234年、百済王仇首(扶余王・神武)死す。
帯方郡の監察官・神武の死後、【一大率】のあとをめぐって再び「倭の大乱」が
起こりますが、伊都国(筑紫)、多婆羅国(肥後)、安羅国(薩摩・日向)の諸王
が謀って、倭人連合の邪馬壱国を建国し、神武の王妃、卑弥呼を女王に
推戴しました。そこで卑弥呼は神武と先妻との間の王子を伯済国・ソウルから
呼び寄せて夫とし、都を西都原(さいとばる)に定めて君臨しました。
古墳時代(2~3世紀)、神武・卑弥呼の邪馬壱国とは別に
倭人諸国最大の国家として、北九州豊国の地に狗邪韓国がありました。
これが東表国(豊日国)であり、朝鮮半島南部の弁辰地域、駕洛国(狗邪国・金官加羅国)
は、その飛び地でした。王姓は金氏で、4世紀に建てられた新羅の金姓国家はこの分派です。
また別に沖縄を中心として狗奴人の国があり、しばしば女王の邪馬壱国と争いました。
これが長スネ彦(ナーガ族の王)の狗奴国で、後に狗奴人の熊襲族は辰韓の地に移動して
新羅の朴氏になりました。
駕洛国王・安日彦と、狗奴国王・長スネ彦が義兄弟であり、この南倭人たちが
神武の北倭人軍団と激しく争い、神武の死後、卑弥呼の時代になっても、
長スネ彦は津軽に亡命して邪馬壱国と戦い続けたといいます。
特に中国との交易基地【種子島】をめぐる攻防は熾烈を極めたといいます。
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