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■10月22日(火)閑さや岩にしみ入る蝉の声 芭蕉紀行文「おくのほそ道」の代表的な句が生まれた場所として有名な山寺。立石寺(りっしゃくじ)は、山形県山形市にある、天台宗の仏教寺院。遠く平安初期にたてられたという立石寺は官寺(かんじ)である。官寺(かんじ)とは、国家の監督を受ける代わりに国家より経済的保障を与えられた寺院。寺格の一つ。狭義には食封や墾田保有権(荘園私有の権利)を国家から与えられて、運営が行われている寺院のことを指すが、広義には朝廷または国衙が伽藍の造営・維持のための費用その他を拠出している寺院を指す。立石寺は、山寺(やまでら)の通称で知られている。だから、山寺の門前の食堂も「山寺食堂」!!1015段もある長い石段を登って奥之院を目指すのが王道の参拝ルート。石段は登ることにより煩悩が消滅すると言われている、ありがたい修行の石段。まずは登山口からほど近い場所に位置する「根本中堂(こんぽんちゅうどう)」へ。国内最古のブナ材木造建築とされ、国の重要文化財に指定されています。立石寺の鐘楼堂は、山門の前に佇む小さな堂で、その存在感は除夜の鐘として広く知られています。江戸時代末期に鋳造された梵鐘は、毎年12月30日には厳かなすす払いの総会が行われます。そして、その翌日の正午前には、多くの参拝者が集まり、幸せを願って除夜の鐘を強い力つきの瞬間が訪れます。▲大イチョウ。いてふの根 床几斜めに 茶屋涼し 高浜 虚子▲俳聖・松尾芭蕉と▼蕉門十哲と呼ばれた俳人「河合曾良」最初、芭蕉と曽良は、山寺に行く予定はなかったが、尾花沢の清風らの勧めにより立石寺を訪ねる。▲山門これから先も石段は続く。奇岩怪石からなる山全体が修行と信仰の場になっており、登山口から大仏殿のある奥之院まで1時間ほどの道のりのそこかしこに、絶佳の景観が広がるというが、私たちは、ここで、山寺を後にした。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆斎藤茂吉記念館に行った。■斎藤茂吉年譜■*斎藤茂吉は、1882年(明15)5月14日(戸籍では7月27日)、山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村=現上山(かみのやま)市金瓶=の農家守谷伝右衛門の三男として生まれた。*1896年(明29)14歳の時、茂吉の資質を目にとめていた住職の仲介で、東京浅草で淺草医院を開業していた同郷出身の斎藤紀一のもとに寄寓し、開成尋常中学校(現在の開成中学校・高等学校)に編入学。医学を学び、斎藤家の養子となって後を継ぐためでした。上京した茂吉は開成中学から旧制第一高校(東京大学の前身)へと進学。第三学部(医学部)の学生となった茂吉でしたが、一方では幸田露伴の文学に親しみ、1904年(明治37年)12月には、発行されたばかりの正岡子規の遺稿集「竹の里歌」を読んで強い感銘を受け、作歌を志すようになります。1906年(明治39年)、子規の流れを汲む伊藤左千夫に入門し、本格的に短歌の道を歩み初めます。歌誌「馬酔木」が「アララギ」へと変わってからはその中心的な歌人となりました。1913年(大正2年)、第一歌集『赤光』(しゃっこう)を発表し、大きな反響をよびました。 この間、1905年(明治38年)には斎藤家の婿養子として入籍(23歳)、1910年(明治43年)卒業、1914年(大正3年)に斎藤紀一の二女輝子と結婚します。茂吉31歳のときでした。斎藤茂吉は、天才的な頭脳の持ち主で、医師として、当時海外に留学するほどの、人だったばかりか、歌人としても、当時の一流の人と交流があった。みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞただにいそげるのど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり(死にたまふ母 大正2年)この二つの短歌は、有名。★詩人で作家の佐藤春夫や歌人で医者の斎藤茂吉は、類の相談相手。類と妻が営んでいた書店「千朶(せんだ)書房」という名は、斎藤茂吉がつけた。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆山形城で、ガイドさんと待ち合わせ。山形城は、「霞ヶ城」とよばれる。「北の関ヶ原合戦」と呼ばれた慶長出羽合戦においては、城郭が霞で隠れて見えなかったことから、「霞ヶ城か」と呼ばれたと地元では語り継がれています。天文15年(1546)に、最上義守の嫡男として、最上家11代当主となる最上義光( よしあき)が誕生した。幼少の頃から武勇に優れていた義光でしたが、最上家内の内紛や近隣大名との確執など、青年時代はさまざまな困難に見舞われます。隣国のライバルである伊達政宗だて まさむねとは、最愛の妹・義姫よしひめを通した叔父・甥の関係でもありました。山形城は土塁で囲まれた城郭ですが、城門のみ石垣が用いられています。石垣には馬見ヶ崎川で採掘された玉石(安山岩)を割った石材を用い、割り面を前面に利用しています。10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■10/19-1■山形県・鶴岡市:城址公園/丙申堂・/酒田市:土門拳記念館■10/19-2■酒田市・本田家/日和山/山居倉庫■10/20■鶴岡市・出羽三山・羽黒山■10/21-1■最上川で舟遊び/芭蕉10泊の町、尾花沢■10/21-2■レトロな銀山温泉/川北町・紅花資料館■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.27
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今から65年以上前、昭和30年代、岡山県の田舎で子ども時代を過ごした。その頃は、村のどこの家にもテレビはなく、うちには、ラジオも無かったけれど、流行りの歌謡曲は、よく知っていた。近所に、若い女性が嫁入りしてきた。 彼女は、「播州弁」の訛りで、子どもを流産したことを涙ながらに母に話していた。「あんたは、若いんじゃから、大丈夫じゃぁ。また、できる」と母は励ましていた。家に電話もない時代、言葉の違う見知らぬ所に嫁入りして来た女性にとって、我が子だけが唯一の身内と思えたのではないだろうか。 その頃、村はずれにあった、小さな墓地で、その女性は、流産してしまった、子どもを思ってか、毎日手を合わせていた。その頃流行っていた歌に、「別れの一本杉」というのがあった。♪泣けた 泣けたこらえ切れずに 泣けたっけあの娘(こ)と別れた 哀(かな)しさに山の懸巣(かけす)も 啼(な)いていた一本杉の石の地蔵さんのヨー 村はずれ小学生だった私は、「泣けた」や「村はずれ」などの言葉から、その女性の姿に、「別れの一本杉」を重ねた。その後、彼女は、男の子を出産し、「まさひろ(仮名)」と名付けられた。数年後、今度は、女の子を出産、「よしみ(仮名)」と名付けられた。毎日、墓に行っていた女性は、もう行かなくなった。子どもが出来たこともあるし、その頃、村に点在していた墓地が、近くの山の中腹に移転したからだった。 まさひろ君は、地元の役場に勤め、定年退職した後、司法書士になっていた。今年、私の父母が亡くなってから、長い間、放っておいた実家の持ち主の名義を変えるために、司法書士を頼まなければ・・・となった時、親戚が、「まさひろさんが、司法書士をしょうる」と教えてくれたのだ。結局、私の家の近くの司法書士に頼んだが・・・。今、まさひろ君の家は、彼の母親が毎日、手を合わせていた、墓地の跡にある。彼は、そこが墓地だったことも、彼の母親が、子どもをなくして涙していたことも、知らないかもしれない・・・。昔、昔のことだから・・・。彼の両親を見たのは、私の父がまだ生きていた20数年前で、以後、見ていない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.26
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■10月21日(月)-2銀山温泉に行った。山形県尾花沢市にある銀山温泉は江戸時代初期の大銀山として栄えた「延沢銀山」の名称に由来している。 NHKの連続テレビ小説「おしん」の舞台となったことで一躍脚光を浴び、大正末期から昭和初期に建てられた洋風木造多層の旅館が銀山川の両岸に沿って軒を並べ、昔ながらの独特な景観を味わうことができる。500年もの歴史をもつ銀山温泉は、奥羽山脈の懐に抱かれた自然の中にあります。大正2年(1913年)の大洪水でそれまでの旅館街が壊滅し、湧出量も減ってしまいましたが、昭和元年(1926年)に源泉のボーリングで高温多量の湯が湧出し、各旅館は一斉に洋風の3~4層の木造構造に建て替えを行いました。銀山川を挟んで建ち並ぶ現在の旅館街はその頃に形成されたもので、「家並み保存条例」により守られているその景観は、まさに大正ロマンの趣が溢れています。「銀山温泉が今のような街並みになったのは、実は1910年代以降です。銀山川の洪水により、当時の建物がかなり被害を受け、その後、大工職人や左官職人、建具職人が競い合って再興し、今のような洋風木造多層の建築物に生まれ変わりました」その際にガス灯や石畳の沿道、橋の整備なども行い、現在の銀山温泉の姿になったそうだ。近くに滝があって、散歩によき。写真で見たが、夜や雪の景色は、幻想的で美しい。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆河北町の紅花資料館を見た。かつて、最上紅花その価値は米の百倍、金の十倍といわれ、山形県の県の花に指定されている紅花。「べに花の里」として有名な河北町にある全国唯一のベニバナの資料館。 河北町が、紅花を町の花と定め「べに花の里・かほく」を標榜している理由は、江戸中期以降に見られる最上紅花の集散がこの町でおこなわれたことによります。河北町紅花資料館は、近郷きっての富豪だった堀米四郎兵衛の屋敷跡です。屋敷の総面積は約80aで、かつては土蔵が6棟、板倉が6棟もありましたが、老朽化が甚だしく、母屋をはじめ多くの建物が整理され解体されてしまいました。この屋敷には武器や生活用品および古文書など5,000点を保存しています。昭和57年にこれらの寄贈を受けた町が、漸次整備修復を加え、昭和59年5月に「紅花資料館」として開館したものです。壁が赤いのは、「ベンガラ」という鉱物を使ったからだろうか?紅花は、北前船で主に京都に運ばれた。その際、北陸の港で降ろし、陸路、琵琶湖まで運び、琵琶湖から京都に向かった。「源氏物語」には、「末摘花」という不美人でありながらも生涯光源氏と関わり続けた女性がいる。「末摘花」とは、源氏がこの女性につけたあだ名で、彼女の「鼻が紅い」こととベニバナの「花が紅い」ことをかけたものである。●8044歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■10/19-1■山形県・鶴岡市:城址公園/丙申堂・/酒田市:土門拳記念館■10/19-2■酒田市・本田家/日和山/山居倉庫■10/20■鶴岡市・出羽三山・羽黒山■■最上川で舟遊び/芭蕉10泊の町、尾花沢■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.25
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■10月21日(月)-1この日は、最上峡芭蕉ラインの舟下りである。かつてここには、舟番所があり、舟の荷物を調べていた。五月雨を集めて速し最上川 芭蕉 (奥の細道) 芭蕉がこの最上川を俳句にして以来、多くの文人墨客がこの川を見るために訪ねた。病身の正岡子規も、ここまできた。(略)ずんずんと夏を流すや最上川 子規■街道をゆく10:羽州(うしゅう)街道■五月雨や大河を前に家二軒 与謝蕪村子規は、蕪村の句の方が、芭蕉の句よりもいいという。▲これは、子規の句。▲芭蕉の酒田での句。(奥の細道)服二枚重ねて秋の最上川 はるなこの日は、肌寒くて、フリースの上着の上に、ダウンのベストを着た私。1時間舟下りをして、バスで帰ってくることになっていたが、今年7月の大雨で川の形が変わってしまった。だから、いつもの半分のコースでUターンした。<人格というほかない大きな気魄>に圧倒されると誰かが書いていたが、ここが大雨で河の水が増えたら、本当に、獣が荒れ狂うようだったろう。観光舟も何艘か流されてしまったそうだ。▲今も7月の増水の名残りがあちこちに残っていた。▼ NHK朝ドラ、「おしん」は、このあたりから舟に乗って、酒田に行くという設定だ。酒田まで、下りの舟は、4~5日くらい。帰り(上り)は、風任せなので、2週間以上かかったとガイドさん。風がない時は、陸から舟を曳く、曳き子が必要になり、曳き子を職業とする村もあったという。 最上川の難所や急流では、当時往来する川船では、曳子たちが船に綱をかけて引っぱりました。難所付近にはこの曳子たちの住む曳船集落があり、多いときには100人以上の曳子が必要だったようです。■最上川舟運■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆最上川を体感したあと、尾花沢という町に行った。江戸時代宿場町として栄えた尾花沢。この町は、芭蕉10泊の町を売りにしている。(他にもあるが)元禄2年(1689)5月17日(新暦7月3日)、松尾芭蕉は「封人の家」を出発し難所である山刀伐(なたぎり)峠越えて昼頃に羽州街道の尾花沢宿(山形県尾花沢市)に到着。尾花沢宿では旧知である鈴木清風宅を訪ねています。その時の様子を「尾花沢にて清風といふ者を尋ぬ。かれは富める者なれど、志卑しからず。都にもをりをり通いて、さすがに旅の情をも知りたれば、日ごろとどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなしはべる。」と「奥の細道」では記しています。芭蕉は5月17日当日は鈴木清風宅に宿泊したものの、翌日からは少し離れた養泉寺(山形県尾花沢市)に宿泊地を変えています。これは、芭蕉が訪れた時期が紅花の開花期に重なった為、邸宅は多くの人々があわただしく出入りして落ち着いた雰囲気が無く、清風自身も忙しく動かざるを得ない状況だったからと推定されています。養泉寺は元禄元年(1688)に本堂を再建したばかりで、まさに新築の建物に芭蕉を迎え入れた事となり、その心遣いに大変感謝しています。そこで生まれた句が・・・ 涼しさを わが宿にして ねまるなり 芭蕉 (奥の細道)「ねまる」とは当地方の方言で、力が抜けて、だらりと、寝そべる(楽に座る・あぐらをかく)意味で、芭蕉は養泉寺で昼風呂から上がり一息入れると、まるで自分の家にいるように心に風が吹き抜けるような爽やかな気持ちになり、安堵感と開放感に包まれた様子を表現しているようです。這出よ かひやが下の ひきの声 芭蕉 (奥の細道)芭蕉が尾花沢で訪れたと思われる蚕を飼っている小屋の床下で、恋を奏でるヒキガエルの声を聞き、恥ずかしがらないで、こちらに来て顔を見せて欲しい、といった意味と思われます。もう一句・・・・まゆはきを 俤にして 紅粉の花 芭蕉 (奥の細道)芭蕉が訪れた時期は丁度紅花の開花期に重なった為、紅花の畑を見学したのかも知れません。その際、紅花の花弁の形状が眉掃き(おしろいをつけたあと、眉を払うのに用いる小さな刷毛)のようで、風で揺れるとまるで女性が化粧をしているようにも見えて美しいことだなー、といった意味と思われます。 鈴木清風は、芭蕉とも親交のあった俳人であるが、本業は「島田屋」という商家の三代目で”紅花大尽”と呼ばれる程の豪商でもあった。元禄11年の夏、紅花の商いに江戸に上った清風を、江戸の商人たちは、清風を田舎商人と甘く見て”不買同盟”を結んで妨害した。それに対し清風は智略でこれを突破、三万両の利益を得た。「尋常の商売で得た金ではない、きれいさっぱり使い切る。」と言って、吉原の大門を3日3晩閉め切って遊女達に休養を与えた-----。と言う豪気な逸話等が残されている。10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■10/19-1■山形県・鶴岡市:城址公園/丙申堂・/酒田市:土門拳記念館■10/19-2■酒田市・本田家/日和山/山居倉庫■10/20■鶴岡市・出羽三山・羽黒山■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.23
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■10月20日(日)出羽三山の羽黒山を目指していたら道路に大きな鳥居が!!古より信仰をあつめてきた出羽三山。羽黒山、月山、湯殿山の三山を巡めぐることは、死と再生を辿たどる「生まれかわりの旅」といわれてきました。■随神門■出羽三山神社の神域の表玄関。神域に邪悪なモノが侵入するのを防ぐ御門の神を祀っています。明治時代まで「仁王門」と呼ばれており、1695年に現秋田県由利本荘市矢島の領主生駒山讃岐守が、家運繁栄と極楽往生を祈って寄進しました。目指すは、東北北地方では最古の塔、国宝 羽黒山五重塔だが、長い長い石段が・・・。羽黒山には2446段があるそうだ。普通は、階段を登って、神社があるというのが当たり前だけど、ここは、何段もの石段を下った先に、五重塔がある。現在の塔は、約600年前に再建されたものといわれています。高さが29.0mの三間五層柿葺素木造で、昭和41年には国宝に指定されました。▲五重塔に着くまでに、杉の林が・・・。▼石の道もいい。近くには樹齢1,000年、樹の周囲10mの巨杉"爺杉(じじすぎ)"があります。出羽三山は月山が過去、羽黒山が現在、湯殿山が未来を象徴するとされ、それぞれ月山神社、出羽神社、湯殿山神社が鎮座する。▲入り口には、古くからの宿坊も残っている。多くの人が、この神社に参詣している。松尾芭蕉も「奥の細道」に出羽三山の俳句を残している。「涼しさや ほの三か月の 羽黒山 」「雲の峯 幾つ崩て 月の山」「 語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」の3句を短冊にして収めています。■鏡池■東西38m南北28mの楕円形のこの御池は御本殿の御手洗池であり、年間を通しほとんど水位が変わらず、神秘な御池として古くより多くの信仰をあつめ、また羽黒信仰の中心でもあった。古書に「羽黒神社」と書いて「いけのみたま」と読ませており、この池を神霊そのものと考え篤い信仰の捧げられた神秘な御池であり、古来より多くの人々により奉納された、銅鏡が埋納されているので鏡池という。■鐘楼と建治の大鐘(国の重要文化財)■堂は鏡池の東にあり、切妻造りの萱葺きで、小さいが豪壮な建物である。最上家信の寄進で元和4年再建した。山内では国宝五重塔に次ぐ古い建物である。鐘は建治元年の銘があり、古鐘では、東大寺・金剛峰寺に次いで古く且つ大きい。 この鐘は文永・弘安の蒙古襲来の際、羽黒の龍神(九頭龍王)の働きによって、敵の艦船を全部海中に覆滅したので、鎌倉幕府は、羽黒山の霊威をいたく感じて、鎌倉から鐘大工を送り、羽黒で鐘を鋳て、羽黒山に奉ったのであるという。▲雨に洗われたように、赤い鳥居や木々の緑が美しかった。▼ホテルに早く着いたので周りを散策。ススキが美しい!!赤い実もきれいだ。この日は、ホテルに3時に入った。普段は、ゆっくり暮らしているのに、旅行中は、早く起きて、早く朝食・・・。たまには、ゆっくりしたい。朝一番に、前日に壊れたスマホを直しに行った。●11701歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■10/19-1■山形県・鶴岡市:城址公園/丙申堂・/酒田市:土門拳記念館■10/19-2■酒田市・本田家/日和山/山居倉庫■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.22
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■イル・ポスティーノ■「言葉」が人生に愛を運ぶ。南イタリア、ナポリの沖合いに浮かぶ小さな緑溢れる島に、チリから亡命してきた高名な詩人パブロ・ネルーダ(フィリップ・ノワレ)が滞在することになる。貧しい漁師の父親と二人暮らしのマリオ(マッシモ・トロイージ)は、世界中から送られてくる手紙をネルーダへ届けるだけの郵便配達人に採用される。初めは緊張していたマリオだが、サイン欲しさに買ったネルーダの詩集を読むうちに言葉のパワーに目を開かれ、自らの生き方や社会についても考えるようになる。ネルーダもまたマリオの無垢な感性に刺激され、二人の間に友情が育ってゆく。そんな中、港のバーで働くベアトリーチェ(マリア・グラツィア・クチノッタ)に一目で恋したマリオは、ネルーダの応援を得て新たな人生へと踏み出す。だが、突然、ネルーダの追放令が解除され、祖国へ帰る日がやって来る──。20世紀最高の詩人と言われているパブロ・ネルーダ。チリを代表する国民的な詩人であり、外交官、政治家。2024年はネルーダ生誕120周年にあたる。ネルーダは、16歳でパブロ・ネルーダというペンネームで詩を書き始め、24年官能的な愛の詩集「二十の愛の詩とひとつの絶望の歌」を出版。20代から外交官としてアジア各地を遍歴し、34年スペインに赴任、スペイン内戦を目の当たりにし共産主義に接近。45年にチリ共産党に入党するが、48年に議員資格をはく奪され、国外逃亡を余儀なくされる。このころのイタリア亡命時代を題材に『イル・ポスティーノ』が作られている。50年には詩集「大いなる歌」を刊行。52年、逮捕令が解けてチリに帰国。70年には共産党から大統領候補に推されるが辞退し、チリは世界で初めて民主的な選挙によって社会主義政権が誕生。駐仏大使中の71年にノーベル文学賞を受賞するが、病気のため大使を辞任し72年にチリに帰国。しかし翌73年9月11日、ピノチェト将軍率いる国軍クーデターが起こり、兵士らに家を破壊される。その12日後、危篤状態に陥り死亡。死因は長い間病死とされてきたが、軍部による毒殺だったという疑惑があり、2013 年チリ司法当局は死因確認のため、遺体を掘り起こし調査したが、遺体から毒物は検出されなかったと発表した。★映画メモ★★1950年代の一時期、祖国チリを追われた実在の詩人パブロ・ネルーダが、ナポリ湾のカプリ島に身を寄せた史実にもとづき、架空の漁村を舞台に物語は展開する。★主演のマッシモ・トロイージは撮影時に心臓病に冒されており、すぐに手術しなければ危険な状態だった。彼はロケの最中に倒れ、「今度は僕の最高のものをあげるからね」とスタッフに言い残し、映画撮影終了の12時間後に亡くなっている。★1950年代の質素な暮らしの中に、マリオのベッドの可愛らしさ(*´▽`*)港のバーで働くベアトリーチェのベッドもかわいい♪★イル・ポスティーノとは、イタリア語で「郵便屋さん」的な言葉だそうだ。★父親と二人暮らしのマリオ(マッシモ・トロイージ)の家は、貧しい。食器なども粗末だし、食事も品数が少ない。1950年代は、日本でも質素な暮らしだった。★当時の郵便屋さんの給料は少なく、チップをあてにしていた。★製作年:1994年製作国:イタリア=フランス・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.21
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■ルート29■大丈夫。きっとふたりなら。他者と必要以上のコミュニケーションをとることをしないのり子は、鳥取の町で清掃員として働いている。ある日、仕事で訪れた病院で、入院患者の理映子から「姫路にいる私の娘をここに連れてきてほしい」と頼まれた彼女は、その依頼を受け入れ、単身で姫路へと向かう。理映子から渡された写真を頼りに、のり子が見つけることができたハルは、林の中で秘密基地を作って遊ぶような風変わりな女の子だった。初対面ののり子の顔を見て、「トンボ」というあだ名をつけるハル。2匹の犬を連れた赤い服の女、天地が逆さまにひっくり返った車の中に座っていたじいじ、「人間社会から逃れるために旅をしている」と語る親子、久しぶりに会った姉など、さまざまな人たちと出会いながら、姫路から鳥取まで一本道の国道29号線を進んでいく2人の旅が始まった──。★兵庫県・姫路から鳥取までのロードムービーということで見に行った。姫路は、働いていたし、買い物や映画に行ったりしていたから、知っている所が出ているかもと思ったけど、分からなかった。★主人公は、人と関りが苦手。しかし、病院の患者に、「娘が姫路にいるから、鳥取まで連れてきて」と頼まれると、仕事用の車を盗んでまで、引き受ける。やっぱり、人から頼まれたことが嬉しかったのだろう。★2匹の犬を連れた赤い服の女、★天地が逆さまにひっくり返った車の中に座っていたじいじ、★「人間社会から逃れるために旅をしている」と語る親子、車で移動中、主人公のり子の出会う人々は、みんな不思議な人。不思議というより、ありえない!といいたい人々。★久しぶりに会った姉も心に闇を抱えているようだ。★ハルが急にいなくなって、主人公・トンボは夢中で探す。人に関わらないように暮らしてきたトンボだったが、ルート29を旅するうちに、一緒にいないと心配になるという風に変わってきた。そういう映画にして欲しかったな・・・。道路の上を巨大な魚が泳いでいるのは、何を意味するのだろう?他にも、カヌーでじいじを迎えに来た不思議な人々などシュールである。シュールの苦手な私は、この映画は、苦手だ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.19
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■2024.10.19(土)-2雨雨の中、酒田市にやってきた。酒田市を案内してくれるのは、酒田市が大好きなガイドさん。他府県で「酒田ってどこ?」といわれてガッカリ。そこで、酒田のことを知ってもらおうと思ったのがガイドになったきっかけだと話てくれた。酒田市は、北前船で栄えた港町。「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」 江戸時代に出羽庄内地方では、そんな俗謡が歌われました。本間様とは酒田の豪商ですが、商人にはとてもなれないが、せめて大名になりたいというところに、当時の本間家の繁栄ぶりをしのぶことができるでしょう。 宝暦6年(1756)、酒田地方に大災害が起こると、本田光丘(みつおか)は窮民救済のために米100俵を供出。庄内藩主・酒井忠寄(ただより)はこれを賞しました。この時、光丘23歳。 宝暦8年(1758)には酒田の西浜に防砂林をつくります。今風にいえば商売で得た利益を地域に還元し、公共事業を行なうようなものでした。この時、光丘は26歳。 その他、数々の行いは、米沢藩主・上杉鷹山の知るところとなり、鷹山に請われて、米沢藩の財政再建策にも大きく貢献しました。光丘の考え方は、鷹山の考え方と符合していたといわれます。▲1768(明和5)年、本間家3代光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使用宿舎として建造した、旗本二千石格式の長屋門構えの武家屋敷です。▲庭も大名庭園のような広さ。▼池のヌシのような鯉。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆次にガイドさんが案内してくれたのが、日和山。昔の港町には、日和山から天気を見て次の日の日程を決めることになっていた。今は、テレビやネットで天気を知ることができるので、市民の公園になっている。手前に酒田港が見えて、向こうに最上川。右はしに日本海が見えた。山形に40日余り漂泊し、そのうち酒田に9泊した松尾芭蕉。杖に網代笠を持ち、ずだ袋を方に下げ草履を履いての旅で、46才の芭蕉はとても健脚だったそうです。暑き日を海にいれたり最上川 芭蕉(奥の細道より)◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆最期にガイドさんが案内してくれたのは、米どころ庄内のシンボル山居(さんきょ)倉庫。1893(明治26)年に建てられた米保管倉庫です。米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、 NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。白壁、土蔵づくり9棟からなる倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)。日本海からの西風と夏の高温防止のために背後にケヤキ並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫として、現役の農業倉庫でした。2022(令和4)年9月に129年の米倉庫としての役割を終えています。樹齢150年以上のケヤキ35本の連なるケヤキ並木の色合いは、季節とともに変わり見る人を魅了します。 ※2021(令和3)年3月26日、国指定史跡に認定されました。山居(さんきょ)倉庫のあるところは、川の中州。ここなら、もらい火事もないだろうということ。どこまでも考え抜かれた山居倉庫である。夕食は、ガスト。この日、私のスマホがうんともすんとも言わなくなった。( ;∀;)●13208歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■10/19-1■山形県・鶴岡市:城址公園/丙申堂・/酒田市:土門拳記念館■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.18
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■2024.10.19(土)-1朝から雨が、強く弱く降り続く。それでも旅は続く。鶴岡商工会議所会館でガイドさんが待ってくれているからだ。(⌒∇⌒)鶴岡市は、山形県の庄内地方の南部にある市。市の人口は約11万人で、県内人口は第2位である。鶴岡の町中は、城址公園を中心に、二の丸跡には荘内神社や大寶館、三の丸跡には致道博物館と、歴史をたどる観光スポットが集中しており、徒歩での観光が可能。雨の中、美しい城下町をガイドさんと廻った■藩校・致道館(ちどうかん)■文化2年(1805年)、庄内藩七代目藩主・酒井忠徳によって創設された学問所に始まる。当時は現在の鶴岡市日吉町にあったが、文化13年(1816年)に八代目藩主の酒井忠器によって鶴ヶ岡城三の丸曲輪内に移された。明治6年(1873年)廃校。東北地方に現存する唯一の藩校建造物で、孔子を祀る聖廟、講堂、御入間、表御門などの建物とその敷地一帯は国の史跡に指定されている。ここ鶴岡は、作家・藤沢周平の故郷で、鶴岡を舞台にした作品がある。▲致道(ちどう)博物館「致道」の名称の由来は、庄内藩校「致道館」によるもので当館では典籍、版木、祭器など多くの藩校資料の保存とともに藩学の伝統を主とした古典の研究もおこなわれています。▲旧鶴岡警察署庁舎(国指定重要文化財)明治17年(1884)に高橋兼吉の設計によって建てられた2階建ての木造建築。西洋の様式を取り入れつつ、日本在来の様式も見られる和洋折衷の建物です。▲大宝館鶴岡市の鶴岡公園にあるドームを載せた赤い尖塔屋根と白亜の外壁という外観をもつレトロな洋風建築の「大宝館(たいほうかん)」。大正天皇の即位を記念して建てられた施設。オランダバロック風の窓とルネッサンス風のドームが特徴の擬洋風建築。木造2階建て、バロック様式を模した大正初期の洋風建築の建物内部は、郷土人物資料館として、横光利一(よこみつりいち)といった明治から平成にかけて各分野で鶴岡に貢献した先人・偉人の業績を戦時中は空襲を避けるためという理由で黒塗りにされていたという。「大宝館」は、鶴岡市指定有形文化財でもある。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆風間家は、鶴岡城下で庄内藩の御用商人として発展し、後に鶴岡一の豪商となり産業の振興に力を注ぎました。明治29年丙申の年、武家屋敷跡に風間家七代当主・幸右衛門によって住居と営業の拠点として建てられた丙申堂は、薬医門(約200年前の武家門)のある商家として当時の繁栄ぶりをよく残しています。約4万個の石が置かれた石置屋根が特徴で主屋を中心に4つの蔵や広大な板の間と大黒柱など、豪商の往時の面影を今に伝える貴重な歴史遺産として国指定重要文化財にも指定され、注目を集めています。石置き屋根より以前は、藁葺きが主流でした。しかし、日本海側地域の一部では強風により藁葺きが通用しないということもあり、このような石置き屋根が用いられるようになったようです。風間氏は、日本の氏族の一つ。沢海藩(現在の新潟市)では武士でしたが、商人となり村上、酒田を経て、18世紀後半に鶴岡に移住したと伝えられています。その後鶴岡城下で藩の御用商人として太物屋を営み、鶴岡第一の豪商となりました。■旧風間家住宅 「丙申堂(へいしんどう)■▲鶴岡商工会議所会館に飾ってあった民具が美しい!!鶴岡を後に酒田市に向かう。途中、田んぼには沢山の鳥が・・・。鶴岡だけに鶴か?◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■今年5月霞ケ浦■に行った時、土門拳の写真に出会い感銘を受けた。山形県酒田市に■土門拳記念館■があるので、行って見ることに。1974年(昭和49年)に市初の名誉市民の称号を授与された土門拳は、顕彰式で「僕の全作品を酒田市に寄贈したい」と述べ、相馬大作市長に「入れ物(収蔵庫)は、そんなに立派なものでなくてもいいよ」と語りかけた。欧米の観光客が多かったのでビックリしたが、「ミシュラン・グリーン・ガイド・ジャポン」(2009年)に二つ星で紹介されているというので納得。雨の勢いやまず・・・。10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17-2(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■10/18-2■鼠ヶ関を探せ/クラゲの水族館/鶴岡カソリック教会■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.16
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■ラストマイル■ブラックフライデー前夜、届いた荷物は爆弾だった――日本中を震撼させる4日間。11 月、流通業界最大のイベントのひとつ“ブラックフライデー”の前夜、世界規模のショッピングサイトから配送された段ボール箱が爆発する事件が発生。やがてそれは日本中を恐怖に陥れる謎の連続爆破事件へと発展していく――。巨大物流倉庫のセンター長に着任したばかりの舟渡エレナ(満島ひかり)は、チームマネージャーの梨本孔(岡田将生)と共に、未曾有の事態の収拾にあたる。誰が、何のために爆弾を仕掛けたのか?残りの爆弾は幾つで、今どこにあるのか?決して止めることのできない現代社会の生命線 ―世界に張り巡らされたこの血管を止めずに、いかにして、連続爆破を止めることができるのか?すべての謎が解き明かされるとき、この世界の隠された姿が浮かび上がる。 ドキドキハラハラの映画で、合間に笑い( ´艸`)があって、この映画好きだ!!!小ネタ例として、運送会社の名前。羊(ひつじ)運送って、クロネコヤマトや、「カンガルー」「ペリカン」「アリ」など動物の名前が多いから?また、八木=やぎさんという名前でひと遊び((´∀`*))ヶラヶラ 塚原あゆ子監督で検索してみると「重版出来!」や「わたしの幸せな結婚」など私の好きな作品が多い。面白いはずだ。「MIU404」もテレビで毎週楽しみにしていた(*´▽`*)何気なく、見ていたこれらのドラマが、塚原あゆ子監督というワードで繋がった。これからは塚原あゆ子監督を意識して見よう。この映画の謎。★博多から所長として来たエレナが、博多にいなかったこと。★事務所に寝泊まりするエレナ。★警察が犯人だと睨んでいた元社員の山崎佑の痕跡が、会社のPCから消えていたこと。などなど複雑だ。■大手通販サイトの問題■Amazonも(映画の中の)デイリーファーストのように、非常に機械的な仕組みで労働者を扱っているとして槍玉にあげられる企業だ。デイリーファーストによってAmazonのような大手通販サイトの問題を描くだけではなく、運送会社が安く買い叩かれているという現状も『ラストマイル』では描いていると考察できる。それに対し、2024年4月からトラックドライバーの時間外労働の960時間上限規制と改正改善基準が告示されることによって労働環境を変えようという試みはある。しかし、それによってトラックドライバーの人材不足が叫ばれている。運送業の労働環境を変えようとしても、簡単に変わらない。しかし、『ラストマイル』で描かれているように運送業者とは国の血管だ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.14
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■ネネ エトワールに憧れて■ネネ、12歳。夢は、オペラ座、エトワール・・・。パリ郊外の団地で育った労働者階級の12歳の黒人少女ネネ。何よりもダンスが大好きで、自宅近くや郊外線RERの駅で伸びやかに踊る喜びを感じさせる彼女のダンスには人を惹きつける“華”があった。ネネはパリ・オペラ座バレエ学校の入学試験に見事合格、毎日時間をかけて髪をシニヨンにまとめ、熱心にレッスンに励むネネは才能を花開かせていく。だがネネが憧れている、パリ・オペラ座の最高位“エトワール”だった校長マリアンヌは伝統を守ることに固執し、「バレエは白人のもの」とネネを邪険に扱う。またネネを羨み、あるいは妬む同級生たちの嫌がらせも始まる。このままバレエを続けるか苦悩するネネ…そんな最中、マリアンヌの隠された秘密が明らかになる――。 パリ・オペラ座バレエ学校は、国王ルイ14世が設立した王立舞踊アカデミーに起源を持ち、300年以上の歴史と格式を誇る世界で最も古いバレエ学校。世界最高峰のバレエ団の一つであるパリ・オペラ座バレエ団の団員の95%は、このパリ・オペラ座学校の出身者であり、毎年数百名の応募者の中から、20人程度が入学できるという狭き門。入学してから卒業するまで毎年選抜試験が行われ、選ばれた者だけが残っていくという厳格なシステムでパリ・オペラ座バレエ団に入団できるのは毎年数人に過ぎない。★映画メモ★★パリ・オペラ座のバレエ学校に入るのは、至難の業。バレエの技術は当然のことで、体形が悪ければとらない。なんせ、親の身長が体重まで書かなければならないのだ。★12歳で入るのだが、これから身長は、どこまで伸びるのか、肥る家系ではないかなどが、入学試験の参考になる。★エトワールとは、星という意味で、そこから花形スターを意味する。★映画を観ていて、フィギュアスケートのスルヤ・ボナリーを思い出した。■スルヤ・ボナリー/1992 Albertville Olympic - Free Skating■スルヤは、たぐいまれなジャンプで1990年代のはじめ頃、女性ながら4回転と飛んでいた。これは、女性としては初である。しかし、フィギュアスケートも白人をイメージするスポーツだ。 ★黒人が花形ダンサーになれるかというのは、少し?だ。もともと、こういものは、白人を主人公に作られたものだから・・・。もし、黒人が主人公になるならば、それにあったストーリーの作品が必要だ。街角の演奏に自由に体を動かして踊るネネを見て、バレエ以外のダンスを目指した方がいいのではないかと思った。たとえば、ミュージカル。 「コーラスライン」なんかピッタリだと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.13
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■2024.10.18(金)-2そうだ、東北いこう!!■前回■青森県、秋田県、岩手県に行ったから、今回は、山形県、宮城県、福島県に行って見よう!新潟も行ったことがない(佐渡島はあり)から、新潟県から旅を始めよう。というわけで、大阪から新潟市に空路でやってきた(約1時間)。新潟空港近くでレンタカーを借りて、ここからドライブによる旅の始まり。今回は、19泊20日の長期旅なので、体がもつかと心配する高齢者夫婦だった。■2024.10.18(金)-210月16日(水)、新潟県から始まった旅は、この日、山形県に入った。新潟から山形の道は、日本海沿いで海風を防ぐ装置が続いていた。まず向かったのは、鼠ヶ関(ねずがせき)だが場所がはっきりしない。探しながらあちこち回った。▲弁天島にある厳島(いつくしま)神社。鼠ヶ関(ねずがせき)は、山形県鶴岡市の大字である。古代の関所。現在の山形県鶴岡(つるおか)市鼠ヶ関(ねずがせき)にある。白河・勿来(なこそ)の両関とともに蝦夷(えぞ)対策の一環として設けられた奥羽三関の一つ。▲弁天島の先端にある灯台。「弁天島の東方山麓の小部落を関と呼び、その付近に古代集落があったらしいことが伝えられている。この関は北陸と出羽口を位置にあり、古代東北の開拓時代蝦夷を防ぐ城柵的性質を帯びていたものと考えられている」 「この関は京・鎌倉の南と、出羽・陸奥の北を分けるもの。北の侵入を防ぎ南の逃亡を防ぐために南が置いたもの。鼠ヶ関は荘内地方の名前と考えてはいけない。これは南が北に向かって付けた名前。ねずみの関は子の関で子は北の方向。越国の最北端に置かれたのが子の関であり、それがねずみのせき鼠ヶ関のであろう」「鼠ヶ関の存在は平安中期から末期ないし鎌倉までの10世紀から11世紀 平安中後期の南を検問し防備する関門と考えられる。」と記し、この関を義経が通ったことを暗に示すとともに、7世紀中葉の蝦夷防御の「関」ではないことを示した。ちなみに万葉仮名の読みは「念」=ね・「珠・種」=す・ず。であるから、「念珠」は「ねず」、念種「ねず」と読む。▲念珠の松▼「念珠関」の表記は1889年(明治22年)から1954年(昭和29年)まで存在した自治体「念珠関村」にも使われていた。▲念珠庭園の入り口のアケビ。美味しそう・・・。▲鉄道の無人駅の名前が「鼠ヶ関駅」。駅からすぐのところに、あった!「鼠ヶ関」この、村の中に新潟と山形の境界線があるそうだ。見逃した・・・。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆山形県・鶴岡市にある加茂水族館に行った。経営上の紆余曲折も経ながら、クラゲに特化した水族館として復活。今や「50万人/年度」以上を集客する庄内地方有数の観光地となった。度重なる経営危機を乗り越えて大幅な業績回復を成し遂げたため経済界からも注目されており、経済誌からの取材を度々受けている。2005年(平成17年)にクラゲ展示種類数世界一となった。同年から日本大学生物資源科学部において、クラゲのヒーリング(癒やし)効果の科学的な検証がなされた ♪メダカの学校は川の中・・・ 机が!! (*`艸´)排水溝もクラゲに見えてきた・・・。秋風やあしか悲しき曲芸す はるな◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆海辺にあるクラゲの水族館から鶴岡市内の鶴岡カトリック教会 天主堂を見に行った。赤い塔屋がひときわ目を引く白亜の殿堂で、明治36年に建てられたものでロマネスク様式教会建築の傑作として国の重要文化財に指定。ステンドグラスとは異なる独自の技法でつくられた「窓絵」や世界的にも珍しい「黒い聖母マリア像」は、国内ではこの教会でしかみられない。フランス人ダリベル神父の全財産と寄付により明治36年(1903)、庄内藩家老屋敷跡に建設。バジリカ型三廊式とよばれる造りで、設計は佐渡の両津教会や京都の旧聖ザビエル教会(現在は明治村に移築)など日本の教会堂を数多く手がけたパピノ神父によるもの。赤い塔屋の高さは23.7メートル。●7340歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■10/18-1(金)■村上市・笹川流れ■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.12
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■2024.10.18(金)-1新潟市から始まった旅は、新発田市、村上市と続いている。私は、いつもなら、眠ると朝まで起きないのだが、この日は、3時前に目が覚めて、5時過ぎまで眠れなかった。この日は、満月で、カーテンを開けっ放しの窓から月が煌煌と輝いているのをずっと見ていた。 眠られぬ我を見守れ旅の月 はるな笹川流れの遊覧船に乗るために、海岸沿いの道を走る。山が海まで迫ってきていて、トンネルが出来るまでは、船で行くしかなかったのかもしれないようなところ。笹川流れの遊覧船乗り場に着いた。近くにお土産屋さんがあって、魚を売っていた。▲こんな魚もあった((´∀`*))▲イカもある(*´▽`*)▲これは、鮭ではないだろうか?▼なんたって村上市は、鮭オシですから~~。(⌒∇⌒)笹川流れとは、新潟県村上市に位置する、11kmの美しい海岸線。して、この笹川より沖合の岩の間を盛り上がるように流れる潮流が見られることが、名の由来とされています。海水は日本有数の透明度を誇ります。無数の奇岩、絶壁、洞穴が連続する。眼鏡岩、びょうぶ岩、ニタリ岩、恐竜岩、蓬莱山などの奇勝があり、観光船で探勝できる1952年から笹川流れ遊覧船が運航され、現在に至ります。カモメの餌付け体験も人気。 兄頼朝に追われた義経と弁慶の一行は、ここを船で北上したという。10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■10/17(木)-2■新発田市・新発田城/村上市・鮭オシのまち■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.11
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■2024.10.17(木)-2新潟県・新発田市は、雪が多いのか、商店街に雪対策の雁木(がんぎ)が・・・。雁木造(がんぎづくり)とは、雪や雨の日で通行機能を確保するため、建物の庇を長く張り出して、下を通路として作り出した建築様式を指す。新発田城に行った。最初に城が築かれた時期は不明だが、鎌倉時代初期に幕府設立に戦功のあった佐々木盛綱の傍系である新発田氏による築城と考えられている。かつては浮船城、狐の尾引き城、あやめ城と呼ばれていた新発田城であるが、▲現在は、陸上自衛隊の駐屯地(新発田駐屯地)となっている。近年では戦国自衛隊の城という愛称で呼ばれることが増えてきている。 柴田藩は、「11人の賊軍」の舞台。新発田市を後に、村上市に向かった。ここでもガイドさんに案内をお願いした。村上市(むらかみし)は、新潟県北部にある市。日本海に面している。北限の茶どころとして知られるほか、三面川の鮭や牛肉(村上牛)が名物。瀬波温泉や笹川流れ、町屋通り、粟島航路など観光都市としての側面が強い。▲このまちのあちこちで、鮭を見る。▼古い家に入ってみると、▲あちこちに鮭が!▼▲冷蔵庫の無かった時代は、こうして鮭を干して保存していたのだろう。▼「町歩きもいいけど、鮭のとれる川を見に行きませんか?」とガイドさんが誘ってくれたので三面川(みおもてがわ)の鮭のとれる場所に行った。三面川では、秋になると川幅いっぱいに『ウライ』と呼ばれる柵が設けられ、産卵のために遡上してくる鮭を一括採捕しています。これは、戦後中断していたものを昭和52年から鮭増殖を目的として再開したもので、遡上してきた鮭の行く手を阻み、2か所だけ開いている落し柵と呼ばれる密柵で捕らえ、採卵し、人工ふ化増殖を行っています。 司馬遼太郎が「街道をゆく」で青森県のことを「北のまほろば」と称していた。まほろばとは、もの成りのよい、豊かな国のことだという。ここ新潟の北部も鮭が遡上する豊かな土地だ。●隣の新発田市の語源もアイヌ語で「鮭が取れる所」を意味する「シビタ」を由来とする説があるから、この辺りは昔は、鮭が登ってくる豊かな土地だったようだ。この日泊まったホテルから海に沈む夕日が見えた。●9754歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■10/17(木)-1■新潟県・新発田市:清水園/足軽長屋他■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.09
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5■2024.10.17(木)-1新潟から新発田市に行った。新発田市の清水園でガイドさんと会う。ガイドさんの背中には、「五階菱(ごかいびし)」という柴田藩主・溝口家の紋が・・・。五階菱は、今は新発田市の紋章になっている。「新発田」の由来には諸説ある。●荒地を開墾してできた新田「新開発田」の転訛とする説。なお、この説の補強論・背景として、江戸時代中期には紫雲寺潟新田が開発されるなど、穀倉地帯として発展した北陸・東北地方の歴史があるためである。●潟湖に接する「州端(すばた)」を由来とする説●アイヌ語で「鮭が取れる所」を意味する「シビタ」を由来とする説●諏訪神社の社田「諏訪田(すわた)」を由来とする説「新発田」という地名は、享徳3年(1454年)の中条房資記録 など、室町時代から見られる。「新発田」という表記に対する推察の一つとして、「しばた」に対する当時の現地発音が「シンバッタ」またはそれに類する発音であり、それに沿って「新発田」の字が当てられたのでは、といったものがある。清水園は、溝口家の下屋敷として造られ、清水谷御殿とも呼ばれていたそうです。広い庭園は、広さが15,200平方メートル、幕府の庭方の県宗智を招き造られ、近江八景をとり入れた純京都風で、中央に草書体の「水」の字をかたどった大泉池のある回遊式庭園です。池の水に、季節ごとの樹木の色がはえて、何ともいえぬ風情です。新発田藩の歴代藩主は、茶道に力を入れました。現在も清水園や五十公野御茶屋などでお茶会が開催されています。▲雪囲い▼竹に雪囲するのかとびっくりした。▲庭園にある灯篭や井戸は、必要なものだけれど、美しいデザインでオブジェのよう。まさに用の美!!▼◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆江戸時代末期における新発田藩の足軽長屋で、藩政当時のままの姿で現存する。当時の下級武士が住んでいた八軒長屋は、歴史的にも貴重な存在です。木造茅葺きの質素な建物は、当時の足軽たちの暮らしぶりを感じさせてくれます。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆「清水園」の近くに「トキワ荘」を発見!!トキワ荘といえば、東京にあった漫画家の住むアパートとして有名。手塚治虫が入っていて、手塚が出て行った後に、藤子不二雄が入り、赤塚不二夫、 石ノ森章太郎などなど多くの漫画家がここに集結して青春時代を過ごした。 手塚治虫の次に入ったのが、寺さんこと寺田ヒロオ。 藤子不二雄(ふたり)の世話をしてくれた、トキワ荘にリーダー的人。その寺田ヒロオが、ここ新発田の出身で、このトキワ荘は、寺田の記念館的な場所だそうだ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆♪「金襴緞子の帯しめながら…」で始まる唱歌「花嫁人形」の詩の作者でもある画家・蕗谷虹児の「蕗谷虹児記念館」もよってみた。 10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■10/16(水)-2■新潟市:日和山/花街■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.08
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■2024.10/16(水)-2江戸時代に名所として多くの人が訪れた「日和山」ガイドさんの案内で向かう。ガイドさんの着ているシャツは、新潟の地図が!!道には、ところどころに砂が見える。新潟砂丘は70キロに及ぶ広大な砂丘だった。新潟の砂は、新潟市を流れる信濃川、阿賀野川が運んできたのだ。海の方に向かって歩くとき、普通ならどんどん地面が低くなる。しかし新潟では、反対に坂道を上ることになる。上の写真の塀も、坂道仕様になっている。そして、松。松が見えたら砂地と思ってよい。反対に、柳の並木が見えたら、そこには、かつて水路があったと思ってよい。▲手前が高くなっていて海の近く。「かつては信濃川、阿賀野川が大量の土砂を運んできていましたが、今は分水などもあって水量、土砂ともに減り、そのために今度は陸地が削られているのです。一時はこの展望台の手前まで海が押し寄せてきていましたが、近年の保全工事のおかげで今の状態に。水量が多すぎても少なすぎてもダメ。新潟では今も水との闘いが続いているのです」日和山に登る。北前船等の帆船の行き交う時代、みなとに船が入出港する際「水戸教(みときょう)」と呼ばれる水先案内人が、近くの高台にて天候や海上の状態を観測していた場所が「日和山」と呼ばれていたそうです。新潟だけではなく、全国に80か所以上もあるそうで、現在も方角を見るために使っていた「方角石」が各地の日和山に残されています。日和山の山頂には、住吉神社が・・・。住吉神社は、航海の神・港の神として祀られた神社である。ここにも、かつての北前船で栄えた港の痕跡が残っている。新潟県だけでも4箇所。*日和山 (新潟市) - 新潟県 新潟市 新潟港。*新日和山 - 新潟県 新潟市 新潟港。上の日和山の後継で、現在は水没。*日和山 (佐渡市小木) - 新潟県 佐渡市 小木港。*日和山 (沢崎) - 新潟県 佐渡市 沢崎港。ガイドの野内さんは、全国の日和山に行ったというツワモノ((´∀`)) 日和山(ひよりやま)は、日本各地にある山の名前である。船乗りが船を出すか否かを決める際に日和を見る(天候を予測する)ために利用した山で、港町に多い。船乗りにとって日和山は寄港する港ごとにあるもので、地名というより港湾施設の一種である。日本海を見ながら「あそこが佐渡です」とガイド氏。うっすらと佐渡の島影が見える。荒海や佐渡によこたう天の川 芭蕉今回の旅は、芭蕉の「奥の細道」と重なるところが多い。東北を廻った後で、新潟に来た芭蕉とは反対に、私たちは、新潟県の後、東北に入る。新潟では古来から海岸で海を眺めるという浜遊山(はまゆさん)が恒例の行事として行なわれており、市街地近くに海岸砂丘(全長70kmの新潟砂丘)が発達という特異な地形がそんなレジャーを生み出しています。そして、その接待場が「浜茶屋」の起こりなのです。浜遊山がいつごろ始まったのか定かでありませんが、幕末にはすでにその風習があったことがわかっています。「日和山は住吉神社もあれば有名な団子茶屋が砂丘の上に甘い団子で塩辛くなった喉を和ぐべく待っている。海岸の傍らには東宮殿下御成りの際の休憩所もある。此処もまた納涼地には持って来いの場所で遊人や職人衆の江戸っ子式な遊び振りを見せるところ」(大正10年7月22日付/『新潟新聞』夕刊)そんな日和山の5合目にカフェがあって、ちょっと寄らせてもらった。■日和山五合目 hiyoriyama coffee■ここ日和山の歴史に目を向け、光をあてたのが、今回、ガイドをしてくれた野内(のうち)さん。時々、SNSで通知して、市内を案内することがあるそうだ。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆野内さんの車で、この日、二人目のガイドさんのところまで連れて行っていただいた。二人目のガイドさんの案内で、新潟市内の花街を廻った。文人・政財界人も愛した伝統と格式ある料亭「鍋茶屋」。創業は弘化3(1846)年、江戸末期創業の料亭。文人、政財界の著名人から「新潟に鍋茶屋あり」とうたわれてきた料亭。店名の由来は創業者がすっぽん料理を始めたことによるもので、店のしるしもそれにちなんだ亀甲となっています。新潟の民謡・新潟甚句にも「〽新潟焼けても 鍋茶屋焼けぬ」とも歌われたほどの、新潟を代表する料亭で建物は国の登録有形文化財。古町八番町側の東新道は、この料亭があるため「鍋茶屋通り」とも呼ばれています。この店は、塀に竹でデザインした意匠が、さすが、粋だね!!新潟に大阪屋あり秋の暮れ はるな万代橋が見たかったけど、暗くなっていて残念・・・。😞帰りに絶対にみよう・・・。この日は、二人とも疲れ果てていた。●17754歩10/16(水)■越後・東北南部行:出発/新潟を地形と歴史を感じながら歩く■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.07
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そうだ、東北いこう!!■前回■青森県、秋田県、岩手県に行ったから、今回は、山形県、宮城県、福島県に行って見よう!新潟も行ったことがない(佐渡島はあり)から、新潟県から旅を始めよう。というわけで、大阪から新潟市に空路でやってきた(約1時間)。空港近くでレンタカーを借りて、ここからドライブによる旅の始まり。今回は、19泊20日の長期旅なので、体がもつかと心配する高齢者夫婦だった。■2024.10.16(水)-1最初は、新潟市。新潟市は、日本海側最大の都市で、かつては北前船の港町として多いに栄えていた。その痕跡を路地連の野内さんに案内してもらった。シャツの模様が、新潟の地図!!(*^▽^*)待ち合わせたのは、上の地図の現在地とある場所。ここには、▲本館▲旧第四銀行住吉町支店▲旧新潟税関▼が並んでいる「みなとぴあ」という場所。明治開港後、交流の中心地となった「旧新潟税関庁舎」は、明治2年に建てられた擬洋風建築。▲塔のような建物を造ろうとしてけど、どうしても日本が・・・。▼青海波も取り入れて、ここも日本から離れられないようだ。(⌒∇⌒)まちのあちこちに、水に関係する場所や港の痕跡が残っていて面白い。ガイドさんも、そのあたりを見せてくれた。●海抜0メートルやマイナスのところがある。●地名に水にまつわるところがある。▲堀の跡があった。地名にも●●堀などがあった。「新潟」という地名じたい、水に関係ある地名だ。●船乗の神社がある。金毘羅さんは昔から航海の神、船の神として漁業や航海に関わる人々に厚く信仰されました。新しい船が作られると、船主は船頭や船員をともなって金毘羅さんに参拝し、船の絵馬を奉納するのが習わしになっています。▲この狛犬は、下を廻すことができる。男性は、向かって右、女性は向かって左の狛犬の下の石を廻して、願掛けをする。▲えっ!?事件?縛られた?これは「足止め狛犬」。元々は、北前船などの船乗りが、順風に乗って行ってしまわないように、順風が吹かないようにと祈るためのおまじないだそうだ。この水路は、船から降ろされたものが、小舟に乗せて移動するためのもの。海の近くにある、日和山に向かって歩いている。このあたりから、坂道が続いている。海に近づくと下るはずなのに、新潟では、坂道を上がっていく。砂丘があるからだ!! 旅行前に参考書として読んだ司馬遼太郎の■街道をゆく 潟のみち■。「ブラタモリ」も参考にした。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.06
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■結(ゆい) 妹背山女庭訓波模様(いもせやまおんなていきんなみもよう)■江戸時代も半ばを過ぎた道頓堀には芝居小屋がひしめき合っていた。近頃は歌舞伎芝居に押され、往時の勢いはないものの、「道頓堀には、お人形さんがいてこそ、や」人形浄瑠璃に魅せられ、人形浄瑠璃のために生きた人々の喜怒哀楽と浮き沈み、せわしなくも愛しい人間模様をいきいきと描く群像時代小説。史上初の直木賞&高校生直木賞をW受賞した『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』から2年。直木賞受賞第一作にして、『渦』の待望の続編がついに刊行。 人形浄瑠璃に魅せられた人々のせわしなくも愛しい人間模様をいきいきと描く群像時代小説。●目次●●「水や空や」●「種」●「浄瑠璃地獄」●「月かさね」●「縁の糸」●「硯」★主な人々★★松屋平三郎・・・「松へ」骨董に狂う道楽者の父が沢山の骨とう品を残して死んだ。酒屋は、やめて父の残した骨董品を扱うことに。趣味で扇に絵を描いて稼いでいる。絵の号は、耳風斎(じふうさい)人形浄瑠璃を語るという旦那芸も玄人並み。★大升屋・徳蔵はじめは、人形浄瑠璃の話を書く近松半二の門人だった。少ししてから人形浄瑠璃から歌舞伎の作者に変わった。実家は裕福な置き屋的な家。祖父は、作家の「雨月物語」の作者上田秋成とも仲が良く、上田秋成が店の離れに暮らしていたこともあった。そんな縁からか「雨月物語」を歌舞伎に書こうとしている。★おきみ近松半二の娘。松屋平三郎・・・「松へ」大升屋・徳蔵の幼馴染。人形浄瑠璃に関しては非凡な才能がある。父親の死後、体の弱い母親と京都の親戚を頼っていく。女の物書きはいない中、父親・半二が途中まで書いて残した浄瑠璃を完成させたりするが、表には出ない。★近松やなぎ飾り職人だったが、人形浄瑠璃の本を書く。その際、おきみの意見を参考にしたり尻を叩かれたりした。 この他にも沢山の歌舞伎や浄瑠璃に関する人々が出てきた。昔のコテコテの大阪弁が楽しかった。★人形浄瑠璃の客を増やすため、毎朝、明け五つまでに小屋に来た者は、木戸銭をタダにするなど工夫をした。なあ、硯よ、そやったよな。徳蔵は、布施を墨にひたす。筆が墨を吸う。たっぷりと吸う。墨の匂いがする。筆の重みを感じる。あたらしい紙に筆をおとす。腕をうごかす。文字が生まれる。これがすべてだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.04
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■みみずのたわごと■徳川慶喜家と会津松平家に伝わる貴重な史料で綴る壮大なファミリーヒストリー第1章 みみずのたわごと 徳川慶喜の孫・徳川慶光に嫁いだ松平容保の孫・松平和子(徳川和子)による手記。華族として育った幼少期から、戦後、華族制度が廃止された後の暮らしまで。貴重な歴史的史料を初公開。第一章 みみずのたわごと 徳川和子まえがき/一 少女時代/おいたち/関東大震災のこと/幼稚園/女子学習院初等科/変な話/小石川の通学路/二 懐かしい人たち/同級生/いしのこと/まきのこと/俥夫のしょうとくにのこと/間瀬さんのこと/野出蕉雨と佐々木主馬/商人部屋/行商人/市電/映画と演劇/三 人種差別(差別用語)について/四 歯医者の思い出/五 オートバイの音/六 美容院の今昔/あとがきに代えて●読書メモ●●家に「お運動部屋」とよばれる12畳のお遊び場がある。(1923年=T12)●1923年=T12・9月1日関東大震災。庭に押し入れのすのこを敷き、その上に花ござをしいて、昼食をとった。おかずはハムエッグだった。それ以後、毎年9月1日のお昼は、ハムエッグを食べた。庭の木の枝に蚊帳を吊って寝たが寝付けなかった。会津若松の連隊が来て、表座敷に泊まった。兵隊は、庭に竈を築いて食事を作った。●女子学習院(女学校。今の高校か?)私のクラスは大名家族や御公卿さんが少なくて、ほとんどが明治の元勲の孫たちに占められていたので、幕府方は、私と柄本武揚の孫、後は、薩長、山県さん、毛利さん、東郷元帥、山本権兵衛、西郷さんの孫など。琉球最後の王様の娘も一緒だった。彼女は後に井伊家に嫁いだ。 フランス文学者の朝吹登水子も友人だった。●無声映画の弁士、徳川夢声は、葵館で弁士をしていたことからのペンネームだ。 徳川慶喜家の孫は、よほど楽しい子ども時代を過ごしたようだ。慶喜家の孫の世代の女性全員が本を書いた。「菊と葵のものがたり」高松宮妃喜久子著「みみずのたわごと」徳川和子著「徳川慶喜家の子ども部屋」榊原喜佐子著「徳川おてんば姫」井出久美子著・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.02
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今年は、辰年ですからと辰=龍にまつわる話を書いている。「竜・龍」のつく一番有名な名前といえば、「坂本龍馬」。かつて土佐では、動物には人間以上の精気があるとおもわれていて、新生児に動物の名をつけることが多かった。★坂本龍馬や★吉村虎太郎もそうだし、★幕末、土佐藩の行政の責任者だった後藤象二郎もそうである。★中江兆民の幼名は竹馬で、★明治期の自由民権思想家の馬場辰猪も、動物の名前である。♪土佐の高知の播磨屋橋で、坊さんかんざし買うを見た。★この坊さんの相手の娘の名前が「お馬」だ。★「街道をゆく」で取材に高知県に行った司馬遼太郎が飲み屋に行ったが、その店の女将が「亀子」だった。「街道をゆく27・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)のみち、梼原(ゆすはら)街道」司馬遼太郎★私の祖父(父の父・明治9年生まれ)には、兄(明治元年)がいたが、名前を寅太郎といった。 ★その寅太郎の娘は、鶴という名前。鶴は父のいとこにあたるが、この人は私も見たことがある。鶴には沢山の子供がいたが、その中の一人、「よしひろ」と私の従姉、絹江が結婚。そんなわけで、私も鶴を見たことがある。★私の岡山の家の裏には、「くまさん」という名前の植木職人が住んでいた。★父の幼馴染で馬車引きをしていた人の名前が「とらちゃん」といった。父が亡くなって葬式とは別に、故郷でお別れ会をしたが、とらちゃんも来てくれた。 昔は、土佐以外にも動物の名前の人がけっこういたのだ。それにしても、「龍」と「馬」という名前を持つ、坂本龍馬、すごい!! たつ年ですから1■辰巳は天井■2■臥龍梅■3■龍天に昇る■4■釈迦の誕生と龍の関係■5■登竜門と鯉の滝登り■6■リュブリャナのドラゴン橋■7■竜血樹■8■戊辰戦争■9■龍笛(りゅうてき)■10■天龍寺船■10-2■画竜点睛■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.11.01
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終活のため、本は買わないと決めてから、図書館を積極的に使っている。先日、図書館に行くと、「ガチャガチャを引いてください」と係りの人。引いて中に入っていた紙を渡すと、「おめでとうございます。しおりが当たりました」と大声で言われた((´∀`*))私「ああ、ありがとうございます~。今、しおりを頂きました。こんなもん、なんぼあってもいいですからね~」とミルクボーイのネタで答えた私。●10/3:コロナとインフルエンザの予防注射をした。■2024.10月にみた映画■*ロール・ザ・ドラム!*侍タイムスリッパー■書き残したネタ■*国内旅行*能登の町が復興する時、考えて欲しい町づくりについて。*ダウンタウン松本氏のスキャンダルについて*M12023について。*淀殿について*長堀川と橋*アフリカで日本の古着が環境破壊!?*トグサ(研ぐさ)*「篩(ふるい)」と「とおし」*レッドオーシャン、ブルーオーシャン*高師浜*読書ネタ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.31
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■播州揖保川・室津みち■『播磨灘物語』の主人公・黒田官兵衛が一時居城としていた山崎を訪れたいと考えた司馬さんは、西播州の生まれで少年時代をこの地で過ごした歌人の安田章生氏とともに揖保川沿いに車を進める。古代稲作民について思索を巡らせながら伊和神社の境内を歩き、安田氏の母校・山崎小学校で山崎城のわずかな名残を見る。 龍野では三木露風を心に浮かべる。揖保川を下り、奈良朝以来の港である室津に宿をとった司馬さんは、現在のものさびた町並みを前に、中世、外洋を航海した船のことや、四国に流される途上でこの地に立ち寄った法然上人に思いをはせる。●読書メモ●●山崎という地名は、京都府の山崎もそうだが、おそらく山なみの先端という地勢から出たものに相違ない。●江戸初期には一時期、城がこわされて畑になったこともある。寛文十二(1672)年、脇坂氏が入るにおよんで、ふたたび造営された。幕府に遠慮しつつ造った小規模なもので、天守閣は、つくらなかった。徳川書記は幕府がさかんに豊臣系の大名の取りつぶしをやったときで、秀吉の小姓あがりの脇坂安治を祖とする脇坂氏などはおっかなびっくりだったのであろう。城が小さすぎるために、代々の城主はべつの一角に屋敷をつくって、住んでいた。●「露風は、どういうわけか龍野中学を中途退学して、岡山県の私立中学閑谷こうへ行っています。」「露風は明治三十六年に、「県立龍野中学校の入学試験に主席で合格」寄宿舎に入舎。●古風な門の前に出た。門柱に「竜野県庁」と、板も筆のあとも古びてしまっている表札が出ている。いわゆる版籍奉還のあと、大藩も小藩も、一時そのまま県と称された・・・(略)●湾の小ささが、室津の風情をいっそう濃くしている。古くは遣唐使船の船泊になり、平安末期には西海へ落ちてゆく平家の船団の一部を休ませ、室町期には京都商人をのせた遣明船がここで風を待ち、江戸期にはさらに殷賑をきわめ、西国大名の参勤交代の船の寄港地になったというが・・・(略)●遣唐使船は、大阪湾の三津浦から出た。(今は)大阪市南区の繁華街で、そこが、奈良朝、平安朝のむかし海港であったなどという実感はまったくおこらない。大阪湾を出て瀬戸内海をゆく遣唐使船が、ほぼ決まったように室津に寄港したことは、まちがいないかと思える。遣唐使船は最初は二艘だったが、のちに四艘になった。一隻に、多い時は二百人以上乗っていた。使節団はべつとして、操船者たちはその頃から存在したかと思える室津の遊女とあそんだのではないかと思われる。■動画:播州揖保川・室津みち■◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■高野山みち■空海の開創した高野山をめざす司馬遼太郎一行は、車で大阪から紀見峠を南へ越えて麓の九度山に入る。真田父子の悲運に思いをいたし、慈尊院で空海の母を思う。九度山から高野山へ登る町石道は当時荒れ果てて廃道同様になっていた。その入り口で、司馬遼太郎は鬱然とした樹々の木下闇に、深山幽谷に引き込まれていくような畏れを感じた。高野聖たちが空海と浄土信仰を結びつけたことを思い、その晩遅くに山内へ上がる。翌日、旧知の西南院住職の案内で、奥の谷に入り、修行僧たちが念仏を専修する真別処を訪ねる。森閑とした域内に佇む沙羅双樹の木を見て、司馬遼太郎はインド仏教の原思想とそれを移入した日本文化との関係に思いを巡らせる。●読書メモ●●高野聖は僧形をしている。しかし正規の僧ではない。正規の僧というのは、律令以来、国家がその資格を認定し、国家が扶持する得度者をいう。奈良朝のころは正規の僧になるのは、明治後の高等官試験や司法試験よりもむずかしかったかもしれない。そのかわり、律師、僧都、僧正といったような僧位、僧階があたえられて国家から宗共感として礼遇された。●江戸末期まで、高野山にあっては、学りょ方、行人方(ぎょうにんがた)、聖方という三つの機能があり、それぞれ仲が悪かった。学りょ僧は奈良・平安の官僧およびその候補者といってよく、これに対し、行人は叡山などの僧兵にあたるであろう。本来、高野山の雑役夫で便宜上僧形だった者が、しだいに一山(いっさん)で勢力を得、学りょと対抗するまでになった。かれた行人はおなじ私度僧ながら聖と異なり、高野山に常住して旅に出ない。これに対し、荒野聖は、回国が専門である。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■信州佐久平みち■旅の前、司馬さんは信濃の地図を眺めて、信濃には更級や蓼科など「科(級)」のつく地名が多いことに気付き、その意味を考える。また桜井や海野などという地名から、桜井氏や海野氏など、中世信濃武士団の興亡を思う。旅の起点はJR長野駅。最初の宿泊地・別所温泉に行く途中、上田市の商店街の街灯に真田六文銭のマークがあるのを見て、上田が「真田氏の町」であることを実感する。別所温泉では、この地を訪れた捨聖・一遍の、すべてを捨てて求道をつらぬいた生を考える。翌朝、常楽寺、安楽寺を訪ね、午後は臼田の佐久総合病院に入院中の知人(詩人のぬやま・ひろし)を見舞う。南軽井沢に泊まった翌日、旧中山道沿いの望月宿をめざした。その途中、昼食を食べるために立ち寄った岩村田の蕎麦屋のテレビで田中角栄前首相の逮捕を知る。望月は平安朝の御牧のあった所。信州の騎馬が木曾義仲の軍事の要だったこと、清少納言『枕草子』の望月宿の記述へ思いをはせ、旅を終える。●信濃には科(しな級)のつく地名がじつに多い。埴科(はにしな)、更科、蓼科、立科、穂科、倉科といったぐあいで、信濃の国も、「日本書紀」に「科野国(しなのにくに)という文字を当てている。●奈良朝という律令国家は、全国を公田にしてそこからあがってくる米その他を都に運ばせるため、道路を必要とした。●(軽井沢は)「枯れ沢が訛ったのではないか」というのは、吉田東伍の説である。(略)「沢」という地名は西日本にはまれで、東日本に多く、とくに信州と東北に多い。(略)「現在のサワは、だいたい、東日本では渓谷を、西では沼沢を指す」。■街道をゆく 北のまほろば (夏)■■街道をゆく:北のまほろば(冬)■■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■■街道をゆく3:肥薩のみち■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.29
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●なんば●島田陽子なにわの難波昔は畑ナンバ畑やナンバの*とれどこ* 難波長ネギ青い葱鴨と炊いたら鴨なんば なにわでナンバ祭でこうたナンバ一本なんぼでこうたナンバトウキビナンバキビこんがり焼いたナンバはうまい*とれどこ*沢山とれるところ、産地。*ナンバトウモロコシ●30年ほど前に、この人の講演会を聞きにいって、本を買った。その時は、昔の遊び唄を集めたものだったが、この本は、創作した大阪弁の歌集。●ナンバと片仮名表記したのは、食べ物。■作者・島田 陽子■(しまだ ようこ、1929年6月7日 - 2011年4月18日は、日本の詩人。東京府出身であるが、11歳から大阪府に在住した。豊中高等女学校(現大阪府立桜塚高等学校)卒業。「文章倶楽部」などで小説を書いた後、1960年頃から童謡や児童詩の創作を始める。大阪弁を使った親しみやすい作風の詩で知られる。1981年、日本童謡賞受賞。また、合唱曲や歌謡曲などの作詞も多数あり、ザ・ワイルドワンズのヒット曲『花のヤングタウン』、 1970年の大阪万博のテーマソング「世界の国からこんにちは」の作詞も行っている。日本文藝家協会、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、日本童謡協会、詩と音楽の会、関西詩人協会会員。日本現代詩歌文学館評議員。1993年には、第28回大阪市民表彰(文化功労)を受賞。また、2003年まで帝塚山学院大学で講師を務めた。2011年4月18日、すい臓がんのため大阪府豊中市の病院で死去した。81歳没。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.28
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今から65年以上前、岡山県の田舎で小学生として来る日も来る日も遊んでいた。いろんな遊びがあったが、女の子は、母が下着やズボンなどに使うゴムを借りてよく遊んだ。ゴム跳びには、何種類かあって、ただ高さを飛ぶのもあったが、曲に合わせて歌いながら跳ぶのが私は好きだった。ゴム跳びの歌があって、曲ごとに、それぞれの跳び方があった。当時のゴム跳びの歌は、以下の通り。♪鐘の鳴る丘(とんがり帽子)緑の丘の赤い屋根とんがり帽子の時計台鐘が鳴りますチンコンカン・・・メーメー子山羊も鳴いてます風はそよそよ丘の上白いお窓はおいらの家よ■鐘の鳴る丘(とんがり帽子)■♪桃太郎桃太郎さん桃太郎さんお腰につけたキビ団子ひとつ私に下さいな。■桃太郎■♪花火ドンとなった花火だきれいだな空いっぱいに広がったしだれ柳も広がった♪船頭さん村の渡しの船頭さんは今年60のお爺さん歳はとってもお舟を漕ぐ時は元気いっぱい櫓がしなるそれギッチラギッチラギッチラコ■船頭さん■♪ミカンの花咲く丘ミカンの花が咲いている思い出の道丘の道はるかに見える青い海お船がとおく霞んでる■ミカンの花咲く丘■♪お猿のかごやエッサエッサエッサホイサッサお猿の駕篭屋だホイサッサ日暮れの山道細い道小田原提灯ぶら下げてソレヤットコドッコイホイサッサホーイホイホイホイサッサ■お猿のかごや■♪証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子證(しょ) 證(しょう) 證城寺 證城寺の庭はツ ツ 月夜だ 皆(みんな)出て 來い來い來いおいらの友だちゃあポンポコポンのポン負けるな負けるな和尚さんに負けるな来い来い来い来いみんな出て来い来い来い■証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子■ 「鐘の鳴る丘(とんがり帽子)」は、空襲により家も親も失った戦災孤児たちが街にあふれていた時代、復員してきた主人公が孤児たちと知り合い、やがて信州の山里で共同生活を始め、明るく強く生きていくさまを描く。これ以外は、明治、大正、昭和の戦前や戦中の歌。 何度も何度も歌いながら、跳びはねたから、今でも、それぞれの跳び方を覚えている。小さかったので意味もよく分からず、「船頭さん」の「村の渡しの船頭さんは・・・」を「村の私の・・・」と思っていた。 ゴム跳び以外にもお手玉や毬つき・・・私の子供の頃は、歌があふれていた。歌があって、運動量のあるこの子どもの遊びが、いつの間に無くなったのだろう・・・。今は残っていないのは、なぜだろう・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.26
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■手掘り日本史■■内容紹介(「BOOK」データベースより)■歴史というものは、手ざわりで感じていかなければいけないところがあるー。いまここに息づいているかのような存在感にあふれる司馬文学の登場人物。彼らはどのような思索と経験から生まれたのか。取材手法、史料との向き合い方、自身の精神風土について。創作の裏側を縦横無尽に語る。作家の肉声や書斎の風景が、いきいきと甦るかのような語り下ろしエッセイを、読みやすい大きな字でお届けする。■目次(「BOOK」データベースより)■私の歴史小説(庶民の風土/生活史への興味 ほか)/歴史のなかの日常(トシさんが歩いている/歴史を見る目 ほか)/歴史のなかの人間(見える目と見える場/義経という人気者 ほか)/日本史と日本人(日本的正義感/藩というイメージ ほか)/わが小説のはじまり●読書メモ● *私のコメント●(司馬遼太郎の)祖父は、惣八といいます。惣八の生まれたのは、播州・姫路の海岸よりにある「広」という村で・・・。(明治初年に20歳くらいだった)●今の難波、高島屋の裏側あたりですが、難波村の新川というところに居を定めて、宗右衛門町の芸者屋に餅をとどけたり、道頓堀の芝居小屋におカキをおろしたりして、わりあい繁盛していました。惣八は日露戦争の終わるころまで、チョンまげを結っていたそうです。●(略)惣八は息子に、絶対に小学校教育をつけさせない。そのころ、大阪にはまだ寺子屋があったのです。代数、英語、漢文・・・と、専門ごとにあった。町のことばでは寺屋といっていましたが、父は学齢に達すると、他の子どもたちは小学校に通っているのに、その寺屋に習いに行ったんです。*与謝野晶子幼少時代、学校に行くとき、「お寺行きましょう~」と誘われていたという。●明治になって、百姓にも姓をつくらなければならなくなって、三木、三木と言っていく。播州の人間は、三木になるわけです。自分の先祖も三木城で戦った、ということから、三木という姓になる。三木露風、三木清も、みんなそうですね私の家も三木にしょうと思ったらしいんです。が、祖父の惣八は米相場で、親類に金を借りて返さなかったり、不義理をかさねていますから、お前のところは三木にさせないぞと、宣告された。*楽天の社長は先祖が播州・三木で「三木屋」という屋号で商売をしていた。三木屋(みきや)→三木谷(みきや)→三木谷(みきたに)になったという話を聞いたことがある。*夫の母の旧姓は三木で、播州出身。●大阪の歴史的特質と言えば、日本全国のなかでここだけが封建体制をより軽く体験した、ということです。武士は、東西の町部g当社の士が管理者としているだけで、あとは町人に行政を委託していた。町は三区あって、北組、南組、天満組という、組はいまの区です。区ごとに、それぞれ町年寄が選ばれて、そこから大坂全体の総町年寄が互選で出されます。選挙権を持っているのは、自前の家屋をもつ者で、運上金を納めている海藻です。裏長屋の住人たち、八さん熊さんには選挙権がない。しかし、彼らも一生懸命働いて、表通りに出て家邸をもつことができれば、選挙権をもつことができる。士の数は、東西の町奉行所の与力・同心を合わせて二百人ぐらいですから、これが七十万の人口のなかにはいれば、ほとんど、どこにいるのかもわからない。●井伊掃部頭(かもんのかみ)と酒井雅樂頭(うたのかみ)の二軒だけが徳川初期から末期まで、大老になる資格をもちつづけている。特別な名誉と機能が与えられている。その他の家は、どんな譜代藩であっても、老中にまでしかなれない。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.24
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5月26日、■鎌倉市:鶴岡八幡宮■に行った。行く前に、「街道をゆく・三浦半島」を読んで鶴岡八幡宮についてをメモしていたので、ここに残しておく。司馬遼太郎の旅の拠点は、三浦半島の付け根部分にあたる横浜・磯子のホテル。ここから<毎日勤め人のように>半島に通い、鎌倉幕府出現の背景を考える。司馬さんは、源頼朝の挙兵成功の理由を、三浦、房総、伊豆の3半島の連動にあったと思い至る。それぞれの半島の勢力が海路を使って連携したのだ、と。大楠山の山頂から3半島の位置を改めて確認し、衣笠山では、頼朝を助けた三浦大介義明に思いを馳せる。そして、若宮大路、鶴岡八幡宮、極楽寺坂、朝比奈切通しなど、頼朝や義経、新田義貞らの足跡を辿る。半島を下り、横須賀で考えたのは、「スマートであれ」が教育方針だった旧海軍のこと。日露戦争で活躍した連合艦隊旗艦「三笠」を訪ねて、かつて出会った品のいい元海軍士官の紳士たちを思い出すのだった。●(鶴岡八幡宮を造営するにあたり)第一、宮大工がいなかった。このあたり、まだ関東の文化は、心もとなかった。頼朝が構想するような巨大構造物を建てる棟梁がいなかった。ところが、「武州(武蔵)の浅草にいます」といった者がいる。武蔵は、一様に草深かった。そういう状態を、普通名詞では「深草(ふかくさ)」という。その対語が、浅草かと思える。町屋があつまり、小規模ながら町であるというさまから、浅草が地名になったのではないか。浅草は、浅草寺の門前町である。大きな伽藍のそばには、それを修復する宮大工が住んでいるものだが、浅草にもそういう人物がいた。その匠が、いそぎ鎌倉によばれた。●若宮大路の路幅は、じつにひろい。その大路の中軸に(両側ではなく)、石塁を積みあげて、その塁上を歩行できるように造られている。段葛のながさは、五百メートルほどで、むかしはもっと長かったらしい。(略)工事するにあたって、頼朝自身、血相を変えるような勢いで現場を指揮しているのである。北条時政も土石を運んだ。(略)日本の場合、たとえば戦国時代から江戸初期にかけて、築城においては城主みずからがもっこをかつぎ、城主夫人がたきだしをした。伊予宇和島白の場合での藤堂高虎、 加賀の築城にあたっての前田利家、土佐高知城での山内一豊などそうであった。そういう先例は、ひっとすると若宮大路と段葛を工事した頼朝や時政だったのかもしれない。●「段葛」石を積んだ堤を並行して二列つくり、その二列の間に礫石や土などをいれて突きかため、細い道にしたもの。鎌倉時代、単に置き石の道とか、作道(つくりみち)」などともよばれていた。●「神のほかは、段葛を通るのは、将軍かその後の北条執権かにかぎられていました」と鶴岡八幡宮の国宝館三浦館長はいう。「街道をゆく42:三浦半島より」■動画:街道をゆく・三浦半島■■街道をゆく 北のまほろば (夏)■■街道をゆく:北のまほろば(冬)■■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■■街道をゆく3:肥薩のみち■■街道をゆく:湖西のみち/竹ノ内街道/葛城みち■■街道をゆく10:(羽州街道)佐渡のみち■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.23
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龍飛崎(たっぴざき)は、青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩龍浜にある津軽海峡に突き出た岬。津軽半島の最北端に位置する。津軽国定公園の一部。■青森県:竜飛岬■竜飛岬はアイヌ語のタム・パ(tam-pa 刀の上端)からの転訛(てんか)で、「突き出た地」の意味だという説があり、タムパを"龍が飛ぶ"と当て字したといわれている。表記には「竜/龍」及び「崎/埼/岬」という揺らぎがあり、竜飛埼、龍飛岬(たっぴみさき)など 竜飛岬といえば、石川さゆりのヒット曲「津軽海峡冬景色」に出てくる。♪ごらんあれが竜飛岬 北のはずれと見知らぬ人が指をさす息でくもる窓のガラスふいてみたけどはるかにかすみ見えるだけさよならあなた 私は帰ります風の音が胸をゆする泣けとばかりにああ 津軽海峡 冬景色タイトルが先に決まっており、三木たかしが作曲したメロディに阿久悠が作詞をした。いわゆる、曲を先に作って歌詞を合わせる、「曲先(きょくせん)」だったのだ。その際に阿久側から「津軽海峡冬景色」のフレーズで終わるように要望があった。歌詞の内容は、東京を発って本州最北端の青森県にたどり着き、津軽海峡をこえて北海道に渡る人々を描いた叙事詩である。●源頼朝に追われた義経らは、竜飛岬の三厩(みんまや)から津軽海峡をわたろうとしたが、海が荒れて術がなく、やむなく稔侍する観音に祈願した。満願の暁、夢に白髪の翁が立ち、竜馬を三頭あたえよう、という。目がさめてみると、三頭の竜馬がつながれていた。それに乗って、供の弁慶、亀井六郎と海峡をわたったという。 たつ年ですから1■辰巳は天井■2■臥龍梅■3■龍天に昇る■4■釈迦の誕生と龍の関係■5■登竜門と鯉の滝登り■6■リュブリャナのドラゴン橋■7■竜血樹■8■戊辰戦争■9■龍笛(りゅうてき)■10■天龍寺船■10-2■画竜点睛■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.21
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●上方(かみがた)では、葬式には造花の花輪を用いず、シキミの盛大な枝葉を形づけて葬家を荘厳(しょうごん)する。●原始仏教は花が好きであった。(略)長安では、いつも手軽に花が採取できるわではない。日本もそうである。シキミをもって花に代用したのであろうか。■街道をゆく26:嵯峨散歩■シキミって、そういう歴史があったのか。私の子どもの頃には、*シキミを花枝といっていた。*シキミを養う。*シキミをシキビと言っていた。日本語ではバ行音とマ行音の交替はよく見られる現象で(たとえば「けぶり→けむり」など)、「さびしい」→「さみしい」「しきび」→「しきみ」もその一つだろう。 「バ行」→「マ行」の例「ひむがしの野にかぎろいのたつ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ」■かたぶきぬ→かたむきぬ■ 「ほっかぶり」→「ほっかむり」「ひぼ」→「ひも(紐)」。 「さぶい」→「さむい」。■こぶらがえり→こむらがえり■■こぶらがえり1■■気になる言葉:~させていただきます■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.19
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■春情蛸の足■●内容紹介●「熱、つつ、つ」。偶然たどりついた店で出会った、いとしのお好み焼き。初恋の相手に連れて行かれた理想のおでん。彼女の食べる姿に惚れたきつねうどんにたこやき。妻が味を再現できないすきやき。そして離婚相手と一緒に味わうてっちり……。読むと幸せになれる、食と恋の短編集。笑って恋して腹がすく。●目次●春情蛸の足/慕情きつねうどん/人情すきやき譚/お好み焼き無情/薄情くじら/たこやき多情/当世てっちり事情/味噌と同情●解説●「春情」、「慕情」、「人情」、「無情」、「薄情」、「多情」、「事情」、「同情」。タイトル八編に全て「情」がついている。食べ物のある所には、人間だけに許された喜怒哀楽、笑いや涙がある。「あー、美味しかった。ごちそうさまでした。」--小川糸(解説より)●読書メモ●●この小説の会話は、大阪弁。●ぐいち・・・いきちがい。*よく使う言葉。●「関東煮(かんとだき)」*最近は、おでんが主流となった。●・・・亡母の口癖で「キンキンモウモウ」・・・ギンギラギンのこと。派手な化粧やアクセサリーをしている女性に「キンキンモウモウ・・・」。●大阪弁は、「炊く」というのである。*関西は、大阪以外にもすべて「炊く」。「なすびのたいたん」、「なんきんのたいたん」・・・。●…ついで綿入れの「でんち」に仕立て・・・*袖無羽織で,〈ちゃんちゃん〉〈でんち〉〈さるこ〉などともいう。名は江戸時代,鉦を叩き飴を売り歩いた清国人の服装に由来するという。*「でんち」は初めて聞いた言葉。●・・・通俗歴史書によれば、そんな江戸で一年に一日だけ、鯨汁を食べる日があったと書いてある。なぜか12月13日の師走の煤払いのあと、鯨汁で夕飯を*したためる*習慣だったそうである。皮鯨の味噌汁でもあったのだろうか、「鯨汁食ってしまえばいとまごひ」「「鯨汁四五日鍋のやかましさ」「鯨汁椀を重ねて叱られる」*江戸の女は鯨の臭いを嫌い鍋や椀を徹底的に洗わないと気がすまなかったらしい。*したためる*食事をするの意味。●「寒いよって、このおみいで暖(ぬく)まっとくなはれ」(略)おみい、というのは雑炊の大阪弁である。*かつて岡山県でも使っていた。朝ドラで三重県の女性(設定)のセリフにもあった気がする。●小体(こてい)な店・・・こじんまりした店。●著者情報●田辺聖子(タナベセイコ)1928年大阪府生まれ。樟陰女子専門学校国文科卒。’64年『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』で第50回芥川賞、’87年『花衣ぬぐやまつわる…』で第26回女流文学賞、’93年『ひねくれ一茶』で第27回吉川英治文学賞、’94年第42回菊池寛賞’98年『道頓堀の雨に別れて以来なり』で第50回読売文学賞、第26回泉鏡花文学賞、第3回井原西鶴賞を受賞。’95年紫綬褒章、2000年文化功労者に選ばれ、’08年には文化勲章を受章。小説をはじめ古典や評伝、エッセイ等著書多数。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.18
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■ニューヨーク散歩■司馬遼太郎は、タクシーで、かつてインディアンが住んでいたマンハッタン島北端にあるインウッド・ヒルズを訪ねた。そこで貝塚を目にし、翌日アメリカン・インディアン博物館とセントラル・パークを訪ねる。ブルックリン区では、19世紀にブルックリン橋をつくったローブリング親子の命がけの大事業を思いながら橋をわたり、この土地を舞台にした映画『ソフィーの選択』のなかのブルックリン橋のシーンを思い出す。連想は写真家マーガレット・バーク=ホワイトとアメリカの機械文明にまで広がってゆく。続いてプロスペクト・パーク、ウィリアムズバーグのユダヤ人居住区へ向かった司馬さんは、正統派のユダヤ人について考える。さらにグリーンウッド共同墓地では、幕末の日本に派遣された米国公使タウンゼント・ハリスの墓を探しながら、その業績の大きさを思う。日本学が盛んなコロンビア大学ではドナルド・キーン教授の定年退官を祝う晩餐会に出席し、自身も「日本仏教小論」の講演を行った。また、この大学の日本学の祖、角田柳作先生の生涯に思いをはせる。最後に司馬さんは、コニー・アイランドとブライトン・ビーチを訪れ、人間の思想やアイデンティティーについて考える。同国の歴史を変えた「9・11」に先立つこと約9年の旅だった。■動画:ニューヨーク散歩 (司馬遼太郎「街道をゆく」)■■目次(「BOOK」データベースより)■マンハッタン考古学/平川英二氏の二十二年/ブルックリン橋/橋をわたりつつ/ウィリアムズバーグの街角/ハリスの墓/コロンビア大学/ドナルド・キーン教授/角田柳作先生/御伽草子/ハドソン川のほとり/学風/日本語/奈良絵本/ホテルと漱石山房/さまざまな人達■著者情報(「BOOK」データベースより)■司馬遼太郎(シバリョウタロウ)1923年、大阪府生まれ。大阪外事専門学校(現・大阪大学外国語学部)蒙古科卒業。60年、『梟の城』で直木賞受賞。75年、芸術院恩賜賞受賞。93年、文化勲章受章。96年、死去。72歳。主な作品に『国盗り物語』(菊池寛賞)、『世に棲む日日』(吉川英治文学賞)、『ひとびとの跫音』(読売文学賞)、『韃靼疾風録』(大佛次郎賞)などがある。「街道をゆく」を読んでいる。沢山あるので、行ったところから読んでいる。NYには、81年(?)、95年(?)、2003年~2004年の一週間(年末年始)の3回だ。81年は、自由の女神も、混んでいなくて、すいすい登れた。95年は、檄込み。2003年に至っては、9.11という大きな事件の後なので、登れなかった。●読書メモ●●両側を川にはさまれて都心を形成しているという点ではパリのシテ島や大阪の中之島や堂島に似ているが、それらが川の中州であるのに対して、こちらはハンマーで叩いても容易に割れそうにない岩盤でできているという点がちがう。マンハッタンとはインディアン語だそうである。「丘からなる島」という意味だという。●故ジョン・スタインベックは「アメリカとアメリカ人」のなかで、新規にやってきた移民(民族)がきらわれ者の役をひきうける、といった。たとえばアイルランド人がきらわれていたが、イタリア人がやってくると緩和された。●(中国の殷が)ほろんだのは、紀元前1050年ぐらいらしい。「殷」というのはあとにかわった周王朝のひとびとがそうよんだので、殷人たちは、自分の王朝や「民族」のことを「商(しょう)」とよんでいた。「商」という文字は、地形からきている。高台のことである。とくに「平原のなかに隆起するあかるい高地」という意味で、げんに殷の時代、ひとびとは高台にしゅう落をつくる慣わしをもっていた。後世の商売の商という意味はなかった。(略)かれらの一部が、ジプシー化し、行商をしたから、商うひとたちのことを、世間では「商人」とよぶようになった。●それも、古い江戸前の発音が舌に残っている。たとえば私どもは、手拭をテヌグイを仮名表記どうりに野暮ったく発音するが、小林さんは、「テノゴイ」だった。(略)お汁粉→オショロコ*私もこんな言葉を老人から聞いたことがある。狸をタノキうさぎをオサギむじなをウジナ●途中、足もとが悪いために袴のももだちをとった。■YouTube:股立をとるとは■●黒人がアメリカ文化にジャズ音楽を加えたように、アイリッシュは(略)アイルランドの土俗のハロウィーンという子どもの祭を持ちこみ、やがてアメリカの年中行事のひとつになった。●枕カバーを袋にして家々をまわり、袋がいっぱいになるまでキャンデイをあつめてきて、宝物のように大切に一年じゅう蓄えておくのです。 この取材に同行した安野光雅の本も読んでみたい。■街道をゆく 北のまほろば (夏)■■街道をゆく:北のまほろば(冬)■■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■■街道をゆく3:肥薩のみち■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.16
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「宮参り」とは赤ちゃんが無事生まれた報告と、今後の健やかな成長とご加護をその土地の氏神様に祈る行事。関西では、男子赤子の額に「大」、女子赤子の額に「小」の文字を赤い色で書く風習がある。大阪で暮らすようになってから知ったことだ。なぜ、このように「大」の文字を書くのかを何度か調べたが、納得いく答えがなかった。ところが、先日、「清張さんと司馬さん」という本を読んだとき、はたと気が付いた。■古代史家としての清張さん■新説には、たとえば「男子は大小と無く皆 鯨面文身(げいめんぶんしん)す」と「魏志」にあります。従来の説では、「大小」を大人も子供も顔や身体にイレズミをする、ということでした。清張さんは大笑いするのです。どんな未開社会だって子供にイレズミをするところがあるものか。鯨面文身は、成人になったしるしに決まっている。ここは「大人も下戸も」と解釈すべきなのである。上層の人もイレズミをしている。ただし、その紋様には尊卑貴賤の区別はあったであろうが、というわけです。「鯨面」とは顔面のタトゥー、「文身」は身体のタトゥーを意味する。 わかりやすくいうと「魏志」にある「男子は大小と無く皆 鯨面文身(げいめんぶんしん)す」の解釈。「大」も「小」も顔や身体にイレズミをしている。この「大」は、身分の高いもの、「小」は、身分の低い者という意味で、決して、大人も子供のではないと清張は言った。おおまかにいうとそんな感じ。 そこで私は、ピンときた!!お宮参りの際に、赤子に「大」や「小」を書く理由を。今と違って昔は、乳児死亡率の高かった時代の宮参りの際、「この子は、もう、大きくなっています。ほら、額に「大」の字があるでしょう。だから乳児ではありません。ですから、神様、この子の命は、とらないで下さい」ということで、額に大人の印「大」を書いたのではないだろうか・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.14
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■侍タイムスリッパー■それがし、「斬られ役」にござる。時は幕末、京の夜。会津藩士高坂新左衛門は暗闇に身を潜めていた。「長州藩士を討て」と家老じきじきの密命である。名乗り合い両者が刃を交えた刹那、落雷が轟いた。やがて眼を覚ますと、そこは現代の時代劇撮影所。新左衛門は行く先々で騒ぎを起こしながら、守ろうとした江戸幕府がとうの昔に滅んだと知り愕然となる。一度は死を覚悟したものの心優しい人々に助けられ少しずつ元気を取り戻していく。やがて「我が身を立てられるのはこれのみ」と刀を握り締め、新左衛門は磨き上げた剣の腕だけを頼りに「斬られ役」として生きていくため撮影所の門を叩くのであった。「自主映画で時代劇を撮る」と言う無謀。コロナ下、資金集めもままならず諦めかけた監督に、「脚本がオモロいから、なんとかしてやりたい」と救いの手を差し伸べたのは他ならぬ東映京都撮影所だった。10名たらずの自主映画のロケ隊が時代劇の本家、東映京都で撮影を敢行する前代未聞の事態。半年に及ぶすったもんだの製作期間を経てなんとか映画は完成。2023年10月京都国際映画祭で初披露された際、客席からの大きな笑い声、エンドロールでの自然発生的な万雷の拍手に関係者は胸を撫でおろしたのであった。初号完成時の監督の銀行預貯金は7000円と少し。「地獄を見た」と語った。★映画メモ★★面白かった。チラシを持っていなかったので、気が付くのが遅くなってしまったけれど、見られてよかった。チラシがないのは、自主映画で製作費が限られていて、宣伝に回すお金がなかったからか・・・。★経費節減のため、出演者は、知らない人ばかりだったけれど、内容がいいので、観客も沢山来ていて、関係者ではないけれど、ホッとしている。★幕末のシーンで、斬りあいをしている最中に雷が・・・。そして現代に・・・。時代劇の撮影所にワープする。時代劇の撮影所というところがミソ!!★雷がなってワープする時、「侍タイムスリッパー」の文字が効果的に表れる。よく見ると、「侍」の点の部分が刀の鍔(つば)になっているのを発見した!!★映画のジャンルは、コメディ、 時代劇、 SF。★ワープした時、雷に撃たれたのは、一人ではなかった・・・( ̄ー ̄)ニヤリ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.12
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辰年ですからと辰=龍にちなんだことを毎月メモしている。●画龍点睛(がりょうてんせい)●意味:最後に加える重要な仕上げ。 この四字熟語は有名な故事がありますよね。多分、学校でも習った気がする。 中国六朝時代に安楽寺に四頭の龍の絵を描いた人がいたんですが、その人は龍の瞳を描かなかったんですよね。どうしてかというと龍の絵に瞳を描き込むと龍が飛んでいってしまうと。でも世間の人は信じなかったので、二頭にの龍にしぶしぶ瞳を入れたら実際に龍が飛んでいってしまいます。そして瞳を描かなかった残りの二頭はそのままだった。 世間一般的には「画竜点睛を欠く」という言葉の方が知られてる気がしますが、ようは「大事な仕上げが出来てない」って意味の言葉ですね。 たつ年ですから1■辰巳は天井■2■臥龍梅■3■龍天に昇る■4■釈迦の誕生と龍の関係■5■登竜門と鯉の滝登り■6■リュブリャナのドラゴン橋■7■竜血樹■8■戊辰戦争■9■龍笛(りゅうてき)■10■天龍寺船■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.11
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■ロール・ザ・ドラム!■鳴り響け!1970年、スイス・ヴァレー州の小さな村、モンシュ。ワイン醸造家のアロイスは地元のブラスバンドの指揮者で、村で開かれる音楽祭のオーディション通過を目指して日々練習に励んでいる。しかし、アロイスの指導力を疑問視する楽団のメンバーが、村出身でプロの音楽家として活躍するピエールをこっそりパリから呼び寄せてしまう!伝統を重んじるアロイスと違い、才能ある女性や移民を次々と楽団のメンバーに加えるピエール。それぞれを指揮者に立てた2つの楽団が出来上がり、楽団の対立は村全体を巻き込んだ大騒動へと発展していく…。 監督は、スイスで多くの映画やTVシリーズを手掛けているフランソワ=クリストフ・マルザール。ヴァレー州で実際にあった出来事をベースに、伝統と革新がぶつかり合う地元のブラスバンドの対立を、ユーモアとウィットに満ちたタッチで描いた。スイスで最も権威あるスイス映画賞の撮影部門で審査員特別賞を受賞したほか、アロイスの妻マリー=テレーズ役のザビーネ・ティモテオは最優秀女優賞にノミネートされた。★登場人物★★アロイスワイン醸造家で、地元のブラスバンドの指揮者。★ピエール村出身のプロの音楽家。この二人と家族を巡る作品。★映画メモ★★ピエールは、オートバイに乗って登場する。オートバイにサイドカー、サイドカーに犬が乗っている。「サイドカーに犬」★映画は1970年。この時代って、50年以上前になるんだな・・・。だから、今と比べるといろいろ違いがある。★家の中に陶器のストーブのようなものがあった。■ニュージーランドのオアマルの古い宿■に泊まった時にもあった。★女性の参政権が話題になっていた。調べてみたら、スイスで国政選挙に女性が参加できるようになったのは1971年のことだそうだ。国政では1971年、地方を含めた全土で実現したのは何と1990年のことだった。★スイスでは各市町村にブラスバンドのグループがあるほど、ブラスバンドにかける人々の熱い思いは格別なのだそうだ。★主人公がワイン生産者。ブドウの収穫を手伝うために、イタリア移民が働いていた。イタリアから国境を越えて働きに来るのかと思いきや、移民だという。★映画はフランス語だったが、たまにイタリア語も。スイスの公用語は、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロマンシュ語の4つが公用語。サンモリッツあたりは、イタリアに近く、公用語はイタリア語。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.09
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■街道をゆく10:佐渡のみち■司馬さん一行は、新潟空港経由、プロペラ機で佐渡に入った。両津の佐渡空港で地元の郷土史家の山本修之助氏らの出迎えを受け、熱串彦神社に寄る。恋ケ浦で宿泊、翌日、旧本陣であった山本家で資料を見せてもらった後、南の小木に向かう。蓮華峰寺では、廉直な役人が追いつめられて立てこもった「小比叡騒動」に思いを馳せ、小木港では海に出て、佐渡の玄関口だった近世の景観を想像した。宿を取った真野の恋ケ浦では、当時小説を準備していた司馬凌海の取材をした。翌日は相川に向かい、金山に送り込まれた無宿人たちについて思いを巡らす。道中、金山開発に功績があった大久保長安や、幕末の佐渡奉行・川路聖謨についても考える。●目次(「BOOK」データベースより)●佐渡のみち(王朝人と佐渡/大佐渡・小佐渡/あつくしの神/真野の海へ/倉谷の大わらじ ほか)●内容紹介(「BOOK」データベースより)●「佐渡のみち」では、江戸初期の佐渡でおきた「小比叡事件」の主人公、辻藤左衛門が登場する。歴史的にはそれほど有名ではないが、いじめぬかれ、最期は名誉を賭けて戦った男への深い同情を感じさせる。●(新潟空港から佐渡まで)プロペラ機で20分。●来いと言(ゆ)たとて行かりょか佐渡へ佐渡は四十九里波の上という唄がある。●鶯や十戸の村の能舞台 大町桂月十戸ほどの小さな村でも能舞台をもっているということらしい。●「ここは倉谷の集落の入り口ですが、入り口の電柱にこういう大わらじを掛けておくと、悪い者が怖れてむらに入ってきません」「道切(みちきり)というあれでしょうか」(略)村の入り口にある樹木などに注連縄を張り、その下に巨大なわらじをぶらさげて、・・・この村には、こんな大わらじを穿く大男の荒神がいるぞ。ということを誇示しておく呪術なのである。●「流(る)」というのは、律令の刑罰の一つで、奈良朝以来、明治初年まで用いられた。死罪に次ぐ重罪である。ただし流してしまえばその地で自由に暮らせたらしい。江戸幕府では、流という言葉はあまり使わず、公用語は遠島であった。■街道をゆく 北のまほろば (夏)■■街道をゆく:北のまほろば(冬)■■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■■街道をゆく3:肥薩のみち■■湖西のみち/竹ノ内街道/葛城みち■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.07
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自然を残すというのは、「文明」が持ちはじめたあたらしい意志である。●(マンハッタンの最北は)三方が河水にかこまれている。ニューヨーク湾の満潮のときは、海同然になるにちがいなかった。「ようこそ、インウッド・ヒルズに」という、ニューヨーク市がたてた立札が路傍にあった。このあたりの地名がインウッドで、起伏する丘がことごとく自然のままの公園になっていた。自然を残すというのは、「文明」が持ちはじめたあたらしい意志である。「街道をゆく39 ニューヨーク散歩」司馬遼太郎 ●インウッド・ヒルズ●マンハッタン北端に広がる公園。自然がよく残され、島の岩盤が露出しているところなどがある。かつてインディアンが住んでいた。 司馬遼太郎が、ニューヨークに行き、マンハッタン島の最北の部分に立った時の文章だ。日本では、「開発」という名もと、自然が破壊されるのをよく聞く。■神宮外苑の再開発という名の自然破壊■市民から反対の声が上がっているのに、無視をして、3000本もの樹木を伐採しようとしている東京都。(2023年)そんな東京・明治神宮外苑の再開発に対して「遺産危機警告(ヘリテージアラート)」を出したイコモスの専門家らが9月15日、記者会見を開き問題点を語った。公園に高層ビルを建てるという計画=「開発」=進歩的という日本の常識は、世界から見れば大きく間違った非常識なことだといえる。 日本の「開発」好きな首長たちよ、自然を残すというのは、「文明」が持ちはじめたあたらしい意志であることがわからないのか!!■神宮外苑1000本の樹木を切らないで~再開発計画は見直しを!■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.05
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■街道をゆく(1):湖西のみち■『街道をゆく』の旅で司馬遼太郎が最初に訪れたのは「楽浪の志賀」と呼ばれた湖西であった。日本人の祖形を求める司馬さんは、車で湖西のみちを北上しながら、「楽浪」は朝鮮半島(新羅)の楽浪と関係があるのか、繋がりの痕跡をさがす。古い漁港の北小松は「高麗津」、近江最古の神社である白鬚神社は「新羅神社」ではないか。安曇川町の集落では、水辺を好んで居住してきた安曇族に思いをはせる。朽木谷へ入ると、この長大な渓谷を退却した織田信長の凄みに心を奪われた。信長を助けた松永弾正と朽木元綱にも話は及ぶ。朽木氏の館があった野尻、さらに市場という集落を抜け、岩瀬の曹洞宗興聖寺、境内に残る足利義晴の庭園跡を再訪した司馬さんは、かつて見た情景を語る。●日本には小松という地名が無数にあるが、周防大島の漁港小松が高麗津であったように、ここもあるいは高麗津だったのかもしれない。●水走りの傾斜面に田畑がひろがっているのだが、ところがこの付近の川は目に見えない。この村のなかの溝をのぞいてはみな暗渠になっているのである。この地方のことばではこの田園の暗渠をショウズヌキという。●白鬚神社●近江最古の神社で、祭神は猿田彦。琵琶湖中に立つ大鳥居が印象的。本殿は国の重要文化財。●(略)最近、白髭は新羅のことだという説もあった・・・(略)。●河海に面した砂地のことを、「スカ」と古くはよばれた。後世、須賀の字をあてたりする。蜂須賀、横須賀などの須賀がその好例だが、それとシカ(志賀)は関係があるのか。●朽木渓谷●越前朝倉攻めの折、織田信長が京への退却の途についた山道「鯖街道」が通る。◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆■街道をゆく(1):竹ノ内街道■古代の倭王権についての興味を胸に、若き日本語学者、ロジャ・メイチン君を道連れにして石上神宮を訪れた。うっそうとした「布留の森」を歩き、崇神天皇の時代に思いを馳せる。次に、山辺道に沿って南下して大神神社でも森を歩き、その御神体である三輪山と古代王権について考えた。大阪への帰り道は、そこから奈良盆地を横断し竹内峠を越えることにした。叔父のことなどを思い出しながら、司馬さんの母方の実家があった竹内集落を抜けたところで車が故障し、止まってしまう。筆はそこで留められている。■街道をゆく(1):葛城みち■葛城地方の古代に思いを馳せながら葛城古道を南下した。笛吹部の先祖・笛吹連を祀る笛吹神社から、葛城氏の先祖・一言主神を祀る一言主神社へと進みながら、一言主神と雄略天皇、鴨氏の一族とされる役行者(役小角)などを思い起こし、葛城の古代氏族と倭王権の関係を考える。さらに鴨氏の先祖を祀る高鴨神社へ至り、その周辺の景観は古代から変わっていないのではないかと思う。●大和石上(いそのかみ)へ●明治になって皇居が東京にうつるにおよび、いまでいう皇居警察が諸門を警備したが、最初のうちのの採用資格は、薩長土(薩摩、長州、土佐)の三藩の出身者とこの戸津川出身者にかぎるとされていた。●葛城坐一言主神社●延喜式に載る古社。「葛城の神」一言主神を祀る。「一言さん」と呼ばれ広く親しまれている。奈良県御所市森脇432■ひとこと はがきの名文コンクール■■動画:街道をゆく:竹内街道・葛城みち(司馬遼太郎「街道をゆく」)■■街道をゆく 北のまほろば (夏)■■街道をゆく:北のまほろば(冬)■■街道をゆく27因幡・伯耆のみち■■街道をゆく7:甲賀と伊賀のみち■■街道をゆく3:肥薩のみち■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.03
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辰年ですからと、毎月、辰=龍にまつわる話を書いている。●天龍寺船とは● 天竜寺造営の費用を調達するため元(げん)に派遣された船。1341年(興国2・暦応4)12月、足利直義(あしかがただよし)は京都・天竜寺の夢窓疎石(むそうそせき)に対し、二隻の貿易船の派遣を免許し、翌年の秋に出航できるよう準備を進めさせた。直義はそのうちまず一隻を渡航させることにし、疎石は博多商人・至本を綱司に推挙した。至本は貿易の利益のいかんにかかわらず、帰国後に5000貫文を寺に納めることを約束した。他方幕府はこの船を当時瀬戸内海地方に横行していた海賊などから保護する責任を負った。 角倉家と嵯峨の天龍寺との縁はふかい。天龍寺の僧のかかりつけの医者(角倉家の家業のひとつが医者)だったという時代もある。(略)(保頭川の水運をひらき、高瀬川を開削した)角倉了以の父親も天龍寺船に乗って明に行ったことがある。天龍寺船はいわば一航海きりの会社のようなものだから、角倉一族は当然、資本も出し、利潤の配分にもあずかったであろう(略)「街道をゆく26:嵯峨散歩」 角倉一族は、民間人ではあるけれど、大きな視点を持つことが出来たのは、こういう国家的な事業にも関わっていたからだろう。 たつ年ですから1■辰巳は天井■2■臥龍梅■3■龍天に昇る■4■釈迦の誕生と龍の関係■5■登竜門と鯉の滝登り■6■リュブリャナのドラゴン橋■7■竜血樹■8■戊辰戦争■9■龍笛(りゅうてき)■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.10.01
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9月の俳句のお題は、「新米」だった。このところの米騒動が俳句にも表れていて、面白かった。ところで、なぜ米不足になったのだろう?農林水産省が集計した「民間在庫」は、2024年6月末時点で、156万トンと去年よりも20%減って記録を取り始めた平成11年以降では最も少なくなっている。その理由。①新潟や秋田など日本海側の主要な産地で、2023年産のコメの収穫量が夏の猛暑などの影響によって減少。②コロナ禍からの回復で外食などの需要が伸びたことや外国人観光客が急速に増えてコメの需要が伸びている。③円安などで小麦の輸入価格が上がり、「パン」や「麺類」の価格の値上がり。 句会に来ていた女性が「米不足は、南海トラフ地震が関係しているらしい」と言っていた。来るべき地震に備えて、食べ物を家庭でも備蓄するという家が増えたかららしい。さもありなん・・・と私は感心した。 新米や菜(さい)は漬物だけでよい はるな■2024年9月に見た映画■*お隣さんはヒトラー*ブルーピリオド*ボストン1947*熱烈*チャイコフスキーの妻*孤独な楽園*本日公休■書き残したネタ■*マ行とバ行*能登の町が復興する時、考えて欲しい町づくりについて。*ダウンタウン松本氏のスキャンダルについて*M12023について。*淀殿について*長堀川と橋*アフリカで日本の古着が環境破壊!?*トグサ(研ぐさ)*「篩(ふるい)」と「とおし」*レッドオーシャン、ブルーオーシャン*高師浜*読書ネタ・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.09.30
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●生国魂(いくたま)さんから●生国魂(いくたま)さんから いちびりが日本橋へ *にんにゃかし*1三休橋で散在し心斎橋筋 しぶちんし高津(こぉず)へ戻って *ごちょォならべ*2路地(ろぉじ)で拝む六地蔵なんば とんぼり なにわ寄席 橋筋(はっすじ)ひやかし *半助*3買(こう)て久左衛門町で*九人歩き*4十より百より せんねん町まんまく張って おさめまひょ「大阪ことばあそびうた」島田陽子*にんにゃかし*1賑やかし。大阪の言葉には、こういう言い方がある。例えば、なにわ橋=なんにゃ橋*ごちょォならべ*2五目並べ。この言葉は、私もはじめて知った。■*半助*3■『半助』とはうなぎの頭。関西ではうなぎの頭のことを『半助』と呼びます。関東では捨ててしまううなぎの頭ですが、関西では頭がついたまま焼くので、頭の部分からもダシが出るためまとめて売っていました。うなぎ全部を売り物にするあたりはさすが商人の町ですね。 *九人歩き*4千鳥足。あっちへ寄ったり(四人(よったり))、こっちへ寄ったり(四人(4人))本人を入れて九人歩き。シャレ言葉、白犬のおいど:面白い(尾も白い)のような言い方。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.09.28
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今から65年以上前、私は、岡山県の田舎で小学生だった。貧乏だったし、テレビもラジオもなかったけれど、楽しく暮らしていた。それは、話好きな父と明るく陽気で、歌の大好きな母のおかげだと思う。 話好きな父はいろんな話をしてくれた。そんな中に、明治の外交官・小村寿太郎の話があった。「小村寿太郎は、頭のええ人でなぁ」と父は話はじめた。「しゃあけど、背がものすごう低かったんじゃ。」寿太郎は、成人しても150㎝にも届かないほど小柄な人だったようだ。「小柄な寿太郎に対して、西洋人が馬鹿にしていうんじゃぁ」と父の話は続く。「小村さん、日本にゃあ、あんたのように背の低い人ばかりなんですか?」と西洋人は、小村に言ったと父の話は続く。「そこで、小村寿太郎は言(ゆ)うた。 いや、日本にも体の大きい奴はいる。いるにはいるが、体の大きい奴は、両國ゆうとこに集めて相撲をとらしょうる。」ここで父は大笑いをする。つられて、私も笑うのだった。 あらゆる方面に顔を出し、絶えず動き回る小柄な小村を、欧米の外交官たちは "rat minister"(ねずみ公使)と呼んだという史実もある。日本では、体格が小柄で身なりも貧相、毒舌で周囲から変わり者呼ばわりされてきた小村が外交官となるのを反対する声も多かったという。父の話てくれた小村寿太郎の話は、事実だったのだろうか?先日、あるタレントが他人を揶揄する発言をし、テレビのCMをおりるなど大きな問題になった。いわれた方は、何も返すことが出来ない「タレント」だった。ちなみに「タレント」というのは、才能、あるいは才能がある人を指す言葉をいうのだが・・・。小村寿太郎のように、相手をぎゃふんと言わせるような「才能」のない「タレント」だったのだ。この事件で、父から何度も聞いた小村寿太郎の話を思い出した。話の後、父は「背の高いのは、ええことじゃなぁ」と笑いながら言った。明治45年生まれの父も、小柄な人だった。★小村 寿太郎★1855年10月26日(安政2年9月16日) - 1911年(明治44年)11月26日)。、日本の外交官、政治家。外務大臣、貴族院議員(侯爵終身)などを務めた。イギリス・アメリカ・ロシア・清国・朝鮮(韓国)の公使・大使を務め、特に2度の外相時代には日英同盟の締結、日露戦争後のポーツマス条約の締結、条約改正の完成(関税自主権の完全回復。治外法権は陸奥宗光が改正)などの業績をのこし、近代日本外交を体現した人物として知られる。 日向国飫肥藩の下級藩士に生まれた小村は、病弱で一五〇センチに満たない身長、非藩閥出身と恵まれない出自ながら、第一回文部省留学生としてハーバード大学に留学。抜群の語学力と高い交渉能力を身につけ、日本を「一等国」に引き上げた。帝国主義と国際協調の間を巧みに動いた外政家。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.09.26
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■本日公休■いつもどうりで?いつもどうりで。台中の下町で40年にわたり理髪店を営む店主のアールイ(ルー・シャオフェン)。今日も、いつものように店に立ち、常連客を相手にハサミの音を響かせている。息子の卒業式に出席するために整髪にやって来る紳士、夢枕に立った亡き妻に「髪は黒いほうが良い」と言われ、初めて白髪染めにやって来る老人、親に内緒で流行りのヘアスタイルにして欲しいと懇願する中学生……、時が止まったように見える店も、泣いたり笑ったり忙しい。 3人の子どもたちは、すでにそれぞれの道を歩んでいるが、アールイの心配は尽きない。台北でスタイリストをする長女シン(アニー・チェン)、街のヘアサロンで美容師をする次女リン(ファン・ジーヨウ)、一攫千金を夢見て定職に就かぬままの長男ナン(シー・ミンシュアイ)。皆、実家の店にはなかなか顔を見せず、頼りになるのは、近くで自動車修理店を営む次女の別れた夫チュアン(フー・モンボー)だけ。そんなある日、アールイは店に「本日公休」の札を掲げ、愛用の理容道具を携えて、古びた愛車で出発する。偶然実家を訪れたシンは、母が店を休んでいる理由をナンやリンに聞くが、誰も知らない。スマホは食卓に置きっぱなしで連絡も取れず、3人は母を案じていた。その頃アールイは、遠くの町に住む常連客が病床にあると聞き、出張散髪に向かっている途中で……。★フー・ティエンユー監督が、自身の母をモデルに、台湾中部の町・台中にある実家の理髪店で撮影した。理髪店は2階建てで、二階のベランダに植えている木に南国っぽい花が咲いていて綺麗だった。★都会には、沢山の理髪店があって、値段や家からの距離、美容師との相性などでいくらでも変えることが出来る。しかし田舎だと、決まった所に行く。行けば、誰かが来ていて、話をする。この理髪店は、髪の毛を切るだけのところにあらず。常連さんが集うみんなのサロンになっている。変わらないハサミの音、シャボンの香り、ここは、アールイさんのちいさな理髪店。そしてみんなの憩いの場所だ。★台湾、いいなと思う映画だった。★この映画を観たのは、大阪市心斎橋のアメリカ村にあるシネマート心斎橋。2024年10月24日(木)をもって閉館する。アジア映画に特化した映画館で、閉館するのがとても残念だ・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.09.24
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■東慶寺花だより■■内容紹介(出版社より)■女たちの「駆け込み寺」を描く、涙と笑いの人情譚離婚を望み、寺に駆け込む女たちーー。夫婦の揉め事を解きほぐすと見えてくるのは、人の切なさ温かさ。十年をかけて紡がれた連作集。寺の境内に身につけているものを投げ込めば、駆け込みは成立するー離婚を望み、寺に駆け込む女たち。夫婦のもめ事を解きほぐすと現れるのは、経済事情、まさかの思惑、そして人情の切なさ、温かさ。鎌倉の四季を背景にふっくらと描かれる、笑いと涙の傑作時代連作集。著者自身による特別講義を巻末収録。■目次(「BOOK」データベースより)■梅の章ーおせん/桜の章ーおぎん/花菖蒲の章ーおきん/岩莨の章ーおみつ/花槐の章ー惣右衛門/柳の章ーおせつ/蛍袋の章ーおけい/鬼五加の章ーおこう/白萩の章ーおはま/竹の章ー菊次/石蕗の章ーおゆう/落陽の章ー珠江/黄蘗の章ーおゆき/蓼の章ーおそめ/薮椿の章ーおゆう 夫婦の形は様々。離縁の形も様々。相思相愛なのに、自分の持参金を使ってもらいたいがために離縁を望む妻もいれば、道場破りをしてそのまま居付いた押し掛け亭主への仇討を果たす女性もいる。 ●東慶寺掟●●一、寺の境内に身に着けているものを投げ込めば、駆け込みは成立する。日本橋から鎌倉までの距離は約50km。ちょっと買い物を装い、そのまま鎌倉を目指した女性が約3,000人いたという推計があるそうです。気が付いた縁者が追い駆けてくるかもしれないので、わき目もふらず鎌倉を目指す。あと少しで東慶寺というところで、親類に追いつかれてしまうことが多かったのでしょうか、かんざしでも草履でも身に着けているものを境内に投げ込めば駆け込みは成立。 ●一、夫婦は寺の前にある柏屋、松本屋、仙台屋の三軒の「御用宿」に分宿して「相対熟談」を受ける。でも、直ちに入山できる訳ではない。まずは御用宿で事情聴取がある。次に夫を始めとする縁者を招集して、相対塾談が行われる。宿が三軒あるのは、夫と妻を同じ宿に泊めないことから。関係者を書状で集めるために、三軒の宿が六人の飛脚を「常雇い」している。 ●一、妻は二十四か月、寺で過ごすと、離婚が成立し、再婚も認めらられる。まずは示談をさせようとする。示談が不調に終わり、夫が離縁を承認しない場合は妻は東慶寺に入山する。2年間東慶寺に籠ると、離婚が成立する。東慶寺は男子禁制で、入寺金と生活費の扶持料が必要。入寺金が払えない時は東慶寺が貸付けて、下山後に返済させる。扶持料に応じて寺内での暮しに3段階の待遇があったそうです。お寺での暮しも金次第。●一、寺は男子禁制で、男の駆け込みは認められない(が、時には例外も・・・)東慶寺は鎌倉で円覚寺に次ぐ第二の寺格で、駆け込み寺の運営のため金貸し業も行っていたそうです。御用宿の柏屋を舞台に様々な駆け込み人が来ることで物語は展開しますが、様々な駆け込み人やその縁者と接することで、主人公の信次郎は人を見る目を肥やして行きます。●読書メモ●●この本の語り手は、若く、「物書き」、「医者見習い」、「柏屋」の見習い番頭をしている。●丸髷は富裕の度合いを測る物差し。丸髷が大きければ富裕層。●東慶寺の駆け込みは、朝方と相場が決まっている。午後遅く江戸を出て、夜通し鎌倉を目指すと朝方に着く。●本が売れて千部以上刷ると「千部振舞(せんぶぶるまい)」といって、版元が作者を吉原へ招いて、どんちゃん騒ぎをしてくれます。●乳母日唐傘(おんばひからかさ)*私は乳母日傘(おんばひがさ)という言い方しか知らない。●親子は一世、夫婦は二世、主従は三世、間男は四世、そして男と男の契りは五世の仲といいます。●献残屋(けんざんや)は、世間にあまり知られていない商売で(略)。この献残とは「献上品の残り物」という意味。御大名、御旗本、御家人衆にはそれぞれ官位叙任やお目見えや家督相続といっためでたい節目がある。町方でもお中元やお歳暮という儀礼がある。その際には、熨斗鮑(のしあわび)、干魚(ひもの)、昆布、葛粉、片栗粉、唐墨(からすみ)、海鼠腸(このわた)、雲丹(うに)、墨、硯、筆といった贈答品が江戸の町町を飛び交い、貰った方はどなたも持て余す。そこで不要な贈答品ををこっそり献残屋に持ち込み金に換える。●髪を短く切って断髪にさせ、生臭さものは、むろんのこと、にんにく、ねぎ、にら、あさつき、らっきょの五辛を断つ。●東慶寺に入山する時には、三つに格付けされる。入山時に十両、二十両を納め、さらに寺に三十両の扶持米を納めた上臈(じょうろう)。上臈ほどの金はないが、いくばくかの金を積んだもの。一銭も納めないもの。寺での暮らしが違う。●大根の卸し金を並べた屋台がが多いのは、初午が新しい卸し金の使い初めの日ときまっているから(略)。●駆け込み人は髪を切り下ろすのがきまり、その髪を買いとるのが、かもじ屋の仕事である。■神奈川県鎌倉市東慶寺■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.09.23
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■孤独な楽園■私の愛を見つけてください。新連載のスタートが控えている人気小説家の津島耀(青柳翔)はスランプに陥り、原稿用紙は白紙のまま時間だけが過ぎてゆく。母に棄てられ、厳格なクリスチャンの父を自死で亡くして心に傷を負っている少女あやめ(大坪あきほ)は、過干渉の叔母に育てられ、島の工場で働きながら変化のない日々を送っていた。ある日、外国人の同僚から依頼され、あやめは1通のラブレターを書く。「私の愛を見つけてください」。その手紙を偶然目にしたのは、津島だった。出会うはずのない2つの人生が交錯したその先に、楽園は見つかるのだろう穏やかな海を望む静かな町で、流れ着いた言葉が楽園の門をひらく。スランプに陥った小説家がある一通のラブレターを偶然目にしたことで、出会うはずのなかった2つの人生が交差していくヒューマンドラマ。人間存在の不条理、愛とは何か、家族とは何かをテーマに描く。母親に棄てられ、最愛の父の自死に傷ついた少女あやめを演じるのは映画初出演にして初主演を射止めた大坪あきほ。苦悩する人気小説家・津島耀に青柳翔(劇団 EXILE)。キリスト教信者で心優しいあやめの父に忍成修吾、津島を支える女性編集者に三戸なつめ、呉服屋を経営するあやめの叔母に有森也実。監督は「アジアの純真」(2011)「たとえば檸檬」(2012)「いぬむこいり」(2017)「天上の花」(2022)の片嶋一貴。「たとえば檸檬」で脚本に携わった吉川次郎と久々にタッグを組み、登場人物が抱える孤独を炙り出す。★映画メモ★この映画、幸せでない人ばかりが出てくる。★主人公の少女あやめ(大坪あきほ)母親が家を出て、父親が自殺、叔母に育てられている。思春期になって、どうにもやるせない気分を性的な冒険に逃げ、それを父親に告白。敬虔なクリスチャンの父親は、激しく動揺し、自殺。父親の自殺の原因のひとつは、あやめにある。幼い頃の母親の家では辛かっただろう。思春期の気持ちも分からなくもない。しかしそれを何とか我慢して、乗り越えなければ・・・。★小説家・津島耀(青柳翔)スランプに陥った小説家。私は、小説家や漫画家になる人は、溢れるアイデアがある人でないといけないと思っている。はじめて書いた小説がたまたまいい出来で、それで小説家になる人がいるが、後が続かない。スランプなどという言葉で書けないことをあらわしているが、スランプではなく、才能がないのだろう。才能の無い人が小説家になったら不幸になる。 漫画家・手塚治虫は、死ぬ間際まで漫画を描いていて、最後は、背景も描いていない状態でもなお描いていた。「アイデアは売るほどあるんだけど・・・」と病床にあって言っていたそうだ。 昭和を代表する作家・松本清張は、書きすぎて、腕が痛くなり、口述筆記で作品を作っていたそうだ。★自殺した父親。敬虔なキリスト教信者。医療施設がなかったりした時代だったら、神や仏にすがるのも分かるが、なぜ今の時代に宗教なのか?また、キリスト教では、自殺は禁止されているんじゃなかったのかな・・・?★家庭を棄てた母親。突然、家を出ていくのは、なぜ?夫に不満があるなら、はっきりと言って、離婚して出ていくべきだろう。なんか、後味が悪い。不可解なことも沢山ある。少女・あやめの同僚の女性は、外国人。彼女は、なぜあかりにラブレターの代筆を頼んだのか?なんか、彼女は頼まれたっぽいのだけれど、頼んだ人は、何の目的があったのだろう?そのラブレターを小説家の津島耀(青柳翔)になぜ送ったのだろう?少女あやめを演じる大坪あきほの顔が淋しい系で魅かれた。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.09.21
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■チャイコフスキーの妻■旋律から戦慄へロシアの天才作曲家ピョートル・チャイコフスキー。かねてから同性愛者だという噂が絶えなかった。彼は、恋文で熱烈求愛する地方貴族の娘アントニーナと、世間体から結婚する。しかし女性への愛情を抱いたことがないチャイコフスキーの結婚生活はすぐに破綻し、夫から拒絶されるアントニーナは、孤独な日々の中で狂気の淵へと堕ちていく…。 女性の権利が著しく制限されていた19世紀後半の帝政ロシアを背景に、チャイコフスキーが同性愛者だったという、ロシアではタブー視されてきた事実を明確に描く。夫婦間の知られざる真実に迫る本作は、第75回(2022年)カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、名だたる批評家たちの賛辞を獲得。絵画的な映像美や流麗なカメラワークなど、型破りなまでに刺激的な映像世界も話題を呼び、フランスでは17万人超を動員する大ヒットを記録した。ロシアの天才作曲家チャイコフスキーの妻アントニーナの実像を、史実に従いながら大胆な解釈を織り交ぜて描く伝記映画。盲目的に夫を愛する彼女は、孤独な日々の中で狂気の淵へと堕ちてゆく。★映画メモ★★夫婦で写真を撮るシーンがあった。当時の写真は、長い間動かないでいなくれはならないので、首を支える道具が後ろに置いてあることを知っていたが、実際に使っていた。★妻アントニーナは、本当に夫チャイコフスキーを愛していたのだろうか?年も離れているし、妻を嫌っていて、夫婦として成立していないのにどうして、いつまでも妻の座にしがみつくのだろう。夫側からは、弁護士を立てて、離婚を迫っているのに・・・。有名人の妻ということでしがみついているのなら、こんなに両方ともが不幸なことはない。★アントニーナは、チャイコフスキー以外の男の子どもを何回か産んでいる。男の子には、チャイコフスキーの名をつけているのは、怖い・・・。★女性のコルセットは、よく見るし、今回の映画にも出てきた。しかし、男性が、コルセットのようなものを上半身につけていたのは、姿勢をよくするものだろうか?★チャイコフスキー役の男性は、1984年10月5日、アメリカ、ミネソタ州ダルース生まれ。モスクワ芸術座付属演劇大学で演劇を学ぶため、20歳でロシアに渡り、優秀な成績で卒業する。英語圏の人がロシア語をすらすらと話すのは、すごい!!!・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.09.19
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■坂の上の雲■日本が近代国家へと歩み始めた明治時代、伊予国(現在の愛媛県)・松山に3人の男がいた。後に連合艦隊参謀として日本海海戦の勝利に貢献する秋山真之、その兄で日本騎兵の父となる好古、俳句・短歌の中興の祖となった正岡子規。彼らはただ前のみを見つめ、明治と言う時代の坂を上ってゆく。NHKドラマ、「坂の上の雲」の再放送を楽しみに見ている。9月18日(火)は、主人公・若き秋山真之と正岡子規が英語の勉強をしているシーンが出てきた。その英語教師は、2.26事件で殺害された高橋是清。高橋是清の一生は、壮絶だ。「坂の上の雲」でも、高橋本人が言っていたが、アメリカで奴隷になった!!*慶応三年、14歳のとき、藩からアメリカ留学を命ぜられ渡米。*アメリカで、50ドルで奴隷として売られるが、本人は、その事を知らず、家事を手伝いながら奴隷であると知り驚いた。*奴隷の身から抜け出すために四苦八苦する。なんとか奴隷の身から抜け出すことが出来た。*実母は、画家の屋敷に勤めていて、その家の主人との子、是清を生んだ。*是清が生まれると、金子二百両と衣服調度を贈り、画家とは縁が切れた。*生まれてすぐ、足軽・高橋是忠のもとに里子に出され、三つの時、実子として届け出た。*是清の周りは、好人物ばかりだった。 実父(画家)とその妻、養父母、養祖母。その後、アメリカに留学。*幕府瓦解の報を聞いて帰国。■「坂の上の雲」より■ ここまででも、小説が出来る。しかしまだまだ彼の人生は、2.26事件で亡くなるというものすごい人生。波乱万丈である。この時代って、本当にすごい時代だったんだと思う。「坂の上の雲」が楽しみ♪・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.09.17
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■老いのこみち■自分一個で生きる自由・日溜りで物思う贅沢・その日最初の酒のうまさ・老年の自由の活用・リサイクルという発想・年月が育む深い慈愛・自分用の唐詩選・自然にして病を治す・・・・・年を取ったからこそわかる、よろこびがある。中野流『老年の美学』の決定版。 今週は、敬老週間だ。後期高齢者の私は、「老人」「老い」というタイトルを見るとつい手に取ってしまう。●読書メモ●●老人にだって年齢にふさわしい美しい姿があるはずで、先年亡くなられた女優の沢村貞子さんなどは、さしずめそういう美しい老人の一人だったろうとわたしは想像している。*中野翠も素敵な老人に沢村貞子をあげていた。●老年がいつまでも若ぶるのは見ていていいものじゃない。老年が青春を演じようとすると老年は卑しいものになる。老いを受け入れない老人は醜い。「徒然草」の中に「大方、聞きにくく、見苦しき事、老人(おいびと)の、若き人に交わりて、興あらんと物言ひいたる。」とある・・・(略)●空襲で街の建築のほとんどが破壊されたニュルンベルグや、元東ドイツのドレスデンでも、再建にさいしては、再建委員会が厳密に昔の街の景観を再現するように努力する。古地図を取り出し、古い都市図や写真を能うかぎり探しだして、建物の恰好、建築方法、素材、周囲との調和などをきめ、たとえどれほど手間と費用がかかっても昔ながらの街並みを再現するのである。↑*クロアチアの有名な観光地、ドブロブニクも、内戦で傷つけられ、世界遺産を取り消されそうになった。しかし、壊された町並みを見事に作り直している。↑瓦の色で新旧がわかる。■ドブロブニク■・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.09.16
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■清張さんと司馬さん■■内容説明■数多の名作で、昭和史そして戦後社会のあり方に立ち向かった二人の巨人、松本清張と司馬遼太郎。編集者として間近に接した著者が語る文豪の等身大の実像。■目次■1■二人の文豪と私/2■社会派推理小説の先駆者として3■古代史家としての清張さん/4■時代小説から歴史小説へ5■『坂の上の雲』から文明論へ/6■巨匠が対立したとき7■司馬さんと昭和史/8■敗戦の日からの観想9■清張さんと昭和史/10■『日本の黒い霧』をめぐって11■司馬さんの漱石、清張さんの鴎外/12■司馬さんと戦後五十年を語る★著者等紹介★半藤一利[ハンドウカズトシ]1930年、東京生まれ。1953年、東京大学文学部卒業。同年、文芸春秋入社。以来『週刊文春』『文芸春秋』各編集長、出版局長、専務取締役等を歴任。1993年、『漱石先生ぞな、もし』で第十二回新田次郎文学賞を受賞。1998年刊の『ノモンハンの夏』(文芸春秋)では、第七回山本七平賞を受賞した。考えてみると、ほんとうにいちばんいい時代に編集者であったようです。昭和三十年代から四十年代は、「清張さんと司馬さんの時代」でありました。そのとき、この二人の作家と、ときには怒られながらも、親しく話を交わせるという幸運に浴したのですから。あとがきより。 映画■「90歳何がめでたい」■を見て、作家と編集者のことをちょっとネットで調べたら、作者の半藤一利が松本清張と司馬遼太郎の担当編集者だったことを知った。そして、図書館で「清張さんと司馬さん」という半藤一利の作品を発見!!さっそく読んだ。●メモ●*は、私のメモ1■二人の文豪と私■★司馬(略)司馬さんが会う人の出自をかならず聞く人であること、苗字から出身をあてる特技をもっていることもわかりました。風土と人間の関わり合いに深い関心をもつ、いかにも歴史好き、かつ地理に詳しい司馬さんらしい質問と思いました。★清張(編集者が)東大出や官立大学出身と聞くと、ウヒヒヒとなる。(略)われこそエリートなんて顔をしている連中の鼻っ柱をポキっと折るのを無情の愉しみとしていた。★司馬古今東西、神羅万象、人生百般知らぬことなく、説ききたって倦むことを知らない、といった方です。話すことを最高のリクリエーションとする(略)*さすが、大阪人。4■時代小説から歴史小説へ■●司馬ある人間が死ぬ。時間がたつ。時間がたてばたつほど、高い視点からその人物の人生を鳥瞰することができる。いわゆる歴史小説を書くおもしろさはそこにある。5■『坂の上の雲』から文明論へ■●司馬(略)つまり、こまごまとしたエピソードやゴシップまで、文献にあたり専門家に尋ね、納得ゆくまで調べあげる。「海軍軍人の袖には、なぜ金筋が入っているのか」「海軍の音楽隊の人は、闘争中は何をしているのか」そんなことまで調べあげる。「連合艦隊が鎮海湾を出ていくときの命令は何だったのか」●司馬「空を見ても、川を見ても、山を見ても、ああ美しい、いい国に生まれたなという思いを、子供たちに残す。それが私たちの義務というものじゃないか」●(古書店主人が)半ば呆れながら語ってくれたそうです。「とにかく関係するものは残さず集めてくれ、とおっしゃっるのです。竜馬自身のものでなくても、竜馬が各地方へ足をのばした場合の、その地方の郷土史だとか、会った人の家族の関係だとか、そういうものを何でもいいから集めてもらいたい、と注文をされたといいますよ」それで「竜馬がゆく」ですと、およそ三千冊、重さにして一トン。金額は昭和三十年代当時で一千万円であったというのです。ちなみに昭和三十五年のわたくしの月給は二万円ちょっとであったと記憶しています。8■敗戦の日からの観想■●司馬外国から都市美観のえらい先生方が来られたとき、貝塚茂樹さんが京都を案内して清水坂に行ったときのことです。「これはすばらしい美観だ」といって外国の先生方がほめた。「もっとも、電柱がいけないね」ということになった。そのとき貝塚さんは少しも騒がず、「いえ、日本人には見たくないものは見ないという特技がある」と(笑)12■司馬さんと戦後五十年を語る■●司馬昭和二十五年だったと思いますが、天皇さんが舞鶴方面に巡幸された時に、僕は京都支局にいましたから、二日か三日くっついて歩きました。水産試験場で、京都府知事の蜷川虎三(にながわとらぞう)さんの説明を聞き終わった天皇さんがお礼を言って振り向いた時に、僕は後ろにいたものですから、衝突したことがある。これは、もういい社会です(笑)。*天皇に対して、「天皇さん」というのは、関西弁。関西は、「様」ではなく「さん」よび。天神様ではなく、天神さん。*この時、司馬は、27歳だと思う。その若さで、支局を代表していたのか。そうとすれば、やっぱりすごい。*京都府知事の蜷川さんって、その頃から府知事をしていたのか。●司馬日本は思想といのものは、常に海外にあると思って(略)平安朝には仏教を持ってきた。鎌倉時代は無思想で、現実の土地問題のみをやった。江戸時代は儒教の時代。明治も(略)常に海外にあった。だから戦後も向こうにあるものを持ってきて(略)。■あとがき■●それに編集者時代のことは秘しておくのが礼儀なりと思っている。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.09.14
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■熱烈■心で踊れ!ブレイキンプロダンスチーム「感嘆符!」は、社長の一人息子である“カリスマダンサー”=ケビンが練習にも出ずやりたい放題。コーチ(ホアン・ボー)も形だけで口を出せず、チームは振りだけの代役を探さなければいけない状況に。コーチはかつてオーディションを受けた青年、陳爍(ルビ:チェン・シュオ)(ワン・イーボー)のことを思い出す。陳爍は全国大会優勝の夢を持ってチームに加わり、仲間たちと練習を続け友情を築いていく。だが全国大会を目前に様々な試練が降りかかる。果たして「感嘆符!」は全国大会に出場し、勝利することができるのだろうか…。本作でワン・イーボーが披露する「ブレイキン」は、パリオリンピックで正式種目として認定された最注目の競技である。1970年代のニューヨーク、サウスブロンクスで若者たちの縄張り争いから生まれたブレイクダンスが発祥とされ、やがて「暴力ではなく音楽で解決する」という提言で「踊るバトル」=「ブレイキン」という形式が誕生。今や日本の競技人口は30万人ともいわれており、熱視線が向けられている最も目が離せないスポーツである。パリオリンピックでは日本人選手のメダルも期待されている。 NHK教育テレビの「世界サブカルチャー史」という番組が好きで毎回みている。その中で、「ヒップホップ」という言葉の中で、ブレイクダンスが取り上げられていた。 ヒップホップとは何か、との定義から始めよう。ヒップホップはニューヨークのブロンクスのアフリカ系アメリカ人が生み出した、ブラック・カルチャーのひとつである。より正確に書くと、黒人が始めた音楽ジャンルおよびそれを中心にした文化、ムーヴメントだが、文化を送りだす側のプレイヤーと聴き手は肌の色は問わない。いま現在、インターネットが日常的に使用されている地域で、ヒップホップが聴かれていない場所も、その地域に根ざしたラッパーが存在しない場所も、まずないだろう。 4大要素とヒップホップの定義ヒップホップには「4大要素」がある。ラップ、DJing(スクラッチ)、Breaking(ブレイクダンス)、Writingとも呼ばれるグラフィティがそれを指す。スタート時点から、喋り、サウンド、ダンス、絵画とさまざまな表現が入った総合芸術なのだ。 この4つの要素を視覚的に理解するために、もっともわかりやすいのが映画『ワイルド・スタイル』(1982)だろう。 ストーリーは、王道。知らない俳優が主役だったのが、リアルっぽかった。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.09.13
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■ボストン1947■「私たちが望むのは、祖国の国旗をつけて走ることです」1936年、ベルリンオリンピックのマラソン競技において、日本は世界新記録を樹立、金メダルと銅メダルを獲得し、国民は歓喜に沸いた。しかし、その2個のメダルには秘められた想いがあった。日本代表としてメダルを獲得したソン・ギジョンとナム・スンニョンが、日本名の孫基禎と南昇竜として表彰式に立ったのだ。第2次世界大戦の終結と共に、彼らの祖国は日本から解放されたが、メダルの記録は日本のままだった。1947年、ボストンマラソン。その二人がチームを組み、才能あふれる若きマラソン選手を歴史あるボストンマラソンに出場させる。<祖国の記録>を取り戻すために—。 祖国への想いを胸にマラソンに挑んだ実話に基づくヒューマンドラマ。ベルリンオリンピックで日本代表としてメダルを獲得したソン・ギジョンとナム・スンニョン。終戦後、彼らは祖国の記録を取り戻すため、才能溢れる若き選手をボストンマラソンに出場させる。大二次世界大戦後までの日本は、本当に中国や朝鮮に対して、とんでもないことをしていた。この映画は、朝鮮人を日本人としてオリンピックに出場させ、彼らがとったメダルは日本のものとした。 オリンピックは4年に一回だけれど、日常的に朝鮮民族を否定していた。例えば、言葉。日本語を使わなくてはならないかった。 1980年だったか、夫婦で台湾に行ったことがある。その時、北欧の青年が少し一緒にいた。台湾の人が私たちに話しかけ、横にいた北欧の青年が「日本語で言ってるんですか?」と私に聞いた。「そうです」と私が答えると「台湾は、日本の植民地だったんですもんね」と北欧の青年。私は、申し訳ない気がしたのを今も覚えている。 台湾や朝鮮だけでなく、アイヌや沖縄の言葉も日本の標準語にさせた。言葉や名前を日本風にしても、差別だけが残った。これは日本に限ったことではなくて、西欧諸国も同じように感じることがある。たとえば、100m走の選手は、ほとんど黒人だ。しかし、アメリカ国籍が多く、アメリカが強いといわれる。サッカーもまた、ヨーロッパ選手の中に、どうみても白人ではない人の多い事。こんなのを見ていると、国家ってなんだろう?と思う。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2024.09.11
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