キリスト信徒やまひでの心の窓

キリスト信徒やまひでの心の窓

靖国神社と宗教


正確には「日本のため」と確信しても、政府の側(明治初年の戦争で言えば「官軍」)に付かなければ靖国神社には祭られません。日本政府のために戦った人なら、朝鮮や台湾の人々も祭られています。日本政府を高める戦争のために身をささげた人なら、国籍を問わず英霊、尊いみたまとして顕彰されます。キリスト教徒も仏教徒も、その個人的な信仰や遺族の意志とは関係なく祭られています。彼らも召され、戦って、身を献げたからです。それが靖国神社の宗教としての教義なのでしょう。

先の大戦で亡くなった人々があってこそ、
今の平和な国が築かれてきた。
戦争でなくなった兵隊さんも、
爆弾を落とされてなくなった市民も、
今の日本の平和の礎である人々。

「市民だって愛国犠牲者。だから祭って欲しい」
「A級戦犯は祭らないで欲しい」

時として、そういう人間の自然な感情が、声となってあげられます。しかし宗教の教義は(キリスト教だってそうですが)時として人間の自然な感情を拒むこともあるのです。
祭りかた、祭られる人々、たとえA級戦犯が祭られようと、それは「靖国神社」の教義上の営みによるので、外部からそれに口出しをすることは、信教の自由を侵すことになります。その宗教法人の氏子総代会や責任役員会というような会議を通す以外には、変更は出来ません。

合祀されている自分の家族を取り下げて欲しいという願いが、クリスチャン遺族から出されたことがありました。最近では、台湾からの遺族によって、同じような取り下げ運動が起こっています。しかし受け入れられていません。招集令状が来て軍隊に入ること、それは「天皇の子供となって、天皇に身をささげます」という信仰告白とみなされているからに違いありません。仏教徒でも、クリスチャンでも、共産党員でも、他国人でも、赤紙が来て応召したことが、「靖国神社への改宗」となるでのでしょう。キリスト教会の「洗礼を受ける」ようなものです。ボクたちだって、洗礼を受けた者は、だれでもキリストの父なる神様の子供となって教会の名簿に入れるのであって、たとえ家族でも、「ウチの親は勝手に檀家を飛び出しキリスト教に行ったので、教会の名簿から外してください」などという相談には、応じられないと事と同じです。

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クリスチャンが靖国神社にはお参りしないのは、広い意味で教義上の理由からです。仏像に手を合わせたり、神主のお祓いを受けないことと同じなのです。何と心の狭いキリスト教だと思われるかも知れません。でもボクたちにとって、神様を選ぶことは「近所付きあい」ではありません。配偶者を選ぶことに似ています。だから大切なものは、ひとつだけなのです。それはボクたちの心の自由に属することです。
クリスチャンは、主であるイエス・キリスト以外に、それを神のように高めたり、讃えたりはしたくありません。靖国神社が、単なる平和のシンボルではなく、国のための戦争で殉死した人々を祭る限り、クリスチャンが、ここを詣でることは普通は無理です。

靖国神社から歩いて5分ほどの所に、「千鳥が淵戦没者墓苑」がボクの学生時代にはありました。今でもあの時と同じたたずまいなのでしょうか? あの頃、大学から近いこともあり、良くそこを訪れました。そこで平和を感謝し、平和を祈った記憶があります。

どの宗教の人も、みんなで詣でられる記念の場所、広々とした、美しく、各宗教がそれぞれにそこで礼拝が出来る場所、戦争の苦しみを嘆き、ささげられたたくさんの命のために、涙を共にする場所、そんな記念の園が出来ることを心から願っているのです。 (2006/1/7)

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