41話 【Little Closer!】


←40話 ┃ ● ┃ 42話→



41話 (―) 【Little Closer!】




【透子side】

不破家の自宅訪問から一夜明け……。
POSルームに赴くと、今日は早番出勤だった八女先輩と千早さんに『一身上の都合』を報告した。
2人はぽかんと口を開け、黙ったまま。その雰囲気に気圧され、私は報告したことを後悔しはじめた。
ややあって千早さんが反応した。心なしか目がキラキラと輝いて見えるのは気の所為だろうか。
「おめでとうございます、透子先輩!」
「あ……ありがと、千早さん」
「ほんと、人騒がせねー」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべつつ椅子の上で足を組んでいるのは我らが上司、八女芙蓉サマだ。
制服のスカートから伸びた魅惑の太ももは今日も変わらぬ美しさである。
「別れたのなら、もう伊神を振り回すんじゃないわよ~? あれは私の特権だからね」
「いつから伊神さんが八女先輩の専属相談員になったって言うんですか。そんなの認めませんから!
これからも伊神さんのよき友人、よき理解者として仲良くしていく所存ですよ~、だ!」
「私もお友達になりました。とてもお優しい方ですね。伊神さんに連れて行ってもらった動物園、とても楽しかったです」
「まさかの方向から伏兵が……。ちょっと千早さん、いつの間に? 油断ならない子ね」
「千早に嫉妬しないの! 伊神はフリ―なんだから、誰と遊んだって構わないでしょう」
「そうやって私を虐めるの、やめてくださいよ……」
「とにかくおめでとう、潮! わんちゃんとお幸せにね」
「優しくリードしてくれる方だと思います。お似合いですよ、透子先輩」
「2人とも……ありがとう」
誰より近しい2人だからこそ、祝福はとてもありがたいと思うし、嬉しかった。
ところで千早さんは一緒になって笑ってくれているけれど、彼女自身の問題は、実はまだ横たわったままだ。
それでも彼女なりに答えを見付けたのだと思う。私の横で笑う千早さんは、つい先日までの千早さんとは違うように見えるから。
彼女の物語も、そろそろ進み出しそうな気配だ。


* 

POSルームに立ち寄ったのは、勤務時間が12時15分からだったからだ。それまであと1時間ある。
杣庄と2人、遅番出勤者同士、今から昼休憩を取ることにしていた。
若干混み始めた回転寿司店内で、既に杣庄はテーブルに案内されていた。「お待たせ」と声を掛け、向かい合うように座る。
お茶と箸を用意してくれていた杣庄にお礼を言い、例の報告も付け加えることにした。
ただし杣庄の手には熱いお茶が入った湯のみ。驚かせてお茶を噴き出させるわけにはいかないので、咽喉を通過したのを確かめてから切り出す。
「私、不破犬君と付き合い始めました」
「……正気か?」
この時の杣庄の顔といったら。呆れて物も言えないような、やめておけと言いたいのに聞き入れてもらうのは困難だと悟ったような、苦渋の表情だった。
複雑な心境を予測できてしまうからこそ、ちゃんと説明した方がいいと思った。
「伊神さんとはきちんと別れたの。不破犬君は千早さんとは正式に付き合ってたわけじゃなかったみたいで」
「つまり、手続きは恙無く――ってか」
「奪ったり奪われたり、そういうドロドロした展開にはなってないよ」
つい弁解じみてしまったけれど、これも惚れた弱みかなぁと思わないでもない。
そんなこと本人に言おうものなら、感激した勢いで「透子さん♡」と襲われかねないので、絶対言わないけれど。
「分かった。お前がそれでいいなら俺はもう何も言わない。つか、祝福して欲しいってお前の顔が言ってるからな。おめでと、透子」
「ありがと、杣庄」
「にしてもなぁ。よりによってアイツが透子の彼氏か。透子もアイツの味方になるんだろ? もう教育的指導できねぇな」
「教育的指導という名のイビリでしょ? やるなら私のいないところでね」
「おーおー、言うようになったなぁ。ご馳走サマ」
「杣庄にはほんと感謝してるんだ。今までありがとう」
私が急に神妙な顔になって言ったからだろうか、杣庄も真面目な顔付きになった。でも、ふっと肩の荷を下ろしたかのように微笑んでくれた。
「あぁ」
「ありがと。これからもよろしく」
「しょーがねーなー!」
身を乗り出し、わしゃわしゃと私の髪を掻き回す杣庄。
ときには妹のように、ときには恋人のように、いつも私を守ってくれた杣庄。
感謝してもしきれないほどの愛情を注いでくれた大切な友人だから、この関係がいまなお続いてくれて、心の底から嬉しいと思える。
しみじみと感慨に浸っていると、杣庄のポケットからメロディーが流れてきた。スマホを取り出した彼は、画面を見るなり僅かに眉をひそめた。
「なに? どしたの?」
「ん、千早さんの兄上殿から、急な呼び出しでな」
「なんだろな」と訝しみながらも2千円をテーブルの上に置き、足早に店を出る杣庄の背中を私は見送った。
こんなことになるとは思わなかったから、私も杣庄も2皿しか食べていない。
杣庄と懇意の仲である大将に事情を説明すると、予算内で私と杣庄用に寿司折を2本、持たせてくれた。
……それにしても一体、何があったんだろう。


*

会計を済ませると従業員用通路を通り、POSルームに向かった。中には千早さんがいた。いや、千早さんしかいなかった。
「お帰りなさい、透子先輩。でも出勤時間まで、まだ30分もありますよ? もう仕事を始めるんですか?」
「ううん、違う違う。ちょっと気になることがあって。八女先輩は?」
「芙蓉先輩なら、つい先ほど兄に呼ばれて事務所へ」
ゆるゆると答える千早さんは落ち着き払っていて、特に違和感を覚えたりはしていない様子。或いは何も聞かされてないのだろう。
千早さんが「どうかされましたか?」と首を傾げたので、今しがた杣庄が事務所に呼び出された件を話すことにした。
「杣庄が呼ばれるなんて珍しいから、どうしたのかなと思って。まさか八女先輩も召喚されたなんて」
2人で黙考していると、POSルームの前の廊下を走り抜ける影が2つあった。青柳チーフと五十嵐チーフだ。
「お2人とも事務所に向かってますよね。まるでチーフ全員が呼び集められてるかに見えません?」
「でも杣庄はチーフじゃないわよ? 昇級試験、1次は通過したけど2次試験は来月だから」
「今日は鮮魚のチーフがお休みでした。もしかしたら杣庄さんはチーフ代理として招集されたのかも」
「確かに……あり得る」
チーフ職によるミーティングは特別なことではない。ただそうなると、店長のオーダーではなく、呼び出した人物が千早事務局長という点が引っ掛かった。
「……でもまぁ、すぐに戻ってくるでしょう」
気を落ち着かせて待っていた。それなのに、八女先輩は1時間経っても戻って来なかった。


【歴side】

時計の針が13時を指しても、依然として芙蓉先輩が戻って来る気配はない。
透子先輩が「先にお昼休憩行ってきなよ」と声を掛けてくれたので、甘えることにした。
とは言え、どうにも事務所の様子が気になってしまい、野次馬根性丸出しで事務所に向かってしまう私である。
2ヶ所あるドアはどちらも閉められていたので、僅かな窓スペースから覗くしかない。
そ~っと中を窺うと、兄の机を取り囲むように何人かの社員が集まっていた。
八女先輩を始め、一廼穂チーフ、五十嵐チーフ、麻生さん、青柳チーフ、杣庄さん、他の部署のチーフたち。……誰か1人足りないような……。
そうだ、柾さんだ。今日は出勤のはずなのに、どうしてだろう? あの輪の中に、柾さんだけがいない。
代わりにコスメ売場では柾さんの懐刀の役目を果たしている三原江先輩がいた。
その顔は真っ青で、ぶるぶると震えている。その肩を、励ますようにさすっているのが芙蓉先輩だった。
よくよく見れば三原先輩だけじゃない。他のチーフたちも神妙な顔付きだ。普段温厚な五十嵐チーフでさえ、柔和な笑みを失くしてしまっている。
麻生さんが発言し、兄が首を横に振る。ぎりりと歯を食い縛る麻生さん。この雰囲気は不穏だ。一体どうしたと言うのだろう。
「千早さん」
背後から不破さんに声を掛けられ、振り返った。そのすぐ横には伊神さんがいる。
「あの、これはですね、決して野次馬根性などではなく、一向に芙蓉先輩が戻ってらっしゃらないのでどうしたのかなぁと様子見をですね」
あせあせと説明する私の言葉を聞いた不破さんは、伊神さんと意味深な目配せをした。
言い訳が過ぎただろうかと首を竦めていると、「やっぱりな」「みたいですね」と頷き合っている。不破さんは途方に暮れた様子で私に尋ねた。
「青柳チーフが凪さんに呼ばれたまま売り場に戻って来ないから、業務に支障を来たしてしまっているんだ。まだ事務所にいたりする?」
「は、はい」
「オレは碩人に用があって。碩人もまだ中かい? メンテナンスのチーフですら未だに解放して貰えないなんて珍しいなぁ」
再び私が頷くと、伊神さんは大胆な行動に出た。空気など読むものかとでも言うように、ドアを開けて室内へ踏み込んだのだ。
不破さんもその後に倣ったので、私もどさくさに紛れて入室した。私たちを見た芙蓉先輩が「あら……」と呟く。
「碩人、消防署の署長さんが見えてるよ。例の件で」
「マジか! タイミング悪いなぁ……」
売り場に戻りたくとも戻れない――今この場を離れるわけにはいかない理由があるようだ。チーフたちは困った顔でお互い見合わせている。
「青柳チーフ、今すぐ戻ってこれませんか? メーカーの方がアポの時間になっても現れないから破談だろうかと落ち込んで半べそかいてます」
「もうそんな時間か。悪いが商談はお前に任せる。頼んだぞ、不破」
「分かりました」
上昇志向が強く、出世意欲の高い不破さんのことだ。これ幸いとばかりに青柳チーフがこなすハイレベルの商談を見事に纏めてみせるに違いない。
「……売場も混乱しているようだ。青柳、一廼穂、抜けても大丈夫だぞ」
兄が声を掛けると、2人のチーフは後ろ髪を引かれるように「すぐ戻って来ます」と断り、事務所から姿を消した。
「あの……一体何があったんです?」
「お前には関係のないことだ」
恐らくはこの中で主導権を握っているであろう兄からピシャリと告げられ、私は一瞬怯む。
確かに私は平社員。そう言われてしまってはすごすごと引き下がるしかない。
でも、三原先輩が気になって仕方ない。この場にいない柾さんに、何か遭ったのかと思うと気が気でない。
助けを求めるように麻生さんを見ると、麻生さんも首を横に振った。そんな……。
兄からの無言の圧力を感じて大人しく事務所を出た。私の手を、誰かがぐいっと掴む。見ると、先に部屋を出て行ったはずの青柳チーフと伊神さんだった。
「青柳チーフ……!? 商談はどうなさったんです?」
「言ったろう。商談は不破に任せると。それより千早さん、ちょっと今いいか?」
「はい」
私たちは事務所に一番近く、部屋に入るためには鍵が必要な場所――POSルームに入った。「3人揃ってどうしたの?」と透子先輩が驚いている。
「やぁ透子ちゃん。ごめんね、ちょっと部屋借りるね。……それで幹久、一体何が起きたのさ?」
「今から説明する。実は、柾チーフがヤバいことになってるんだ。一刻も早く助けないと……」
青柳チーフは柾さんを尊敬している。その柾さんを助けたいがために、青柳チーフは商談を不破さんに任せ、一時的に事務所から出て来たのだろう。
「ヤバいって?」
「ことのきっかけは昨日だ。三原の対応が、とあるお客さまの怒りを買っちまったみたいで、今朝もクレームの電話が掛かってきた」
「一晩経っても怒りが収まらなかったんだね?」
「あぁそうだ。たまたま目撃していた社員が言うには、三原は昨日の時点でお客さまから相当言われてたようだ。
一般のお客さまも、『そんなにも言わなくていいのに』という同情の目で見てたぐらい、怒り狂っていたらしい。
今朝になって、上司である柾チーフが呼び付けられる形で――柾さんは例え呼び付けられなくても自ら足を運ぶような人だけど――
直接自宅まで詫びに行ったんだが……、戻って来ない」
「戻って来ない? どういう意味ですか?」
「言葉通りだ。戻って来ない。……いや、戻って来れないと言うべきか。拘束されてしまってな」
「拘束!?」
「半監禁と言ってもいい。チーフたちを集めたのは、どうすべきか対応を決めていたからだ」
ガタンと椅子から立ち上がり、青柳チーフに詰め寄ったのは透子先輩だった。
「勿論、警察を呼ぶんですよね!?」
「いや、ことは簡単にいかないんだ、潮」
「どうして!」
「何も要求されてない。『ただ詫びに行ってる』、第三者が見たらそんな状況だからだ」
「それって、実際に危害が加えられたりしない限り、警察には通報できないってこと!?」
「あぁ。さっき調べて分かったんだが、事あるごとに難癖をつけてくる、たちの悪いモンスタークレイマーだった」
「そんな相手が柾さんを半監禁してるっていうのに通報できないの? 杣庄のお姉さんに事情を説明したら? ほら、刑事だし、助けてくれないかな」
「杣庄もそう言ってくれたが、千早事務局長が首を縦に振らないんだ」
……!
「もう、頭が固いんだから! 千早さん、どうしたの? 般若のような顔して」
「私、もう一度兄に会って来ます!」
「あ、こら! 待て、千早さん!」
青柳チーフの制止を振り切り、私は部屋を出る。今度は躊躇わず事務所へ入る。1人、また1人とチーフたちが私を見る中、兄と対峙する。
「兄さん、どういうこと!? なぜ黙ったまま動いてくれないの!? 柾さんを見捨てるつもり!?」
「見捨てるだなんて人聞きの悪いことを言わないでくれ。それにお前には関係ないと言ってるだろう」
これでは完全に兄妹喧嘩だ。でも悠長にしている暇などない。この場にいる人たちからどう思われようが構わない。一切合財を無視し、ただ兄だけを見据える。
「関係ないわけない! 柾さんでしょ!? 関係なくなんかない!」
「歴……」
「柾さんに何か遭ったらどうするつもり? 何かあってからでは遅いのよ!?」
「さきほど店長が向かわれた。そもそもお前にどうこう言われる筋合いはない。感情だけで突っ走った発言をするな」
「もし店長に何か遭ったら!? だって絶対おかしいわ……! 謝り続けても許して貰えない。じゃあどうしたら許してくださると!?」
私の声は届いているようだ。でも、兄は歯を噛み締め、目を背けるだけ……。兄だけに言っても無駄だ。私は矛先を変える。
「麻生さん! 麻生さんだって、こうしている間にも動きたいでしょう!? 柾さんを助けに行きたいと思いませんか? お願い、私も連れて行って下さい」
「いや、俺も凪の意見に賛成だ。俺だってちぃを危険な目に遭わせたくない。柾もそう思ってるはずだ」
「柾さんがどう思おうが関係ありません。私は私の意思で柾さんを助けたいの! お願い兄さん、警察を呼んで。それか……私が柾さんを助けに行く!」
「歴! 駄目だと言ってるだろう」
ふと、兄の机にゼンリンが置かれているのが分かった。広げられているのは恐らくクレーマーが住まう、まさにその場所だろう。
私は地図を掻っ攫うと、麻生さんの腕を掴んで「行きましょう」と促した。「麻生さんっ、私と一緒に来てください!」
「地図を置くんだ、今すぐ!」
兄の手が私の腕を掴み、空いているもう片方の手が地図を奪取せんと伸びて来た。
「麻生さん、お願いっ!」
駄目押しの願いを聞き届けてくれた麻生さんは、兄を押しのけると一緒に事務所から出てくれた。
「住所は名古屋市北区だ。行くぞ、ちぃ」
「はいっ!」
私と麻生さんは従業員駐車場まで駆け抜け、麻生さんの車に乗り込んだ。


*

「まったく、無茶するよな、ちぃも」
「ごめんなさい。いても立ってもいられなくて」
「まぁあんな話聞かされたら無理もないか。
でも、本当に不味いかもしれない。柾から一度電話があったんだ。相手は相当怒ってて、怒鳴り声が電話越しに聴こえてきた。脅してるんだろうな」
「何が目的なんですか? お金でしょうか」
「目的ははっきりしない。そうかも知れないし、違うかもしれない。店長を呼べとも言ってないし」
「じゃあ店長は、御自分の判断で向かわれたんですね?」
「あぁ。『柾が心配だから様子を見てくる』と言って、お1人で向かわれた。もう到着してるはずだ」
改めてゼンリンの地図を見る。団地のため、1棟から9棟まであった。
「どの棟でしょう? ご存知ですか?」
「8棟だ。3階だと言ってた」
地図を読むのは得意なので、極力早く行けそうな道を案内する。カーナビの到着予定時刻より5分早く着くことができた。
8棟の駐車スペースに車を置くと、私たちは3階を目指して走り出した。
「久保だ、ちぃ」
3軒目を通り越そうとして、そこに久保と書かれた札が下がっていたことに気付く。
「ここです、麻生さん!」
ブザーを鳴らすと、すぐに中から人が出て来た。身長170cmほど。中肉中背で、白のランニングシャツに生成りのズボンを穿いた、50代と思しき男性だった。
「久保さんのお宅ですか? ユナイソンの麻生と申します」
「ユナイソンの出来損ない社員が何人来ようと、許すわけにはいかねぇな。おら、お前も入れ」
玄関には男性用のピカピカに磨かれた靴が2足あった。店長と柾さんのものに違いない。
男は麻生さんを肩を掴み、室内へ取り込もうとする。その時、私に気付いて「女?」と目を細めた。
「ちぃ、逃げろ!」
「でも麻生さ……」
「いいから逃げろ! 早く!」
男の手が私に伸びようとしていた。麻生さんはその身体にタックルをする。私を引き離してくれたのだ。
外へと追い出された私の眼前で、バタンと大きな音とともにドアが閉まる。麻生さんが閉めたのだろうか。そこまでは判断がつかない。
「うそ……。麻生さん……! 麻生さん! 麻生さん!!」
大人の男性3人だ。それなのに太刀打ちできないのだろうか。相手がお客さまだから……?
無力だ。最後の最後で、どうしてこう、いつも力を発揮できないの? 結局いまだって、麻生さんに助けられてしまった。
……いいえ、歴。悲しんでる暇はないわ。兄が警察に通報しないなら、私がするまでよ。
バッグからスマホを取り出し、110番を押す。すぐさま応答があった。
「――事件ですか? 事故ですか?」
「助けてください、事件です! 場所は名古屋市北区……」
「女ァ、なに勝手なことしてる!」
いつの間にか男が背後に立っていた。驚き、動けずにいる私のスマホを乱雑に奪い取ると、警察との通話を遮断してしまう。
次の瞬間、私はあることに気付いた。男のランニングシャツに飛び散っている赤い点。あれは血飛沫なのでは? だとしたら、一体誰の――。
「麻生さん……。店長……。柾さん……ッ!」
スマホなんてどうでもいい。私は男を押しのけ、靴を脱ぐのももどかしく、転がるように部屋にあがった。
柾さんが壁にもたれかかっていた。左腕をだらりと垂らし、右手でその二の腕を掴んでいる。押さえた個所から血が流れていた。
そのすぐ横では店長が同じように壁にもたれていた。鼻から血が流れているのか、麻生さんがティッシュで店長の鼻を拭っている。
「柾さん! 店長!!」
頭が真っ白になるのを必死に堪え、私にも出来ることがないかと考える。ただ、男が戻って来るのも時間の問題だった。
「千早さん、どうしてここに?」
「それは後です。何があったんですか!?」
「謝罪だけでは足りないと言って、店長が顔面を殴られた。止めに入ったんだがこのザマだ。カッターで左腕を切られた」
「そんな……っ」
兄がもたもたしていたからだ。何が事件性の低さだ。何が『お前には関係ない』だ。一歩間違えれば命だって危うかったのに。
それに、この瞬間にだって4人の命が危険にさらされている状態だ。未だ予断を許さない。
「女かぁ。女はこっちに来い。隣りの部屋だ」
下卑た笑みを浮かべながら、男が姿を現した。麻生さんと柾さんが咄嗟に私の前に立ちはだかる。
「ちぃには指一本触れさせねぇ」
男の手には、柾さんを切りつけたカッターナイフが握られていた。怖い。でも、私も麻生さんと柾さんを守りたい。
一歩、もう一歩と進み出る私に気付いた柾さんと麻生さんから、それぞれ腕を掴まれる。これ以上私が前に出ないように。
「離してください、柾さん、麻生さんっ」
「馬鹿か! 離せるわけないだろ!」
「君は下がっていろ!」
鋭い指示が飛ぶ。2人の力が強くて振り払えない。でも、それだと柾さんが……麻生さんが……!
男はカッターではなく、とうとう包丁に持ち替えてしまった。
あり得ないほどの心臓音が近くで鳴っている。迫りくる恐怖に足が竦み、ガクガクと足が震える。
その時だった。
「警察だ!」
ビリビリと耳をつんざく頼もしく声が、間近に聞こえた。逆光のため浮かび上がる2つのシルエット。
「久保ォ! 手に持っているものを床に置け! 両手を挙げて万歳のポーズ!」
入って来たのは私服姿の男女だった。やたら貫禄のある女性と、精悍な男性。
男は観念したのか、くっと顔を歪めつつも言われた通り包丁を床に置き、手を挙げて降参のポーズを取った。
「久保を確保!」無線で連絡を取る男性の刑事は今度、相方の女性に向かって言う。
「お前の言う通り、駆け付けてよかったな、茨。間一髪だった」
「実際は弟のパシリみたいなもんだ。……脇坂、久保を連れて行け」
ひっ立てられるように久保が補導され、入れ替わるように制服姿の警察官たちが部屋に入って来る。現場検証だろうか。
中には白衣を着ている人もいて、早速店長と柾さんを介抱し始めた。これでもう大丈夫。あぁ、やっと解放されたんだ……。
へなへなと床にへたり込む私を、女性刑事が覗き込んできた。深茶色の瞳にじっと見つめられ、ドキッとする。
「大丈夫か?」
「あ、は、はい。何とか……私は。でも、店長と柾さんが……!」
「暴行の件か。詳しい話は後で聞く。立てるか?」
「はい」
口ではそう言ったものの、腰が抜けてしまったようで上手く立てなかった。「ん」と顎をしゃくり、背中を貸してくれた彼女の言葉に甘える。
おんぶをされて1階へおりると、杣庄さんが駆け付けてきた。
「千早さん! どうした? 怪我でもしたのか!?」
「落ち着け。彼女はどこも怪我してない。ただ、腰を抜かしちまってな」
「……あ~~~っ、無傷でよかった! 千早さんに何かあったらどうしようかと思ったぜ」
杣庄さんはその場でしゃがみ込み、両手で顔を覆う。心配して来てくれたのだ。込み上げてくるものがあり、鼻を啜る。
「杣庄さん、ありがとうございます……!」
「あんた、そこ邪魔」
女刑事さんは、杣庄さんの背中を蹴りつける。その傍若無人な振る舞いに唖然としていると、逆らうでもなく素直に立ち上がる杣庄さん。
特に怒るわけでもなく、反省をしている風でもない。平気で受け入れているのは何故なのか。
私が物言いたげな顔をしていたのが伝わったのだろう、杣庄さんは「あぁ」と私を安心させるように笑んだ。
「俺の姉貴だ」
「姉の杣庄茨だ。進がいつも世話になってる」
杣庄さんのお姉さん……!?
「い、いえ! 私の方こそ大変お世話に――」
「歴!」
今度は私を見付けた兄が駆け寄って来る。私は刑事さんの背中から降りさせて貰い、地面に両足を着けた。
両手を伸ばし、私を抱き締めようとするその態度に腹が立ち、私は渾身の力を込めて兄の頬を引っ叩いた。呆然と私を見返す兄を睨みつけながら。
「兄さん。私、すごく怒ってるのよ……?」
「……っ」
「柾さんはネオナゴヤの仲間でしょ! 公私混同もほどほどにして!
見栄とか建前とか、そんなことよりよっぽど大事なものがあるでしょう!? 兄さんが早く通報してくれていれば、こんな事にはならなかった!」
「あー、お嬢ちゃん。それは違うな」
ちっちっと人差し指を振って割り込んできたのは、杣庄さんのお姉さんだった。
「通報してくれたのはこの人だ」
「……兄が警察に通報を?」
「そう。まずこの人から通報があって、次に弟の進からも頭を下げられたんだ」
「仕方なかった。マニュアルには『暴行の有無に関わらず、相手に120分拘束されたときのみ通報可能』とあったんだ。
店長が向かった時点では、まだ100分だった」
理性と感情の狭間で板挟みにあっていたとでも言うのだろうか。俄かには信じがたい。それだけ兄には前科があり過ぎた。
「店長は顔面を殴られたの。柾さんは腕を切り付けられた。相当怖い思いをしたはずよ?」
兄に詰め寄ると、背後から「待ってくれ」と声を掛けられた。店長と柾さんだった。
「千早君を押し留めたのは、私の一存でもある。彼は、私の命令に従ったまでなんだ。それに、警察を呼んでくれた恩人でもある。
もうこれ以上は責めんでやってくれ。この通りだ」
「僕からも頼む。久保には前科もあったし、要注意人物として本部から通達がきていた。それなのに万全の態勢で臨めなかった。落ち度は僕にもある」
怪我を負った2人から頭を下げられてしまっては、この怒りを静めないわけにはいかず、私は渋々頷き、口をつぐんだ。
私も言い過ぎたかもしれない。打ちひしがれた兄を見て、急に申し訳ない気持ちが芽生えてきた。
「……ごめんなさい、兄さん。感情的になってしまって」
「いや、歴の言う通りだ。マニュアル通りにしか動けないのは人として、事務局長として、まだまだ未熟な証拠だ。情けなく思うよ。
今回の件を真摯に受け止めて、これからも精進していきたいと思う。
ただ、一つだけ訂正させて貰ってもいいか? 柾だから通報しなかったわけじゃないからな。公私混同などしていないし、私怨も混じってない」
きっぱり言い切る兄に驚いたのは私だけではない。柾さんも麻生さんも目を丸くしていた。
「珍しい。どういう風の吹き回しだ?」
「……別に。少し考えを改めただけだ」
不破さんとの縁談を画策していた件で、兄に罪の意識が働いたのだろう。
姫丸さんから聞いた話によると、兄は始めの内こそ柾さんと麻生さんを私から引き離すことが出来て喜んでいたらしい。
けれども歯車が狂い、誰も幸せになれないことを知った兄は、『実は後悔していたのだ』と姫丸さんは教えてくれた。
加えて、父が柾さんと麻生さんに対し、兄が私を溺愛する理由を話したことも関係しているのではないかと思う。
母が過去に流産をした話を、部外者の2人になぜ話したのだ、と兄は憤っていた。
「でも凪、お前自身、なぜ歴離れが出来ないのか気付いていなかっただろう?」と父は問い掛け、兄を呆然とさせていた。
もし兄が変わったのだとしたら、これらの一連の出来事が、兄の意識をがらりと変えたのだ。


*

その間にも、世界は目まぐるしく回っていた。
兄のことを考えていたので、その場に私と柾さんしかいないことにちっとも気付かなかった私は、
「兄さん? 麻生さん……?」
きょろきょろと見回す羽目になってしまった。そんな私を見て、柾さんが耳元で囁く。
「2人きりだね」
ぼん、と顔が真っ赤に染まるのが分かった。
「凪は店長と一緒に警察から事情を訊かれてる。麻生はユナイソンに電話を掛けてくれてる」
最初からこう言ってくれればいいのに、なぜいきなり甘い言葉から投げ掛けてくるのだろう。本当に心臓に悪い……!
心臓に悪いと言えば――。
「私、柾さんを見た時に心臓が止まるかと思いました」
「……すまない」
「本当に……何かあったらどうしようって……」
私たちが駆け付けなかったら。もし警察が来なかったら。あの男は、柾さんと店長をどうしただろう?
柾さんの左腕に巻かれた包帯が痛々しい。この人を失わずに済んでよかったと、心の底から思う。
「ごめん、千早さん。でも君が駆け付けてくれて嬉しかった」
「いても立ってもいられなかったので、無茶を言って麻生さんに連れて来てもらいました」
「僕のために、凪に怒ってくれた」
「だって……兄の態度には腹が立ちましたし……」
「僕の前に立ちはだかってくれたのは? 何かしらの理由があってのこと?」
うぅ、イジワル……。
「ないです。理由なんて、ありません……」
「目を背けないで。僕を見て」
無理です。見れるわけないじゃないですか。もうダメ、心臓がもたない。これ以上は……。
「君はやっぱり麻生を好いて――」
バッと突き出した私の手の平が、柾さんの口を塞ぐ。目尻に涙を湛えた目で、真っすぐ柾さんを見つめた。
「……麻生さんのことは、言わないでください」
この言葉で察するだろう。なにせこの人は恋愛の達人。数多の女性と浮き名を流し、艶聞を広めてきた、似非紳士なのだから。
不破さんとキスをした時に気付いた、あまりに遅いタイミング。今回柾さんが囚われたことで、やっと私の想いが本物だと悟った。
私はこの人に恋をしていたのだ。柾さんに。
「……柾さん、柾さん……っ」
その胸に飛び込む。泣きじゃくる私の身体を、柾さんの右腕が強く抱き締めてくれた。
「……ありがとう、千早さん。ありがとう」
頭上に何度も何度も、柾さんのお礼の言葉が降り注いだ。


2014.08.09
2020.02.05 改稿


←40話 ┃ ● ┃ 42話→

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: