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昔は、12月28日に正月用の餅を搗いたら重箱に入れて、前と後ろの家におすそ分け。持って行くと、おばちゃんが「はるなちゃん、ありがとう。はい、おつり。」と言って、空になった重箱にマッチ棒を一つまみ、入れてくれた。■おつりはマッチ■ しかし、なぜ、マッチを入れる時、「おつり」と言うのだろうと考えていた。その答えは、偶然読んだ本にあった。以下、書き抜き。 御移り(おうつり)をご存じでしょうか。以前はお祝いのお赤飯や五目寿司やお彼岸のおはぎなど、家で作りましたから、余分に作って近所や親せきに配りました。もらった家では、入れてきた重箱やお皿を返すときに、ちょっとしたお返しを入れました。これが御移りです。「おため」、「おとめ」、「とび」、「とみ」、「とめ」、「としのめ」などと呼ぶ地方もあるそうです。お返しの品には、おくられた赤飯や五目寿司の一部とか、豆、梅干しなどのほか、半紙や付け木、マッチなどが使われました。届けてくるのが子供だったりすると、子供が喜ぶお菓子や鉛筆、ノートや、ノートや、ちょっとしたお駄賃を渡しました。以上、「昭和なくらし方」より。「御移り」→「おうつり」→「おつり」となったのだ!!そういえば、結婚祝いをもらった時。もらった金額の半分を返す「半返し」と共に、半紙を「おため」として渡した。50年近くたって、「おため」の半紙の意味が分かった!!!*妾の本宅伺いのお為は、桐箱入りの絹一匹と定まっていた。 (■お為とは■お盆を使わずに出すお為は、下目のものに遣わす駄賃替わりの意味。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.12.28
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■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<1>学童疎開の息子が欲しがったもの■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<2>:庭に防空壕■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後:空襲・7.9■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<4>:戦後の暮らし■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<5>:終戦後の暮らし・焼け跡で野菜を作る■奈良県・富尾のお米屋さんまで行って、糠を買い、ナンバ粉(トウモロコシの粉)を混ぜて、パンを作ったり、ハコベを取って、雑炊に混ぜたり、ナンキンのつるの皮を剥いて食べたりサツマイモの*皮*を剥いたりして食べました。(*注*サツマイモの皮を剥いて食べるとあるが、ツルのことか?)外米の配給の時、断る人がありましたので、待っていて分けてもらいました。 長男(中一12歳)は、*イモ畑の取り終わった畑に行き、ひげ根を拾い、*コンロで焼きながら食べていました。(注*落穂ひろいのイモ版)二男(9歳)は堺東から大浜まで歩いて行き、海岸でアオサを取ってきてくれ、乾かして食べました。カタツムリを焼いて食べたり、樫の実やヒシの実を取ってきて食べました。「白い乳の出る草は食べられる。」と教えてもらい、野草を取ってきて食べました。 三男(昭和20年生まれ)は乳不足のため、栄養失調になったり、腸炎になったり高熱を出したりしました。 昭和21(1946)年の春になって、焼け跡で、畑を作りました。暗いうちに起き、堺市戎町の焼け跡へ畑仕事に行きました。通学(長女・15歳、長男・15歳、二男・9歳)、通園(二女・5歳)の前に一時帰宅し、再び、畑に行きました。レンガや瓦の片づけをし、レンガ色の畑を作りました。 鍬の持ち方も知らない私が、畑を作りました。空き箱に車輪を付けた車に、下肥(大小便)と三男を乗せて行きました。バケツに縄をつけ、井戸水を汲み、水やりをしました。焼け跡のお近くの家の下肥(大小便)もくませてもらい、畑に使いました。 三男が少し大きくなり、何になりたいかと聞いたら、「お母ちゃんの作ったナスビを売りに行く」と言ったことがありました。 子どもの教育に気を配れるようになったのは、終戦二年後くらいからです。よく頑張ったなーと今も思います。*注*は、天地 はるなの書いたもの。*ゴマ塩が欲しいと便り終戦忌*夏の日の学徒動員握り飯*敗戦やモンペで作ったいもの味*終戦忌知らず育って古希過ぎぬ 以上 はるな 親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。書いたのは、この家の主婦、晶子。以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、少し手を加えている。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日被災場所:堺市戎町・全焼 ★家族★★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員☆妻: 晶子 34歳:(記録)☆長女: 信子 15歳:女学校4年★長男・ 良一 12歳中学1年★二男: 清二 9歳国民学校4年☆二女: 洋子 5歳★三男: 謙三 生後後50日(以上、仮名)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.24
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■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<1>学童疎開の息子が欲しがったもの■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<2>:庭に防空壕■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後:空襲・7.9■■終戦後の暮らし■親類の人がやっと、中三国が丘二丁(三国高校の横)の二階を貸して下さる人を見つけてくれました。二階に初めて、親子五人そろい寝たときは、お殿様の気がして有難かったです。疎開地の解散で二男が帰り、その後、主人も帰って、親子七人二階で暮らしました。家族七人揃い、有難く嬉しい日々でした。 預かってもらっていた荷物の中のおしめで、三男のおしめには不自由せずに助かりました。壕の中の道具類、床下の瀬戸物等、焼け残った物はとても役に立ちました。知り合いの人からもらった食べ物などは、とても役にたちました。 食料も足りませんでしたが、焼ける前に埋めてあったお米を焼け跡から掘り出してきました。缶詰の配給をお金に替えたりしました。大根葉をきざみ、雑炊に混ぜて食べさせました。焼け出された者と、焼け残った者との差のために子どもたちがひがまないように心をくだきました。階下の人(子ども二人いる女の人)から「戦災に会いながらタンスがある。荷物が多い。」「すぐ家を出ていけ」と何度も言われ、家探しもしましたが見つかりませんでした。近所の方から、空の木箱をもらい、食器入れにしたり、蓋をしてお膳にしたりしました。 家の床下に埋めた食器は、空襲の熱で変形したり、すぐ割れたりしましたが、とても役立ちました。焼け残った人々の家の中には、「空き缶や空き瓶などは自由にお使い下さい。」という貼り紙のしてある家があり助けられました。 主人の同僚の方々より食料を度々いただき助かりました。三男はいつもおんぶされていたので、気がついたら、這わずにすぐ歩き出しました。階下の人が再婚し、一軒全部自分たちの家族で使用できた時は嬉しかったです。配給で、缶詰、砂糖、パン粉、いも粉、サツマイモ、ジャガイモ、野菜もありました。育ち盛りの子ども五人の食料は、足りませんでした。朝一番の電車で買出しに和歌山県・橋本まで行き、一里(4キロ)の道のりを往復し、堺東まで帰り、また橋本へと一日二往復したこともありました。大阪府・河内長野市の三日市まで、堺東から、おからを買いに行ったこともありました。 親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。書いたのは、この家の主婦、晶子。以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、少し手を加えている。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日被災場所:堺市戎町・全焼★家族★★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員☆妻: 晶子 34歳:(記録)☆長女: 信子 15歳:女学校4年★長男・ 良一 12歳中学1年★二男: 清二 9歳国民学校4年☆二女: 洋子 5歳★三男: 謙三 生後50日(以上、仮名)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.19
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■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<1>学童疎開の息子が欲しがったもの■■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<2>:庭に防空壕■■7月9日(空襲の夜)「紀伊水道より紀淡海峡数十機、大阪方面へ来襲」とラジオ放送。子どもを起こしました。 すぐ電灯は消えましたが、焼夷弾の音と共に、周りが赤くなり、良く見えました。子どもたちに避難の用意をさせ、「子ども連れでは、お位牌は守れません。落ち着き次第買わせていただきます。」と言いながら、仏壇の戸を閉めました。用意の物をおなかに巻き、ミシンを予定通り埋め、その上に水をと思いましたが、糸のようにしか水がでませんでした。 納屋が燃えてきましたので、5歳と生後50日の赤ちゃんを乳母車に乗せ、ご飯とラジオを乳母車に乗せました。「子どもたちに気をつけて。」と言って下さるご近所の方々の親切な声を後に、主人の疎開先へ行こうと思いました。大寺さんの(開口神社)の所まで、来た時、大寺さんの大木の榎が燃えて通れずに引き返しました。途中で乳母車が壊れたので、仕方なく三男(生後50日)を毛布に包み、横抱きにして、二女(5歳)に洋傘の先を持たせ私は、柄を腕にひっかけて歩きました。 時々、子ども達がはぐれないように体育用の笛を吹いていました。殿馬場国民学校へ引き返す途中に、消音用の銀紙がちらちら舞い落ちてきました。そして、焼夷弾の赤い火も見えました。気がつくと長女がいません。 仕方なく笛を強く吹きました。「お母ちゃん」と言う長女の声に生き返った思いをしました。殿馬場国民学校の雨天体操場について、「やれやれ」と思う間もなく「危険だから出るように。」との事で、天神さんへ、歩いて行きました。境内の玉垣に腰を掛け、「親子五人離れない様に、お父ちゃんが、探しやすいように。」と子ども達に言い聞かせ、親子五人固まって、西側の家の棟の焼け落ちるのを見ていました。(▲■散歩で見つけた昭和レトロな防火用水■)抱いている毛布が熱くなり、何度も防火用水に浸しました。三男は鳴き声一つ立てないので、死んだのではないかと何度も顔を見ました。夜も明け、火も一段落したので、家を見に行きました。家は全勝、ガス管のみ、柱のように立ち、中には熱気で入れませんでした。行き先を書きたかったけど、板切れ一つ燃えつけてありませんでした。仕方なく、人目につきやすい花田口筋に五人で立っていました。焼け野原に立っていると、主人が自転車で深井から来てくれました。そして、五人の無事を喜んでくれました。すぐ二条通りの友達の家に行き、一服させていただきました。その後、安井町の遠縁へ行きました。 疎開した学童のほとんどは、罹災者だったので、学校より一時家族に会わすとの指示で、主人が二男を連れて帰って来ました。「泊めてくれ」と言う二男の声も聞かず、「一人でも生き残って欲しい」と思う気持ちで、金岡国民学校まで送り届けました。学校が見えると振り返りもせず、門の中に走って行った二男の姿を今も思い出します。 親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。書いたのは、この家の主婦、晶子。以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、少し手を加えている。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日被災場所:堺市戎町・全焼★家族★★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員☆妻: 晶子 34歳:(記録)☆長女: 信子 15歳:女学校4年★長男・ 良一 12歳中学1年★二男: 清二 9歳国民学校4年☆二女: 洋子 5歳★三男: 謙三 生後50日(以上、仮名)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.14
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■ある大阪府・堺市民の戦中・戦後<1>学童疎開の息子が欲しがったもの■■1945(昭和20)年5月25日。主人が大阪府堺市の市役所へ連絡のため深井から帰って来た夜、私は三男を出産しました。「やれやれ良かった」と思いました。 空襲のおりは、子供を無事に避難させたいと思い、乳母車に少しある、食料を用意しておりました。枕元には、リュックサック、防空頭巾と、*さら*(新品)の靴を用意し、いつでも逃げられるようにしておりました。 家の中には、階段の下に箪笥で空間を作り、一時避難できる用意をしておりました。庭には防空壕を掘り、ミシン等、貴重と思われるものを出来るだけ多く入れました。 火気から少しでも防ぐために、豪の中の火鉢に水をいっぱい入れました。戦後掘りだしたときには、火鉢の水は、全部蒸発していました。子どもたちだけなので、豪の蓋をし、火が中に入るのを防ぐために蓋と、石炭箱二杯の砂を用意しておきました。瀬戸物は床下に穴を掘って、埋めておきました。戦後に掘り出してみると、熱で形が、歪んでいるものが沢山ありました。過去帳、両親の写真、預金通帳を一つのカバンに入れ、いつも身近においていました。 雑炊のある日は、大きい子ども二人は、ご近所の人に20分も歩くところまで、食べに連れて行ってもらったこともありました。近所でうどんの配給時には、妊婦である私は、お鍋を持って買いに並びました。妊婦用の卵のチケットがあっても買えない日がほとんどでした。 子ども用のパンの配給は大体買えました。マッチの配給もありましたが、配給だけでは足りませんでした。買いだめの好きな私は、たくさんためておりましたので色々な物資にはあまり不自由はしませんでした。 親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。書いたのは、この家の主婦、晶子(仮名)。以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、少し手を加えている。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日被災場所:堺市戎町・全焼★家族★★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員☆妻: 晶子 34歳:(記録)☆長女: 信子 15歳:女学校4年★長男・ 良一 12歳中学1年★二男: 清二 9歳国民学校4年☆二女: 洋子 5歳★三男: 謙三 生後50日(以上、仮名)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.10
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親戚の家から戦争中と戦後の暮らしを書いた文章が出てきた。書いたのは、この家の主婦、晶子(仮名)。以下の文章は、名前や、読んでいる人に分かりやすくするために、表現に少し手を加えているが内容は、まったく変えていない。 堺の空襲 1945年(昭和20年)7月9日被災場所:堺市戎町・全焼★家族★★夫:中田 春彦 38歳:国民学校教員☆妻: 晶子 34歳:(記録)☆長女: 信子 15歳:女学校4年★長男・ 良一 12歳中学1年★二男: 清二 9歳国民学校4年☆二女: 洋子 5歳★三男: 謙三 生後50日(以上、仮名) 学童疎開に付き添いに行くまでの主人は、隣組長をしていました。警報の度に学校から電話があり、走って学校から駆けつけていました*1945(昭和20)年*三月に大阪の親戚が全焼したため、主人は急に、堺市・百舌鳥(もず)、小山田(河内長野)の親戚の知り合いに荷車に荷物を乗せて長男と二人で預けに行きました。それで、組長を隣組の人に変わっていただきました。身重な私は不安な日々を子ども三人と共に過ごしておりました。 二女は、ただ一足の新しい靴を避難する時にはくように枕元に置いてあったのですが、実際に履くときに片方しか見つからず下駄ばきで逃げました。(長女、長男は新しい靴を履いて逃げました。)「その下駄をなくしたら、履くものがなくなる。」と兄や姉から言われ、自分でもそうだと思い、寝る時は毎晩汚い下駄を枕元に置いて寝るのを見て、哀れでした。私も下駄の鼻緒が切れたらと思うと不安でした。 女学生の長女は、学徒動員で、千代田工学に、レンズ磨きに行っていました。給食として、おにぎりが出された事があったそうです。 二男は学童疎開をしていました。二男の疎開に際しては、「一家全滅しても」と思い家族全員の写真と荷物を預かっていただいている人の住所氏名を二男の荷物の中に入れて持たせました。出産まじかで会いに行くことのできない二男に沢山ハガキを持たせました。 二男の便りは決まって、「ゴマ塩を持って来てくれ。」と書いてありました。二男の本心は、いろんなものを付け届けしてもらう友達がうらやましくて書いていたらしいです。時々、面会に行くのは主人でした。疎開から解放された後で、ゴマ塩の入って瓶ばかり出てきたので、胸が打たれました。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.07.03
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朝ドラ「おちょやん」を楽しみに見ている。ストーリーも好きだが、当時の生活が見られて楽しい。 ★主人公・千代のろくでなしの父が亡くなった。(-人-)葬式の後、みんなが集まって宴会。「通夜ぶるまい(通夜ちがうけど)」に、握り飯がどっさり!!もちろん、三角の握り飯だ🍙。当時、大阪では、葬式などの時は、握り飯は三角。普通は、俵型だ。 江戸時代が舞台の、「みをつくし料理」は、大坂生まれの澪が江戸で暮らす物語。弁当を頼まれ握り飯は、俵型に握っていた。 また、朝ドラ「ごちそうさん」では、東京から大阪に嫁いできた女性が、大阪の風習を知らずに、握り飯を三角に握って、小姑から嫌味を言われていた。★姫鏡台結婚した千代の家にある姫鏡台。役者同志の結婚で鏡台は必需品なのに、小さな鏡台は、当時の庶民らしい。お化粧は楽屋でするのだろう。なんせ家が狭い、(といってもいい方だろうが)ので道具は小さいのがいいのだろう。もちろん、値段的にも!! ★ガラスの水指とコンクリートの流し■旦さんの病室の写真■入院した旦さんを見舞う千代。ちゃぶ台に上に置かれた水指はガラス製。この中の水で薬を飲む。蓋がコップになるもので、プラスチックがなかった時代、これは必需品だった。私の子供の頃、学校の式などでも壇上に置かれていた。写真の水指は、20年ほど前、友人からもらった。コンクリートの流しは、引っ越した龍野の家にあった。今は、岡山の実家にある。持って帰って、この中に花を植えたらいいだろうなと思っている。■2018年に行ったイギリス・ケント州シシングハースト・カースル・ガーデン■で、コンクリートの流しのようなものに、花を植えてあるのを見たのが忘れられない。同じようにしているのをあちこちで見た。でも、あれは流しではなかったのかもしれないが・・・。☟は、千代も何度も見たであろう、道頓堀界隈の現在の景色。▲大阪松竹座▼松竹新喜劇の大スターだった藤山寛美の娘、藤山直美。▲大阪松竹座の隣にたつ、老舗肉料理店「播重」▼御堂筋から見た「播重」。■播重■・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2021.03.24
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●昭和三年の御大典。(11/10)昭和天皇の即位式である。大正天皇のときも大賑わいであったが、昭和天皇のときはそれをはるかに上廻った。(略) 私(田辺聖子)の祖母の話では三日三晩、踊り狂うたという。花電車に提灯行列、屋台の上では入れかわり立ちかわり三味線の音がひびき、人々は花笠をかぶって四つ竹(カスタネットのごときもの)を鳴らして町から町へと踊り歩く。(略) 大正天皇の即位式のときと同じく京都御所で、十一月十日にそれはおこなわれる。(略)即位の勅語が終わると、衣冠束帯の田中義一首相が、「天皇陛下万歳!」と叫ぶ。(略)このとき午後三時。三時を期して八千万の民草は一斉に万歳を叫ぶことになっている。とどろく百発の礼砲、汽笛、撞きならす梵鐘。(略) 花電車車掌散髪してるなり 文久万歳の外に声なき今日の秋 蹄二 奉祝踊りの許可をとった水府たち。各自の変装も見ものであったろう。越後獅子、山姥、法被を着る者、大礼服、長襦袢、武士、ピエロ、火消・・・。大人子どもまぜこぜの四十人。暴走するものを止めるために水府が監視役に。この行列の呼びものは、それぞれ番傘をかかげていること。 お囃子は三味線はじめ大太鼓、銅鑼(どら)、すり鉦(がね)、四つ竹、あらゆるものを集めていた。 珍しい番傘の行列は見物人の目を奪う。まず、島の内を練り歩いて堀江の南北亭の前で万歳三唱、折からの寒風にもめげず新町、阿波座と歩く、茶碗酒が八方から飛び見物から「川柳や、川柳の行列や、「番傘」や」と歓声を浴びて、大阪・大毎の新聞社を訪れ、ついでに大阪市庁前へ。ここで市庁と放送局の幹部が礼装服で(略)待ち受けている。すでに午後十一時前、アナウンサーは番傘行列を実況放送する。(略)(☚中ノ島にある関市長像)関市長が正面に立った。「知るも知らぬも大阪の関」と謳われた名市長だ。市長の「天皇陛下万歳」の発声で八方から万歳の声があがった。■「道頓堀の雨に別れて以来なり(下):田辺聖子」より■▲京都でも大典にかこつけた市民のエネルギ-が爆発しました。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.11.12
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天気のいい日は、運動のために、歩いている。目標、4000歩!(少な!!)「用水」と書いた四角いコンクリートの箱のようなものをたまに、見かけることがある。古いものが好きな私は、いつも気になっていたのだが、今回は、カメラでパチリ♪さっそく調べてみた。☝写真の左下が防火用水。■防火用水■町歩きをしていると家の軒下にコンクリートの四角い水槽のようなものを目にすることがあります。実は戦争を物語る貴重な遺物なのです。太平洋戦争時、日本には木造の家が多くあったので、アメリカ軍は焼夷弾(しょういだん)を落として焼き払おうとしました。このような空襲に備えて、水を溜めておいた容器がこの水槽なのです。防火水槽、防火用水、防空用水などと呼ばれています。 防空に関するマニュアルである『時局防空必携』(昭和16年12月10日発行)には、家庭のふだんの準備として水を「普通の家では、一戸当り約百リットル(約五斗五升)以上。また、設置場所についても「家の構造や待避所の位置等を考えて、何処に焼夷弾が落ちてもすぐ間に合う所に配置する」としています。防火水槽はこのような戦争を今に伝える貴重な遺物であるにもかかわらず、あまり省みられることなく、知らず知らずのうちに消滅しつつあるのが現状です。防火水槽の容量は、調べてみると防火水槽の上面まで満水にして100から150リットルのものが多いようです。これは、『時局防空必携』に規定された100リットルを基準にして防火水槽が造られたためでしょう。☝「天水桶」と書いてある水槽。これは、プラスチックの容器(風呂?)の再利用で、周りを板で囲っている。非常時に、水が使える、現代版、用水。■天満の天神さん■の水槽■用水の画像■今は、どこにも消火栓があって、用水も必要のない時代。しかし、そんな時代になっても、この辺りには、消火用のバケツが・・・。▲植木鉢と一緒に並んでいたりと、普通の風景としてある。▼町内の自主的な防火バケツのようだ。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.06.06
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天気のいい日は、運動のために、歩いている。目標、4000歩!(少な!!)ちょっと歩いていると、さっそく見つけた、古い家の灯り。こういうの、もう見なくなっている。貴重なり。歩いていると、けっこうレトロなものがあって、写真にパチリ♪▲灯りの隣に草ぼうぼうの空き地があって、そこにあった手押しポンプ。▲門。レトロな郵便受けとその左にある、小さな呼び鈴(この言葉を使うの久しぶり。)呼び鈴は、今は使っていない様子。その代わりに郵便受けの右に今風のがある。▲格子戸。今時、格子戸は、レトロ。それに、旗を立てる金属のものが付いている門柱もレアものだ。▲門も1階も2階もツタに覆われている家。いつから空き家なのだろう・・・。▲植木鉢。左の花柄のものが、珍しい。▲この塀も、貴重。昭和のかほり。▲防火用水のある風景▼よく見れば、そこここに昭和が・・・。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2020.05.23
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■昭和弁当■昭和の温かさと哀愁漂うお弁当が逆に新鮮。「#金曜日は昭和弁」をチェック! 素朴、だけど温かい。 アルミ弁当箱に詰められた昭和弁当にほっこり お弁当箱いっぱいにごはんを詰め込んで、自家製の梅干しを真ん中にちょこんとのせた日の丸弁当。昭和を代表するお弁当は、戦時中、食糧難の人々にとってご馳走だったんだそう。世界各地の食べものが気軽に食べられるようになった今では、想像もできない方もいるかもしれません。 小さい時に観たアニメ『ドラえもん』の作中に、この日の丸弁当が登場して、それはそれは美味しそうにかき込むシーンがなんだかとてもうらやましくて、マネした記憶がよみがえります。こんがり焼いためざしに、梅干し、たくあんを3切れ。素朴でちょっと地味だけど、塩気があって間違いなくごはんがすすむものばかり。たまにはこんなお弁当を拵えて、少しカラダを休めるのも良いかもしれません。 このお弁当を見て、「当時はたくあんが入ったお弁当を教室のストーブで温める人が多くて、教室中たくあん臭かったウインナーとピーマンを焼いてごはんにのせた昭和弁当もよだれもん。この組み合わせが美味しいって分かってるから、ピックアップせずにはいられませんでした。 今や誰もが知っていて好きであろう「シャウエッセン」が世に登場した時は衝撃が走ったという。これは個人的にですが、シャウエッセンって他のウインナーよりもブリンとしていて食べ応えがありとてもおいしいので、私の中では今も特別なウインナーのカテゴリー 昭和弁当を極めたいなら、ハイカラでおしゃれなお弁当包みは不要。新聞紙で包むスタイルでいきましょう(笑)。保温性も兼ねそろえているのでおすすめです。使用後は窓ふきにも使えます。 質素だけれど、幸せ。それが昭和弁当「#金曜日は昭和弁」をみていくと、食での時代の流れが読み解けるような気がしませんか?食べ物が溢れ、美味しいものがすぐ食べられる今の時代だからこそ、すごく特別で魅力的にみえる気がする昭和弁当。 キャラ弁が大流行の今、なつかしや、昭和弁当。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.12.06
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名前が分からない民具がある。それが、ある時、分かると、嬉しくなる。■弁慶■もそのひとつ。竹筒に多くの穴をあけたもので、うちわや台所道具をさしておくもの。武蔵坊弁慶が七つ道具を背負った姿、あるいは体中に矢を受けた姿になぞらえていう。昔は、どこにでもあった弁慶。もちろん、子どもの頃には、うちの台所にも、しゃもじやおたまが入れて掛かっていた。今は、母が塩を入れていた■小さな壺、甕(かめ)?に入れている。■弁慶の写真は、旅行中に見たもの。・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・
2019.08.03
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(略)ちょっと風邪気味かなと思った先日、ホームセンターの家庭用品売り場で、子ども時代に使っていた湯たんぽと再会した。亀の甲羅のようなブリキのあれである。昭和30年代には、今のような軽くて暖かい寝具は出回っていなかったから湯たんぽは欠かせなかった。ただし栓が小さいので熱湯をいれるのは難しい。毎晩、母に入れてもらっていた。ネルの袋も母の手作りだった。作家の故向田邦子さんも回想している。「湯たんぽは翌朝までほかほかとあたたかかった。自分の湯たんぽを持って洗面所にゆき、祖母に栓をあけてもらい、なまぬるいそのお湯で顔を洗うのである。」「父の詫び状」湯たんぽの周りでは、時間がゆっくり流れていた。 もともと中国伝来である。清時代の小説「紅楼夢」にも登場するという。日本でも元禄時代には使われていたらしい。かつては陶製だったが、昭和初期から金属製が普及した。高度成長期に広まったガスや電気の暖房器具に追われて、ほとんど姿を消したものの、今また注目されている。 店頭には、ゴム製やプラスチィック製も並ぶ。湯たんぽは空気を乾燥させないので肌にやさしい。電気の消し忘れもない。こうした様々な効用が見直されている理由だろう。湯たんぽという名前も、とても温かそうだ。「たんぽ」とは、器をたたいたときの音から来たという説と、中国語で湯たんぽを意味する「湯婆」の唐音が語源だが、それが忘れられて、「湯」が付け加えられたという説がある。天声人語2006.1.16昔はよく使った湯たんぽ。上は、旅先(たしか、和歌山県)で見た陶製の湯たんぽで今や骨とう品。 これも同じく陶製の湯たんぽで、上のと同じところで見たもの。これに花を活けているのを本で見たことがあるが、とても素敵だった。以後、これが落ちていないかといつも探している。・・・・・・・・・・・・・・・・・ にほんブログ村・・・・・・・・・・・・・・・・・
2017.01.16
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■2015年4月9日(木)江若鉄道(こうじゃくてつどう)は、今は無い鉄道。1921年(大正10年)に滋賀県の三井寺下-叡山間の6kmで開業。モータリゼーションに押される形で乗客は減少し、1969年に鉄道事業を廃止し、その鉄道用地を湖西線建設に当たる日本鉄道建設公団に売却した。琵琶湖東岸には、早くから鉄道があったが、西岸にはなかった。近江(おうみ)と若狭(若狭)、関西と北陸をつなぎたいという願いから、作られたこの鉄道は、北陸まで届かず、今津どまり。上の写真は、江若鉄道(こうじゃくてつどう)の駅でただ一つ残っている「今津駅」。しかし、夏は、京都や大阪から、水質のよい湖北に向かう湖水浴の客で臨時列車が出たそうだ。また、スキーも盛んだったようで、スキー客も多く、賑わっていた。たまたま、今回の福井、滋賀旅行の際、「江若鉄道(こうじゃくてつどう)の思い出」という展覧会を大津市歴史博物館でやっていたので見て来た。冬は一駅ごとに、雪の深さが違っていたそうだ。湖のすぐそばを走る列車の写真があった。その横で、子どもたちが泳いでいた。そんな当時の思い出が会場いっぱいに展示されていた。歳をとった地元の人が懐かしがって、車椅子に乗って見に来ていた。会場では、初対面の人が、お互いに思い出を語りあっていた。新幹線では、こうはいくまい。鉄道マニア(鉄ちゃん)の京都の学生が廃止の日とその前日を写真と文章で残していたが、哀惜の念を感じた。今回、名前をはじめて知った私だが江若鉄道(こうじゃくてつどう)の思い出は、なぜか私にも懐かしい。■江若鉄道(こうじゃくてつどう)の思い出■■江若鉄道(こうじゃくてつどう)の廃線跡■■江若鉄道(こうじゃくてつどう)■■桜三昧2泊3日:福井県と琵琶湖湖西地方■■2015年4月7日(火)■国内第三位の美:養浩館(ようこうかん)■■4月8日(水)■一筆啓上:丸岡城■■湖北の「かくれ里」菅浦(すがうら)■■4月9日(木)■■今津:ヴォーリーズ建築■■琵琶湖周航の歌■・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・
2015.04.23
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NHK朝の連続ドラマ■カーネーション■を毎朝見ている。このドラマを見て、会社に行き、このドラマのおかげで、会社の休みの土曜日も朝、8時にはテレビの前にスタンバイしているというほどの熱の入れようだ。大阪の岸和田出身のコシノジュンコ、コシノ・ヒロコ姉妹のゴッドマザー、小篠綾子さんのものがたり。この物語のヒロインは小原糸子(おはら いとこ)。大正二年、大阪・岸和田の呉服商の娘として生まれました。生まれながらにおてんばだった糸子はだんじり祭が大好き。でもだんじりを曳くことができるのは男だけでした。「女より男やったら人生どんなに楽しいんやろ…」そう思った糸子は「女にしか出来んことを見つけて自由に生きたい」と裁縫の道を選びます。ドラマの展開も楽しいし、出てくる女性のファッションも、新鮮だ。しかし、私は、ドラマの小道具に興味がある。扇風機が糸子の暮らしに入ってきたりして当時の人たちの暮らしが見えてくるのだ。ドラマの中では、度々、食事のシーンがある。その中で汁椀として使われているのが、写真のお椀だ。このお椀、10年程前、通勤中の家の前に見つけた。その家の前には、沢山の食器や茶器が出されていた。これが「100均」で売られたものなら、気にもならないが、一目で、年季の入った食器だと分かったので、もらうことに。とはいえ、通勤中。大急ぎで仕分けして帰りにもらって帰った。その中のひとつがこれだ。同じようで違うものが4個。私も小さい頃、使っていたがいつの間にか、プラスチックのお椀にとって代わられた。「カーネーション」では、いつごろから使われなくなるのだろうかと思って見るのも楽しい。・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2012年1月21日*骨正月/成人式今昔*・・・・・・・・・・・・・・
2012.01.21
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11月23日、歌声喫茶に行ってきた。といっても、喫茶店ではなくて、公共の建物の中に椅子を並べて作ったもの。その前に、小さなステージを作ってピアノ、ギター、ドラム、エレクトーンと歌をリードする、「歌のお兄さん」的な人が加わった。入場料は一人1000円だったが、500代~70代まで多くの人で賑わった。歌は、ロシア民謡、童謡、昭和歌謡など、よく知っている懐かしい曲ばかり。■歌声喫茶■歌声喫茶(うたごえきっさ)は日本において昭和30年代に流行した飲食店の一形態。リーダーの音頭のもと、店内の客が一緒に歌を歌うことを主目的としている。伴奏はピアノやアコーディオンのほか、大きな店では生バンドも入っていた。歌われる歌はロシア民謡、唱歌、童謡、労働歌、反戦歌、歌謡曲など。店が独自に編纂した歌集を見ながら歌うこともできる。歌声喫茶はうたごえ運動という政治運動において大きな役割を果たしたが、それだけでなく、集団就職で地方から単身上京してきた青年たちの寂しさを紛らす心のよりどころでもあった。私は、歌声喫茶には行ったことがない。大人になった頃には、どの店も閉店していたのだ。初めて、みんなで同じ歌を歌うのは、何年ぶりだろう。カラオケには、誘われれば行くことがあるが、私は断然、、みんなと一緒に歌う方が好き。「集団就職で地方から単身上京してきた青年たちの寂しさを紛らす心のよりどころでもあった」という歌声喫茶。今、都会では、地方から出てきた青年や、一人暮らしの老人が寂しさや不安で暮らしているだろう。歌声喫茶が全盛時代より今の方が人間関係が希薄になっている。今こそ、歌声喫茶のような場所が必要なのではないかと思う。・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月24日*オリヲン座からの招待状★スローライフ/トリビアの井戸:おくどさんの語源 * UP・・・・・・・・・・・・・
2008.11.25
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藤子不二雄Aの「少年時代」を読んだ(まだ1巻だけだけど)。■少年時代:あらすじ■太平洋戦争末期、主人公の風間進一は東京から富山へ疎開する。 そこで進一はタケシという少年と友達になるが、学校では権力の強いタケシは進一を冷たくあしらう。やがてタケシと級友達との権力争いが始まると、進一はその争いに徐々に巻き込まれて行く。「少年時代」は映画でも有名で、映画の中で歌った、井上陽水の「少年時代」もヒットした。映画は見たことがあるが、漫画ははじめて。藤子不二雄Aの作品ということもしらなかった。作家柏原兵三の書いた「長い道」という原作を藤子不二雄Aが漫画にしたということも知らなかった。脚本が山田太一ということも・・・。藤子不二雄Aは、小説「長い道」を読んだ時、「これは自分の物語だ」と思ったという。藤子不二雄Aも戦時中、疎開していたのだ。「長い道」の作者と藤子不二雄Aは同じ12歳でしかも、山をひとつ越えたところに住んでいたのだった。少年時代漫画の連載の依頼を受けた時、不意に「あの疎開のドラマを描こう」と思ったという。「長い道」を原作に自分の体験を交えて描いたのだが、連載を始める前に担当の編集者に言ったとう「この漫画は、人気投票の枠外において欲しい。どんなに、評判にならなくても、途中で切らないで欲しい。一年で終わるから。」連載中、読者の反響は、なかったが、1年後、最終回を読んだ読者からの反響はすごかったのだという。この漫画の中では、田舎の少年は実によく、体を動かしている。貧しいけれど、勉強が出来、家の手伝いをよくする、タケシという少年など、その代表。父親が体が弱いので小学生のタケシが農作業をする。一時間ほど歩いて、海まで泳ぎに行く。もちろん、殴り合いのケンカもする。山に入って、ユリの根を採ったりする。少年たちは、家の手伝いをするが、畑にスイカを盗みに行ったりと、いたずらもする。そんな暮らしが東京育ちの主人公、進一には、新鮮だった。少年の日の楽しさや、苦しさ。「少年時代」は、だれもが経験する、ほろ苦い少年の日の思い出が描かれている。人には皆、少年時代がある・・・そして、人は、皆、大人になっていく・・・。 ・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★9月5日*蝶になりたい・・・/「菊次郎とさき」:たらい * UP・・・・・・・・・・・・・
2008.09.05
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ここ最近、半田健人(はんだけんと)という24歳のイケメンが気になって仕方がない。★半田 健人(はんだ けんと、1984年6月4日 - )は、日本の俳優、タレント、歌手、コラムニスト。兵庫県神戸市生まれ、兵庫県芦屋市出身。兵庫県立芦屋高等学校卒業。身長177cm、体重53kg、B88・W65・H86。ヒロックスエンターテインメント所属。★しかし、彼が有名になったのは、イケメンだからではない。1984年生まれというのに、昭和歌謡が大好きだ。それは単なる好きというのを超えて、解説者のようだ。「半田健人」で検索をしていて、知ったのだが、彼はすでに、昨年あたりから、いやその前から活躍していたらしい。それを知らないで過したことを、ものすごく、もったいないと思っている。昨年、放送されたNHKの「通(つう)」という番組の中で、23歳の半田健人さんが、30代の芸人、「ますだおかだ」を相手に歌謡曲を解説するとうのがあった。■半田健人:「サウスポー」を語る■♪音が出ます。その落ち着いた語り口は、23歳とは思えない堂々たるものだ。その様子を別の部屋から見ていた阿久悠氏が「やるな、小僧、気に入ったぜ」と舌をまいた。そんな縁でこの後、阿久悠対半田健人という夢の対決が予定されていたらしいが、かなわぬまま、阿久悠氏が亡くなった。その直後、自身が書いている、歌謡曲解説ブログ「半田健人『俺の聞き方』」で、*■「さらば涙といおう」■」*とう曲の紹介をしながら、阿久悠氏の死をいたんでいる。そういえば、半田健人さんは、作家の久世光彦氏とも、プライベートで、一緒に歌を歌ったという。ものおじしない、堂々とした態度は、世代を超えて好感を持たれるのだろう。歌謡曲だけでなく、高層ビル、鉄道、などなど多趣味だ。また、その「好き」を解説するのが上手く、読売新聞夕刊に連載エッセイを持っているというから驚く。そのエッセイのタイトルは、自分が書いたというほど、字も上手いらしい(習字5段)!!歌手より上手い、歌唱力でついに歌手デビューを果たした、半田健人。これからの活躍が楽しみな人だ。■半田健人公式サイト■・・・・・・・・・・・・・・ ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★8月9日*手火(てび)* UP・・・・・・・・・・・・・
2008.08.09
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田舎へいくと、畳半畳分もありそうな大きな掘りごたつを見ることがあったが、都会ではもっと小さかった。四人で入ると、中が足だらけだった。外から帰った冷たい足が新しく入ってくると、元の暖かさに戻るまでしばらく時間がかかり、私たちは掛け布団の裾を両手で押さえていなければならなかった。こたつの上には、いつも蜜柑があった。蜜柑の色を冬の風景の中の一点の温かい色のように言う人がいるが、私はそうは思わない。あのころのこたつの上の蜜柑は冷え冷えと冷たい色に見えた。いまでこそ一年中蜜柑を見ることができるが、私たちの子供のころは、家の中に蜜柑や柚子の色がなくなると、春がきた。冬の温かい色と言えば、布団をめくって覗いた、こたつの底の炭火の色である。薄闇の中で、それは小さな太陽のようだった。そんな名残なのだろうか春になってこたつがなくなり、畳で埋められたその部分は、そこを踏んで通るとき、気のせいかほんのりと暖かかった。「昭和恋々:堀こたつ」久世光彦子どもの頃、家には、いわゆる掘りごたつはなかった。どの家にもなかったので、知らなかったが、テレビを見て知った。楽しそうなシーンにどうしても、堀ごたつが欲しくなった私は、ちゃぶ台を置くことを考えた。ちゃぶ台を置いて、その下に炭を入れた寝る時に使う、小さなこたつを置いた。そして布団をかけた。上に置く板は、空想であることにした。そうして作った「掘りごたつ」だったけれど、入って遊ぶことはなかった。外で遊ぶことが楽しくてたまらなかったのだ。■昭和恋々■それは、ほんの取るに足らないものかもしれない。たとえば・・・私たちは、あの日のように雨や風の音を聴くことが、いまあるのだろうか。このごろみたいに、夜は明るくていいのだろうか。春を待つという、懸命で可憐な気持ちを、今どれほどの人が知っているのだろうか。・・・あの頃を想うと心が和むが、いまに還ると胸が痛む。久世光彦 ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★12月1日*おとごの朔日(さくじつ)*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.12.01
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縁側のある家はいまでもあるのだろうが、縁側の付き合いというのが、このごろなくなった。隣家との境の垣根の向こうから、「ちょっといいかしら」と声をかけたり、木戸をほんの少し開けて首だけ覗かせ、「ユウコちゃん、熱下がった?」と心配すると、「どうぞどうぞ」と招じ入れはするが、それは暗黙のうちに縁側までであって、それ以上奥へは入らないし、入れとも言わない。子供のころ、よく見た光景である。距離がないようで、境界線がきちんとある近所付き合いだった。向かい合って笑い転げていても、主は縁側に坐り、隣家の人は履物をはいたままなのである。ほんの五分で帰る場合もあるし、思わぬ長話になることもある。そうなると番茶が出る。けれどお菓子までは出さない。こういう程よい付き合いというものがなくなり、隣人というものもなくなった。たまたま顔を合わせれば、お愛想笑いだけで、内心では故(ゆえ)のない疑いの目で隣に住む住人を観察している。庭と縁側がなくなったせいである。*「昭和恋々」*久世光彦うちは、お隣とけっこう、仲良しだと思う。バラが咲いたといっては私が隣に届ける。お隣からは、貸し農園で収穫した野菜が時々、私の家に届く。もちろん、部屋に上がって話し込んだことも、何回かはあるが、ほとんどが、家の前での会話で終わる。そんな時に、縁側があったらいいなといつも思う。内でも外でもない空間。なんとも、ファジーな空間、それが縁側。あいまいな境界で出会うことの積み重ねで、近所付き合いが深まる。隣の人をよく知っていれば、隣の子どもの泣き声を「騒音」ととることはない。隣の子の弾くピアノの音にうるさいとノイローゼのなることもあるまい。何年住んでいても、「隣人」にはなれないから、少しの物音も騒音になる。騒音トラブルは後をたたない。住宅の変化はめまぐるしい。収納場所を増やすために、なくした縁側。一見、無駄に見える縁側を残すことは、収納を増やすよりも大事なことだったのかもしれない。 秋ふかし隣は何をする人ぞ 芭蕉**「昭和恋々」前書きより**それは、ほんの取るに足らないものかもしれない。たとえば・・・私たちは、あの日のように雨や風の音を聴くことが、いまあるのだろうか。このごろみたいに、夜は明るくていいのだろうか。春を待つという、懸命で可憐な気持ちを、今どれほどの人が知っているのだろうか。・・・あの頃を想うと心が和むが、いまに還ると胸が痛む。久世光彦 ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月1日*芋たこなんきん:「昭和恋々(れんれん)」*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.11.01
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なぜ七輪(しちりん)と呼ぶかというと、物を煮るのに、値七輪(あたいしちりん)しか炭の費用がかからくて経済的だからと書いてある本があったが、当てにはならない。俳句の季語に、もし七輪があるとしたら、季語は秋である。七輪がいちばん似合うのは、秋刀魚だからである。あはれ 秋風よ 情(こころ)あらば伝えてよ男ありて、今日の夕餉(ゆうげ)に ひとりさんまを食いて思ひにふける と・・・七輪の上に屈んで、秋刀魚を焼いている、季節外れの単衣(ひとえ)の着物の、男の後姿が見えるようだ。「秋刀魚の歌」のおかげで七輪は、秋の風物詩になった。こんなに愛想がなくて妙なものはない。「昭和恋々」久世光彦子どもの頃、うちには、父が作ったクド(竈・かまど)があった。そこでご飯を炊いたり、おかずを炊いたりした。しかし、七輪もよく使った。竈と違って七輪は持ち運びが簡単だった。だからもっぱら、家の外に持って出て使っていた。焼くものは、秋刀魚ではなかった。近くの川でとった川魚。夏は茄子。そして秋には、父が山でとって来たマツタケだった。今考えると、夢のような話だけれど、七輪で炭を熾し、マツタケを焼いて食べたのだ。秋刀魚は、お金がかかるが、マツタケはタダ。そんなわけで、私は秋に七輪で焼くものといえば秋刀魚ではなくマツタケなのだ。**「昭和恋々」前書きより**それは、ほんの取るに足らないものかもしれない。たとえば・・・私たちは、あの日のように雨や風の音を聴くことが、いまあるのだろうか。このごろみたいに、夜は明るくていいのだろうか。春を待つという、懸命で可憐な気持ちを、今どれほどの人が知っているのだろうか。・・・あの頃を想うと心が和むが、いまに還ると胸が痛む。久世光彦 ◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★10月1日*「園芸家12ヶ月:10月の園芸家」*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.10.01
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■第10話 「学問ノススメ」 ■ 安子(黒川智花)が夏休みの思い出に、家族みんなで映画に行こうと言い出した。しかも、「洋画が見たい」と言ってしまい、菊次郎(陣内孝則)の機嫌を損ねてしまう。字が読めない菊次郎に、字幕の出る洋画は禁句なのだ。 幼い頃、継父に虐げられ、学校に通わせてもらえなかった菊次郎。字が読めないのはそのせいだった。・・・・・・・・・・・・・・・偶然会ったタケシの担任の先生・湯川(ダンカン)から「映画お好きですか?」と声をかけられた菊次郎は、怒りのあまり、湯川を川に投げ飛ばしてしまう。その湯川がタケシの家で行水をした。妹の美智子(佐藤江梨子)に頭から水をかけてもらった。たぶん、タケシの家には、風呂はなく、銭湯に通っていたのだろう。湯川が体を洗った後、美智子は、その残りの水で洗濯をしていた。タライって便利な道具だった。こうやって、行水や洗濯をすることも出来たし、幼い子どもの水浴びの場にもなった。スイカを冷やした。生まれた時、産湯を使うのもタライだし、死んだら湯かんといって死者の体を拭くのもタライだった。昭和30年代の道具は、いつも使い、何通りにも使えるものばかりだった。だから、収納なんて考える必要はなかった。今は、必要でないものまで、つい買ってしまう。シンプルな道具は、なんにでも使える。タライはその代表選手のような道具だ。**「菊次郎とさき」**不世出のお笑い芸人ビートたけしの父・菊次郎と、母・さき。このふたりの人生を息子のビートたけし自身が描いたドラマ第10話 「学問ノススメ」では、読み書きの出来ない父親をみっともないというタケシに「読み書きのできない父ちゃんはみっともないかもしれない。だけど、それを克服しようとしている父ちゃんのどこがみっともないんだ!」と言い放つ母、さきの言葉が胸を打った。■「菊次郎とさき」:いとしい日々昭和30年代への賛歌■■「菊次郎とさき」印半纏■■「菊次郎とさき」*吊り下げ手水(ちょうず)■■「純情きらり」と私の昭和■■昭和恋々:行水■ ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★9月7日*台風のあと・・・あたり梨 *UP・・・・・・・・・・・・・
2007.09.07
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小学生のころ、父の本棚にあった「半七捕物帳」をこっそり盗み読んでから、蚊帳が怖くなった。「半七」の中でもとりわけ怖い「お化け師匠」の踊りの師匠が、蚊帳の中で蛇に首を絞め殺され死んでいる様子がいま見てきたことのように、生々しく描かれていたのである。実際、灯りの消えた部屋では、蚊帳の中で寝ているのが誰かよくわからないものだ。もっと言えば、そこに寝ているのが、生きている体なのか、息のない体なのか、怖いと思うとそんなことまで心配になってくる。だから蚊帳の外から、ささやくように声をかける。すると青い薄闇に忍んだ自分の声が、髪をおどろに乱して死んだお化け師匠の、無念の声に思われて、風呂上りの体が凍りつく。そういうときに限って、生ぬるい風が吹いて、軒端の南部風鈴がチリンと一声鳴る。いまの子に「半七捕物帳」を読ませても、ちっとも怖がらない。夏の夜の青蚊帳も、大川端の柳も、虚無僧の尺八も知らないのである。しかし私には、そうしたものがなくなった世の中は、結構なようで、実はそれがいちばん怖いことのように思われるのだ。「昭和恋々」久世光彦・・・・・蚊帳に入る時には、蚊帳の裾を持って、うちわでパタパタあおいで、蚊が中に入らないようにすばやく入る。それでも中にいる蚊もいた。血をたっぷり吸って、ヨタヨタと飛んでいたりした。すると私たちは、容赦なくその蚊を叩き潰した。手が蚊の血で、真っ赤になった。自分の血を吸う蚊は、許せない。叩き潰されても、しかたがない。がしかし、蚊を食べる昆虫もいる。蚊を食べる昆虫がまた鳥に食べられる。その鳥を動物や大きな鳥が食べる・・・。そういう意味からいえば、蚊もまた必要な生きものだ。今は、蚊帳などいらなくなった。その代わりに、他の昆虫や鳥や動物も減ってしまった・・・。垂乳根たらちねの母が釣りたる青蚊帳(あおがや)を すがしといねつ たるみたれども 長塚節 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★9月2日*9月がどんなに暑くても・・・ *UP・・・・・・・・・・・・・
2007.09.02
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暑いので、冷蔵庫に入れてなかった、ご飯が2回もいたんで、ギラギラとし始めた。(ノД`)でも、こんな時は、捨てない。ちゃんと、水で洗って、お茶漬けにして食べる。子どもの頃、みんなそうしていたので、今もそうしている。子どもの頃は、冷蔵庫のある家は、村には一軒もなかった。朝、炊いたご飯は、朝ごはんを食べた後、どうしたのか・・・。飯*そうけ(しょうけ)*に入れて、風通しのいい所に吊るしておく。これがご飯の保存方法だった。「そうけ」とは、竹で編んだ籠。ザルのこと。ご飯を入れるから、飯そうけと言う。「しょうけ」という地方もあるが私たちは「そうけ」と言っていた。昔は写真のそうけの下に、15cm程の長さの竹を半分に割ったものが付いていた。それが、そうけの足で、直に底が着かないようにという工夫。いつか、私が直してみようと思っている。このそうけを実家で見つけて、持って帰った。もう、たぶん、これにご飯を入れて保存することはないだろう。でも、これは子どもの頃の思い出がある道具なのだ。捨てることは出来ない。飯そうけ、それは、冷蔵庫がなかった頃の暮らしの思い出につながる・・・。**そうけ(しょうけ)**竹細工で目の細かく編んだのがそうけ、荒く編んだのが籠。♪かごめかごめ籠の中に鳥は・・・。の籠や、山に行く時、担いで行くのは目の荒い竹製品は籠。「しょうけ」は本来中国語で,「そーき」(漢音), あるいは「しょーき」(呉音)と発音する。こんな所から、「そうけ」派と「しょうけ」派が出来たのではないだろうか。□今も飯そうけを作っている人がいる!!写真 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★8月21日**三尺流れて水清し/「くわばら、くわばら」**UP・・・・・・・・・・・・・
2007.08.21
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昨日の「菊次郎とさき」第6話 「戦争と平和」で吊り下げ手水が何回もうつっていました。北野家が暮らす家の下に不発弾が埋まったままであることがわかったと聞かされ、北野家はたちまち大騒ぎになる。というのが、昨日のお話。時代は昭和30年。もはや戦後ではないと言われた時代でしたが、そこここに、戦争の跡が残っている時代でした。私の子ども時代も実は戦争の跡がそこここにあったのを憶えています。岡山の田舎の村の中に、関西弁を話す家が2軒ありました。父は、その家族は大阪から疎開してきたんだと言っていました。そのうちの一軒は、主が村出身だからよかったものの、もう一軒は、まったく地元の人ではありませんでした。だから、小屋のような家に6人で暮らしていました。その家は夏になると、朝顔を植えていました。私は、ラジオ体操の帰りにその粗末な家を通りながら、きれいに咲いた朝顔をちぎっていました。山に草刈に行く時、ゲートルを巻いた人がいたこと。このゲートルというのは、ズボンの裾が邪魔にならないようにと、戦時下に男性がつけるものでした。白い服に松葉杖の傷痍軍人。闇米、そして貧乏・・・。しかし、あの頃は*国が敗れても、山河*があった。あの頃の美しい山は、川は、田んぼは、もうない。現代の科学兵器は山河を含め全てを破壊し尽くし,「国破れて 山河なし」になりかねない。 ◎人気blogランキングへ◎ **「春望」** 杜甫国破山河在 国破れて 山河あり城春草木深 城春にして 草木深し感時花濺涙 時に感じては 花にも涙をそそぎ恨別鳥驚心 別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす烽火連三月 烽火 三月に連なり家書抵万金 家書 万金に抵(あた)る白頭掻更短 白頭 掻(か)けば更に短く渾欲不勝簪 渾(すべ)て 簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す**「菊次郎とさき」**不世出のお笑い芸人ビートたけしの父・菊次郎と、母・さき。このふたりの人生を息子のビートたけし自身が描いたドラマ■「菊次郎とさき」:いとしい日々昭和30年代への賛歌■■「菊次郎とさき」印半纏■■「菊次郎とさき」*吊り下げ手水(ちょうず)■■「純情きらり」と私の昭和■ ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★8月10日*七夕の「団子刺し」*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.08.10
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「北の宿から」「UFO」など戦後歌謡史を彩る多くの名曲を送り出した作詞家・作家の阿久悠(あく・ゆう、本名深田公之=ふかだ・ひろゆき)さんが、1日午前5時29分、尿管がんのため東京都内の病院で死去した。70歳だった。哀感あふれる演歌からコミカルなポップスまで幅広く手がけた。「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)、「北の宿から」(都はるみ)、「勝手にしやがれ」(沢田研二)、「UFO」(ピンク・レディー)といった日本レコード大賞受賞曲など、生涯に作詞した曲は5千曲に及ぶ。 asahi.comより・・・・・・・・阿久悠氏の作った歌は大人から子どもまで幅広く歌われた。最近、老若男女、だれでもが歌える歌がなくなった。その差は、どこにあるのだろう。それは、歌詞にあるのではないだろうか。最近の歌は、若い、歌手の作詞が多く、自分の身近に起こったことしか歌詞になっていない。だから私たちの世代は共感できない。ところが、阿久悠氏の作る歌詞は、若者を描いたのもであったとしても、どこか俯瞰的な見方がある。 「青春時代」 卒業までの 半年で 答えを出すと 言うけれど 二人が暮した 歳月(トシツキ)を 何で計れば いいのだろう 青春時代が 夢なんて 後からほのぼの 思うもの 青春時代の 真ん中は 道に迷っているばかり 青春時代が 夢なんて 後からほのぼの 思うもの 青春時代の 真ん中は 胸に刺射すことばかり・・・・・・・・・・・・・・・この曲は、1976年(S.51)に、「森田公一とトップギャラン」が歌った曲。この時、すでに私は結婚していて、子どもがひとりいた。もはや、「青春時代」では、なかった。けれども、この曲を聴くと、この歌詞を読むと胸が熱くなった。 青春時代の 真ん中は 道に迷っているばかり 青春時代の 真ん中は 胸に刺射すことばかりこのとおりだと思った。道を探して、うろついたあの頃を思うと今も胸が痛む。********奇数日にしか書かないと決めたのですが、いつも書き残しが・・・。で、今月は、夏休みの宿題の絵日記のように、できるだけ書くことに。 ■花火■ ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★8月2日*竹八月*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.08.02
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行水の記憶はあまりない。私が行水を使ったのは、戦争が終わってほんのしばらくの間だった。戦災で街が全部焼けて、新しい銭湯が開かれるまでと言えば、昭和20年の夏から数ヶ月ということになる。8月から9月までは、朝、水をいっぱい張った盥(たらい)を日向に出し、半日かかってぬるま湯になった夕方ごろ、子供たちはこれを使って体を洗う。10月に入ると、さすがに日向で温めただけだは済まなくなり、釜に沸かした熱湯を補った。これが11月になると、もう寒くて我慢ができなくなり、小さな金だらいに入ったお湯で手ぬぐいを絞り、体を拭くだけになった。冬になったらどうしようと心配していたら、そこはよくしたもので、木枯らしの音が耳につきはじめたころ、待ちに待ったトタン葺きの銭湯が焼け跡に建ち、子供たちは歓声を上げて、満々とお湯が溢れる浴槽に殺到した。だから私の行水の記憶は、ほんの数ヶ月しかない。けれど私には、あのころ母や姉が行水を使っていた憶えがまるでない。母たちは、どうしていたのだろう。浮世絵の美人入浴図を見るたびに、半世紀前の不思議が思い出されるのである。*「昭和恋々」*久世光彦 先日、夫と岡山へ桃を採りに行った。蜜柑狩りや葡萄狩りという言葉はあるが「桃狩り」って言うのだろうか。昔は桃の木を植えている家もけっこうあった。そして、行水の時に桃の葉を盥に浮かべた。そんな会話を夫とした。そして思った。新潟県中越沖地震で被災された方が、いまだに、風呂に不自由していることを。この暑い夏、風呂がないことは、どんなに辛いことだろう・・・。もし、昔なら、水道が復活していなくても井戸水を汲んで、ガスが復活していなくても、日向水で行水が出来たのにと・・・。木陰になる大きな木や、食料のための田畑、いざという時に使える井戸水、沐浴が出来る川のある暮らしは、震災がなくても取り戻さなければならないと思う。 ◎人気blogランキングへ◎**「昭和恋々」前書きより**それは、ほんの取るに足らないものかもしれない。たとえば・・・私たちは、あの日のように雨や風の音を聴くことが、いまあるのだろうか。このごろみたいに、夜は明るくていいのだろうか。春を待つという、懸命で可憐な気持ちを、今どれほどの人が知っているのだろうか。・・・あの頃を想うと心が和むが、いまに還ると胸が痛む。久世光彦◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★8月1日*八朔(はっさく)*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.08.01
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*「菊次郎とさき」*第2回目。雨でペンキ塗りの仕事が休みとなった父・菊次郎(陣内孝則)が一人酒を飲んで留守番をしていた時、こっそり学校を抜け出した武が、財布から千円を抜き取り、父、菊次郎に罪をなすりつけるという話。父・菊次郎は、縁側で留守番をしていたのだが、縁側の軒下に、バケツのようなブリキのものが吊り下がったいたのを私は見逃さなかった。おお、懐かしい、手水(ちょうず)だ!!武の子どもの頃は、トイレ(というより便所)は縁側の突き当たりにあった。その頃は、便所の後の手洗いは、今のように水道でジャーというわけにはいかなかった。で、便所の近くの縁側に吊ってあったのが、手水(ちょうず)。ブリキで出来た、バケツよりも少し小さめのもので、下を押すと水が、ちょろっと落ちた。(そのわずかな水ででさえ、地面にかえした。)それで手を洗って、そばにぶら下げている手ぬぐいで、拭く。手水(ちょうず)の水は、いつもなくならないように大人が気をつけていたのだろう。だろうというのは、私は田舎で育ったので、手水はなかったからだ。その代わり、外に水がめがあった。この手水のことを書こうとして、はたと困った。本当の名前が分からなかったからだ。で、探したらあった。極東ブログさん。写真ここ。バケツいっぱいで家族が一日は手を洗えたことだろう。いったい今は、一日に昔の何倍、ひょっとしたら何十倍水を使っているのだろう?昭和30年代は、まだ、今のように、ものを浪費する時代ではなかった。そして、その象徴が、この吊り下げ手水だ。**「菊次郎とさき」**不世出のお笑い芸人ビートたけしの父・菊次郎と、母・さき。このふたりの人生を息子のビートたけし自身が描いたドラマ■「菊次郎とさき」:いとしい日々昭和30年代への賛歌■■「純情きらり」と私の昭和■ ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★7月17日*民具:民家*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.07.17
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不世出のお笑い芸人ビートたけしの父・菊次郎と、母・さき。このふたりの人生を息子のビートたけし自身が描いたドラマ『菊次郎とさき』の第3作目が先週の木曜日から始まりました。2003年、2005年とほぼ同じ顔ぶれ。■あらすじ■ 舞台は昭和30年頃。昭和のノスタルジーが色濃く残る、狭い長屋の生活が背景です。まるで落語の登場人物のように、破天荒な生き様の菊次郎。異常なまでに教育熱心なさき。そして貧乏な家族たち。時にはちゃぶ台が倒され、言いつけを守らない子どもは両親に引っ叩かれるかもしれません。でもそれをただの暴力と言ったら、北野夫婦に怒られることでしょう。そこには、今の日本人が忘れかけた“家族の絆”があるのです。 ・・・・・・・・・・昭和30年代といえば、私の子ども時代。私は去年、「純情きらり」と「私の昭和」というタイトルで、昭和な懐かしいものを取り上げてきました。今回もまた、懐かしいものがいっぱい!!!+++第一回目は、◆印半纏(しるしばんてん)◆父の日に子どもたちが、菊次郎に感謝する会をもうける。菊次郎は、張り切って、紋付であらわれる。がしかし、子どもたちは、「父ちゃんは、これが一番だよ」と印半纏を着せる。◆印半纏(しるしばんてん)◆襟・背・腰回りなどに屋号・氏名などの印を染め抜いた腰丈の半纏。主に木綿製。江戸後期から職人の間で用い、また、雇主が使用人や出入りの者 に支給して着用させる。胸紐がないので、手拭いを帯代わりに結んだりする。 法被(はっぴ)。印半纏は、ペンキ屋を営む、菊次郎のユニホームのようなもの。菊次郎をはじめ、このドラマには、職人がよく出てくる。職人以外にも、母、さきもよく働く。仕事といってもマネーゲームのような今の社会と違って、どの人たちもみな額に汗して働く人ばかり。私の家でも、父は、木綿のズボンと夏でも、木綿の長袖、それに麦わら帽子を被っていた。あの頃の大人たちは、今の私たちよりも堂々としていた。それは、働いているという実感がそうさせたのだろか。菊次郎の印半纏は、働く男の誇りの象徴のように見える。 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★7月13日*買物今昔:やみかごからレジ袋/「全国アホバカ分布考」/命の重み *UP・・・・・・・・・・・・・
2007.07.13
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昭和のはじめごろ、夏の子供たちは麦わら帽子か、白いピケの帽子をかならずかぶっていたものだ。このごろでは盛夏でも無帽の子が多いが、私たちが小さかったころは、日射病を恐れ、戸外(そと)へ出るとき帽子を忘れないように口うるさく言われたのを憶えている。「うたを忘れたカナリヤ」の西条八十(やそ)の詩に若かったころの母親を慕う「麦稈むぎわら)」帽子というのがある。”母さん、僕のあの麦稈帽子、どうしたんでしょうね?ええ夏、碓氷峠(うすいとうげ)から霧積(きりづみ)へ行くみちで渓谷へ落としたあ麦稈の帽子ですよ・・・”ここでは「麦藁」ではなく、「麦稈」という字が使われている。最近は、「麦稈真田(ばっかんさなだ)」といっても誰も何のことかわからなくなってしまったが、昔は子供だって知っていた。麦わらを真田紐のように編んだもので、これが麦わら帽子の原料だった。岡山、広島、香川が産地として有名だったが、いまはどうなのだろう。このごろは「日射病」という言葉さえ、あまりきかなくなった。「昭和恋々」久世光彦子どもの頃の遊び友達に、お祖母さんと暮らす子がいた。彼女の家には、台の上に乗った丸い木の型が何個かあった。当時は、何気なく思っていたのだが、あれは、頭の型だ。あの型を使って麦わら帽子を編んでいたのだ!麦稈真田は、岡山県南部地方で女性の副業として盛に作られたこと。私がその友人と一緒に遊んだのが、昭和30年代の前半だったこと・・・。友人の祖母は、間違いなく、麦稈真田で帽子を作って現金を稼いでいたのだろう。しかし、その頃、私たち子どもは、もう誰も、麦わら帽子をかぶっていなかった。けれども、父たち大人は、毎日、麦わら帽子をかぶって、山や田んぼに行っていた。思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ 俵 万智『サラダ記念日』より 今は、日射病よりも、紫外線が怖い。幼稚園の帽子も襟足を日光から防ぐものになっている。 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★7月1日*トリビアの井戸:はかどるの語源 /六月捨(す)てえ *UP・・・・・・・・・・・・・
2007.07.01
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生まれて今日まで、金魚をはじめ、魚類を飼ったことがない。親が、生きものはかならず死ぬから駄目だといつも言っていたのを思いだすからだ。しかし、考えてみれば、生きものはみんな死ぬという言い方もおかしなもので、そんなことは四つや五つの子供だって先刻承知している。けれど、子供のころは、なんだかその言葉に妙な重みがあって、黙って納得していたのである。だから、よその家に遊びにいって、日当たりのいい縁側においてある金魚鉢に泳いでいる金魚たちを、きれいだと思うことはあっても、羨ましいとか、欲しいと思ったことはない。いつかは死ぬのだと考えながら眺めていた。(略)「昭和恋々」久世光彦 私の子どもの頃、犬も猫も飼ったことがなかったけれど、唯一、金魚は飼っていた。それは、盆踊りの夜店で、子供が買ってきたものだった。家には、ガラスの金魚鉢がなかったので、大きな瓶に入れていた。ガラスなら、横から泳ぐ姿が見られるのにと子供の私たちは、瓶(カメ)を覗き込みながらら少し不満だった。しかし、最近分かったことだけれど、金魚は、上から見るように品種改良されたものだ。*****今のようにガラスの水槽が無かった時代、人々はつねに金魚を上から鑑賞していました。これを「上見(うわみ)」と言います。中国で誕生して以来、金魚は「上見」にふさわさしい形に改良されてきました。 「美の壷」より。***** 以前、骨董市に行った時、古い四角な金魚鉢を見つけた。迷ったすえ、買わなかったけれど、買っておけばよかったと、夏が近づく度に後悔している。 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★6月1日*「純情きらり」と私の昭和:しょいこ【背負子】 *UP・・・・・・・・・・・・・
2007.06.01
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どうしてか姫鏡台は、いつも縁側にあった。母がふだん使う鏡台は、奥の父と母の部屋にあって、髪油や白粉(おしろい)の匂いがしたが、縁側の姫鏡台には、匂いがなかった。小引き出しを開けると、毛抜きや爪切りや耳かきや輪ゴムや・・・・そんな細々とした小物が入っていた。晴れた朝は、縁側の姫鏡台が白く光り、雨の夕暮れには、鏡面に、壊れた樋(とい)の破れ目から、滴り落ちる雨が映っていた。そして鏡の中で、小さな小さな庭の小さな樹たちは、緑に輝き、紅に色づき、やがて白茶けた枯れ枝に変わり・・・。季節は楕円形の鏡の中に、ゆっくりと過ぎてゆくのだった。「昭和恋々」久世光彦・・・・・・・・・・私の子どもの頃、家の近くに、姫鏡台のある家があった。その家の前を通る時、箪笥の上のこじんまりと、たたずむ、姫鏡台に子どもの私は憧れた。そのうちには、若い姉妹がいたので、普通の鏡台があったのだろうか。それとも、その家は大阪から疎開してそのまま住み着いていたので、大きな鏡台が買えなかったのだろうか。今となっては、分からない。あんなにも憧れていたのに、長く忘れていた。それから、30年以上たったある日、偶然、姫鏡台を見た。それは、大橋歩の部屋が載った雑誌だった。黒い鉄のベッドとベッドカバーは、手作りのシックなキルト。その横に、シックでシンプルだけど、品のいい、西洋の箪笥。姫鏡台は、そのシックな箪笥の上に鎮座していた。ベッドもベッドカバーの箪笥も、姫鏡台も、絶妙のバランスだった。そのどれが、欠けても、変わっても、アンバランスになると思うくらいに・・・。どれも豪華なものではない。けれども、どれも、存在感のあるものだった。今の私は時々、その雑誌の切り抜きを取り出して眺めては、いつかは、こんな部屋に住みたいとため息をついている。以来、骨董市で、姫鏡台を無意識に探している。遠い子どもの日に見た姫鏡台、大橋歩の部屋にあった、西洋の姫鏡台・・・。どちらも憧れである。 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★4月30日* 龍野市の地名変更、MOTTAINAIぞ!!*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.05.01
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どうして小学校の校門の脇には、申し合わせたように桜の樹があるのだろう。普段はあまり気がつかないが、四月、新しいランドセルを背負った子たちが、母親に手を引かれて校門を入っていく姿の上には、かならずと言っていいくらい、桜の花びらや降りかかっている。私のときもそうだった。昭和十七年春、私は阿佐ヶ谷の杉並第一国民学校へ入学した。太平洋戦争が始まって、小学校は国民学校と名を変えていたのである。杉並というだけあって、杉の樹に囲まれた学校だったが、校門の辺りには、ちゃんと大きな桜の樹が植えられていて、母の黒い羽織の肩にしばらく止まった花びらは、やがてやわらかな風に吹かれて、私の足元にフラフラと落ちた。入学式を撮ったテレビのニュース番組を見ていると、ふと昔がもどってきたような気持ちになる。半世紀経っても、この日の光景だけは、それほど変わっていないのだろう。「昭和恋々」久世光彦・・・・・・・・・・最近、桜の花の咲くのが早くなった。地球温暖化で、入学式に桜はつきもの、というのは、過去のことになった。 ←京都・「哲学の道」2006万葉人の愛でたるは梅桃杏かぐはしき花は桜となりしより人の命も散りやまず 如月 佳 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★4月1日*四月一日さん*UP・・・・・・・・・・・・・
2007.04.01
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私は昭和10年の春、東京阿佐ヶ谷で生まれた。階下の奥の六畳、秋になるとなまめかし匂いの花をつける、金木犀の木が見える窓のある部屋だった。早朝だったから、父も姉も兄も、みんな家のいて私の誕生を待っていたという。たぶん、私の弱々しい産声は、その瞬間、血を分けた家族みんなの耳に聞こえたはずである。幸福な誕生だと思う。いまのように病院ではなく、家で生まれる幸せだと思う。長年気になっていることが一つある。私を取り上げてくれた産婆さんというのは、いったいどこの誰だったのだろう。その人は今どこで何をしているのだろう。今も元気にしている、九十八歳の老母に訊ねても当たり前のことのように忘れたと言う。私を初めて生の世界へ連れ出してくれた人を知らないということが、私にはなんだかとても不思議なことのように思われてならないのである。ようやう明るくなりはじめた半世紀前の阿佐ヶ谷の町を、一仕事終えたその人が、トコトコと帰っている後姿が見えるような気がする。「昭和恋々」久世光彦私は、岡山の実家で生まれた。戦後まもない当時は、そのことが当たり前だった。その家は、父と祖父が、建てた家だった。1912年生まれの父が、17歳の時のことだからもう、100年近く前のことだ。古い家を移築したのだから、200年はたっているかもしれない。その家で、父の妹、トシ子と祖父が死んだ。その後、父と母が結婚式をあげたのもその家だった。その後、私が生まれた。あの家にとって、私は、はじめての子どもだった。その時、父は、母は、祖母はどんなに喜んだことだろう。家は、人の死と結婚と出産によって、「聖なる家」となるという。私が生まれたことによって、あの家は、聖なる家になったのだ。 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★3月21日*そうだ京都いこう!*杉本家雛飾り展/ちゃんちゃんこ *UP・・・・・・・・・・・・・
2007.03.21
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私が中学に入ったのは、昭和23年、新しい憲法が公布された翌年だった。生徒の半分ぐらいは、男の子も女の子も、下駄で学校へ通っていた。靴がなかったから下駄だったのか、下駄の方が楽だったのか、その辺は忘れた。おなじクラスの女の子と二人で桜の土手を歩いたり、川原に足を伸ばして話し込んだりしる嬉しさを憶えたのも、その頃だった。学校の近くに大きな川があり、川原には背の高い草が生えていたので、そこへよく行った。川波が白く光り、空には鳶(とんび)が舞っていた。二人で川原に足を伸ばすと、目の前に四つの下駄が並んだ。目のやり場がないので、下駄ばかり見ていた。人間の足の湯部というのは、妙なものだと思った。二人の気持ちによく似て、臆病そうにちぢこまっていた。もっと丁寧に爪を切っておけばよかったと思った。きっと女の子の方も、同じことを考えていたのだと思う。私の家の下駄箱に、いま下駄は一足もない。*「昭和恋々」*久世光彦・・・・・・・・・・・・・私たちのはき物は、学校に行く時は、靴だったけれど、普段履きは、下駄と草履だった。そのためだったのだろうか、靴下を履かずに、足袋を履いていたのは・・・。映画、「ALWAYS 三丁目の夕日」でも、主人公の小説家、茶川さんは下駄履き。ロクちゃんも、サンダル代わりに下駄を履いている。下駄をはかなくなったのは、いつ頃からだったのだろう。**「昭和恋々」**原っぱや露地では、べーごまやめんこ、あやとりや、ままごとで遊ぶ子どもたちの声が響き、家には夕餉の支度で忙しい割烹着姿の母親がいた…。名だたる名文家二人のエッセイと90余点の写真で、いま、鮮やかに甦る、昭和あのころ。 ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★2月1日*「年越し」* UP・・・・・・・・・・・・・
2007.02.01
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あのころのお正月は明るかった。あのころというのは、昭和14、5年のことである。なぜ明るかったかというと、お正月だけは、茶の間の電燈が普段の60Wから100Wになるからである。座敷と茶の間が60W、子ども部屋は40Wで廊下とお手洗いが20Wというのが決まりだったから、10Wは嬉しかった。大晦日の掃除が終わった後、母が座敷の箪笥から大切そうに100Wの電燈を取り出すと、私たち子供は、冷たい廊下を爪先立ちながら、ゾロゾロ母の後をついていったものである。まず、茶の間の電気を消す。それから少し黒ずんだ60Wを外して、母が袂へ入れ、慎重な手つきでゆっくり100Wに替える。スイッチをひねる。お正月のために畳を替え、障子を張替えたせいもあって、見違えるように明るく、きれいな茶の間である。私たちは、ワッと歓声を上げる。茶箪笥の上の鏡餅がピカピカ光っていた。元の60Wに戻ったのが、5日だったのか、7日だったのか、それとも15日だったのか・・・それは覚えていない。「昭和恋々」久世光彦私のうちは、40Wの灯りがたったひとつあるだけだった。その灯りに長めのコードをつけて、土間に回したり、座敷に回したりして、使っていた。台所には、20Wの灯りがあったけれど、食事は、いつも座敷だった。風呂場には、ランプがあったけれど、壊れていたのか、使ったのを見たことがなかった。もっぱら、月の明かりが頼りだった。+++夜、牛乳の紙パックを持って市役所の出先機関に行った。8時を過ぎているのに、誰もいないはずなのに、煌々と灯りが灯っていた。市役所の出先機関だけではなく、あちこちにあるコンビニの、なんと明るいことか。+++私の子どもの頃の灯りがいいとは言わないけれど、夜、遅くまで、煌々と輝く必要はない。もしも夜が暗かったら、月や星の明かりや、電燈の灯りは、もっと嬉しいものになるだろう。*********あけましておめでとうございます。本年もどうぞ、よろしくお願いいたしますm(_ _)m ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★1月1日*トリビアの井戸:正月はなぜ三が日か。 * UP・・・・・・・・・・・・・
2007.01.01
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古い自転車や、屋根瓦の輝きや、割烹着(かっぽうぎ)の白さにブリキの玩具の懐かしさ・・・そうした全ての物たちの佇まいとおなじくらい、そこに生きてきた人々のつよい気持ちと、貧しいけれど力に溢れた目の色を、写真から読み取ろうと思った。たぶん私たちは、昭和のあのころに、何か大きな忘れ物をしてきたような気がしてならない。もしかしたら、それは途方もなく大きな忘れ物だったのかもしれない。<文化>なのか、<教育>なのか、あるいは<精神>とか<魂>というものなのか・・・それはよくわからない。けれど、いまはない、<何か>が、この写真の中には確かに写っているのだ。それは、ほんの取るに足らないものかもしれない。たとえば・・・私たちは、あの日のように雨や風の音を聴くことが、いまあるのだろうか。このごろみたいに、夜は明るくていいのだろうか。春を待つという、懸命で可憐な気持ちを、今どれほどの人が知っているのだろうか。・・・あの頃を想うと心が和むが、いまに還ると胸が痛む。「昭和恋々」前書きより:久世光彦・・・・・・・・・・・・・・・・先日、図書館に行ったら、久世光彦の本、「マイ.ラスト・ソング」が目の前にあった。久世光彦は、多くのテレビ番組を残したが、私の好きだったのは、古きよき時代を描いたもの。その時代には、戦争があって、おもわず、目をそむけたくなるようなこともあった。戦争は嫌だと思う。でも、それがなければ、久世光彦のえがく、戦前、戦中の庶民の暮らしは、慎ましく、私たちがとっくに無くしたものばかりだ。その久世光彦も今年、亡くなった。昭和がどんどん遠くなっていく。昭和のあのころに、何か大きな忘れ物をしてきたような気がしてならない。もしかしたら、それは途方もなく大きな忘れ物だったのかもしれない。+++たとえば・・・私たちは、あの日のように雨や風の音を聴くことが、いまあるのだろうか。このごろみたいに、夜は明るくていいのだろうか。春を待つという、懸命で可憐な気持ちを、今どれほどの人が知っているのだろうか。そんな思いから、「昭和恋々(れんれん)」というカテゴリーを作ることにした。タイトルは<恋々>でも単なる懐古に流されないように心したつもりである。来年もどうよろしくお願いしますm(_ _)m ◎人気blogランキングへ◎◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★12月31日*民具:もろぶた1.2/松迎え* UP・・・・・・・・・・・・・
2006.12.31
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「芋たこなんきん」の前の朝のNHK連続ドラマ、「純情きらり」に出てくる昭和なモノを見ながら、あ~だ、こ~だと書いていました。(「純情きらりと私の昭和」)「芋たこなんきん」に出てくる昭和なモノを見ながら、あ~だ、こ~だと言って見たいと思います。写真の陶椀、「純情きらり」では、桜子のご飯用の茶碗として使われていたのを、私は見逃しませんでした。この陶椀は、味噌汁用なのに、桜子は、これで、ご飯を食べている。それが不満でたまりませんでした。ほんと、NHKに「あのお椀は、味噌汁用ですよ。使い方を間違えていますよ」とメールをしようかと思ったくらい・・・。( ̄▽ ̄) ところが、「芋たこなんきん」(昭和10年代)では、ちゃ~~~んとこれで味噌汁を飲んでる。しかも、みんなこの陶椀!!!ヽ(゜∀゜)ノ大家族な花岡家の分をみんな揃えるなんて、やっぱりあるところにはあるんですね・・・。今度、食事のシーンがあったら、見てくださいね。「純情きらり」も「芋たこなんきん」も背景は同じ昭和10年代。この陶器のお椀は、今から70年くらい前には、どの家にもあったものでした。昭和30年代に子ども時代を過ごした私は、覚えているのですが、いつの間にかなくなってしまった、生活雑器です。■「芋たこなんきん」と私の昭和■たぶん私たちは、昭和のあのころに、何か大きな忘れ物をしてきたような気がしてならない。もしかしたら、それは途方もなく大きな忘れ物だったのかもしれない。<文化>なのか、<教育>なのか、あるいは<精神>とか<魂>というものなのか・・・それはよくわからない。「芋たこなんきん」HP■「昭和恋々」■ ◎環境人気blogランキングへ◎・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月12日* 十日夜(とおかんや)*UP・・・・・・・・・・・・・
2006.11.11
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(略)この「昭和恋々」については、タイトルは<恋々>でも単なる懐古に流されないように心したつもりである。古い自転車や、屋根瓦の輝きや、割烹着(かっぽうぎ)の白さにブリキの玩具の懐かしさ・・・そうした全ての物たちの佇まいとおなじくらい、そこに生きてきた人々のつよい気持ちと、貧しいけれど力に溢れた目の色を、写真から読み取ろうと思った。たぶん私たちは、昭和のあのころに、何か大きな忘れ物をしてきたような気がしてならない。もしかしたら、それは途方もなく大きな忘れ物だったのかもしれない。<文化>なのか、<教育>なのか、あるいは<精神>とか<魂>というものなのか・・・それはよくわからない。けれど、いまはない、<何か>が、この写真の中には確かに写っているのだ。それは、ほんの取るに足らないものかもしれない。たとえば・・・私たちは、あの日のように雨や風の音を聴くことが、いまあるのだろうか。このごろみたいに、夜は明るくていいのだろうか。春を待つという、懸命で可憐な気持ちを、今どれほどの人が知っているのだろうか。・・・あの頃を想うと心が和むが、いまに還ると胸が痛む。「昭和恋々」前書きより:久世光彦・・・・・・・・・・・・・・・・・作家、田辺聖子の半生を描いた、朝の連続ドラマ「芋たこなんきん」をを毎朝、楽しみに見ている。物語は、二つの昭和からなっている。花岡町子こと、田辺聖子が作家になった、昭和40年代と回想の少女時代、昭和10年代。主人公、町子は、少女時代を夫、カモカのおっちゃんによく話す。それは、愛する父母、祖父母、叔父や叔母、使用人たちと一緒にくらした懐かしい昭和。その少女時代のシーンを見るたびに思うのは冒頭の久世光彦の「昭和恋々(れんれん)」。*今年、亡くなった、久世光彦も、テレビで昭和10年代を描いた。*「たぶん私たちは、昭和のあのころに、何か大きな忘れ物をしてきたような気がしてならない。」田辺聖子も、そう言いたいのではないだろうか。 ***イラストが消えた!!***なぜ・・・??? ◎環境人気blogランキングへ◎・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★11月8日*方言:ずつない*UP・・・・・・・・・・・・・
2006.11.08
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NHKの朝の連続ドラマ・「純情きらり」が最終回です。昭和21年4月。桜子(宮崎あおい)は、戦地から帰った達彦(福士誠治)と結婚式を挙げます。そして翌年、待望の赤ちゃんを授かるのです。がしかし、桜子は、肺結核におかされていました。子どもを産むのは危険という医者の言葉に逆らって、桜子は産む決心をしたのでした。・・・・・・・・・・・・私の小学校時代の友人に父親が肺結核で死んだという子がいました。今なら、直る肺結核も当時は、死の病だったのですねぇ。ところで、桜子と達彦の赤ちゃんは、22年生まれだったら、団塊の世代。私と一緒やん。(私は22年生まれではありません。念のため)( ̄m ̄*)そして、桜子は、私の母の世代!( ゚∀゚)人(゚∀゚ )それでなのかな、なにか懐かしい・・・。有森家の次女、杏子(ももこ)の花嫁衣裳(写真)・・・子どもの頃、村に来たお嫁さんもこんなんだったわ。ちゃぶ台に姫鏡台(写真上から2番目)、白い割烹着の女性(写真3番目)などなどなど・・・。私にとって懐かしいものがいっぱいだった、「純情きらり」もまもなく終わります。そうそう、■しょいこ【背負子】■ はなにに使うのだろうと思っていたのですが、有森家の長女・笛子が戦争中、夫の描いた絵を運ぶのに使っていました。「純情きらりの昭和」と「私の昭和」の間には、約20年の差があるのに知っているものが多かったのは、時間がゆっくりと流れていたからですねぇ。::::::::::NHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」は昭和の初期からはじまって今は戦後。時代背景は、セットや小道具、メイクなど番組に登場する全てのものが当時のものを再現したレトロなものばかりです。一方、私が生まれたのは、昭和20年代で終戦後。子ども時代は、昭和30年代。「純情きらりの昭和」と「私の昭和」の間には、約20年の差があります。また、戦後という、大きな事件の後では、ものの考え方が大きく変わったはずなのに、実に多くのものを共有していることに気がつきました。いちいち、とりあげてみたいと思います。♪♪♪♪♪「純情きらり」と「私の昭和」♪♪♪♪♪■桜子の陶椀■■誕生日の祝いはしない!■■色足袋■■ちゃんちゃんこ■ ■手ぬぐい■■しょいこ【背負子】■ ■方言■■水差し■ 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★9月28日*通う千鳥の鳴く声に・・・*UP
2006.09.28
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戦前からはじまった「純情きらり」、戦中、そして今は戦後。もう爆撃を恐れて逃げ回らなくてもいいのです。好きなジャズも聞けます。\(゚▽゚*)/と、戦後ネタを書きたいところですが、戦中の桜子のもんぺ姿のことを!戦時中、国民学校の事務員になった桜子(宮崎あおい)が職場に着て行ってたのが、白い開襟シャツと紺の絣のもんぺ!(証拠写真)( ̄m ̄*)およそお洒落とは無縁と思えるこの格好、私はけっこう好き♪かつて、里山でイベントがあった時、私はこの「白い開襟シャツと絣のもんぺ」でお客様をお迎えしました。お客様は、イギリスのボランティアグループや新聞を見て参加した人たち。新聞を見て参加した人の中に、後に一緒に「おしゃれ手紙」を書くことになる浜辺 遥嬢がいました。彼女は私の格好を見て言った言葉が、「わー!!(゚∇゚ ;)朝の連続ドラマのヒロインみたいな格好してはりますね!!(^▽^)/」ねらっていた私は、心の中で、小さくガッツポーズをとったのでした。( ̄m ̄*)紺の絣のもんぺは、動きやすいし、綿に藍という自然素材が気にいっています。田植えや稲刈り、田草とりと活躍したものでした。開襟シャツに絣のもんぺは、今のジーンズやTシャツではないのかと思っています。■開襟シャツ■::::::::::NHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」は昭和の初期からはじまって今は戦後。時代背景は、セットや小道具、メイクなど番組に登場する全てのものが当時のものを再現したレトロなものばかりです。一方、私が生まれたのは、昭和20年代で終戦後。子ども時代は、昭和30年代。「純情きらりの昭和」と「私の昭和」の間には、約20年の差があります。また、戦後という、大きな事件の後では、ものの考え方が大きく変わったはずなのに、実に多くのものを共有していることに気がつきました。いちいち、とりあげてみたいと思います。♪♪♪♪♪「純情きらり」と「私の昭和」♪♪♪♪♪■桜子の陶椀■■誕生日の祝いはしない!■■色足袋■■ちゃんちゃんこ■ ■手ぬぐい■■しょいこ【背負子】■ ■方言■■水差し■ 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★9月10日*林檎につまづいた話*UP
2006.09.10
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久々の「純情きらり」ネタ。お知らせが遅くなってすみません。主人公、桜子の看病も甲斐も無く、先月、八丁味噌の蔵元「山長」の女将、かねさんが亡くなりました。。・゚(´□`)゚・。病気のかねの枕元にあったのが、写真の水差し。昔のドラマを見ているとこの水差しを見ることがあります。私がこの水差しをもらったのは、今年の5月、近所の友人宅。友人の実家の古い家が取り壊し、新しく建てかえることに。沢山の古い食器が出て来て、友人が私たちのために持ってきてくれました。お皿、鉢などと一緒にこの水差しも持って来てくれたのです。さっそく私がゲット!!ペットボトルなどなかった昔はこの水差しに水を入れ、枕元に置いていたのです。そうそう、朝、コップいっぱいの水を飲むと、血液がさらさらになると健康オタクの夫が言っていたな・・・。昔の人もこれで血液さらさらをねらっていたのかなぁ( ̄▽ ̄) 八丁味噌の蔵元「山長」の女将、かねと桜子の叔母・磯と「たわけ!」「くそだわけ!」罵り合うかねの姿はもう見えないんですね。合掌( ̄人 ̄)::::::::::NHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」が描くのは、昭和の初期の日本。時代背景は、セットや小道具、メイクなど番組に登場する全てのものが当時のものを再現したレトロなものばかりです。一方、私が生まれたのは、昭和20年代で終戦後。子ども時代は、昭和30年代。「純情きらり」の昭和と「私の昭和」の間には、約20年の差があります。また、戦後という、大きな事件の後では、ものの考え方が大きく変わったはずなのに、実に多くのものを共有していることに気がつきました。いちいち、とりあげてみたいと思います。♪♪♪♪♪「純情きらり」と「私の昭和」♪♪♪♪♪■桜子の陶椀■私は、味噌汁用と思っていたのですが、桜子は、これでご飯を食べていました。■誕生日の祝いはしない!■■色足袋■■手ぬぐい■■「純情きらり」と私の昭和:しょいこ【背負子】■ ■「純情きらり」と私の昭和:方言■♪「純情きらり」♪ 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★9月4日*お婆さんの知恵袋:てんぷら油に梅干*UP
2006.09.04
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暑い!急に暑くなって、ぐったり。暑いこの季節、私の昭和、昭和30年代には、*手ぬぐい*が大活躍。いえいえ、暑い季節だけではなく年中大活躍でした。母は、手ぬぐいを姉さんかぶりにしていたし、風呂でも使っていました。父は「腰手ぬぐい」をしていました。「腰てぬぐい」とは、手ぬぐいを腰からぶら下げること。+++NHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」でも、腰手ぬぐいが・・・。それは、まだ、岡崎にいた頃。桜子(宮崎あおい)の家に間借りしていた、斉藤直道(劇団ひとり)。当時の人は、これで汗を拭いたり、体をぬぐったり、裂いて草履の鼻緒にしたり・・・。寒い時は、頬かむりをしたり、襟巻き代わりにしたり・・・。怪我をしたら、包帯代わりにもなる、手ぬぐいは、スグレモノ。+++お店でもらった、名前入りの手ぬぐいや「マメシボリ」とよばれる水玉の手ぬぐいでした。でも、いろんなのがあるんですね。てぬぐい並びちどり手ぬぐいは100%綿でできた薄い布で、吸水性に優れ、切りっ放しゆえに乾きやすく雑菌も繁殖しません。江戸時代より庶民のものとして愛され、歌舞伎役者や商人の間では名刺代わりとして重宝されました。手ぬぐいの作り方は昔とほぼ変わらず職人による手作りなので、柄の滲み具合や長さが異なり、同じものが無いのも手ぬぐい独特の味となっています。::::::::::NHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」が描くのは、昭和の初期の日本。時代背景は、セットや小道具、メイクなど番組に登場する全てのものが当時のものを再現したレトロなものばかりです。一方、私が生まれたのは、昭和20年代で終戦後。子ども時代は、昭和30年代。「純情きらり」の昭和と「私の昭和」の間には、約20年の差があります。また、戦後という、大きな事件の後では、ものの考え方が大きく変わったはずなのに、実に多くのものを共有していることに気がつきました。いちいち、とりあげてみたいと思います。♪♪♪♪♪「純情きらり」と「私の昭和」♪♪♪♪♪■桜子の陶椀■私は、味噌汁用と思っていたのですが、桜子は、これでご飯を食べていました。■誕生日の祝いはしない!■■色足袋■●○●最近の健康●○●金曜日、ギブスとれる。 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★6月3日*買物今昔:やみかごからレジ袋* UP
2006.06.03
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♪ヒッパレー、ヒッパレー、みんなで選ぶ、ヒッパレー、ヒッパレー、みんなのヒッパレー・・・子どもの頃、毎週見ていたテレビ「ザ・ヒットパレード」は、テレビ初のヒットパレード番組。そこに出ていた、ハナ肇、植木等、谷啓などがいた「クレージー・キャッツ」、双子のデュオ「ザ・ピーナッツ」など多くの芸能人を擁していた「渡辺プロダクション」の社長、渡辺普(しん)の半生を描いた二夜連続ドラマを見た。一夜目は、伝説的な歌番組、「ザ・ヒットパレード」が生れる昭和34年から始まる。「ALWAYS 三丁目の夕日」と同じ時代。「ザ・ヒットパレード」を毎週見ていた私も、子どもだったので、初めて知ったことがいっぱい。メモしておこう。●渡辺美佐渡辺プロの副社長で普(しん)の妻、美佐の旧姓は、曲直瀬。父親がマネージャをしていて、坂本九を世に出したのが曲直瀬氏。そういえば「まなせプロ」ってあったような・・・。●すぎやまこういち「ザ・ヒットパレード」のプロデュサーは、椙山浩一、のちのヒットメーカー、すぎやまこういちだった!!この人は、「ザ・ヒットパレード」のオープニング曲も作詞・作曲している。後にデビューする、GSグループの雄、タイガースのヒットソングは、ほとんどが彼。●青島幸男すぎやまこういちの友人で、テレビ初の放送作家。クレージーキャッツのコントは、みな彼の手にかかったもの。●宮川泰(ひろし)渡辺普がバンドを組んでいた頃、仲間だったのが、宮川泰(ひろし)。ザ・ピーナッツのヒット曲を多く作り売れっ子作曲家になる。●中村八大同じく、渡辺普がバンドを組んでいた頃、仲間だったのが、中村。後に、永六輔・作詞、中村八大・作曲、坂本九・歌で「六、八、九」トリオで、「上を向いて歩こう」他、多くのヒット曲を作る。すごい人たちがこんなに一同に集まるって奇跡的。私にとって懐かしい曲が、人がてんこ盛り。「ザ・ピーナッツ」を 演じたのは、安倍なつみ、麻美姉妹。そっくりで、髪型や衣装も、ピーナッツらしく、ほんとかわいい!テレビがはじめて作られた頃の息吹が伝わってきた。 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★5月27日*あそび唄:道に迷いました* UP
2006.05.27
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今週のNHKの朝の連続ドラマ、「青春きらり」は、東京の音楽学校の入試に失敗した、桜子(宮崎あおい)がでも、故郷の岡崎に帰らないで、来年、もう一度入学試験を受けようと頑張る様子。+++岡崎にいた時に、桜子は、冬の間、セーターの上にちゃんちゃんこを着ていました。長女、笛子もちゃんちゃんこを着ていましたが、次女、桃子は、袖のついた「綿入れ羽織」。ちゃんちゃんこは、袖のない羽織に綿が入ったようなもの。今のダウンベストのようなもの。ちゃんちゃんこは、「私の昭和」、昭和30年代にも、みんな家では着ていました。昭和30年代は、暖房といえば、火鉢のみ。家の中にいても、セーターだけだと寒かったのです。今は、真冬でも半そでを着ている人を見かけます。真冬にアイスクリームを食べる人も・・・。桜子の昭和も私の昭和も、冬は本当に寒かったのです。+++5月だというのにまだ寒い日が続く、おかしな気候。冬物をしまったのに・・・。::::::::::NHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」が描くのは、昭和の初期の日本。時代背景は、セットや小道具、メイクなど番組に登場する全てのものが当時のものを再現したレトロなものばかりです。一方、私が生まれたのは、昭和20年代で終戦後。子ども時代は、昭和30年代。「純情きらり」の昭和と「私の昭和」の間には、約20年の差があります。また、戦後という、大きな事件の後では、ものの考え方が大きく変わったはずなのに、実に多くのものを共有していることに気がつきました。いちいち、とりあげてみたいと思います。♪♪♪♪♪「純情きらり」と「私の昭和」♪♪♪♪♪■桜子の陶椀■私は、味噌汁用と思っていたのですが、桜子は、これでご飯を食べていました。■誕生日の祝いはしない!■■色足袋■ ♪ピンポンパンポン~、ピンポンパンポン~~ご来店のお客様で「234567番」をおふみの方、お近くの掲示板、または、コメントでお知らせくださいませm(_ _)m 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★5月12日*雨の名前:筍(たけのこ)梅雨 * UP
2006.05.12
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NHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」の舞台を愛知県・岡崎から東京に移りました。まだ岡崎にいた頃、主人公の桜子(宮崎あおい)が柿の木に登るシーンがありました。その時、桜子は、赤い色足袋をはいていました。子どもの頃私も、女の子は赤、男の子は黒の足袋をはいていました。濃い赤色の足袋は、裏はネルという生地でとても暖かいものでした。大きさの単位は「センチ」ではなく、「文(モン)」と言っていました。足首に当たるところについている「こはぜ」で留めてはきます。ドラマの中でも度々、足袋を繕うシーンがありましたが、私の足袋は、その前によその子に回ったのです。それでも、ぼろぼろになった母の足袋は、こはぜだけとっておいておきます。そして、お手玉を作る時、屑豆や屑米と一緒にそれを2~3枚入れました。お手玉を放り上げるたびに、チャリンチャリンという、こはぜのぶつかる音が楽しかったものです。ところで、私は、なぜ靴下を履かないで、足袋をはいたのだろうかと考えます。家で作った稲の藁を使って草履を作っていたからではないでしょうか。桜子の時代は、洋服がいきわたったとはいえ、着物も多かったので靴下より足袋が多かったのでしょうね。鼻緒のある、下駄や草履は、靴下では、履けませんからね(^-^)そうそう、昭和30年代を描いた映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の東北出身のロクちゃんも映画の中で赤い足袋をはいていました。::::: NHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」が描くのは、昭和の初期の日本。時代背景は、セットや小道具、メイクなど番組に登場する全てのものが当時のものを再現したレトロなものばかりです。一方、私が生まれたのは、昭和20年代で終戦後。子ども時代は、昭和30年代。「純情きらり」の昭和と「私の昭和」の間には、約20年の差があります。また、戦後という、大きな事件の後では、ものの考え方が大きく変わったはずなのに、実に多くのものを共有していることに気がつきました。いちいち、とりあげてみたいと思います。♪♪♪♪♪「純情きらり」と「私の昭和」♪♪♪♪♪■桜子の陶椀■私は、味噌汁用と思っていたのですが、桜子は、これでご飯を食べていました。■誕生日の祝いはしない!■ 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★5月9日*江戸っ子の心意気・初かつお * UP
2006.05.10
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NHKの朝の連続ドラマ「純情きらり」が描くのは、昭和の初期の日本。時代背景は、セットや小道具、メイクなど番組に登場する全てのものが当時のものを再現したレトロなものばかりです。一方、私が生まれたのは、昭和20年代で終戦後。子ども時代は、昭和30年代。「純情きらり」の昭和と「私の昭和」の間には、約30年の差があります。また、戦後という、大きな事件の後では、ものの考え方が大きく変わったはずなのに、実に多くのものを共有していることに気がつきました。いちいち、とりあげてみたいと思います。::::::::::::::::::ドラマの中で、桜子(宮崎あおい)たち姉妹が話す会話。「お父さんが生きていた時は、よくお祝いをやったね。」「そうそう、『アメリカでは、生まれた誕生日を祝うんだ』って誕生日にもお祝いしたよね。」:::::::::::::::::::「私の昭和」、昭和30年代でも、誕生日はしませんでした。その代わり、節句のお祝いは、村のどの家でもしたのでした。お正月を祝い、4月3日には女の子の節句を祝い、そして5月になれば、家々には、鯉幟が泳ぎました。5月5日には、山で採ってきた柏の葉に、包んだ柏餅を作って祝ったものでした。昭和のはじめには誕生日を祝う風習はなかったのですが、「私の昭和」、昭和30年代にもありませんでした。「純情きらりの昭和」も「私の昭和」も歳時記で暮らしていたのでした。*******「純情きらり」と「私の昭和」*****■桜子の陶椀■私は、味噌汁用と思っていたのですが、桜子は、これでご飯を食べていました。 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★5月4日*歳時記の歌:背くらべ* UP
2006.05.04
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♪柴刈り縄ない草鞋を作り、親の手助け弟を世話し、兄弟仲良く孝行をつくし手本の二宮金次郎・・・・・・・・・・子どもの頃、歌を歌いながらにゴムを足に引っ掛ける遊びをした。二宮金次郎を歌ったものだった。薪を背中に背負いながら、本を読む二宮金次郎の銅像は勤勉の象徴として、学校の校庭にあった。が、どんな人かと言うことは、つい最近まで知らなかった。百姓に生まれながらも、小田原藩の藩政の立て直し役に抜擢された、すごい人だったという。エコロジーを感じる人だ。:::::::::::::::::::近きを謀る者は、春植えて秋実る物をも、猶(なお)遠しとして植えず、只(ただ)眼前の利に迷うて、蒔(ま)かずして取り、植えずして刈り取ることのみに眼をつく、故(ゆえ)に貧窮す。 『二宮翁夜話』目先のことばかりにとらわれている人は、春に植えて秋に実るのを待つこともできず、ただ眼前の利に迷って、苗を植えることもしないで刈り取ることばかりに眼を向ける。だから貧窮するのである。::::::::::::::::::: 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★4月28日*きものの心* UP
2006.04.29
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今から30年以上前のドラマを見た。先日、亡くなった、演出家で作家の久世光彦(くぜてるひこ)さんの追悼番組として、1974年の人気ドラマ「寺内貫太郎一家」が放送された。■あらすじ■東京・谷中で三代続く老舗の石屋の主人・寺内貫太郎一家の物語。貫太郎は、いわゆる雷オヤジ。101キロの巨体で妻に手を振り上げ、ちゃぶ台をひっくり返し、止めに入った息子をも張り倒す毎日である。そんなマナーに欠ける雷オヤジだが、実はものすごく不器用に家族を愛しているのだった。■出演■小林亜星、加藤治子、悠木千帆、梶芽衣子、西城秀樹、堺正章、浅田美代子、左とん平、由利徹、藤竜也、篠ヒロコ、横尾忠則、伴淳三郎、ほか 出演者が、ものすごく若い。浅田美代子、西城秀樹は、まだ十代だったのかもしれない。おばあちゃん役の悠木千帆は、20代?今、80歳を越えている、加藤治子さんもこの時は、今の私よりも若い!!!それに「じゅり~~」も若い!!「久世光彦さんがえがいたものには、なぜか、「絶滅」寸前のものが多い。「時間ですよ」では、風呂屋、「寺内貫太郎一家」では、石屋、「ムー一族」では、足袋屋・・・。」と先日の日記に書いた私。でも、絶滅寸前なのは、風呂屋、石屋、足袋屋だけではなかった。働く人の心意気もまた、違った。金儲けのためなら、平気で偽装する今の社会。それに比べて、たんに金儲けだけでなく、職人の心意気のようなものが感じられた。やっぱり、昭和は、遠くなってしまったのか・・・。 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★3月13日*トウがたつ。* UP
2006.03.13
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多くの人気テレビドラマを手がけた演出家で作家の久世光彦(くぜ・てるひこ)さんが2日、70歳で亡くなった。「七人の孫」、「時間ですよ」、「寺内貫太郎一家」、「ムー一族」・・・。久世さんの作品を並べると、それを見ていた、当時の私が目に浮かぶ。最近では、昨年の新春番組で普段の夏目漱石をえがいた「夏目家の食卓」が記憶に新しい。多くの久世作品の中でも好きだったのが、「向田邦子新春スペシャル」。東京の中流の女学生の目から見た、戦中の日本がテーマだった。ドラマに出てくる女性達は、普段はつつましく暮らしていても、お正月は別。正月にはきちんと着物を着て、ご馳走を食べる。その、特別な日を迎えるために、大掃除をてきぱきをこなした。そんな、現代が無くしたものを久世光彦さんは、懐かしくえがいた。久世光彦さんがえがいたものには、なぜか、「絶滅」寸前のものが多い。「時間ですよ」では、風呂屋、「寺内貫太郎一家」では、石屋、「ムー一族」では、足袋屋・・・。私は、久世光彦氏のえがく、ノスタルジックな世界が好きだった。もう、見えないんですね、ノスタルジックな久世光彦ワールド。合掌。昏れなずむ過去をめざして旅をするノスタルジアといふ名の船で 星川 孝 人気blogランキングへ・・・・・・・・・・・・・◎自然と人間が仲良く暮らしていたころの話です。★3月7日*春を告げる、ネコヤナギ * UP
2006.03.07
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