08話 【大切なら、素直に】


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08話 (―) 【大切なら、素直に】



_青柳side

[1]

「青柳チーフ。客注の分が届いてないんですけど、まさか発注のし忘れじゃないですよね?」
どういうわけかいつもより寝付きも寝起きも悪く、頭が重かった。
だが出勤早々、不気味に紡がれた不破の言葉が目覚まし効果を発揮した。それはまるで警告音。全神経が一気に集中した。
「どの発注だ?」
「明日11時頃引き渡す予定のイタリアン食材のセットです。探しましたけど、どこにも見当たりませんでした」
料理教室の講師が風変わりな麺や憶えづらい名前のソースを1ケースずつ注文したのは、つい昨日のことだった。
「あれはお前に頼んだだろう?」
「え……」
と不破は絶句する。自分の失態を認める発言をするかと思いきや、不破は意外なことを言ってきた。
「ですがチーフ、その後僕が店長に呼ばれたので、『これは俺がやっておく』と前言撤回したじゃないですか」
それも……覚えている。
発注の手続きをする為に事務所へ向かうと、不破がお誂え向きにパソコンの発注画面を開いていたから、俺がやるより早いと思って頼んだのだ。
不破は快く引き受けてくれたのだが、丁度通り掛かった店長に「不破、ちょっとこっちへ」と声を掛けられ連れて行ってしまった。それで俺は――。
「……! しまった」
「お取り込み中? ちょっといいかしら、青柳。困るのよね、バーコードを使用しない時は、前もって教えてくれないと」
腰に手を宛て、柳眉を逆立てているのはPOSオペレータの八女芙蓉だった。見た瞬間、芙蓉の苦情内容を把握する。
「それは悪かった。だがお前だって昨日今日入社した素人じゃないんだ。少し考えれば特殊なケースだってことぐらい分かっただろうに」
「一言言えば済むじゃない。バーコードはやめろって。それだけで十分よ。その一言を端折ったがために、こっちは何度も売り場を行ったり来たり。
こっちはドライだけを管轄してるわけじゃないのよ? 振り回さないでちょうだい」
「青柳さん、中部第二物流さんからお電話です」
「後で掛け直すと伝えてくれ」
「青柳チーフ! お客様がみりんの瓶を割ってしまって……」
「掃除の担当者を呼べばいいだろう!」
「青柳君もカートの回収をして来てくれんかね。ドライだけ参加していないのでは、他の社員に示しがつかないもんでね」
「……分かりました、すぐ行きます」
不破と芙蓉はリアルタイムで俺の仕事量が加算される場面を見るなり、何も言わずただ静かに去って行く。
芙蓉は次からは宜しくねと言った雰囲気できびきびと。
不破は、情けなくもミスを犯した俺の尻拭いをしに物流センターへと向かうつもりなのか、会社の車のキーを、事務長である千早凪さんから借りている。
全く、どれもこれもつまらないミスを仕出かしたもんだ。あり得ないほど単純な失敗で厭になる。
だからこそ、精神的にもかなり堪えた。 


[2]

「駄目です。どうも不調のようです」
俺が言うと、柾さんは目を細めた。面白いとでも言うように。
「弱音か? 珍しいな」
「どうもイライラして……。何でしょうね? 捌け口がないというか、煮詰まってる気分です」
「ガス抜きしないと持たないぞ」
「ストレス解消という意味でしたら、してますよ、ちゃんと。適度に」
「してるつもりで、出来ていないんじゃないか?」
躊躇する。もしかしたら、そうじゃないかという燻るような思いはあった。
渋々認め、「では、柾さんならどうしますか? モチベーションを上げたい時はどうします? 仕事の原動力とか」と尋ねた。
「僕か?」
不意を突かれた様子だったが、次の瞬間にはまた例の如く、俺を面白そうに見る目付きになっていた。
「恋愛をする」
「……恋愛ですって?」
「訊かれたから教えたまでだ。他意はない」
そう言って、柾さんは微かに笑う。


[3]

俺は柾さんを目標にしている。
その柾さんが「恋愛こそ仕事の原動力」と説いているなら、自分も恋愛してみようかという気になる。
だが彼女を作るにしても、いったいどうすればいいのか。
考えあぐねていると、芙蓉が食堂に入って来た。食券を買い求め、トレイに茶そばと稲荷ずしを乗せて貰った彼女をすかさず手招きして呼び寄せる。
「青柳1人? 隣り、いい?」
「さっきまで柾さんと一緒だったが、先に仕事に戻られた。……芙蓉」
「何? 朝の話なら、別にもういいわよ」
「あぁ、それは俺が悪かった。謝るよ」
「どうしたの急に」
「社外の女性を紹介して欲しい」
芙蓉は気持ち悪いものを見るかのような顔で俺を見る。それも当然かも知れない。今まで彼女に『そういったこと』を頼んだことはなかった。
「貴方に?」
「俺にだ」
「仕事人間の貴方がどういう風の吹き回し? 急に人恋しくなったわけ?」
「いや、人恋しいわけでは」
ないと思う。
「じゃあどうして? 女の子と知り合ってどうするのよ?」
「捌け口になればと思ってだな」
「捌け口? 性欲の?」
「え? いや、……え? 違う、そうじゃない。つまり、捌け口がないほど煮詰まってる状態だから、気分転換をしたいんだ」
「その方法がデートってわけ?」
「それも手段の1つかと思っただけだ」
「まぁそうかもしれないけど。でも気が進まないわ」
「紹介してくれないのか?」
「だって貴方に恋してる健気な女の子を知ってるもの。私はその子を応援してるから、貴方のお願いとやらは聞けないわ。ごめんあそばせ」
「……芙蓉」
「ねぇ、どうして社内恋愛禁止なんて縛りを作ったの? どうして社外の人じゃないと駄目なの?」
「それは……」
「過去に何があったの? 冷やかし? ライバルに恋人でも奪われた? 何となくギクシャク? 仕事が疎かになった?」
その中に答えが含まれていた。動揺したところを見抜いたのか、芙蓉はそれに気付いたようだった。
「面白いことを教えてあげるわ。ネオナゴヤを隈なく見てみなさいよ。社内恋愛の温床じゃない。傑作なぐらいに! 平気よ。怖くなんかないわ」
「お前は……強いんだな」
「杣庄が好きなの。それだけよ」
堂々と言ってのける芙蓉は美しくもあり、格好よくもある。
「だが俺は……」
「貴方が尊敬してる柾さんも、社内恋愛してるわよねぇ?」
「それとこれとは話が違うだろう」
「違わないわ。好きだから好き、たったそれだけ。単純明快でしょう? 勝手に作った壁なんて取っ払っちゃいなさいよ」
「それは出来ない」
「どうして?」
「最低な振り方をしたんだ。それはもう……こっ酷くて、再起不能になるぐらいの」
「……何を言ったの?」
自嘲気味に全てを話せば、芙蓉は顔色をみるみる土気色に変えたのだった。
「貴方を殴ってやりたい。私が言われてたら、間違いなく殴ったわ」
今や芙蓉は恋する女性代表と書かれたタスキを身に付けた人権運動家のようだ。
「だろうな」
「信じられない。どうしてそんなことを言うの! もはや人格否定よ!?」
「百も承知だ」
「嘘よ! 分かってたらそんな酷い言葉出ないわよ! わざわざ傷付けて、……。……貴方、まさか……」
芙蓉はハッと口を手で押さえた。1つの結論に思い至ったのかもしれない。その先を聞く前に、俺は退室した。


[4]

「柾さん。俺には無理みたいです。その気になれない」
「その気?」
「恋愛です」
「僕は僕であり、お前はお前なんだからそれでいいと思う。現に麻生だって気分転換を恋愛で図ろうなんて考え、1%も持ちあわせていないしな。
所で青柳、志貴をどう思ってる?」
「彼女は俺の部下です」
「この間彼女が窮地に立った時、君はどうした?」
「叱りました。ミスを犯せば召喚します。内容次第では庇いますが、それでも限度はある」
「僕も同じだよ」
「……どういう意味です?」
「君自身はミスを犯していないとでも? 僕が言いたいのは志貴さんの件だ。
昨日こっそり泣いてるのを見掛けたぞ。僕を見るなり逃げようとしたから、反射的に捕まえてしまった。こういうのは得意でね……特技かな。
始めは無言を貫いていたんだが、埒が明かなかったから『言わないとキスする』と脅したら素直に教えてくれた」
柾さんにしては、笑えない冗談だ。何故か不愉快な気持ちになりながらも、俺は問い返す。
「……俺が犯したミス、ですか?」
「僕が言ったことを覚えてるか? 自分の気持ちを偽るな。過去の恐怖に囚われるな。志貴さんを傷付けるな」
「えぇ、覚えてます」
「その割には青柳、君は自分の気持ちを……」
柾さんの言わんとしていることが分かり、先回りで否定する。
「違います!」
鋭く吐き出したつもりだった。牽制するかのように。けれど、柾さんは懲りずに言葉を重ねてきた。
「彼女と同じ気持ちなんだろう?」
ぐわん、と。まるで大きな耳鳴りがしたような気がした。


[5]

気付けばゴミ箱に入り損ねたティッシュペーパーが散乱していた。それを指摘したのは薬剤師の由利だった。
どうも俺は熱があったようで、赤ら顔を見るなり薬をくれた。同時にお小言も。
「病院行きなよ。キミに必要なのは本当はこんな市販薬じゃなくて処方箋なんだからね。何より休息と」
「そうはいかない」
「中途半端に動くのは、時に足手纏いになるって知ってる? 現に迷惑掛けたよね、キミ。発注ミスだっけ?」
「仕事が……」
「上司1人居なくなったところで、何も変わんないよ。かえって不破と平塚と志貴は気楽に励めるんじゃないのー?」
そうかもな、と思う。
志貴は俺がいると身体が強張るようだ。緊張感を抱いていたのかもしれない。
今はこんなギクシャクした調子だし(俺自身のせいだという自覚はある)、由利の言う通り、休むべきかもしれない。
「分かった。指示を出したら病院に行くよ。店長に伝えて来る」
そして熱が下がったら……。
芙蓉と柾さんに指摘された件について、冷えた頭でゆっくり考えるべきなのかもしれないと思った。


_志貴side

[6]

失恋休暇が許されるほど社会も世間も甘くない。
恋愛って、モチベーションの浮き沈みに大きく関係するのに。
恋する女性に冷たい世間。
そして、私に冷たい男性。
軽いはずのハイヒールが、泥濘の上を歩く長靴のように重い。


[7]

チーフがイライラしているのは、きっと私が原因に違いない。
発注ミスだとか、POSオペレータへの連絡ミスだとか、耳に挟むのは青柳チーフらしくない失態の数々。
助けになりたいのに力になれない。私ってば無力だな……。
かと思えば、「青柳が社外に彼女を」という意味深な言葉が聞こえきた。噂話ではあるが、ショックを隠せない。
何がどうなっているんだろう。チーフに彼女がいたのか、それとも出来たのか。
正直そんな話は面白くないし、ますます気持ちが凹む要因にしかならない。
青柳チーフと顔を合わせづらくて仕事を辞めたくなる。でも柾チーフに注意された。「その愛は重すぎる」と。
男なら幾らでも紹介してやるから早まるな、とまで言ってくれた。
心が麻痺した状態だったから、例えウソでもそんな心遣いが嬉しくて、柾チーフの慰めに救われた。感謝してもしきれない。


[8]

実は数日前の段階で、青柳チーフの鞄から市販薬が覗いていたことは知っていた。
「あれは数日前から無理してたんじゃない?」とは、薬剤師である由利さんの弁だ。チーフの体調は「結構酷いかも」とのことだった。
だから明日は休むんだそうだ。体調如何によっては、明後日以降も休まざるを得ないらしい。不破君は不破君で、私より多くの情報を掴んでいた。
「陰で『馬鹿め、由利。この俺が風邪ごときで休むと思ったら大間違いだ』なんて言ってましたよ。
そのことを柾さんにチクったら、「寝てろ、青柳!」って珍しく怒ってたみたいです」
「あーあ。完全にマイコを馬鹿にしてるよね、アイツ。あれほどすぐ行けって言ったのに、頑なに拒否してさ」
「マイコ? 誰ですか、それ!? 今噂されている、青柳チーフの彼女!?」
「はぁ? 何言ってんのさ。マイコが彼女って、何それ、何の冗談?」
「由利さんが今ご自分で仰ったんですよ!? マイコって誰よぉぉ」
半べそをかくと、由利さんは不破君と顔を見合わせ、盛大に溜息をついた。
パソコンの画面をGoogleに切り替え操作する。由利さんの人差し指が1枚のレントゲン画像を示した。
「初めましてー。私が青柳幹久の身体に巣食っているマイコでーす」
「『マイコプラズマ肺炎』?」
「そう。僕の見立てではね。今年は4年に一度の流行期だし、ちらほら患者も増えてるって聞いてる」
「これではしばらく来られませんね」
色んなページを繰って症状を調べている不破君が言った。由利さんはのほほんと言い返す。
「何言ってんのさ、『柾.Jr』。青柳がいなくても平気だってこと、見せ付けてやりなよー」
由利さんに発破をかけられた不破君は、「そうですね」と頷き、早速その気になっている。
「志貴嬢。おたくは『青柳がいないから寂しい』なーんて馬鹿なこと言ってないで、不破と一緒に仕事頑張ってアイツを見返してやんなよ。
アイツに振られたから辞表提出するってのも、馬鹿馬鹿しい話でしょ?」
「うわ、痛いところを思いっきりえぐるんですね……。普通、本人を前にそこまで言いませんよ」
「ごめんねー。僕の毒舌は潮透子嬢にも負けてないって自負してるんだー。毒舌ついでに言っちゃおうかな。
徹底的に否定されたんだっけ? そこまで言われたら諦めた方が楽になるよ。ここが踏ん張りどころさ」


[9]

「いいえ、諦めるべきではないわ!」
八女さんは見目麗しい顔から一転、般若の形相でくわっと噛み付いてきた。思わず身を引く私である。
「いい、志貴!? 諦めては駄目よ、絶対!」
「でも、全否定ですよ? すっごい嫌われたんです。もうツラくて悲しくて、とてもこれ以上は食らいつけません」
頭の中でリプレイされる、あの日のやり取り。ここまで嫌われていたのかと、全身が震えてしまうほどで、心臓も痛かったのだ。
今でも思い出すたびに、いっそ死んでしまえれば楽なのにと思えるほどの肋間神経痛が鋭い激痛となって右胸で疼くと言うのに。
「もしかしたら、青柳はあなたをそれほど嫌っていないのかもしれないわよ? ううん、それどころか一縷の望みがあるかも……」
「八女さんは青柳チーフから好かれてるじゃないですか。私は違うんです。上司と部下という関係でしかなくて、本気で嫌われてる。
根拠のない仮定話はツラいから、聴きたくないです。糠喜びもしたくない」
「青柳は『嫌いにはならない』って言ったんでしょう?」
「そうですけど、分かったもんじゃないですよ! 愛想尽かして徹底的に避けてます、私のこと」
「青柳の場合、『嫌いにはならない』と言ったら絶対ならないと思うわよ」
「その場合、『好きにもならない』という言葉もそうなるんじゃないですか?」
私の反論に八女さんは怯んだ。やっぱり見込みなんてないんだ。そう思うとまた涙が零れ落ちてきそうだった。
「……。あ、青柳からだわ」
スマホから光を発する青色イルミネーション。
青柳チーフ、八女さんにはメールを送るのに私には送らないってどういうことなの? 普通は部下に送らない?
またしてももやもやとしたイヤな感情が浮かび上がる。そんな私の顔を、八女さんはまじまじと見つめるのだった。何だろう?
「ねぇ、あなたは大丈夫なの? 体調」
「え?」
「由利の見立て通りマイコプラズマ肺炎ですって。あれは飛沫感染するんでしょう? あなたと青柳、ここ数日至近距離にいたわよね?」
無理矢理引っ張られて連れて行かれた夜景、今思い出しても悪夢でしかない着ぐるみ、そして形振り構わず必死に訴えた陳情――。
確かに必要以上に接近してはいたけれど。
「私は別に、熱なんて」
「潜伏期間中かもね」
「脅かさないでください! そういうのって、暗示みたいですよ!? ノボセ……なんとかって」
「ノセボ効果」
プラシーボ効果しかり、ノセボ効果しかり。人間は意外と暗示にかかり易く、刷り込まれ易くもある生き物だ。
「とっ、とにかく、私は大丈夫です。そんなにチーフに近付いたりしてませんから」
ウイルスの潜伏決定。これでチーフには1週間から2週間ほど、つまり完治するまで会えないことになる。
会いづらい面もあったし、安堵感もある一方で、姿が見れない事実は本音を言えば寂しい。
この期に及んで、会えなくて寂しいなどという乙女な気持ちを持ち合わせている自分に腹が立った。
あんな仕打ちを受けてもまだ惚れ続けている私。好き過ぎてツラいなんてズルい。どこまでも現状は最悪だ。
それ以上に堪えたのは、やっぱり私のスマホには何も送られてこないことだった。
「そんな些細なこと気にしないの!」と八女さんは言うけれど、不破君は「休むから宜しく頼む」という連絡を受け取ったみたいだった。
私には業務連絡すらくれないの? なんて、八つ当たりをしたくなる。
あぁ、もう駄目。心が悲鳴をあげている。
ごめんね、私にはどうしようもないんだ。
青柳チーフを諦めることも出来ないし、彼を嫌いになることも、決してできないんだろうと思う。
ごめんね、私。痛みを手放せなくてごめん。
困った人を好きになってしまったね。とことん難儀な恋だ。


_青柳side

[10]

「ご快気おめでとうございます。青柳チーフ」
不敵な笑みを浮かべながら俺を労う部下1人。
8日振りに出勤したらば、そいつは下剋上さながらに好調な売り上げ実績を引っ提げて、俺を出迎えた。
「仰々しい。お前から手放しで祝われると、かえって呪われそうだ。
いつもの減らず口はどうした? 『もう帰ってきやがったんですか、まだ寝てればいいのに』とは言わないのか」
「まさか。口が裂けても言いません。
何せ青柳チーフには、チーフ不在にも関わらず叩き出してみせた黄金の売り上げ実績について誉めて頂かなくてはならないので。
早く来ないかな、今日来ないかな、来ないなら・押し掛けようか・不如帰、の心境でした」
「お前……」
復帰早々、疲弊でベッドへ逆戻りするのだけは勘弁願いたい。
「不在中に変事は?」
「特には。あぁ、チーフが志貴さんをこっ酷く振った件が店中に伝播しました」
「言いたいやつには言わせておけ。下らん」
不破からここ2週間分の部門別売り上げデータを受け取り、目を走らせる。くそ、不在4日目からじわじわと上がり始めてる。
今日以降の俺の采配次第で、不破と志貴の実力が白日の下に曝されるわけだ。
「志貴はどこだ?」
書類を不破へ返し、短く尋ねる。それまで澄まし顔だった不破の表情が、瞬時に曇った。
「志貴はどうした」
再度尋ねると、不破は半眼のままそっぽを向いた。
「不破」
「ですから――チーフが志貴さんをこっ酷く振った件が店中に広まったと言ったじゃないですか」
「なんだそれは。答えになっていないだろうが」
「休んでます。志貴さん。『針の筵に座ってるみたいで居た堪れない』と言って、かれこれ3日ほど。体調も崩されてるみたいです」
「……なんだと?」
「悲しいことに、いるんですよ。人の不幸を面白おかしく論(あげつら)って野次を飛ばす、低能な人間が。
それですっかり参ってしまって。志貴さん、少し前にパートやアルバイト達とトラブったでしょう? 敵がいないわけじゃないので」
「何故それを早く言わない」
そこで不破は押し黙る。
なるほど、不破には複数の言い分があるようだ。そしてその中の幾つかが俺に非があることを、暗に指摘していた。
「その無言の反論を真摯に受け止めるとするか」
「いえ――僕ごときが偉そうに、すみませんでした」
どこまでも化けるな、この男は。これは将来、大物になるぞ。
「お前のことだから自宅訪問したんだろう。どんな様子だ?」
「一言で言うなら、憔悴でしょうか。やつれてます」
そう話す不破の眉間に深い皺が寄る。訪問した時のことを思い出したのだろう。つらいものを見たのか、悲しげな顔をした。
「チーフ。するんですよね?」
「何をだ」
問い返さなくても、大体分かっていた。こいつが何を言いたいのか。何を勧めたがっているのか。それでも気付いていないフリをした。
「自宅訪問」
「しない」
俺がきっぱりと断言したことで臆したのか、それとも何を言っても無駄だと悟ったのか、不破は決して質問を繰り返したりはしなかった。


[11]

自宅訪問をしないと言い放った言葉は本音だった。
「そうよねぇ。仕事一辺倒の青柳幹久が社内恋愛? ないない!」
顔の前に持って来た手を左右に振って否定のポーズを取るのは女傑四人衆が一人、黛八千代。クスッと小さく笑うのは香椎寧。
女傑の3人目、馬渕名子は猫のように目を細め、俺の手の甲に中指と人差し指を置き、つぅ、と滑らせる。
「恋愛してる青柳クンなんて、青柳クンらしくないわ。なんといっても青柳クンは私たち4人を振った過去があるんだし?」
「……過去を蒸し返すな」
耳の痛い思い出を聞かされたのでは、たまったものではない。すわ、思い出話に花が咲くその前に話題を打ち切った。
「でも、だったらどうして私たちにそんな話をしたの? 何か用事でも?」
八女芙蓉は、カクテルグラスの縁に砂糖をまぶし付けたマルガリータで唇を湿らせてから、不思議そうに尋ねてくる。
ここは寧の弟、香椎新(かしいにい)が経営している≪キアロ≫というカフェ店内。
目立たない席を用意して貰い、カクテルを煽る我ら5人、という構図だ。店の自慢であるキッシュを頬張り、その味に酔い痴れる小集団でもある。
「依頼をしたい」
個性豊かという表現より、癖のある、と説明した方がピッタリの4人の女性に向かって短く告げた。
反応はどれも同じ。全員が全員興味をそそられ、好奇心をくすぐられた蠱惑的な目へと変貌する。俺は成功を確信した。
「青柳クンが依頼? 私たちに?」
特に名子は露骨に面白がった。わざわざ言葉を区切りながら念を押すぐらいなのだから、相当だろう。
「1つ、噂を流して欲しい」
「なんだ、それだけなの」
気紛れ猫は、落胆する勢いも激しいときた。
それでも流布して欲しい内容を聞くなり、4人はにんまりと口角を上げて微笑むのだった。
4人の中で2番目に、乗り気になるのに時間が掛かる八千代ですら「それ、ちょっと面白いことになりそう」と言い出した。続けざま、
「相馬ちゃん……じゃなかった。結婚したから香椎姓よね。いけないいけない、癖が抜けなくて。これからは灯ちゃんって呼ばなくちゃ。
灯ちゃん、アラウンド・ザ・ワールドとヴェネツィアモヒート、フレンチ75にモーツァルトミルク。あと、ミスティアロワイヤルをお願い」
きびきびと働く若きベテラン女性店員――先月、店長である香椎新と籍を入れた従業員だ――に声を掛け、出来上がった順に持って来て貰う。
鮮度バッチリのカクテルグラスを各々掲げ、
「青柳クンの未来に乾杯」
乾杯の音頭を取った。5種類のグラスが軽くぶつかり合い、甲高い音を奏でる。


[12]

惚れた腫れたは甘い蜜。
外部は、より詳しい情報を我先に得んとばかりに伝え、囁き合う。根掘り葉掘り聞き出したネタには尾ひれが付いて原形を留めない。
俺が非社内恋愛主義を貫いているのは、過去に散々な目に遭い、そんな煩わしさを二度と味わわないためだった。
それなのに、あのお騒がせ娘ときたら、正面から俺をしっかり見据えての体当たり告白。
俺に好意を持っている素振りなど微塵も見せなかったくせに、突然訴えたりするから言わんこっちゃない、今では社内を光速で駆け巡るスキャンダル。
俺もお前もいい鴨だ。
正直、志貴の出社拒否を想定していないわけではなかった。
俺だって経験がある。冷やかされている内に、何度か仕事を休みたいとも思った。
志貴にその重責が耐えられるだろうか。いや、それは無理だろう。現に志貴の欠勤は4日目を迎えていた。
社員の中には「よっ、色男。志貴を振ったんだって?」と囃し立てる脳無しもいたが、一睨みもすれば、すごすごと去って行く。
こんな茶番ももう終わり。1時間と経たない内に、新たな噂が社内を席巻するだろう。人間拡声器がその役目を担ってくれる。
――誰よ、志貴ちゃんが振られただなんてウソを言い触らした人。ちゃんと2人付き合ってるんじゃない。
――なんでも青柳クンが彼女にベタ惚れで、交際を申し込むのも拝み倒したって話よぉ。いや~ん、激し~ぃ。
――志貴さんが休んでるのって、青柳を甲斐甲斐しく介抱してマイコプラズマが感染しちゃったから、だそうよ。
噂は広がる一方。真実を知る唯一の人間でもある不破の耳にもその噂は届いたようで、ヤツは聴きつけるなり苦笑い。
「自宅訪問しないと言った矢先にコレですか。なにを企んでいるのかと思えば。それにしてもやり過ぎじゃないですか、女傑四人衆」
「いや、これぐらい暴走して貰わないと困る。俺と身近なあの4人が異口同音に仄めかすことで真実味を帯びてくるんだからな、この嘘は」
目には目を。歯には歯を。ウワサにはウワサを。
これで俺が振った真実を、塗り固められたウソによって相殺することが出来る。あとは志貴との交際報道を肯定すればいい。
偽りの恋人ゲームで噂が相殺できたところで、別の意味で志貴を苦しめることになることは重々承知の上だ。



2012.06.20
2020.02.14 改稿


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