ちます」
平塚のコメントに、麻生はひとつだけ付け加えた。
「盗まれたメンズ傘は、折り畳みではなく長傘だった。昨日の天気は雨。タグを引き千切っちまえば、自分の物だって主張できそうだしな」
凪はなるほど、と呟く。
「我々が把握していないだけで、他の商品も盗まれているかもしれないな」
「あぁ、その可能性は高い。在庫なんて、棚卸でもしなきゃ曖昧模糊なもんだ」と麻生。
「だが、調べる手立てはあるんだろう?」
「まぁな。伝票を遡ったり、POSデータを調べたり、あとは売り場担当者の記憶とかな。
在庫数の変動を覚えている従業員がいてくれれば心強いが、よほど印象にあるものならばともかく、実際にはそれもつらかろうよ」
「でも、なんとなく女性というより男性の犯行っぽいですよね。シェービングジェルやコウモリ傘は男が使用する類のものでしょ」
「だが平塚、カモフラかもしれないぜ?」
「えー? 麻生さんは女性犯人説を唱えるつもりっスか~? あ、でも3日間通して同一人物による犯行とは限りませんよね?
3日の内2日が同じで、あとの1日は別人による犯行ってこともあり得ますよ。結局、何も断定できないんスよね。キツいなー」
「果たして今日が4日目になるかどうかだな。だが、ただ指を咥えて待っているのも愚かしいことこの上ない。
警備を増やす、従業員に怪しい人物がいないか目を光らせるよう言い渡す、防犯カメラの設置場所を移動させる、あるいは増やす。
他にも出来得る限りの対策があれば、速やかに実行に移すべきだ」
柾の提案に、凪は首肯した。
「できる限りの手段は尽くそう」
かたい表情で凪は約束したかと思うと、座っていた椅子を移動させ、スキャナを起動させる。
3枚の被害報告書を次々とマシンに読み取らせ、1分後には添付ファイル付きメールとして本部に送信完了していた。
「犯人が分からず、手口もこんなでは、悪いが身内をも疑わねばならなくなる。そんな悲しいことはしたくない。
犯人は捕まえたいが、それ以前にこれ以上の罪を犯させないようにしなければな」
凪の沈痛な口調に、3人は口元をキュッと引き結ぶのだった。


【02】

エスカレータで擦れ違った瞬間に分かった。
肩掛けカバンの底の方、小さな隙間から光るレンズが何よりの証拠。被写体は丈の短いスカートをはいた女子高生。盗み撮りだ。
犯人は、中年と呼ぶにはまだ若干の猶予があり、かといって社会人なりたてと見立てるには程遠かった。30代なかばほどか。
犯行が成立したからには見過ごすわけにはいかない。エスカレータを降りたばかりだが、男を追うため、素早く昇り側へと移動した。
「え? ちょ、ちょっと。また上? どこ行くのよ?」
連れの女性が、突然の進路変更にギョッとしながら問う。
「因香。彼、盗撮してたわ」
名を呼ばれた連れの女性は、自分に任務を与えられたことを知る。あまりにもアバウトな指示で突拍子もなかったが、相手に逆らえるわけもなく。
「へいへい。分かりましたよ……」と頭を掻くと、タラップを一段、また一段とあがる。
上れば上るほど露骨に見えていた太ももが顕わになる。今にも下着が見えかねない。因香が抜かしていったカップルは驚きの余り、声も出ないほどだった。
やがて因香は犯人と被害者の間に割って入った。
邪魔するなとばかりに舌打ちした犯人はしかし、因香が女子高生とは比較にならないほど際どい格好をしていることに気付くとカバンの位置を慌てて直す。
カメラには黒のガーターはおろか、レースのショーツが収められているに違いない。因香はどんどん前かがみになり、逆さになった顔が股下から覗く。
「チャオ~★ こんにちはぁ、エッチなお兄さん」
――しまった、罠だったのか!
気付いても遅い。
たとえ罠だったとしても、今まで盗み撮りした歴代の作品群でも断トツで凄かった。このアングルは、さすがに過去のコレクションには1つもない。
カメラは没収されてしまうだろうが、網膜と脳裏に焼き付いたセクシーな姿までは、さしもの警察でも消せやしないだろう。ざまあみろだ。
「んふっ。現行犯くん、逃がさないから」
体勢を戻した因香は犯人の腕に自分の腕を絡めた。傍目には、まるで恋人との抱擁に見えなくもない。
目線を下げれば、すぐ隣りで豊かな双乳がたゆんと揺れている。しかも、肌をわずかに焼いた、ストレートの黒髪が美しい、エキゾチックな美女だ。
驚くほど顔が小さく、腰のくびれが見事にS字カーブを描いている。吸い込まれないほうがどうかしてる。
犯人を逃がすまいと、因香は一層腕に力をこめる。柔らかい感触に、頭がどうにかなりそうだった。
――悔いは、ない。


【03】

事務所の外が俄かに騒がしくなったのは、凪が3人に解散を告げてすぐのことだった。
「……何事だ?」
凪は眉根をひそめるが、一緒にいた3人が情報を持っているはずもなく。
麻生は首を傾げ、柾は事務所の入り口を注視する。平塚はパッと走り出し、原因がなにか突き止めようと、集まりかけた人の波を分けるように割り込む。
やがてその平塚が戻ってきた。血相を変え、「ヤバい! あれはヤバい!」と説明になっていない感想を述べながら。
「叶姉妹が!」
説明どころか答えにもなっていない。麻生としては、「はぁ? 何だって?」――そう問い返すしかないではないか。
ロケでもあるのか? いや、そんな話は聞いていない。凪はだが、叶姉妹という単語が引っ掛かり、いい知れぬ不安を覚えた。
「失礼」
女性の声がしたかと思うと、事務所が一瞬静まり返った。ざわめきがぶり返す。
「嘘だろ……」
凪はげんなりした。
『これ以上近付くな』と言いたいが、どう考えても女性の目的は凪であり、それを証明するかのように女傑は確実に凪に向かって歩を進める。
「チャーオ★ 凪」
「お美しい」
平塚がとろんとした顔で呟くと、賛辞を受けた美女は「あら、ありがと」と己の2本の指先にキスをして、軽く吹き飛ばす仕草をもれなくプレゼント。
「因香さん……。何しに来たんですか? 隣りの男性は? 新しい恋人ですか?」
呆れながら凪が問うと、因香は平塚に向かって言った。
「寝言は寝てから言いなね、凪。ねぇ、そこのきみ、今すぐ警備のひとを呼んでちょうだい? こいつね、盗・撮・犯」
「……は? エスコートの相手が……え? 何だって?」
瞬時には理解しがたかった。論より証拠と、因香は男のカバンを近くの机へと放り投げる。柾がカバンの中から取り出したのは小型カメラだった。
動かぬ証拠品に目を見張りつつ、平塚は凪の机にある電話を使って警備員のPHS番号を押した。早急に事務所へ来るよう依頼する。
「まったく。ネオナゴヤは犯罪の温床ねー。4日目の今日は盗撮事件ってか」
呆れた因香の言葉で理解する。
「まさか、キミが派遣されたのか?」
呻くように凪が問うと、因香はにやりとほくそ笑んだ。
「私じゃない。私じゃないけど、私ならよかったのにって思える相手を、本部は派遣してきたわ」
「まさか……」
「そう、そのまさか」
驚愕の表情を浮かべた凪に、因香は満足げに頷くと身体を斜めに向けた。後ろからしずしずと歩いてくる女性に、場所を提供するかのように。
平塚は記憶を探るように、第二の女性をしげしげと見つめた。この人も美しい。けれど、どこかで見たような気もする――。
「こんにちは、凪さん」
「そよ香さんがどうしてここに……」
「凪さん」
「は、はい」
「わたくしは、こんにちはと言いました。挨拶を返すのが礼儀というものでしょう」
「……申し訳ありません。こんにちは、そよ香さん」
うろたえる凪の反応を見てから、柾は2人の女性を値踏みする。
日本人離れした彫りの深い顔立ちが印象的な因香には、以前に一度だけ会っている。鬼無里因香はどことなく歴と似ている。いや、歴が因香に似ているのか。
従姉妹だから面影があるのは当然かもしれないが、どんな奇跡が起きたとしても、歴が因香のように大胆な服を纏うことなど皆無に等しいだろう。
だとしたら因香の出で立ちは『ありがたい幻』かもしれず、つい胸の隆起と魅惑的な脚に視線が行ってしまうのだった。
その因香と目が合う。因香は柾の視線がどこを彷徨っていたかを知った上で、僅かに唇を開け、ハリウッド映画張りのセクシーなウインクを寄越す。
歴と出逢っていなければ夢中になっていたかもしれない。くわばらくわばら。内心冷や汗を流す柾だ。
麻生も因香には会っている。全身からフェロモンを放っている美女の存在には、正直たじたじだ。まず、どこへ視線をやっていいか分からない。
顔を見れば歴を思い出させる。逃れるために視線を下へ下へとやるものの、どんどんドツボにハマッていくような気がしてならない。
仕方ないので凪が露骨に反応を示したそよ香なる人物に目をやると、こちらも歴の面影に似ているのだった。
なまじ清楚な格好をしている分、因香よりその印象は強い。だが、ふと違和感を覚える。
(いや、ちぃというより……)
「そうか、鬼無里火香に似てるのか」
合点がいったとばかりに、自然と呟いていた。
麻生の言葉に、柾はハッと顔をそよ香に向け、「確かに似てるな」と賛同する。
「まぁ、似てるのは仕方ないんじゃないかしら」
因香はくすっと笑う。
「はじめまして。アルゴス・セキュリティから参りました、鬼無里そよ香と申します」
鬼無里! まだ見ぬ『鬼無里三姉妹』の長女にして、実妹である因香や火香、従兄弟である凪や歴からも恐れられている女性だったのか!
何が原因でここまで畏れられているのかは不明だが、極力余計なことは言わないでおこうと誓う柾と麻生である。
「アルゴスって、ユナイソンから分社化したセキュリティ事業部だっけ。保安、警備はそこが管轄してるんだよな?」
「あぁ。ユナイソングループの分社化。つまり会社として設立されてるんだ、アルゴスは。そよ香さんはそこに所属する私服警備員」
「万引きGメンか」
ほぅ、と柾は感心した様子でそよ香を改めて見やった。
以前、鬼無里三姉妹はユナイソンに籍を置いているという話を聞いていた。
火香は秘書、因香はコンサルタントだが、そよ香だけは聞いていなかった。まさか万引きGメンとは。
淑やかに見えるそよ香に、そのような気迫は感じられない。前評判からして、もっとこう、ピリピリしたものを肌に感じ取ると思っていたにも関わらず。
しかし、凪のあの怯えよう。あれがいささかネックだった。恐らく内に秘めたものが表に出た時、悪夢を見ることになるのだろう。
「資料は見せて貰いました。動画をチェックします。データを集められるだけ集めて下さい」
にっこり微笑みながらオーダーするそよ香はしかし、有無を言わせぬオーラを纏っていた。
元より、早期解決できるならばそれに越したことはない。円満解決の暁には、早々に退場願いたい。そう心の中でごちる凪だった。


【04】

ユナイソン・ネオナゴヤ店は広い。
テナントとして入っている数百店舗の延べ面積も考えると、全ての監視カメラの映像を調べるには時間も労力も掛かることは想像するも容易かった。
だが、凪の杞憂はそよ香の一言であっさりと打ち砕かれた。
「直営フロアだけで結構です」
きっぱりと、しかしやんわりとした口調で言い切るものだから、凪は理由を尋ねるよりも先に、安堵の気持ちが勝ったのだった。
「そ、そうか。集められるだけ、と言われたから、てっきり全てのアングルをチェックするのかと思った」
「テナントはテナントで、少なからず毎日のように万引きはあるでしょう。当然です。なくならないのが万引きです。
けれどわたくしは、どうしても気になるのです。こちらの事件が」
「え? でも被害額は1万にも満たないですよ? 
先週だって、ビール箱3ケースと玄米30kgをやられたって、青柳チーフが嘆いてた。被害額も桁外れの2万円って言ってたし……」
平塚はおずおずと話し掛ける。そよ香は「そうですね」と律儀に頷くと、身体を平塚の方に向けて、きちんと説明しだしたのだった。
「カートに載せられるだけ載せて、一気に押し進む、強引タイプの手口ですね。えぇ、そういう類は多いです。しかし、防犯カメラにばっちり映ります。
ユナイソンには酒と米売り場には高性能のカメラを仕込んでありますので。再びのこのこやって来た時が、彼奴等の最期です」
最期? 最期って言った、この人? 最後じゃなくて?
平塚は背筋に寒気を覚え、あははと苦笑い。
「そ、そうだったんですね」
「わたくし、これでも数々の万引き場面に遭遇しました。検挙率もなかなかのものであると、自負しております。
これは、そのわたくしの勘です。これは、とても質が悪いのだと思うのです」
「どういう事だ?」
そよ香は麻生の質問に答えるかのように立ち上がった。盗られた商品の場所まで案内して下さいと告げる。まずは初日の柾が統括するコスメ売り場だった。


【05】

全体的に、客数は平日は休日の比ではない。
その気になれば1人の従業員が作業をしながら注視できるのが、平日のメリットだった。ただしそれでも、部署によるが。
柾率いるコスメ売り場は薬局ゾーンと各コスメブランド、大衆向けのドラッグストアというように、主に3つに分かれていた。
「狙われたのはその内の、大衆向けドラッグストアゾーンですね。
高価な品物……香水や化粧品は、サンプルをレジに持参して交換するシステム。これは全ユナイソンに共通する売り方です。
さらに頻繁に狙われるモノについても、店独自にきちんと窃盗防止のワイヤーで棚とくくりつけてあり、多少は意識しているみたいです」
そよ香の見たてに、柾は心外だとばかりに言い返す。
「これでも売上データを調べて、結構な量を盗めないように補強してあるんだが」
「そこが落とし穴でしたね」
売り場の隅、高価なピンセットを眺めていたそよ香はスッと立ち上がった。
「こんなものは、はさみで簡単に切り落とせます」
言うなり、自分のショルダーバッグから取り出した小さな眉用ハサミで、ワイヤーをあっさり切ってしまうではないか。
「……確かにそうだが、おたくは1品1品チェーンで補強しろと言いたいのか? コスト面でアウトだろう」
呆れたように柾が言うと、これまたあっさりと「はい」と頷くそよ香。
「それに、ペンチを忍ばせていたら、わやですものね」
いや、それならそれで、異音に気付いた従業員が黙ってはいないだろうが――。
「悲しいかな、万全な対策など無に等しいのかもしれません。策を施せば、知恵をつけた敵はあの手この手で壊しにかかる。いたちごっこです。
……柾さん、被害アイテムはこれですね? 男性用シェービング」
「あぁ」
「女性側の商品には至る箇所にカメラが向いていますが、あまり男性側を意識していなかったと見えます。そこが盲点だったとも言えます。
ほら、この辺り。全くと言っていいほど死角です。カメラはありませんし、それにここに至るまでの道のり。
売り場を小さく折れて歩けば、カメラを避けて出口まで行くことが出来ます」
そよ香は極力カメラに収まらないよう、注意しながら進む。すると家電製品売り場に辿り着いた。
「……あ!」
麻生は早速気付いたようだった。そよ香も「そうなんです」と鷹揚に頷いた。
「麻生さんは気付かれたようですね。そう。2日目の被害はまさにここ、家電売り場だったわけですが、盗られたアイテムはというと……」
「死角ばかり狙ってるってのは分かってたけど、まさか道筋が存在してるとまでは思わなかったな~。犯人の野郎、すっかり熟知してやがる」
平塚は頭上を見渡し、少し離れた位置にカメラがあることを確認した。
通路に面したそのコーナーには、イヤホンの棚と乾電池の棚が仲良く並んでいた。被害にあったイヤホンと電池はここから盗まれたものだったのだ。
「生憎、ここは玩具売り場との境目に相当します。どちらのレジからも離れていますし、このように防犯カメラも見受けられない。
客もほんの僅かしか通りません。何故なら、この反対側にTVコーナーがあるからです。そして、若干の休憩スペースも。
買い物に疲れた世のお父さん方がベンチに座りながら、大型液晶テレビを見て家族を待つ、そんな構造になってますよね。
幅も明らかにあちらの方が広いので、わざわざこっちの狭い道を歩きたがる人は、それほどいないと思われます」
大の男が通るのはやぶさかではないが、カート1台が関の山と言った細い通路だ。それを証明するかのように、現に今もそよ香たち6人しかいない。
恥じ入る様子で、麻生は頭を掻いた。面目ないと告げる声は小さい。
「チェックポイントです。では、次」
そよ香は踵を返し、今度は2階へと移動した。


【06】

「こちらの傘も、案の定ですね。絶好の窃盗ポジションです」
安価なものから高価なものまで種類豊富に揃った女性用の傘売り場とは真逆で、黒や紺が基調の、売り場面積も小さい紳士用傘売り場には防犯カメラがなかった。
「一体犯人は、どんな気持ちで犯行に及んだんだろうな」
天井にぶら下がる防犯カメラを仰ぎ見ながら、麻生はぽつりと言う。
まるで心境が理解できない。だから少しでも犯人の感情に触れてみたい。
片鱗に触れれば、掴める手掛かりもあるかもしれないのだ。のちのち犯行脳を矯正できたら、どんなにいいだろう。
「お金がなかった、むしゃくしゃしていた、ストレスの発散がしたかった、お金が勿体ないからバレずに済めばそれに越したことはない。
万引き犯の主張は、主にこんな感じです。無理に気を合わせる必要はありませんよ、麻生さん。感情を重ねなくてもいいんです」
そよ香は相変わらず穏やかに、けれども厳しさを滲ませた発言をした。そんなもんかね、と首を竦める麻生である。
「次は最後です。蜂蜜売り場を確認してから事務所に戻りましょう」
そよ香がスカートを翻す。と、そよ香の顔に険しさが浮かんだ。
その場面は、なんとなく視界に入っただけだった。だが、直感が告げる。強く、鮮明に。
――あの女性、おかしい。
10メートルほど離れた位置にいる、ユナイソンのカートを押した、30代とおぼしき女性。
傍目には、どこにでもいる買い物客の1人である。――あまりにも不自然な、おどおどと周囲を見やる気配を除けばだが。
柾の方も気付いたようだった。
「ん、ヤバいか? やりそうな気配だな」と呟いたのは、そよ香ほどではないものの、長年流通業に籍を置いている内に養われた第六感。
言い換えれば、柾にも分かるということは、相手がまだまだ小者である証拠だった。
「泳がせてみましょうか」とそよ香。
「犯罪を未然に防ぐことも大事だろ?」ムッとしたように麻生。
真っ向から対立する意見に、しばし2人の目に火花が飛び散る。
やれやれと割って入ったのは、柾だった。
「平塚、行けるな?」
「楽勝ッス」
上司と部下は短いアイコンタクトを交わしたかと思うと、「おい」と制止する凪の横をすり抜け、女性の前へ進み出た。
「いらっしゃいませ。お客様、なにかお探しでしょうか?」
「えっ?」
遠目にも分かるぐらい、ビクついた反応が返って来た。女性は明らかに狼狽している。
「帽子をお探しですか? それとも、UV手袋を?」
女性が立っていたのはそのコーナーの前だった為、敢えてそう尋ねてみたのだが。
女性はうろたえるだけで、二の句が告げないでいる。時折「う……」だの「あ……」だのと口から漏れるだけで、方便を考えているようにしか見えない。
「明らかに、疚しいことをしたとしか思えない反応ですね」
そよ香は冷静に分析するも、決め付けてかかっているようで麻生は気にくわない。
「そうか? 単なる対人恐怖症かもしれないだろ」
「麻生……」
背中をたたき、「お前は黙っていろ」と柾は言う。
「お母さん?」
たたたっと駆け寄ってきたのは、小学校低学年ぐらいの男の子だ。背丈はまだ平塚の腰の位置にも満たず、母親と平塚を交互に見つめる。
「お母さん、どうしたの?」
「あ……、しん、ちゃん」
お母さんと呼んだからには、この女性の息子だろうか。
男の子はきょとんとしつつ、「えっと……あったよ? ネクタイ」。おずおずと紺色のネクタイを母親に手渡した。
「あ、り……がと。レジ、い、行こう、かぁ……っ」
無理に笑顔を作っているのが分かる。どう見たって、その顔はひきつっている。
それは『しんちゃん』が心配そうに問い質した様子からも見て取れたし、その場にいた社員側にも明らかだった。
そそくさと息子からネクタイを受け取ると、近場のレジへとカートを押して行く。
少年は母親に付き従うも、何度か不安げに平塚やそよ香たちの方をちらちらと振り返り、それがまた『何か』を言外に匂わせてしょうがない。
「外に出たら、捕まえます」
「任意で引っ張るれるのか? 万引きGメンは憶測だけでは動けない。だろ?」
「一応は御存知のようですね。
……えぇ、確かに。麻生さんの仰るように、万引きは犯行場面を確認し、かつ店舗から外へ出た時にしか声を掛けてはいけない決まりになってはいます。
けれども、例外はあるんですよ。ケースバイケースです」
「何がケースバイケースだ。それで何も盗んでいなかったら、相手は傷付くだろう。場合によっちゃ、因縁だってつけてくるかもしれねぇぜ?」
2人は再び対峙し、今度はずっと黙っていた因香が動いた。
「麻生くぅ~ん」
くねっと腰を捻ったかと思えば、がばっと腕を絡める。まるでさっき確保した『盗・撮・犯』のときのように。
「げっ」と呻くも、胸の谷間にしっかり固定されてしまい、解くに解けない。
「こら、やめろ、やめてくれ! おい! くそ、なんちゅー力だ!?」
焦る麻生を、少し離れた場所まで引っ張る。周りに人がいないのを確認して、因香は麻生にしな垂れかかる。
「だぁめ。駄目よぅ、麻生くん」
「何がだ……っ」
「麻生くんの意見も分かるわ。えぇ、御尤も。でもねぇ、鬼無里そよ香はプロなの。16歳から万引きGメンをしててね、本当に、ミスなんてないのよ」
「だからってなぁ」
ピンときたからハイ、確保。それは、いかなる権限があっての無理強いだ?
「彼女、中卒で高校に行ってないの。その分コレに命を注いでんの。生半可な気持ちじゃないし、かつては麻生くんみたいな考えも持ってたわ。
紆余曲折と経験を経て、今のあの人がある。ねぇ……信じてあげて?」
因香の手の甲が、麻生の頬を優しく撫でる。
「俺は……」
「そよ香のこと、火香に似てるって気付いたわよね? 歴にも似てるって思ったでしょ。
麻生くんには、そよ香があの2人に似てるから、まるで火香と歴がヒトを疑っているように見えるんでしょ。それがイヤなんじゃない?」
図星。
図星だった。言い当てられた。
歴や火香に似たあの顔で疑心暗鬼めいたことをされたら、目を背けたくなる。胃がキリキリしてしまう。
――だってちぃはあんなことしない。鬼無里火香だって。いつだって優しく微笑み、誰にだって優しい。
きっとこの場に歴がいたら、麻生と一緒になってそよ香と対向してくれただろう。
だからこそ、そよ香の行動は、普段ならしない行為を目撃しているようで、居た堪れない……。
「幻想よ」
因香は目を細めて言った。まるで麻生の心を読んだかのように。
「歴と火香にも、そよ香のような一面はあるわ。勝手にイメージを固定させないで。迷惑よ」
「な……」
さっきまで麻生の頬にあった因香の右手は、今や彼の咽喉笛を潰そうと位置を変えていた。
単なる『貴方を脅してますよ、知ってて下さいね』というジェスチャーであり、実際には力を加えたりしていない。
牽制の意味を込めているだけと分かっていながらも、麻生はつい本気で因香を睨み返していた。
その視線は因香の大好物。因香は恍惚の笑みを浮かべる。
「素敵」
改めて麻生の腕を抱き締める。
「んふっ。これは、いち女性としての意見ね。
私的には、麻生くんの抱いてるイメージに賛成よ。歴は天使よね。うん、分かる分かる!」
そう言えば、この女性。八女芙蓉に負けず劣らず『千早歴至上主義』だったな。
「『人を見たら疑え』がそよ香の仕事なの。だから堪忍してやってくんない? 自分の人生の半分以上をそうやって過ごしてきてるの。しょうがないじゃない」
そう寂しげに呟く因香は、かつて優しかった姉が万引きGメンになったことで変わってしまった性格を、そう言い聞かせることで乗り越えてきたのだろうか。
だとしたら、確かにそれは『しょうがない』ことだったろう。仕事が性格を変えたのだ。より慎重にならざるを得ない風に。
それが鬼無里そよ香の生き方ならば、否定など許されることではない。それこそ、どういう料簡でなじるのだと言われてしまいそうだ。
「悪いこと言っちまったな……」
「私、麻生くんのことなら何でも許せるわ」
ふふっと妖艶に微笑み、さらに腕への力を込める因香。ぞわわわと背中に寒イボを感じ、そろそろ泣きたくなってきた麻生である。
「離れろ! お前とは今後、関わり合いたくないのが俺の本音だ」
「またまたぁ。歴は絶対こんなことしてくんないわよ。今の内に堪能しておきなさいな。 
……あぁ! その前にあの子はこんなに豊満じゃないから、『させる』もなにも、『出来ない』が正解ね」
「ん? そうか……? そんなに違うようには見えないけどな……?」
谷間を見下ろし、首を捻る。さすがに因香はギョッとして麻生から離れた。
「うわー。麻生くんって肉食男子かー。ちぇ」
「こら。ちぇってなんだよ、ちぇって」
「別にー。単に性癖の問題。根っからのSだから、押されると引いちゃうの、私。さ、そろそろ行きましょうか」
2人が戻ると、柾だけが留まっていた。
「そよ香嬢たちは親子のあとを着いて行った。外に出たら捕まえる算段だ。警備員室に行こう」
気が進まないが、確かにあの親子は気になる。3人も一足遅れて後を追うことにした。


【07】

警備室にはそよ香と因香の他に凪が入室し、平塚、柾、麻生の3人はドア越しに待機して様子を見守ることになった。
既にそよ香が親子を警備室に連れて来て同行理由を説明し終えていた。あくまでも任意であることを強調し、母親の話を聞くのが目的だと念を押す。
数分後、真実が白日のもとに曝されることになる。買い求めたのはネクタイだけで、カートからはタグが付いたままの状態の商品。
メンズ財布にハンカチが2枚。やはり万引きだったのかと麻生は気が重くなった。
「どうしたんスか?」
たまたま警備室前を通り掛かった鮮魚売り場の杣庄進が、只ならぬ気配に足を止め、柾に声を掛ける。
「連続万引き犯かもしれなくて、今から取り調べに入るところだ」
杣庄が中を覗く。――鬼無里三姉妹? 目を見張る杣庄と、因香の目が合う。ぺこりと頭を下げた。因香も目礼を返す。
部屋の中ではそよ香が「これは、どうしました?」と尋ねていた。すると今までおどおどしていた女性が、ぶつぶつと呟き始めた。
「……よ」
「え? 何ですか?」
「……のよ、恥を塗らないでよ……何でもっと巧くやらないの!? この馬鹿! 馬鹿息子!」
ガタンッと椅子から立ち上がり、憤怒の形相で息子を睨み付ける。
全員がその変貌ぶりに絶句していると、母親は隣りに座っていた息子の横頬を力任せに叩きつけた。
「!! やめなさい! 何をしているの!? やめなさい、席に着きなさい!」
因香が咄嗟に指示を出すも、母親は聞き入れるどころか2発目を繰り出す。息子はよろめき、椅子ごと倒れた。
――次は蹴りか!?
凪は咄嗟に男児の上に覆いかぶさり、自分が標的になった。
横腹を抉る感覚。その痛みは尋常じゃない。こんな重い蹴りを、こんな小さな子にぶつけようとしていたのか――?
ゾッと凪は青褪めた。
「凪、大丈夫!?」
「使えないっ! 本当に使えないわね。なんなの!? 捕まっちゃったじゃない! あんたの所為で警察行きよ! どうしてくれんのよ、この馬鹿!」
「ごめ……っ、ごめんなさい、ごめんなさいお母さんっ。許して、ごめんなさいっ。次はうまくやるから。失敗しないから!」
母親は精神に異常を来たしている。
自分の息子に万引きをさせるだけに留まらず、失敗したのは息子の所為にし、しかも折檻を厭わない――。
引き離さなければ。このままではヤバい。そう判断した因香はドアを振り返った。
「隔離してあげて! 柾さん、麻生さ……」
途端、因香の上半身がくの字に折れ曲がる。キレた母親が、因香の腹に一撃を見舞ったのだ。
「因香さん!」
平塚が駆け付けようとしたが、柾に押し留められる。今の彼女は何をしでかすか分からない。迂闊に刺激しては危険という判断だった。
「こんな出来の悪い息子、私の子供なんかじゃないわっ! 捕まるんならあんただけ捕まりなさい! 私は知らないから!」
ヒステリックに叫び、息子を再び蹴ろうとするが、それも凪がガードする。
攻撃を加えられないと分かるや、今度は舌打ちしてバッグを掴み、部屋から出て行こうとする。
「まっ、待ちなさい……!」
まるで火事場の馬鹿力。怪我をものともせず立ち上がる因香。その顔が驚きの表情に変わった。目を丸くした歴と透子が、ドア越しに立っていたのだ。
そう言えば、POSルームはトイレを挟んだ隣りの部屋。この騒ぎに気付くのは時間の問題だった――!
「危険だ、逃げろ! 歴! 潮さん!」
凪は叫ぶが、その声も虚しく、母親は子供を見捨てて部屋から飛び出した。
その時、場違いなほど静かに言葉を零す声があった。
「歴ちゃん」
その場にいた誰しもが、ハッとそよ香を見る。思えばこの部屋に入ってからずっと彼女は冷静そのものだった。今でさえ。
何を呑気な――。そんな感想を抱いた外部をよそに、血を分けた縁戚者たちは的確にそよ香の指示を汲み取っていた。
中でも、呼ばれた本人――歴は「はい」と返事したかと思えば次の瞬間には母親目掛け、走り出している。
ふわ、り。と、透子のスカートが浮きあがる。歴が巻き起こした気流だと気付いた時には、既に先方を行く母親に追い付き、肩に手を置いていた。
「は!? お、おい……? ちぃってば、めっちゃ足速くないか……?」
「あの走りは陸上経験者だな」
尚も逃げようともがく女性の腰にしがみつく歴に追い付いた柾と麻生は、女性が暴れないよう注意を払い、警備員に引き渡した。
やがて平塚が呼んだ警察官が到着し、母親の話を聴く為に警備室は施錠されたのだった。


【08】

「因香さん、兄さん、大丈夫ですか?」
心配げに駆け寄る歴に、2人は微笑みながら「大丈夫」と応じた。あざは確実に出来るだろうが、歴に心配をかけたくない。
「驚いた……。千早さん、物凄く足が速いのね。私もバスケ部だったから脚力とスタミナには自信があるんだけど、あのスピードには脱帽だわ」
透子が意外なものを見たとでも言いたげに話し掛ける。照れたように、歴は言った。
「実は陸上部で、ハードル走が得意だったんです。障害物を飛び越える快感を覚えてしまって……」
無理矢理誘われた上での入部だったと笑う。
「『凪の妹なら素晴らしい素質を持っているに違いない!』なんて入学早々部長にスカウトされてしまって。追い掛けられている内に、鍛えられてたみたいです」
「兄妹揃ってスプリンターかよ……」
まさかの事実に麻生は面食らった。
透子はしげしげと歴の足を見つめ、このすらりとした足のどこに、あの脚力が……と呟いては歴を困らせている。
「見せてくれてもいいじゃない。減るもんじゃなし」
「そういう問題ではありませ~んっ」
「本当にフシギだわ。筋肉が目立たないのね。……杣庄、どうしたの?」
何気なしに視界に入った杣庄が浮かない顔をしていたのである。透子としては声を掛けて当然だった。
「あ、いや。……何でもない」
「何でもないように見えないから尋ねたんだけど」
「いや……。まぁ、あの母親に圧倒されてさ。凄かったよな」
そよ香は1人取り残された男の子のもとへ近付いた。
既に因香によって頬の腫れた部分には冷却シートが貼られているものの、少年の涙は留まることを知らず、次から次へと流れていく。
「ぼく、お名前は?」
「……シン、です」
「シン君……。ねぇ、シン君。お父さんは?」
「いない……。離婚したんだって。本当は親権お父さんだったんだけど、僕たちを置いて逃げちゃったって、お母さんが」
「おばあちゃんは? おじいちゃんとか、他に兄弟は……」
「いないよ。ガンで死んじゃった。2年前と4年前に。僕、1人っこだし。……僕にはお母さんしかいないんだ。だから、連れてって。一緒に」
「そんな……」
万引きの罪は贖えるとしても、虐待を仄めかされては、おめおめとあの母親に引き渡せるはずもなく、さすがのそよ香も途方に暮れた。
「俺に任せてくれませんか」
買って出たのは杣庄だった。
「杣庄君?」
意外そうに、凪は杣庄を見返した。
「いや、俺の姉貴、現役の刑事で……。ちょっと、こういうことに心当たりがあるんです。なんならうちで暫く預かってもいいし……」
「杣庄、急に何言うの? ねぇ、本当に大丈夫? 猫とか犬を飼うのとはワケが違うんだよ? ちゃんと分かってる?」
「阿呆か透子。分かってるよ、それぐらい」
「杣庄さんには都築や加納の件で大変お世話になりました。貴方なら安心してお任せ出来ます。でも、本当にいいんですか?」
そよ香が尋ねると、笑みを浮かべて頷いた。シンを抱き上げ、「今日はお兄ちゃんの家に泊まろうな」と笑い掛ける。
透子は杣庄に違和感を抱きつつも、そこまで悪い提案ではないように思えたので黙っていることにした。忙しなく動く目は愛しい人物をとらえる。
「あっ、伊神さん!」
通り掛かった伊神は脚立を携えていた。騒動を知らなかったらしく、「人だかりが出来ているけど何かあったの?」と尋ねる。
透子が説明をしている途中で、伊神はふと視線を感じ取った。その方向を見て、伊神は呆けた。「鬼無里、そよ香さん?」
「……ちょっと……知り合いなの? 伊神さん」
面白くなさそうに透子は言う。そよ香も確信を得たように伊神に笑い掛けた。
「その節はすみませんでした。とてもお見苦しい姿を貴方にお見せしてしまって」
意味深な態度にひやりとする透子。
「え!? 何!? あの時って何!? 伊神さん、説明してよ!」
「え? いや、ゴールデンウィークにプラネタリウムに行ったのだけど、たまたま席が隣りだったんだ。それだけだよ」
「まさか本当にお会い出来るなんて思ってもみませんでした。ユナイソンの方だったなんて驚きですわ」
「オレの方こそ、驚きました」
「ちょ、なになになになに、この雰囲気!? 伊神さん、行こうっ。ほら、早く!」


【09】

その様子を白々と眺めている男がいた。その存在にいち早く気付いた因香は、10センチのピンヒールを鳴らしながら近付いて行く。
「気になってるのに、まるで『我関せず』って片肘張ってる態度ね」
男の身体がわずかに揺れる。居場所を突き止められたこと、そして内心を見透かされたこと、その両方を指摘されてしまったがために。
「……僕には関係ありませんから」
それがまごうことなき強がりであることは因香にも伝わってしまっているだろう。案の定、因香は口元に笑みを浮かべた。
するり、と男の腕に自分の腕を絡める。魅惑的な肢体が絡み付いても、不破犬君は微動だにしなかった。ただ、されるがまま。
「関係ないだなんて。次の主役は間違いなく貴方なんだから、無関心を装っちゃだめよ」
意味深なセリフに加え、同じぐらい意味深な流し目を送る。しかし、犬君は口を一文字に引き締めたまま、何も言わない。
己を中心に物事が動いていく未来を、既に知っているかのような反応だ。
「やっぱり、胸は因香さん、アナタの方が大きい気がします」
「誰と比べて?」
「歴さんです」
「ありがと。麻生くんは『歴と変わらない』なんて言うのよ。失礼しちゃうわよね。でも不破くんは分かってくれるのね」
からかうのが楽しいのだろう。因香は犬君との駆け引きを楽しんでいる。『苦手だな』、と心の中で犬君は呟き、話題を変えた。
「……先日は、愚弟がお世話になりました」
「過去形で話さないで。まだ始まったばかりじゃない。これからよ? 火種が燃え始めるのは」
「そうですね。歴さんは何も知らない。凪さんさえも。……今はまだ、このままでいい。そう思いませんか?」
そう尋ねた犬君の言葉は、運命の歯車が動いてしまうのを、必死に止めようとしているかのようだった。
それも当然だわね、と因香は思う。
次の主役は、この不破犬君だ。彼にとって望まない未来が開かれようとしているのだから、パンドラの箱を開け渋るのは当然だ。
這い寄る悪夢から逃れたい気持ちは痛いほど分かる。現に、因香に対し、その悪夢が襲いかからんとしていたばかりだ。
幸い、咄嗟の判断で自分の身に災いが降りかかることはなかった。しかし、その矛先は今度、妹の火香へと向いてしまった――。
「でも」、と因香は言葉を繋げた。
「近い内に『事情』を知った火香が、凪に助けを求めるはず。その時こそ混沌の始まりね。
貴方もさっさと歴に助けを求めるべきよ。じゃないと、今に身動きが取れなくなる」
さっきまでの行為とはまるで真逆の、真剣な声で。因香は鋭い視線を犬君に投げ掛けた。
「歴さんには社内旅行のとき、相談に乗って貰おうと思ってました。あの時話すのを躊躇ったのは……間違いだったな」
風呂上がりのロビー。あの時言い掛けた言葉。
『歴さんに頼みがあるんだけど……』
『……やっぱりいいや。よしておくよ。そうだな、時期が来たらお願いすることがあるかもしれない』
自分でも、随分と歯切れの悪い言い方だったと思う。ややこしい問題でも抱えているのか? と尋ねられ、ちょっとね、などと少しだけ白状した。
あの時は自力で解決する気でいたし、今だって他人に頼らなくても済む道を模索してはいた。
歴に伝えたかったのは――柾と麻生、歴を取り巻く恋愛模様に、自分を加えて欲しいとの打診だった。
透子に振られ、失恋で落ち込んでると思っていたに違いないのに、「急に何を言いだすのか」と問い質す歴が、容易に頭に浮かぶ。
あの日、弟からの電話がなければこんなことにはならなかった。平穏な時間が続くとばかり思っていた。
「まだ遅くないわ。幸せになりたければ、歴を選びなさい」
「……」
「負けちゃ、駄目よ」
いつしか犬君を鼓舞するような目力へと変わっていた因香のそれ。犬君はその視線を真正面から受け、そして外した。
「はい」とも「いいえ」とも言わなかった。それが犬君の答え。
――幸せになりたければ、歴を選びなさい。
「はたして歴さんが僕を選んでくれるかどうか」
気弱にしつつも言葉とは裏腹、殊勝なようでいて豪胆な犬君だった。
近い将来、歴は柾の恋心を踏み躙り、麻生の恋慕を退け、自分こそを選んでくれる。そんな可能性はゼロではない。
なぜなら、歴は優しい残酷者だから。
きっと犬君と一緒に、地獄の業火に焼かれてくれるはずだ。


【10】

柾が住む社宅マンションの一室。今日の出来事の後味の悪さに、宅飲みすることになった。
窓ガラスを容赦なく叩きつける無数の雨粒を見ながら、麻生は溜息をつき、くるりと反転。壁に背中をつけ、足を交差させる。
その手にある作りたてのハイボールの中身が、照明の光を受けて煌めいた。
「どうにも解せないんだよな」
「奇遇だな。僕もだ」
そう言って杏露酒を煽ったのは柾。気だるそうにソファーに寝そべり、器用にそのまま飲み干す。
「あの子供。シンと言ったか。彼は言ったな。『本当は親権お父さんだったんだけど、僕たちを置いて逃げちゃったって、お母さんが』って」
「父不在。なのになぜ、紳士物の商品を盗んだ?」
誰にも分からない。果たしてシン自身すら分かっていたかどうかも怪しい。
言われるがまま盗った? 母に嫌われたくなくて。折檻が待っていたとしても。
「あの子、どうなっちまうんだろうな」
「児童福祉法が何とかするだろう」
「阿呆。そういう意味じゃねぇよ」
「論じたところで、僕やお前に出来ることなどない」
「だから。そういう答えが欲しかったわけじゃねぇよ」
「……分かってるさ」
「柾……」
「飲むぞ、麻生」
空になったグラスを掲げると、ソファーから立ち上がる。
麻生のグラスと己のグラスに並々と酒を注ぐと、2人は一気に煽った。
その顔は決して美味そうではない。まるで苦い決断を飲み込むかのように歪んでいた。
「鬼無里そよ香か……」
徐に呟く柾に、麻生は耳だけ傾ける。
「なぜ彼女が縁者から恐れられているのか、少しだけ分かった気がした。
暴力的ではない。が、有無を言わせない重圧感があるな。彼女が指示を出せば皆が従う。まさに鶴の一声だ」
「次女曰く、仕事で培われた性格だとよ」
「仕事で、な……。いや、それはどうだろう。あれは生まれ持った資質じゃないか?」
「元々あぁいう性格だったって言うのか?」
「さぁ。僕には何となく、漠然とそう思っただけであって。……一筋縄ではいかない女性だな。鬼無里三姉妹は」
「それを言うなら、ちぃもだけどな」
「違いない」
柾はグラスを掲げ、麻生のそれと鳴らした。
「何に乾杯するんだ?」
「友に」
「柄じゃねぇ。――が、たまにはそれも悪くないな。友に乾杯」
後日、シンの母親が熱を上げていた男の存在が明らかとなり、半同棲まがいの生活を開始していたことが、杣庄を通じてもたらされた。
万引きした紳士用品は全て、男の身の周りのものを揃えるためだったことが判明した。


【11】

「あんたがシンか」
その問いに「はい」と頷こうとしたシンは、相手を見た途端、唾とともに言葉をも飲み込んだ。
今まで接触したことのないタイプの人間を前に、畏怖したのは初めてのことだった。
母のような、一方的な威圧感とは違う。
シンのことを、1人の人間として見ている目だった。
その期待に応えたくて、かすれた声を、何とか言葉にする。
「は……い。僕がシンです」
相手は背が高い。
それなのに、子供と同じ目線であろうとせず、腰を曲げないものだから、シンはどこまでも見上げるしかなかった。
(この人……ただでさえ身長が高いのに、ハイヒールまで高いから……)
首が痛くて仕方ない。
「お前の処遇が決まったよ。里親制度って知ってるか? その方向も視野に入れておきな」
「もう、母とは住めないんですか……?」
「住みたいのか、お前」
おかしなことを言うんだな、という目をシンに向けている。
「……分かりません」
「お前は虐げられていたんだぞ。それも日常的にな。報告書を読ませて貰ったが、ありゃ虐待の部類に入る」
「あれは、母なりの教育で……」
「あの母親より、よほどお前の方がしっかりしているな。……シン。認めることはツラいだろうが、お前なら大丈夫そうだ。
いつか落とし込め。あれは教育じゃなく、虐待だったと。認めることから先に進めることもある」
「……お姉さんは、児童福祉の方ですか?」
「あぁ? 違う、あたしゃポリ公だよ。……言っとくが、虐待の辛さを理由に慣れ合う気はないからな」
言いにくいことを素っ気なく、しかも遠慮なしにズバズバと切り込んできた『ポリ公』は、ここで煙草を取り出し、一服した。
シンは質問したい衝動に駆られた。訊きたい。そう思った時には既に口から言葉が零れていた。
「……お姉さんも……虐待されてたんですか?」
煙草を咥えていた口が不敵に笑った。きしし、くくく、と、悪役めいた笑い声だ。
「はっははー。引っ掛かったな、シン坊。馬鹿め。お姉さんもって何だ、お姉さん『も』って。自ら告白してるようなもんじゃないか」
「ちっ、ちが……!?」
「……悪いようにはしねぇよ」
太陽の光を見るように細められた目。口元には微笑を浮かべて。
――その顔で、その言葉を語るな。信じたくなるじゃないか。
それなのに。
「一緒に行こうぜ、シン」
「……っ」
そんな甘い誘惑をしてくるのか――。
(もう……)
もう痛くない? もうぶたれない? 蹴られない?
痒くなったかさぶたを掻いて、血が滲むこともなくなる? 
もう万引きをしなくて済むの? 見付かる恐怖に脅えたりしなくてもいい? 手を汚さなくても生きて行けるの?
ねぇ、僕は幸せになれるの? なってもいいの?
(そんな人生、僕には無縁だと思ってた)
「い……っ、く……! 僕っ、行く……よっ。お姉さんっ、と……!」
安堵の涙か、決別の涙か分からない。ただ、しとどなく流れ、零れ落ちる。
「茨だよ。杣庄茨。よろしくな」
「い、いば……らさっ……」
「泣くな。男だろー?」
そうは言いながらも、口調と目が優しかったから。頭をくしゃくしゃと掻き乱しながら笑い掛けてくれるから。
シンは余計に顔を歪めて泣くしかなかった。
蝉が鳴く中、風鈴が鳴る中、一所懸命泣いた。


2013.02.13
2020.01.20


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