さらに”出雲口伝”によれば、古代の出雲王国において”ある時期”に、〔西出雲王国〕の第八代 大名持(オオナモチ/主王)である「大国主(オオクニヌシ)」と、〔東出雲王国〕の第八代 少名彦(スクナヒコ/副王)の「事代主(コトシロヌシ)」の、東と西の出雲王国全体を治めていた(上記の)「二人の王」が、古代出雲の風習では”有り得ない謀略”により同時期に暗殺される事件が起きたという伝承がある。
これによって、副王「コトシロヌシ」の別の后である「活玉依姫(イクタマヨリヒメ)」とその子供達は、島根の出雲国から故郷の摂津国三島(大阪府高槻市)に帰り、そこで成長した息子の「奇日方(クシヒカタ)」が大和に新王国を造ることを決意。そうして大和盆地の南部に移住して”国造り”を始め、大和の「三輪山」を神体山とする「大神(おおみわ)神社」の初代祭祀者となった子供の「 蹈韛五十鈴媛( タタライスズヒメ)」は、当社に父親の「コトシロヌシ」を「大物主(おおものぬし)大神」として祀ったのであった。
故に”
出雲口伝”によると、大和国一之宮
「大神神社」の主祭神「大物主大神」とは、〔東出雲王国〕第八代 少名彦(副王)の「事代主(コトシロヌシ)」になるのである。
ところで、この「美保神社」の”大社造の左右二殿連棟”という特殊な形式の本殿は、「美保造」または「比翼大社造」といわれ、〔国の重要文化財〕に指定されている。確かに「大社造」ではあるのだが、他に類を見ない社殿の「造(つくり)」である。
一般に社殿の屋根に乗る「千木」については、「縦削ぎ」の方に”男神”を祀り、 「横削ぎ」の方に”女神”を祀るとされているが、本来は”出雲系の社”が
「縦削ぎ」であり、”渡来系物部族の社”が「横削ぎ」であったとのことだ。
伝承によると、「美保神社」に
「縦削ぎ」と「横削ぎ」の社が併存しているのは、先住出雲族と渡来系の九州・物部族が、永い恩讐の果てにその確執を乗り越えて、”仲良く泰平を築こう”との思いを込めて、出雲王族の子孫が建立したからだということである。
上の画像に映る由緒にあるように、祭神の神名は「眞玉著玉之邑日女命」(マタマツクタマノムラヒメ)とある。
私としては今回の初参拝で、はじめて知った神名であったが、かつて自分が”綿棒で立体を作る行為”を「玉造(たまつくり)」と表現したり、ペンネームを「matama」としたことがあったので、私的には絶妙な”馴染み”を感じる神名であった。
また、加えて当祭神は、「神魂命」(カミムスヒノミコト)の娘神とされ、大己貴命(オオムナチノミコト)の妻ということである。
当社に参拝することになった動機は、出雲の「神在月」といえば旧暦十月の”一ヶ月の祭事期間”を意味し、「出雲大社」では毎年の旧暦十月十一日から一週間の祭事が始まるわけだが、普通に考えても”あってしかるべき”と思われる「神在月」の初日である十月一日からの祭事について、これに関する情報が何故か得られなかったことや、この件について調べてみる機会を逸してきたこともあった。
それが今回の出雲行脚の過程で、この「朝山神社」の
『神在祭』における祭事が、旧暦十月一日から始まることを知る運びとなり、出雲地域に移住して間もない知人を誘い、当社への初めての参拝となった。
そこで以下、「朝山神社」での祭事を含む『神在祭』の日程等について、知り得たことを記しておこう。
・・・全国の神社から出雲に集った”八百万の神々”は、まず十月一日から十日まで「朝山神社」に滞在され、ついで十一日から十七日までは「出雲大社」に滞在され、それから十八日から二十五日までは「佐太神社」に滞在され、最終日の二十六日に「
万九千
(まんくせん)神社」において諸神事を終了し、最後の「
神等去出
(カラサデ)祭」を斎行した夕刻に、それぞれ全国各地の神社へ向ってお立ちになる。・・・
この『神在祭』における旧暦十月一日から十日までの祭事は、現在でも「朝山神社」において厳然と斎行されているとのことである。(上の画像は「朝山神社」の拝殿を撮影したもの)
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