キリスト信徒やまひでの心の窓

キリスト信徒やまひでの心の窓

ウェスレー「説教集への序文」


 ウェスレーの信仰と共に、説教への思い、基本姿勢が綴られています。


   ウェスレー著作集第3巻 説教上 野呂芳男訳
   発行・ウェスレー著作刊行会 発売・新教出版社
   1961年9月5日第1版第1刷発行 ©1961

 (1) ここに入れられている諸説教は、過去8、9年の間、私が説教して来た事柄の内容を含んでいる。この期間、私はしばしば公然と、この収集の中にある主題のすべてにわたって話してきた。この中で、すべてのキリスト者の読者の前に、特別に取り上げてではないかもしれないが付随的には、私が公に話すのか常であるようなどんな教理の細目でか、繰り広げられていないものはないと、私は感じている。それゆえに、これらの説教を精読する真面目な人はみな、もっとも明瞭な仕方で、真の宗教の本質的特性であるとして私が抱きまた教えている教理か、どのようなものであるかを理解するだろう。

 (2) しかし、これらの説教がある人々の期待するような仕方で企てられていないということを、私は十分によく感じている。ここにあるもののうちどれも、入念な、上品な、あるいは、修辞的な衣裳をまとって現われてくるものはない。そのように書くことが私の望みであり意図であったとしても、私にはその余暇がなかったであろう。しかし、実際のところ現在、私はこれ以外のことを意図しなかったのである。なぜなら、私は今、私が普通話す場合と同様に、大衆に向かって(ad populum)書いているのであるから。すなわち、話しをする術を賞味したり理解したりすることのない人々、人類の大部分に向かって書いているのである。しかし、それにもかかわらず彼らは、現在および未来の幸福にとって必要な諸真理については、有能な審査官なのである。私がこれに言及するのは、もの好きな読者たちが、ここに発見できないようなものを求める労力を節約し得るためである。

(3) 私は地味な人々のために、地味な真理を意図している。それゆえに、故意に私は、すべての巧緻な哲学的な思弁や、すべての錯雑したこみ入った論証をさし控える。そしてできるかぎり、時折原典の聖書を引用することを除いては、学識を表示することさえもさし控える。私は理解するのに容易でないことば、日常生活でつかわれていないことばを、すべて避けようと努める。特に神学の分野で非常にしばしば現われるような種類の専門用語、読書人には極めてよく知られているが、一般人にとっては知られざることばであるような様式の話し方は避けるように努める。しかし、私が知らぬまに時々こういう過ちの中に入り込まないとは、自分自身確信をもっていない。われわれ自身にとって日常用いなれていることばが、全世界の人々にとってもそうであると想像することは、あまりにも自然なことなのであるから。

 (4) 否、それどころか、私の意図はある意味で、私が今までの生涯で読んできたものをすべて忘れることである。私は概して、私が昔のあるいは近代の、どんな著者のものも決して読まなかった かのように(もちろん霊感された著者たちは常に例外だが)話すつもりなのである。私は一方において、これこそ、私の心の思いを、もっと明瞭に表現することを私に可能にしてくれる手段であると、確信している。それは、他の人々の思索と掛かり合いをもたないで、私自身の思索の連鎖を、率直に私か辿ってゆけるからである。他方において、私は確信しているのだが、この手段によって、私は自分の心にあまり重荷を感じないでやってゆけるだろう。なぜなら、福音の裸の真理を、自分自身のために追求した力、あるいは、他の人々に伝えるにあたって、偏見やひいきをより少なくすることができるからである。

 (5) 公平な、わけのわかる人々に対しては、私は私の心の奥底の思いであったものを、開き示すのを躊躇しない。私は、自分自身が空中を飛ぷ矢のように生を通り抜ける、束の間の被造物(a creature of a day)である、と考えてきた。私は神から来て、神へと帰る霊であり、大きい淵の上を徘徊しているにすぎないのである。ついには、今から数分間で、私はもはや見られないのである。私は不変の永遠の中へ落ち込んでしまう。私はただ一つのこと、天への道、あの幸福の岸へ無事に上陸する方法を知りたいのである。神ご自身がその道を教えるためにご自分を低くして下さった。この目的のために、神は天から来たもうた。神はそれを一つの書物の中に書きつけた。ああ、その書物を私に与えよ。ぜひとも神の書物を私に与えよ。私はそれをもっている。この中には、私のために十分な知識がある。私をして一書の人(homo unius libri)たらしめよ。だから、私は人々の喧騒からはなれてここにおる。私はただひとり坐っている。神のみがここにおられる。神の面前で、私は神の書を開き、読む。天への道を発見するためである。私か読んでいる事柄に関して、疑問があるか。意味の明らかでないこみ入ったように見えるものが何かあるか。私は光の父なる神に私の心を上げる。「主よ、次の言葉はあなたの言葉ではないか。『知恵に不足している者があれば、その人は、神に願い求めるがよい』(ヤコブの手紙1の5)。あなたは『惜しみなく与え、とがめもしない』(同)。あなたは言われた。『神のみこころを行なおうと思うものであれば、だれでもわかるであろう』(ヨハネによる福音書7の17)。私は行なおうと思っている。あなたのみこころを知らせよ」。そこで私は、「霊によって霊のことを解釈しながら」(コリント人への第一の手紙2の13)、聖書の平行の章句をさがし考究する。私はそれについて、私の心に可能である限りの注意と真剣さをつくして、熟考する。もしまだ疑問が残るならば、私は神の事柄に経験をつんだ人々に相談し、それから、死んでいてもなお、こういう人々がそれによって語っているような書物に相談する。そして、このようにして学んだものを、私は教えるのである。

 (6) したがって、以下の諸説教において、聖書の中で、天への道に関し私か見たものを、書きとめた。人間の発明にかかるすべてのものから、この神の道を区別することを目的としてである。私は真の聖書的・実験的な宗教を描写しようと努めてきた。その宗教の真正の部分をなしているものはすこしももらすことなく、そうでないものは何もそれにつけ加えることのないようにした。そして、私の望みはとくに次の点にあった。第一に、ちょうど今天の方向へ進み始めた人々を、形式の拘泥や単なる外形的宗教から防ぐことである。(これらの人々は、神の事柄についてほとんど知っていないので、それだけ、この道からはずれがちなのである。)こういう宗教はほとんど、心の宗教(heart-religion)をこの世から追い出してしまったのである。第二に、心の宗教、愛によって働く信仰を知っている人々に、どんな時でも、信仰によって律法を空しくし、そのことにより悪魔のわなに落ち込まないようにと、用心させることである。

 (7) 私の友人たちのある人々の助言と要請とによって、この書物の中に合まれている他の諸説教に、オックスフォード大学のために説教した三つの私の説教と、私の弟のを一つつけ加えた。私の目的のためには、これらの主題についての若干の論説が必要であった。そして私は他のどれよりもここにつけ加えたものを選んだのである。なぜなら、われわれが最近になってわれわれの教理を変更し、数年前にしたようには現在は説教していないと主張する人々がしばしば見受けられたのだが、これらの説教は、今作成されるどんなものよりも、これらの人々にたいする強い答えであるから。最近のものを、これらの以前の説教とくらべて、理解力のある人ならだれでも、今は自分で判断できる。

 (8) しかし、ある人々は言うかもしれない。私は、他の人々にそれを教えることを引き受けているけれども、私自身その(天への-訳者註)道をまちがえてきたのだと。多くの人々がこのように考えることはあり得ることである。そして、私がまちがっていたということも非常にありそうなことである。しかし、私がまちがっていたどんな点ででも、私は理に服すると信じている。私は心からそう思っているのだが、よりよく教えられたいと望んでいる。私は神と人とに言う。「私か知らないものを、わたしに教えて下さい」(ヨブ記34の32)。

 (9) あなたは、私以上に明白に理解していると信じているか。それはありそうなことである。それならば、情況か変わった時に、あなた自身が取り扱われたいような仕方で、私を取り扱ってほしい。私がこれまでに知ってきたより、もっと良い道を指摘せよ。それがそうであることを、聖書の明白な証拠によって私に示せ。そして、もし私か、踏みなれてきた路で。ぐずぐずしており、それゆえにそこから立ち去りかねているとしても、しばらくの間私とともに苦しんでほしい。私の手をとり、私が負いきれる程度に応じて、私を導いてほしい。しかし、私があなたに、私の歩みを早めるためとはいえ私を倒してしまわないようにと懇願しても、立腹しないでほしい。私は最善をなしても、ただ弱々しくゆっくりとしか行けない。もし私の歩みを早めろと言うなら、私は全然行くことができないだろう。さらに、私を正しい道に導くために、私に不快な名前をあたえないようにお願いしてはならないものだろうか。かりに私が非常に誤っているとしても、これが私を矯正するとは思えない。むしろ、それは私を、あなたからそれだけさらに遠くに走らせ、そして、そのようにますます道からはずれるようにさせるだろう。

(10) 否。それどころか、多分、もしあなたが怒っているなら、私もまだそうなるだろう。その時には、真理を発見する希望は小さなものになるだろう。もし一度でも、怒りが、(どこかでホーマーがそれを表現しているように)ηute kapnos(煙のように)たちのぼるならば、この煙は、私が何ものをも明瞭に見ることができないほどに、私の魂の目をおぼろにするだろう。後生だから、もしそれを避け得るならば、お互いを怒りへと挑発しないようにしよう。お互いの中に、この地獄の火を燃え立たせないようにしよう。まして炎にまで拡大しないようにしたい。その恐るべき光によって、われわれが真理を見分け得るとしても、それは利益であるよりも損失ではないだろうか。なぜなら、愛なき真理それ自体にくらぺて、多くの誤った意見をもつものであっても、愛の方が何とはるかに、よいことか。われわれは、多くの真理についての知識をもたずに死に、しかもアブラハムのふところに運ばれてゆくかもしれない。しかし、もしわれわれが愛なくして死ぬならば、知識は何の役に立つのか。それがちょうど悪魔やその天使たちに役立つほどしか役立たないのである。
 愛の神は、われわれがちょっとでも、知識によってアブラハムのふところに運ばれて行こうとするような試みをするのを禁じておられる。われわれの心を神の愛でまったくみたし、信じることによる喜びと平和とでまったく満たすことによって、神がすぺての真理を知るようにと、われわれを準備して下さるように。

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