45話 【Well Done!】


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45話 (―) 【Well Done!】



【01】

「来週末、兄と買い物に行くことになりました」
神妙な顔付きで報告する歴から了承せざるを得なかった感が垣間見えるのは麻生の気のせいだろうか。
「彼女の生活パターンを聞き出したんだな?」
尋ねると、歴は溜息をついて「はい」と答えた。
「やったじゃないか――と手放しで喜べないみたいだ。随分と浮かない顔してんなぁ」
「『なぜお前がそんなことを気にするんだ』と、根掘り葉掘り訊かれました。
おかしいと気付いたんでしょうね。私がヘマをしただけですけど。尋ね方が不味かったんでしょうね。……悔しいなぁ!」
あからさまに不平を垂れる歴というのも珍しく、麻生の目には新鮮に映った。本人に言えば、さらに不機嫌になるだろうが。
「誤魔化したところで看破されてしまうだろうし、仕方ないから正面からぶつかるつもりで全て話しました。
30分の説得の末、兄の買い物に付き合うという条件で教えて貰いました。レオナさんは今日から呉服屋で働くそうです」
「呉服屋?」
「兄の親友が営んでいるお店です」
「あぁ、姫丸さん、だっけ」
「よく覚えてますね」
「そりゃあ……まぁ……」
かつて凪が、歴と姫丸をくっ付けようと、社員旅行先の下呂くんだり呼びつけた過去がある。
そこに居合わせたから覚えている。それにあの頃は歴を意識していた。突然現れた美丈夫のライバルを忘れるはずがない。
「レオナさんに会うならそこですね。姫丸さんにお返しする着物もありますし、終業後に行って来ます」
「大丈夫か?」
「勿論大丈夫ですよ。まさか彼女が私に何かするとでも?」
「ちぃは凪の実妹だし、警戒はされないと思う。だが伊神の名前を出した途端、取り乱しでもしたら……」
「そんな悪夢の展開になるようなら、断固として伊神さんと会わせるわけにはいきません。作戦は即座に中止です」
「……ちぃって、何気に伊神に懐いてるよな」
「えぇ。私は伊神さん、大好きですよ」
「それを柾の前では言わないように」
「え……? あっ、いえ、そういうんじゃなくてですね……」
突然焦り出す歴の反応が面白かったのか、麻生は噴き出した。すねた歴が「もう」と頬を膨らませる姿を見届けた麻生は、ふっと笑みを浮かべて歴を見やった。
「頑張れよ。成功を祈る」
「はい!」
歴の目が楽しげにきらりと光った。


【02】

早番の歴が業務を終えたのは18時ジャスト。急いで着替えを済ませネオナゴヤを後にした歴は、足早に地下鉄へと歩を進めた。
区の違う姫丸の呉服店は19時に閉店してしまう。その前に何とか滑り込まなければと思っての行動だったが、待っていたのは無情な結果だった。
戸口から「姫丸さん」と声を掛けると、店主の姫丸二季は振り返って微笑んだ。今日も粋な着物姿である。
「歴さん。こんばんは」
「こんばんは。閉店間際にごめんなさい。お借りしていた道具一式をお返ししようと思って」
普段使いの鞄とは別のトートバッグから風呂敷を取り出し、それを丸ごと姫丸に手渡す。
「わざわざご丁寧にありがとう。まだ先でもよかったのに」
「いえ、大切な品ですし、出来るだけ早くお返ししなければと思いまして」
会話の途中だったが、歴は視線を店内に行き来させる。
姫丸から「どうしました?」と尋ねられてしまう始末で、どうやら挙動があからさまに不自然だったようだ。
「実は、兄から新しい従業員が増えたと聞きました。でもお見えにならないみたいですね」
「あぁ、凪が紹介してくれた、多国語に長けている女性のことだね。
昼過ぎに挨拶がてら仕事の内容を説明したら、ありがたいことに快い返事をいただけたので、そのまま契約を済ませました。
晴れてうちの店にも従業員誕生だ。これでおれも楽ができそうです」
「それは何よりです。ちなみにその方は今、どちらに?」
「1時間ほど前に帰られましたよ。でも、早速凪に報告したいと言っていたから、もしかしたら凪と食事しているのかもしれないな」
――兄に報告を? でも兄はまだ仕事のはずだ。
時計を見れば19時を少し過ぎたところだった。ネオナゴヤに戻るべきだろう。
「そうですか。では、私はこの辺で……」
「帰り道は十分気を付けて。何ならタクシーを呼ぼうか?」
丁重に辞退しようとしたものの、思い直す。今から地下鉄を利用して戻るより、タクシーの方が時間短縮出来そうだ。
何より今日は既に仕事でスタミナをゼロ近くまで使い果たしてしまっている。後々のためにも体力は温存しなければ。
「ではお願いします、姫丸さん」
歴の言葉に頷くと、姫丸は早速店内の電話からタクシー会社の短縮ボタンを押し、タクシーを呼び寄せてくれた。


【03】

スマホが着信音を奏でる。麻生がポケットから取り出すと、相手は歴だった。
「麻生だ」
「麻生さん、失敗しました!」
「失敗?」
「レオナさんは既に店を出ていました」
「じゃあ明日以降に……」
延期だな、と言おうとしたところで麻生は言葉を詰まらせた。
「……ちぃ、今どこだ?」
「タクシーの中です。あと5分ほどでそちらに着きます」
「ここにいるぞ、彼女」
「えぇ!?」
「凪と一緒だ。――2人とも、俺に気付いたようだ。何故かこっちに来る」
「麻生さんは今どちらですか? 雑音がひどくてよく聞き取れません」
「セブンスバーガーだ。来店した高校生男児が騒いでるんだ。……切るぞ」
通話を終えると、麻生の存在に気付いた凪が尋ねてきた。
「申し訳ない。電話してたんだな。急がせたか?」
「いやぁ、全然? おたくたちはこれから食事か?」
「あぁ。レオナが日本のセブンスで食べてみたいと言うから誘ったんだ」
「向こうのセブンスはボリュームが多いから避けてたの。でも日本にはヘルシーなバーガーもあるから食べてみたくて。賑やかなところは同じね」
「この時間だ、部活帰りの高校生が寄ることも多いな。まぁ堪能してくれ」
頷いたレオナが踵を返し、注文のためにレジに並ぶ。
凪が麻生に何か言い掛けたが、「凪!」とレオナに呼ばれたために結局何も言わずに去って行った。2人が離れたのを確認すると、麻生は一人ごちる。
「なんつータイミングだよ……」
自分は食事を始めたばかりだ。急に席を立てば怪しまれるだろう。仕方なく普通に食事を摂ることにした。
注文を終えた2人が通路を挟んだ麻生の隣りに座る。とは言え、ひと1人通るのがやっとの通路だ。ほぼ隣りと言っても過言ではない。
他に席があるだろうに……と思っていると、レオナが話しかけてきた。柾や凪と懇意にしているからなのか、麻生とも親しくなりたいようだ。
「麻生さんは名古屋住まい? リーズナブルな青果店とか知らないかしら」
「だったら業務用のスーパーなんてどうだ? 青果の方は1個売りしてて安いぜ。新鮮だし」
「業務用? 近くにあるの?」
「結構近いな。うちにとってはライバル店だが、安いのは事実だからな。嘘はつけない」
「そういう情報、とっても嬉しいわ。ありがとう、今度覗いてみる」
以降もレオナが麻生に何かを訊くパターンが続いた。多くがお得情報に関することで、ひょっとして浪費を抑える生活をしているのかと邪推してしまう。
その疑問がレオナに伝わったのか、はにかみながら本人が「実は」と打ち明けた。
「なるべく出費を減らしたくて。こすい質問ばかりしてごめんなさい」
「いや、ちっとも。寧ろ偉いと思うが」
恥も外聞も振り払い、これからの生活を前向きに過ごそうと覚悟を決めたのだ。そんな健気な勇気を垣間見てしまった以上、こすいなどと思ったりするものか。
麻生の言葉にホッとしたのか、レオナから「ありがとう」と言葉が漏れた。
「ところで、話してばかりだと、せっかくのハンバーガーが冷めちまうぜ」
「あ、それもそうね」
失念していたとばかりにトレーを見下ろし、ハンバーガーを手に取る。綺麗に紙を剥がすあたり、彼女の上品さが伺い知れた。
あまりじろじろ人の食事姿を見るものではないなと視線を動かすと、1組の男女がレオナの後ろの席に座るところだった。
――あいつら……。
どちらも見知った人物だ。麻生から斜めの位置なので、彼らのトレーの内容がよく見えた。どちらもサラダと野菜ジュース。ハンバーガーはない。
ハンバーガー店に来てそれかよ! と、そぐわない品々に唖然としたが、男女にしてみれば『大きなお世話』だろう。
やがてハンバーガーを食べ終えたレオナがナプキンで口元を拭うと、朗らかに言った。
「あぁ、美味しかった! 和風バーガーは最高ね! 病み付きになりそうだわ。
そうだ、さっきいいことを教えてもらった麻生さんに何かお礼をしなければいけないわね。何がいいかしら」
「情報には情報でいい」
「あら……情報でいいの? いいわ。私に答えられることなら何でも訊いて」
にこやかに微笑むレオナに対し、麻生の喉はカラカラに乾くばかり。トレーの上のレモンティーが入ったカップを煽ると、一気に言った。
「伊神のことなんだが」
その名を口にした瞬間、レオナの顔から笑みが消えた。顔は強張り、脅えた表情になる。うろたえたのは明らかだった。
凪も石のように固まった。やはり伊神の名は禁句だったか。が、そんな一瞬などなかったかのようにレオナは小首を傾げてみせた。
「……誰のことかしら?」
この微笑みが作りものだとしたら、とんだ名女優だ。
とはいえ、伊神の名前を耳にしたときの反応。あれを目の当たりにしてしまっては誤魔化しと捉えるなど、どだい無理な話である。
レオナ自身、取り繕いの失敗に気付いたのだろう。はぁ、と溜息をついた。
「冗談よ。……伊神。伊神ね……。彼がどうかした?」
途端に不機嫌になったレオナは一転、麻生に素っ気ない。しかし麻生にしてみれば、その態度の方がありがたかった。
『不遜な女性』は麻生の『知人』になりこそはすれ、『恋愛対象』にはなり得ないからだ。
柾が知れば「だからお前は恋愛下手なんだ」と呆れられるだろうが、今のところ、麻生が描く自身の未来に恋愛イベントはない。
「伊神はここにいるぜ」
これで容赦なく、本題に入ることができる。


【04】

どれだけ待っただろう? 彼の幻を生みだしては『会いたい』と呼びかけ続けた。
日本にいることは分かっていた。でも1億人以上が住まう国から1人を見付けだすのは至難の業だから、二度と会えないと諦めていた。
それが、“伊神はここにいる”。――たった3文節で片付いてしまう距離にいるだなんて。
「嘘でしょ」
柾との再会だけでも奇跡に近いのに、同じ建物に伊神までいるなんて、担がれていると思っても仕方ないではないか。
「嘘じゃない」
保証したのは凪だったが、どこか神妙な顔付きだ。
「嘘……」
心臓が物凄い早さで脈打ち始めた。レオナは鼓動が皆に聴こえてしまわないかと気が気でない。
「どうしてそれを私に教えてくれるの?」
脅えた顔でレオナが麻生を見る。
「そんなことを言ったら伊神をストーカーしちゃうかもよ。でしょ? 向こうは私とは二度と会いたくないでしょうし」
「かもな。それを踏まえて、オトナな対応を願いたい」
涼しい顔で麻生は言う。意外にもレオナは素直に頷いた。どうやらことの大切さは理解しているようで、麻生は胸を撫で下ろす。
「1つ訊いていいか? おたく、そもそも伊神に会いたいのか?」
「……私は……」
レオナはそう呟いたきり黙ってしまった。理性を優先させるべく、必死に考えているのだろう。
麻生はいつまでも待つつもりでいた。レオナの本音を知るには、冷静に考え抜いた結論を聞くべきだと思ったからだ。
今のところ、凪は何も発言していない。制止したりせず、ただ静かに見守っているだけだ。
俺と一緒の考えなのかな、とぼんやり考えていると、レオナが口を開きかけたので、耳を傾けることにした。
「伊神に会いたいわ」
その声はとても弱々しく、昨日ムーサとして腕前を発揮した人物とは到底思えない。随分と思いつめた顔をしていた。
「会って謝りたいの」
「伊神に危害を加えたりは……」
「まさか! しないわ、そんなこと! ……とはいえ、私には前科があるもの。そう思われても仕方ないわよね。
都築や加納にも散々嫌がらせのメールを送ったし、その矛先を凪にも向けてしまった。確かに人畜無害とは言えないわ。
でも決めたの。私の雇い主である姫丸さんにも誓った。もう二度と人を傷付ける真似はしないし、問題は起こさないって。
ただ私は人生をもう1度やり直したいだけなの。伊神に謝って、謝り倒して、さよならをして、けじめを付けて……とにかく1からやり直したい……」
「……分かった」
麻生が凪を見る。凪も麻生を見た。2人は頷く。道は決まった。
「伊神に会いたいんだな? じゃあ会わせるよ」
「私の言い分を、そんなにあっさり信じるてくれるの? いえ、勿論嬉しいけど……」
「レオナさん」
すぐ背後から聴こえてきた声は麻生でもなく、凪のものでもない。その声は紛れもなく伊神のもので、レオナは身体をびくりと揺らした。
――幻聴でしょ? なのに、なぜこんなにもリアルなの?
驚愕と怯えが混じったレオナの顔を見た凪は、気の毒に思えて仕方ない。テーブルの上で固く握られたレオナの拳に、自身の手を添えた。
凪の温かい掌の感覚がレオナの思考を正常に戻していく。それでもまだ、戸惑った顔をしていた。
「レオナ、大丈夫だ」
小さく囁き、安心させる。
「俺たちはレオナの味方だ。俺も、麻生も」
心強いエールだった。
レオナは身体のわななきを抑えると、ゆっくりと後ろを振り返った。真後ろの席にいる男も振り向いた。そこにいたのはやはり伊神だった。
「どうして……」
ショックで二の句が告げられずにいるレオナに、麻生は言った。
「『伊神はここにいる』って言ったろ」
「ここっていうから、てっきりネオナゴヤ店勤務という意味だと思ったのよ! まさかセブンスバーガー店内にいるなんて思うわけないでしょう!?」
声を荒げてから後悔する。公共の場で大声で言い返すとは、なんてはしたない真似をしてしまったのか。
幸い、ヒステリックなレオナの声は高校生集団が掻き消してくれたようだが……。
伊神を見ると、彼は笑ってこう言った。
「お元気そうで何よりです、レオナさん」
彼の場合、嫌味ではなく本心からそう思っているのだからタチが悪い。


【05】

何もかもがレオナの想定外だった。数ヶ月前には考えられないことが現実に起きていた。
『2.21大異動』の後、香港を捨てるように逃げ出し、マカオに身を寄せた。かと思えば、日本に住まうことになり、呉服店に勤めることになった。
かつての部下と再会を果たしただけでなく、あろうことか伊神にまで会えてしまうなんて――。
お世辞にも感動の再会とは言えない。あるのは気まずさだけ。それでも、これは前進に含まれるだろう。
「い……」
出て来ない名前は断念する。その代わり、
「ごめんなさい。ごめんなさい、本当に。ごめんなさい――!」
どうしても伝えたかった言葉だけ口にする。
「……うん。オレの方こそごめんなさい」
差し出された伊神の手を、レオナは握り返すことが出来ない。
「レオナさん。お願いだ、この手を取って欲しい」
「だって……私が貴方にしたことは……許されることでは……」
「ん……。なんのことだっけ?」
「やめて! すっとぼけないでよ!」
「レオナさんこそ、オレを何だと思ってるの? 何年も恨むほど、器量が狭い男だとでも?」
「でも貴方……」
「いいんだ、もう。……いいね?」
涙で滲んで、伊神の顔も、差し出された掌も形をなさない。それでもおずおずと手を伸ばし、手を掴む。
「仲直りの握手」
芙蓉が聞いたら、『また小学生みたいなことを!』と叱り飛ばしそうな言葉を、とびきり優しい声で伊神は告げる。
「これからもよろしく」
「……っ」
当然、伊神との仲直りも想定外だ。


【06】

麻生は、伊神と一緒にセブンスに入店していた歴に声を掛ける。
「ちぃよ。ハンバーガー店に来ておきながら、サラダに野菜ジュースとはこれいかに」
「展開がどうなるか読めなかったものですから。伊神さんも『それでいいよ』と同意してくださいましたし」
「なるほど」
歴の読みはなかなか鋭いところを突いていたようだ。凪たちは既に食事を終えていたし、レオナと伊神の再会も無事果たされた。
これ以上は長居であり、店にとって迷惑になりかねない。
「凪、私はもう帰るわ」
「伊神君ともっと話さなくていいのか?」
「えぇ。私の目的はもう果たされたから」
そう答えたレオナの声や表情から、物足りなさは見受けられない。
一つの区切りがついたことで、満ち足りたように見える。まるで憑き物が落ちたかのような穏やかな顔だった。
「レオナが決めたのなら、俺がとやかく口を挟む必要もないな。……送るよ、帰ろう」
立ち上がったエスコート役の凪は、麻生と伊神に目礼する。2人も頷き返した。一方、歴に対しては満面のスマイルを作る。
「歴、来週末の買い物、楽しみにしてる」
「うふふ……私もよ、兄さん」
どこか虚ろな生返事を返す歴に、レオナは声を掛けた。
「あなたが凪の妹さんね。今度ゆっくりお話したいわ」
「あ……は、はい。ぜひ……!」
歴は慌てて席を立ち、頭を下げる。
「それじゃあね。お休みなさい」
お休みなさい、と歴と伊神。お休みと麻生。2人の姿が完全に消えると、麻生は伊神の肩に腕を回す。
「お疲れさん」
「……はい」
晴れやかな伊神の笑顔につられ、麻生も歴も笑顔で自分たちのトレーからそれぞれの飲み物を手に取り上に掲げてみせた。さながら、祝杯のように。


【07】

「夢でも見ているのかしら」
凪の運転する車の中。助手席のシートに座ったレオナは窓ガラス越しに景色を眺めながらぽつりと呟いた。
「だとしたら、綺麗な夢じゃないか?」
「そうね。覚めて欲しくない夢だわ……」
「夢ならば何度見たって構わない」
「やり直しがきくものね。起きて、嫌な夢だったなら、もう一度寝てしまえばいい。心地いい夢を見るまで、何度でも」
「違う。俺が言ってるのは『睡眠』の方の夢じゃなく、『将来の夢』とか、そっちの類の夢だ」
凪の言葉に、レオナは言葉を失った。
「やり直しがきくのは人生だって同じだ。そう思わないか?
嫌な現実はもう一度やり直せばいい。今度は違った方法で。出来るだけ自分の意思に沿うような流れに持って行くんだ」
「……」
「それにこれは夢なんかじゃない。見事にやり遂げたんだ。自分の人生をやり直し始めた。君は頑張ったよ、レオナ」
レオナは相変わらず窓の方を見ていたが、そこには外の景色など映っていなかった。全てがぼやけた世界。つ、と頬を伝うのは涙。
頑張れたのは凪のお陰だと思った。でも言えなかった。溢れ出るものが、嗚咽のためにつっかえてしまって。
凪はただ黙っていた。それもまた気遣いなのだとレオナは知っていた。だからその優しさに甘えた。
「これからは、皆がいる。だから頼れ。いいな?」
それが誰を指しているのかが分かったら、レオナはまた泣かなくてはならなくなった。
「感謝してもしきれないわ、凪」
「よしてくれ。礼を言われることなど何もしていない」
「素直に受け取ってくれればいいのに」
こればかりは、レオナの言葉に頷くわけにはいかない。凪は自分に言い聞かせる。
――これで贖うべき罪が減ったと思ったら大間違いだぞ、凪。
ラジオからは洋楽が流れていた。
「……この曲、私好きなの」
レオナがハミングし始めたことに気付き、凪は音量を上げる。優しいメロディーに耳を傾けながら、凪はステアリングを握り続けた。


【08】

それから1ヶ月が過ぎた。ネオナゴヤ店はセールを控えて小忙しくなったものの、特にこれといった事件もなく、平和と言えば平和だった。
1分前までの凪にとっては。
「……?」
座っていた机の前に、2つの影が落ちてきた。何事かと思い顔を上げると、目の前には八女芙蓉と潮透子が立っていた。
その顔は強張っており、まるで直談判に来たようでもある。実際、先に口を開いた芙蓉はそのようなことを言った。
「お話があります、千早事務局長」
「何だ……?」
唖然としていると「こっちへ」と短く告げ、2人は凪の両腕を掴み、廊下へ連れ出す。それだけならいざしらず、どんどん先へ進んでしまう。
――一体どこへ連れて行かれるんだ?
すれ違う従業員からは何事かと野次馬的な目で見られ、凪はマズいと思った。
「分かった。話を聞くから離してくれ」
凪が訴えると、意外にもするりと2人は手を離した。
「では、ついてきて下さい」
静かに透子が言い、凪は「あぁ」と答え、素直に従った。3人は密談に相応しい、客数の少ない店に入る。
「これから昼休憩ですよね? 話しながら食べましょう。そのほうが効率がいいと思います」
スタッフを呼び寄せ3人分の注文を終えると、芙蓉はじっと凪を見つめた。
「何だ……?」
芙蓉の容姿は人目を引く。その美しさの中に凪を咎めるかのような冷たさを感じ取り、居心地の悪さを覚えた。
「単刀直入に伺います。貴方がレオナ・イップさんのパトロンというのは本当ですか?」
「……」
「なぜ黙るんです?」
「パトロンには色んな意味がある。君がどういう意味で訊ねているのか……」
「あぁ、なるほど。誤解して欲しくないということですね。
安心して下さい。愛人への援助という意味ではありません。素直に後援者という意味で訊ねたまでです」
「それを知ってどうする?」
「まずは答えて下さい」
有無を言わせない迫力があった。凪は躊躇ったが、その躊躇が何の意味も持たないことに気付き、素直に認める。
「あぁそうだ。私がレオナのパトロンだ」
認めた途端、芙蓉と透子は顔を見合わせた。声には出さずとも、それが2人にしか分からない会話であることは凪にも分かった。
「どうして彼女に援助を?」
「そんなことまで教えなければならないのか? プライベートの領域だぞ」
不快を露わにして凪は言った。
「私たちにはとても意味のあることだからです」
「……何だって?」
「教えて下さい」
「黙秘する」
食事が来ても凪は手をつけようとしなかった。冷めますよと進言しても、フォークすら持とうとはしない。
無味乾燥な食事を済ませ、芙蓉と透子はじっと凪を見つめた。
いい加減、凪が苛立っているのが分かった。このまま席を立つかもしれないと思いつつも、2人はじっと待っていた。
「どれだけ粘っても無駄な努力だ」
「『2.21大異動』に関係する者たちへの罪滅ぼし」
呟くように芙蓉は言った。だが、言い当てられた側である凪には十分過ぎるほどの声量として聞こえた。
「その反応。どうやら私たちの見立ては正しかったようですね」
うろたえてしまったから、今更取り繕えやしないだろう。凪は白旗をあげた。
「支援は私に出来る範囲で、だ。私なりに考えたが、それぐらいしかなかった」
「貴方はまだ背負っているんですね」
「当然だ。そもそも主犯格である私がユナイソンに属したままでいられるのは、『罪を購い続けろ』という意味だと思っている」
「いつ終わるともしれない『償い』を定年まで続けるつもりですか」
「それだけのことをしでかしたという自覚はある」
「いつか言いましたね。私と潮も被害者だと。ということは、千早事務局長は、私たちにも『何かしら』の援助をして下さるのかしら?」
――これは脅しだろうか。レオナにお金を積んだのだから、2人にも同じものを寄越せという?
まさか芙蓉の口からそんな提案が出るとは夢にも思わなかったが、慰謝料を請求されるだけのことはしたのだから当然の報いだろう。
「私に出来ることがあれば聞こう。何が望みだ?」
芙蓉はじっと凪を見つめた。凪も見つめ返す。透子を見れば、彼女もまた、凪を注視していた。だが、返ってきた答えは意外なものだった。
「その罪滅ぼしを、もう終わらせて下さい」
「……何だって?」
「恐らく、給料のほとんどをパトロン費に充てているのではありませんか?」
「そんなことまで、君たちには関係な……」
「そのスーツ。ブランド物ではなくなってます。ネクタイも。いつもの一張羅はどうしました? 当ててみせましょうか。質屋に売ったんでしょう」
「……!」
「なぜ気付いたかって? これを見抜いたのは柾チーフと五十嵐チーフ、それにわんちゃんです」
「相も変わらず、わんこは鼻が利くなぁ……。そうか、わんこはボンボンだったな」
苦虫を噛み潰したような顔で、凪は呟いた。
――まさか3人に気付かれるとは。
個人的には出し抜かれて忌々しい気もするが、販売業においては彼らの正しい審美眼を評価せざるを得ない。
「ご自分の生活レベルを落としてまで償っているのですか? 
その様子では、どうやらパトロンの相手はレオナ・イップだけではなさそうですね。一体何人の方に月々の支援をしている……」
「もういいだろう、やめてくれ!」
これ以上は聞きたくないと凪は頭を振った。芙蓉はその手を掴み、容赦なく告げる。
「それも『償い方』の1つなんでしょう。えぇ、まぁ分かります。でももうやめて下さい。もう十分です。
貴方は十分傷付いてきた。十分贖ってきた。私や潮が言うんです、それは誰もが認めるところですよ……!」
「そんなわけないだろう! まだ足りないぐらいだ! 何をしたって、私の罪は……っ。決して……」
吐き捨てるような言葉遣いに、さしもの芙蓉も押し黙ってしまった。その時だった。
「凪」
優しく肩に手を置かれ、凪は反射的に顔を上げた。その先には祖父がいた。傍らにはレオナと歴も立っている。
「なぜ……ここに……」
戸惑いを隠せない凪に事情を説明したのは芙蓉だった。
「事前に千早に頼みました。CEOやレオナさんにも同席して欲しいと」
「話は全て聞いたよ。凪……。確かに反省はして欲しいと願ったが、そこまで切羽詰まらせるつもりはなかった。
君自身のペースで身を処すのを見守っていたが……雁字搦めに縛りつけてしまっていたようだ」
「急に現れたかと思えば……。何を仰るのです……?」
「ここは……ユナイソンは、君を縛りつけておくための牢屋ではない。それを知って欲しかった。
だが君はまるで何かに取り憑かれているようにも見える。……ユナイソンを離れてもいいんだよ、凪」
「私に退職をしろと……? そんなことをしたら、私は安全地帯に逃げたと思われる……」
「事件について猛省しているのは凪だけではない。退職、降格、減給処分を受けた者たちも、自分が悪かったと認めている。彼らは処分を受け入れた。
そそのかされたと言い張った者もいたが、最終的には流された己に非があり、申し訳ないことをしたと言っていた。
つまり、処分そのものが罪滅ぼしだ。君の処分は何だった?」
「3階級の降格と3ヶ月の減俸です」
「君はそれに?」
「従いました」
「そうだな。それで償いは終わったはずだ。確か、以前にも同じようなやり取りをしたね。君には学習能力がないのかな?」
「でも、レオナは路頭に迷っていて……。とても見過ごせませんでした」
「そうみたいだね。でもね、凪。彼女にも言い分はあるみたいだよ」
スッと前に進み出たのはレオナだった。銀行のマークが入った紙封筒を差し出す。
「凪。日本の物価はさすがにこんなにも高くないわ」
「レオナに200渡したそうだね」
単位は言わなかったが、恐らくは万だろう。
「CEO。確かに私は、凪のお金をありがたいと思いました。日本に来る時は、お金が底をつきかけていたので。
でも、きちんと返済する気でした。そもそも、お借りするのは1回だけのつもりだったのです」
「50。レオナさんはその額だけ工面して欲しいと言ったそうじゃないか」
「しかし、それでは少ないと思って……」
「返済する私の身にもなって。200も必要ないわ。
まぁ、使わなければいいだけの話だけど。実際、麻生さんからお得情報をもぎ取ったお陰で、かなり節約できているし」
どうやら業務用スーパーのことを言っているらしい。だがあそこはライバル店だ。その点だけは忘れないでいて欲しい。
「凪は金銭感覚がずれてるからねぇ。他にも200ずつ渡してるんだろうなぁ」
「だから質屋を利用していたんですね。補填のために」
合点がいったとばかりに芙蓉が言った。
「凪の親切に、とことん助けられたわ。でも貴方は自分を犠牲にし過ぎるきらいがある」
「レオナ……」
「今日、初めての給料が振り込まれたの。だから返すわ。本当にありがとう、凪」
手渡された紙封筒には、ずっしりとした重みがある。恐らくレオナに渡した全額分が入っているのだろう。
だが、なぜたったひと月で完済ができたのだろう? 当初、彼女も言っていた。一括返金は無理だと思うの、と。
「安心してちょうだい。至極全うなお金よ。実は、呉服店勤務の合間に、翻訳のアルバイトをしていたの。
姫丸さんがパソコンを貸して下さったから、インターネットを使ってお小遣い稼ぎし始めたのね。
これが馬鹿にならなくて。意外に多いのね、利用者って。私は知識が提供できるし、相手様はお金をくれる。正にギブ&テイク」
「いや、だがそれにしては……」
「種明かしをするとね、姫丸さんが私の無茶を聞いてくれた点も大きいと思う。
彼も、貴方を何かしらの方法で助けたかったのよ。快く私に理解を示してくれたわ。
姫丸さんは、かなりの間自由に翻訳の仕事をさせてくれた。早朝から深夜までね」
「しかし君のことだ、ヒメの手伝いはしたんだろう?」
「勿論よ! その為に私は雇われたんだから。私がここ1ヶ月貴方の前に現れなかったのは、副業にも夢中だったからよ」
「俺はそんな無茶をさせたかったわけでは……」
「姫丸さんと決めたの。だから四の五の言わないで。
それに、隣りで姫丸さんは言ってたわ。『これはとてもいい英語の勉強になりますね』って」
「確かにレオナが訳せば生きた英語なんだろうが……。だが、伊神君が言ってたぞ。君のスラングは相当ややこしいと」
「! ちょっと! どうして伊神がそれを知ってるの!?」
「俺に送られてきた君からのメールを全て訳したのは伊神君だ。俺には訳せなかったからな」
「酷い! 悪魔!」
「仕方ないだろう? 君が日本語で書かなかったのが悪いんじゃないか」
「シャラップ! もう伊神に好かれたいとは思わないけど、嫌われたいとも思ってないのよ、私! 凪! ちょっと聞いてるの!? 凪!!」
「……お祖父様? どうやらもう大丈夫みたいですよ」
歴が為葉に近付き、こそっと囁いた。
「そのようだね」
為葉は、今度こそ眩しそうに凪を見つめ、頷いた。為葉は身体の向きを変えると、芙蓉と透子に深々とお辞儀をした。
「ありがとう、2人とも」
「いえ。この結末は、皆の力があったからこそです。前に進みたい気持ちを大切に育んでいきたかったからこそ描けた1つの未来ですわ、CEO」
「ふふ。君たちを見ていると、ユナイソンの将来は安泰だと心から思えるよ」
「光栄です」
今度は芙蓉と透子が頭を下げる番だった。
「歴、凪を頼む」
「はい。お任せを」
胸に手を当て、歴は軽く頭を下げる。為葉は最後に凪を見やると、「では本社に戻るよ」と静かにその場を後にした。
「そろそろ俺も戻らないと。レオナ、話はまた今度だ」
「えぇ。皆さんもお元気で。今回のことは本当にありがとう。感謝してもしきれないわ」
「いいのよ。また今度、女子会でもしましょ。女子だけでワイワイ騒ぐの。日本版ガールズトークよ」
芙蓉がウインクをすれば、レオナは目を瞬かせる。女子会というワードが琴線に触れたのだろう。
「ジーザス。それはとても興味津津だわ。ぜひ開催しましょ!」
「……サバトでも開くつもりか?」
レオナに芙蓉、歴、透子。その輪に芙蓉の親友でもある馬渕を筆頭とした女傑らが加わったら、とんでもないことになりそうだ。
「その日を楽しみにしてるわ。それじゃあね」
「えぇ。さぁ、仕事に戻るわよ。行くわよ潮、千早」
「はぁーい。千早さん、行こ」
「はい!」
返事をした歴は、明るい笑顔を覗かせた。



2015.09.17
2020.02.11 改稿


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