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こういうものは、とっとと茹でて(焼く、という方法もあるだろう)お腹におさめるのがいいのに決まっている。たのしや。手が、あたまが、ひとりでに大鍋に湯を沸かすかたちになる。たのもしや。
3分ほどで茹であげて、黄の色とつやを増したとうもろこしを大ざるの上にならべる。湯気がたった。
日曜日の夕方のこと、家にいた誰も彼もを呼び集める。
「とうもろこしですよー」
歓声があがる。
歓声のあとは、静まりかえる。皆、とうもろこしに齧りついているからだ。とうもろこし相手に無口になっているのは夫、長女、三女、三女の友だち、わたしの5人。うれしや。じつにおいしいとうもろこしだ。
いただいたとうもろこし。茹でたてを食べる面面(二女は仕事に出かけていていなかった)。
それだけで、満たされてしまった。
それにしても、とうもろこしの5人のなかの、三女の友だちの手のなかに残った黍殻(きびがら)のきれいなことは、どうだろう。とうもろこしの粒粒を根元からきれいに噛みとって食べたからなのだ。すごいすごい。
きょうも生きて、とうもろこしまで食べて、1日が終わろうとしている。これでじゅうぶんだと思う。ときどき、「なぜそんなにたのしそうにしているのか」と か、「おもしろく暮らすコツは?」と訊かれるが、そう見えることがまずはありがたく、もしそう見えるなら……、答えは簡単、と思うのだ。わたしが多くを望 んでいないからだ。
なんだかいつも、「これでじゅうぶん」と考えている。
うまくゆかないことが起きたときも、一気に片をつけようなどとは思わず、じわりじわりとゆくとしよう。……悲しみも、辛さも、おそらくは噛みしめるたび身になってゆきそうではないか。



