「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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おきらく主婦のたわごと
結婚してから
その約束通り、私たちは比較的便利なところに住むことにした。
私の実家から車で30分、夫の実家から15分くらいの場所だった。
隣の市である夫の実家のほうが近かった。
夫の実家は隣の市である。
いかに私の育ったところが山あいであるかが分かる。
お互いにあまり貯金もなく2DKのアパート暮らしだった。
狭くても快適だった。
結婚をするにあたって私は勤めていた美容院をやめた。
ひきぬかれて美容室を変わったのだが、1年くらいいたろうか。
仲の良かった先輩が開業するに当たって手伝ってくれと言われてついていったのだ。
そこは先輩の実家の土地で先輩のお母さんがよく顔をだしていた。
可愛がってもらっていたのだが、お給料をいただくことが申し訳なく感じることが多かった。
自分の仕事ぶりが未熟なこともあったが、場所的な問題でお客さんが少ない日もあったからだ。
ここでも自分はまた逃げてしまっていた。
結婚式までの準備、式場の段取りはすべて私が行った。
「あんたにまかせた!」
それが婿をとるあんたの仕事だろ!
そんな感じが読み取れた。
多分、私がお嫁に行く立場なら強く言っただろうが言えなかった。
結婚式が終わって新婚旅行から帰り新しい生活が始まった。
落ち着くまでに一か月くらいかかったろうか。
狭いダイニングキッチンに6畳2間。
田舎のだだっ広い家に過ごす私の両親にすれば可哀想な生活にしか見えなかったらしい。
私にすれば、あんな不便な生活をしているあなた達のほうが可哀想だと思った。
「家も建ててやれず、すまんな。」
それが父の口癖だった。
家を建てないのは夫の方針だった。
「家に縛られたくない。」
夫の考えは住まいはその生活レベルにあわせるのがいいということだった。
引っ越したくなれば好きな場所に変わればいい。
浮き草のような人生が理想だったようだ。
同居して遠慮するくらいなら名前を変えて好き勝手させてもらいたいと言っていた。
私もその方が楽だった。
両親と夫がいると何か変なことを言いやしないかとドキドキしたものだ。
父は基本的に人を褒める。時々そこまで言うと嘘くさいぞ!
と思うくらい褒めちぎった。
母は自分の思うままにはっきりと言い放つのが凶器だった。
勘違いも甚だしい。
実家に帰ることは私にとって居心地の悪いものだった。
何かと親には叱られた。
「あんちゃんを粗末にあつかうな!大事にしろ!」
よく言われたものだった。
結婚してずっと家にいるのもなぁ・・・
そう思っていた頃に美容師を探しているから行ってみないかと声がかかった。
今度は少し遠かった。
そこの美容室に出入りしている着付けの先生だった。
私も歳をくっているのに新人という微妙な立場だった。
そこには若い美容師の卵が数人いた。
フレンドリーに接してくれてそこは楽しい職場だった。
通勤で往復車で2時間弱。
洗濯物も干してあるところから、そのままとって着ていくような生活だった。
ご飯も作るのがしんどくて遅い時間帯の勤務の時は外食となっていった。
接客をしていると気をつかうのか、家に帰るとグッタリだった。
世の中の働く奥さんはこんなにしんどいものなのか・・・
家の中は子どもがいるわけでもないのに荒れていった。
夫も私も汚い部屋でも平気だった。
急な来客の時はあせった。
部屋数もないわけで、ひとつの部屋にほうりこむ。
「片づけられない女」の称号を夫からもらった。
これは母親も苦手だった。
私は片付け方を教えてもらってないからわからないのだ。
母がちゃんとしつけてくれなかったから仕方ない。
どこかで母のせいにしていた。
そしてだらしない自分のことを情けなくも思っていた。
職場では元気でありたいと思っていた。
腕のない部分は話しで盛り上げないと!
仕事では落ち込むこともあった。
技術的にまだまだなんだと思った。
ひとつ注意されるとものすごくしんどく感じた。
自分ってだめなんだなぁ・・・
おそらく人は私がこんなに落ち込んでいるとは思ってもいなかったと思う。
それを悟られるのがいやで、ますます元気を装った。
夫がひとり増えただけなのに何で私はこんなにしんどいのか・・・
子どもができたら絶体仕事との両立は無理だと思った。
そのままいくと母のようになってしまう。
それが何よりも恐かった。
私のようなダメ人間ができてしまう。
それだけはしてはいけないことだ。
だけど、こどもが出来るまではきっちり働こうと思っていた。
妊娠が発覚した。
驚いた。
本当に私が親になるのか?!
嬉しかった。
3カ月の頃には体重が5キロくらい増えていた。
食べないと気持ち悪くて小腹が空く度に何かを食べていたら恐ろしいことになっていた。
運転をしていて、後ろからつっこまれたらどうしよう。。。
そんなことをよく思った。
ラッキーなことは続いて新人のカットコンクールに出場したら、県で優勝してしまった。
お店の先生も驚いた。
まぐれとしか言いようもなかった。
その日の朝までスタイルも悩んでいたくらいだった。
他の人はものすごく前から念入りに決めていたと思うのだが・・・
まさに適当の結果。
真剣にとりくんでいる人に申し訳なかった。
その数ヶ月後に東京で全国大会があったのだが、身重の身体でモデルをつれて、よく行ってきたものだと思う。
その時はレベルの違いをみせつけられて帰ってきた。
今では良い思いでのひとつだ。
毎月の検診では異常なしだったが、体重増加は厳しく言われた。
5月が予定日だったので4月くらいまで働かせてもらうつもりで話しをしていた。
こどもを預けて働かないか?と誘われたが、自分に子育てと仕事の両立は無理だと断った。
しかし、義母は私が仕事を辞めるとは夢にも思っていなかったらしい。
仕事が大好きで将来は店をもつのだと思っていたようだった。
そのことに関してはきっちりと話さないといかんなぁと思うと心苦しくなった。
「実家のお母さんにあずけて働くんでしょ?」
そう言われた時があった。
「いや、働かさない。こいつがみる。」
夫が言ってくれた。
「おれは自分の子どもは母親が育てるのでいいと思うよ。」
義母にとってはショックだったらしい。
自分は仕事人間で、自分の親に子育てをまかせていたから。
義兄も子どもが小さい頃は義姉さんを働かせていなかった。
義母にとってはダブルのショックだったようだ。
自分は不器用だから仕事をやめて専業主婦になるつもりだった。
私が自分の親にあずけたくないことを、お義母さんに伝えた。
小さいうちは自分がみたいのだと伝えた。
「そう・・・」
お義母さんに申し訳ないが、夫も私の母に預けるというのは心配があったと思う。
普通の人なら母のいい加減さや、常識のなさに気がつく。
私も変だが、私をさらに極端にしたような人だった。
そして自分が普通の真面目な人間なんだと言い張った。
自分が間違っているなどと思うことはまずなかった。
自分が気に入らない人がいると
「あの人はおかしい。」
そう言い切ってしまう人だった。
年々、母の周りはおかしい人が増えていった。
何のことはない。
母がおかしかったのだ。
過疎の始まっている小さい村で母の居場所はあったのだろうか。
ちゃんとした会話が成立しなくて、驚くような発言をして嫌がられていたと思う。
私が小さい時から傷ついてきたように、母の何気ない言葉で傷ついた人は少なくないと思う。
他人ならば近づかなければいい。
肉親であるがゆえの悩みだった。
本人は悪びれる風でもなく人のことを批判し続けていた。
これが私の母なのだ。
何ともやるせない気持ちだった。
私は産まれてくる子に肩身の狭い思いはさせたくないと思った。
理想の家族像があった。
お腹が大きくなるにつれ幸せな気持ちになった。
もうすぐ9カ月目にはいるという時に異変がおこった。
お腹が痛い。。。
病院にいくと張り止めをだされた。
いつもの担当医ではなく若い医師だった。
張り止めをもらって飲んだのだが、痛みは一向に良くならなかった。
それでも職場に向かおうとしたのだが痛くて運転どころの話しではない。
座っていることが苦痛だった。
次の日も病院に行くが医師は同じようにいう。
新米妊婦にやれやれという感じだった。
我慢できるいたみだったので家で休んでいたのだが、次の日病院に行くと信じられないことがおこっていた。
「心音がとれません。」
若い医師は言った。
「なんで、もっと早く来なかったんですか?」
私は耳を疑った。
昨日も、その前も私は来たじゃないか!
医師はしまったという顔をして青ざめた。
私はただ呆然としていた。
信じたくなかった。
昨日まで動いていた子が今はもう死んでいると言う。
取り乱すことはしまい。
私は夫に連絡をいれた。
すぐに処置をしなければ母体も危険になると言われた。
なんだか世界がひっくり返ってしまったようだった。
どうして・・・
神様はいないのか・・・
なんで私は幸せになれないのか・・・
自分が世界一不幸に思えた。
その後、私は陣痛をおこさせて子どもを急きょ産むことになった。
急激にお腹が痛くなって、我慢できなくてわめいた。
お産とはこんなにつらいものなのか・・・
私にはやっぱり母親になる資格がないのかもしれない。
子どもはなかなか出てこなかった。
子どもが自分で出ようとしないから余計につらいのだと看護師さんは言った。
何もかも崩れていった。
普通に産まれてくるとしか思っていなかった。
それまで順調だったから。
なんで私だけが・・・・
どんな顔をしていればいいのか・・・
子どもを失った悲しみより、思い通りにならない人生を悲しんでいたのかも知れない。
医者に対しても憤りを感じたが、夫が言った。
「死んだ子はかえっては来ないんだから・・・」
夫の職場から診断書をもらってくるように言われて内容をみたが明らかに事実とはちがっていた。
カルテも改ざんだろう。張り止めと言われて出されたお薬は、婦長さんらしき人が
「もう必要なくなったわね。」
そう言ってもっていった。
今思えば、証拠隠滅したのだろう。
人を恨まないでいるとすれば矛先は自分にくる。
私がいけなかったんだ。
私がこれまでいい加減な食事をしていたから・・・・?!
それとも仕事がむりだったのか・・・?!
産まれた子は女の子だった。
まるで眠っているようだったと母が言っていた。
「あんちゃんに口元がそっくりだったよ。」
私が入院している間に小さなお葬式をしたらしい。
私は病院のベッドの中で泣いているだけだった。
戸籍にはのらない子だが父と母の気持ちだった。
私はただただ自分を責めるだけだった。
私が欠陥品なんだ。
もしかしたら、ずっとこどもはもてないかもしれない。
子どもが好きだったわけではなかった。
なんでか自分の子どもをもつことが当たり前だと思っていた。
「こどもが産まれるってさ・・・すごいことなんだな。」
夫が言った。
「そんでもって、その子が大人になるってことはすごいことなんだよなぁ。」
それまで夫もそんなことを考えたことがなかったらしい。
「子どもの数だけドラマがあるんだよなぁ・・・」
そうなのだ。
無事に産まれたとしても病気で亡くなってしまう子もいる。
私のように顔もみてなくて育てたこともない子を亡くしても悲しい。
それが思い出となってあればあるほど、そのつらさはどんなものかと思った。
自分ばかり悲しいわけじゃないよな。
少しずつ受け止めようとした。
夜がいやだった。
子どもが溺れる夢をみた。
つらかったろうなぁ・・・
涙が溢れ出る。
いつになったら涙はでなくなるんだろう。
この悲しみから私は抜けられる日がくるんだろうか・・・
退院して私は実家で過ごしていた。
何をするわけでもなく布団でゴロゴロする日々だった。
漫画をよんだりテレビをみたり・・・
父と母も元気がなかった。
産後と言うことで母はじっとしていろ!とうるさかった。
「産後は大事にせんとあかん。」
それが母の口癖だった。
一か月してアパートにもどった。
世の中の人に事実を言うのが苦痛だった。
なるべく家から出ないようにした。
子どもを見るのがつらかった。
赤ちゃん連れの親子を見るのがイヤだった。
もう私は立ち直れないかもしれない。
心の底から笑える日はこないかもしれないと思っていた。
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