苗族がBC3500年頃、山東半島に竜山陶土器をもって渡来した後
中国北東部でオロチョンと接触してツングースが生まれ、
BC15世紀からBC6世紀にかけて、カルデア人とフェニキア人が瓦(ワ)族
クメール族、ムンダ族などと共に満州に入って東胡や燕人となり、その東胡が
箕子朝鮮を建国した時、王族以下がチュルク族の匈奴と同盟し、ナーガ族や
ツングースなどと接触しながら雲南の瓦族の子孫らが北倭となり、さらに鮮卑
となった後に蒙瓦室韋は蒙古族王室の直接の祖先でしたが、その『瓦』の字は
瓦族をさしたものだったようです。即ち瓦族、ナーガ族(朴氏)とシャキイ族(昔氏)
など→東胡→北倭→鮮卑→蒙瓦室韋→蒙古族と変わったのです。
ナーガ族はBC2世紀頃に沖縄から函谷関北方にあった亡命ウラルトゥ人、すなわち狛族
の大扶余に参入しましたが後に東胡と混じって鮮卑となり、さらに契丹のジ氏になり
シャキイ族は匈奴と混血して契丹の耶津氏になりました。
鮮卑は箕子朝鮮の東胡の末ですが烏丸は南方の烏蛮と同じもので殷の夷族の子孫でした。
そうしてみると、日本人と蒙古族の共通の先祖は東胡、正しくは北倭だったとなります。
北倭の一部が九州に渡来したのは、遙かに遅いAC200年頃邪馬壱国の時代でした。
『記紀』が目的としたもののなかに『日本民族単一論』がありますが、それは
日本列島に扶余人が、私達と蒙古族の共通の祖先であった北倭を率いて侵略した
歴史を隠す目的があったようです。日本人が蒙古族の祖先である北倭であったこと。
天皇がそれと違って、ウラルトゥのフツリ人または大扶余の伯族であったことを抹殺
したのです。日本列島の住民は『山海経』にあるように 労民、毛民、倭人であり
その労民も雑多であり、極めて多元的でした。
例えば、労民のオロッコ族は自らをウエッタ(エッタ)と称し、この言葉は秦王国以降も
口語として残って鎌倉時代にエッタ(穢多)の語となりましたが、東北地方のエゾも
オロッコをさす沃沮(オソ)が語源です。これに対してエミシとはミシハセ即ちツングース
(亀ヶ岡人・ツボケ族)のことであって、義経の北海道亡命の後にアイヌ民族になりました。
また山陰地方のエタになった『はちや』は、渤海が滅びた時代に契丹と室韋が渤海の旧地に
入り鉱山労働者を主流とした海賊となって渡来し、天慶年間の純友の乱を始めとする一連
の騒ぎを起こしましたが鎌倉時代の末期、たたら大名の大内弘幸が開山したという石見銀山
に、その一部を集めて使役したことを以って始めとしたと思われます。やがて石見銀山が
日本一の鉱山町に発展していくにつれて、はちや衆も次第に力をつけていきました。
この人々は、農民にならずして鉱山労働者になったり、医師、薬屋、万才師、忍者などに
なりました。後の秀吉や長州忍者の殆んどはこの『はちや』の出身でした。
『記紀』は新羅人と中国大陸から逃れて来た秦氏が共謀して、朝鮮半島南部史を以って
あたかも日本史の如く書いた偽書でした。そしてそれによって、バアル教を継いだ新羅の
鬼道または壇君教から神道という民族宗教を創っていったようです。
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