672年、唐の高宗から朝鮮派遣軍の委任されていた鎮将・劉仁軌は、白村江の決戦で
勝利した後、旧百済国の行政府を扶余邑から熊津(今の公州)へ移し、百済王・隆を
熊津都督として行政を委任しました。これを日本書記は【近江大津宮へ遷都】と記しました。
また、百済禰軍の将軍であった郭務宗(かくむそう)を説得して唐の倭国鎮将に任命し
占領軍司令官・唐務宗として倭国へ赴任させました。
劉仁軌は、新羅、百済、耽羅(とら・済州島)、倭人の四国の使節を率い、渡海して山東省へ
帰り、泰山で戦勝式を行うと、首都長安で高宗に凱旋報告を行ったところが、劉仁軌が各地
を転戦している間に、新羅文武王(金春秋の子・金法敏)は、王子・金霜林(後の高市皇子)に
命じて旧百済軍を急襲し、熊津の松山城を陥落させてしまいました。そのため百済は完全に
滅亡し、百済王族を始めとする武士団や軍属たちは、雪崩を打って倭国(九州)へ亡命しました。
これが世にいう【壬申の乱】の真相でした。
【日本書記】のいう天智天皇(新羅・武烈王・金春秋がモデル)と大海人皇子(金春秋の子・金法敏)
の確執物語や、近江朝廷(大津宮)の大友皇子が壬申の乱で敗れて山中で首を吊った悲話など
すべてが【熊津都督府】滅亡の物語の翻案であったのでした。
劉仁軌は怒って急使を派遣し、文書で新羅の盟約違反に厳重抗議しましたが、唐が朝鮮への
出兵を諦めたため、朝鮮では【統一新羅】が誕生し、新興の新羅帝国は、遼東から日本列島に
至る広大な地域を支配することになりました。
673年11月、新羅は、本国の慶州に抑留していた唐務宗を洗脳し、改めて郭務宗として
倭国へ赴任させ、それまで新羅の占領軍司令官であった源花長官の金ゆ信 を退任させて
郭務宗をその代役としました。この郭務宗+金ゆ信が中臣鎌足=藤原鎌足のモデル。
694年12月、藤原宮へ遷都。この時、倭国(九州)と秦王国(大和)を合併して【日本国】としました。
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