
友人の
マルちゃんと新宿で待ち合わせて徐々苑で焼肉ランチ。
その後、【旧岩崎邸庭園】へ。
ここは、旧三菱財閥の創始者岩崎弥太郎の長男、3代目岩崎久弥が別邸としたものだそうです。
戦後、昭和22年に国有財産になり、最高裁判所司法研修所として利用されてきました。
建築は明治29年に、イギリスのジョサイア.コンドルの設計によるもので、敷地面積15000 坪余り。
洋館の規模は、木造2階、地下1階。屋根は手割りのスレート葺き。広さは531平方メートル。
ビリヤードルームがある別棟、撞球室とは地下道でつながっています。
洋館と和館をつなぐ渡り廊下は郵船を象徴する船天井 (写真下右)
になっています。
和館は、書院造りを基調にしたもので、書院造りの広間には 橋本邦夫、狩野芳崖の
日本画が残っています。
戦後は、GHQに接収され、その後最高裁判所研修所等に使われ、この時に和館の方は
大広間をのぞき、大部分が壊されてしまったそうです。
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明治三十四年生まれで平成十三年に百歳で亡くなられた、画家の木本大果氏の回想
「湯島の天神様の辺りを湯島天神の切り通しの坂と申しておりましたが、広小路の方から見まして
右側の坂のところが岩崎さんのお邸でした。あのお邸の前にガス燈が立っていたんです。
夕方などになりますと、人通りもない所に青白い光がほのかにぼうっとついておりまして、
何ともいえず、ロマンに満ちた情景で、泉鏡花の小説の世界を感じさせるものでした。
夕方になると、このガス燈に点火する人が走って来るんです。
3~4メートルの細い棒を持ちまして、すうっとガス燈の所に持っていくと
ぼうっと青白い光が浮かぶんです。
岩崎家の三菱は、三井、住友とともに三大財閥家系です。
三菱は、岩崎弥太郎が明治期の動乱に便乗し政商として、巨万の利益を得て
その礎を築いたといいます。
弥太郎は天保5年、土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人(半農半士)・岩崎彌次郎
とその妻・美輪の長男として生まれました。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人
のことです。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれています。
弥太郎が生まれた時代には、相次ぐ飢饉と一揆の影響を受け没落していました。
岩崎家は甲斐源氏武田・岩崎一族の末裔を称しますが、日本古来の原住民、
山祇族の流れを汲む久米氏族ないし三好の同流だったとする説があります。
岩崎家が土佐に移った時期は不詳ですが、当地では安芸氏、長宗我部氏、次いで
山内氏に仕えました。
母美和の実家が医師の家だったことから、幼少のころから学問的環境に恵まれ
土佐藩随一の学者・吉田東洋の知遇をえ、その門下生である、後藤象二郎らとの
交際が出世の糸口となりました。
幕末、土佐藩参政、吉田東洋、後藤象二郎の知遇を得て、吉田東洋の元で脱藩士の
探索などに従事します。脱藩士を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴きますが
尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し帰国
職を辞しました。その後、後藤象二郎により土佐藩の長崎留守居役に抜擢され
坂本竜馬 が土佐藩から脱藩の罪を許され海援隊が設立されると、 隊の経理を担当しました。
最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のこと
で、 各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の
資金を 都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ます。
この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎ですが、いわば弥太郎は最初
から、 政商として暗躍しました。今でいうインサイダー取引です。
1873年に後藤象二郎の知遇で現在の大阪市の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に
【三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)】を設立(「三菱」は土佐藩(山内氏)の家紋である
三つ柏を模している)。
弥太郎の死後、政府の後援で熾烈な値下げ競争を繰り広げた共同運輸会社と合併して
日本郵船 となりました。このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われています。
なお弥太郎の娘婿から2人の内閣総理大臣を輩出しています。
財閥創業者の 娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく
三菱と国家の密接な関係を証明しているといわれます。
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