(5) 公平な、わけのわかる人々に対しては、私は私の心の奥底の思いであったものを、開き示すのを躊躇しない。私は、自分自身が空中を飛ぷ矢のように生を通り抜ける、束の間の被造物(a creature of a day)である、と考えてきた。私は神から来て、神へと帰る霊であり、大きい淵の上を徘徊しているにすぎないのである。ついには、今から数分間で、私はもはや見られないのである。私は不変の永遠の中へ落ち込んでしまう。私はただ一つのこと、天への道、あの幸福の岸へ無事に上陸する方法を知りたいのである。神ご自身がその道を教えるためにご自分を低くして下さった。この目的のために、神は天から来たもうた。神はそれを一つの書物の中に書きつけた。ああ、その書物を私に与えよ。ぜひとも神の書物を私に与えよ。私はそれをもっている。この中には、私のために十分な知識がある。私をして一書の人(homo unius libri)たらしめよ。だから、私は人々の喧騒からはなれてここにおる。私はただひとり坐っている。神のみがここにおられる。神の面前で、私は神の書を開き、読む。天への道を発見するためである。私か読んでいる事柄に関して、疑問があるか。意味の明らかでないこみ入ったように見えるものが何かあるか。私は光の父なる神に私の心を上げる。「主よ、次の言葉はあなたの言葉ではないか。『知恵に不足している者があれば、その人は、神に願い求めるがよい』(ヤコブの手紙1の5)。あなたは『惜しみなく与え、とがめもしない』(同)。あなたは言われた。『神のみこころを行なおうと思うものであれば、だれでもわかるであろう』(ヨハネによる福音書7の17)。私は行なおうと思っている。あなたのみこころを知らせよ」。そこで私は、「霊によって霊のことを解釈しながら」(コリント人への第一の手紙2の13)、聖書の平行の章句をさがし考究する。私はそれについて、私の心に可能である限りの注意と真剣さをつくして、熟考する。もしまだ疑問が残るならば、私は神の事柄に経験をつんだ人々に相談し、それから、死んでいてもなお、こういう人々がそれによって語っているような書物に相談する。そして、このようにして学んだものを、私は教えるのである。