日本書記は、残念なことに偽書であることは疑いないようです。
しかし100%偽りかというと必ずしもそうとは言えず、このテキストは百済史の訳文を
中心に新羅史、安羅史を合成して大和に存在したように著した文書のようです。
この百済という国家のルーツは壇君朝鮮で、後に扶余になり高句麗になって
そこから百済が分かれたと考えられます。単一民族ではなく、カースト的な部族連合です。
この人々のルーツは原シュメール人=エラモ・ドラヴィダ語族の人々が始まりで
ダゴン即ち壇君神話をもっていました。
そこにカッシート以下のアーリア人が混同したようです。
天皇家のルーツにあたる扶余という国家は壇君朝鮮系と穢国系の
二つの勢力が合体した双分制になっています。
1. 壇君朝鮮というのは、シルクロードの西、オリエントのウンマ、
カッシートや現在のアルメニアからグルジア高原を制覇していた
周辺の騎馬民族を統一したウラルトゥ王朝の人々がバビロンの
ナボポラッセル王朝に参加した後、アケメネス・ペルシアの時代に
シルクロードによってバクトリアから中国に入って趙という国を建て
ていましたが、その後さらに、月氏になり、満州に逃れました。
この王朝がウガヤフキアエズ王朝です。
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2. ニギハヤヒ系は、インドの釈迦を輩出したシャカ族の製鉄部族で
宛(古代中国の製鉄地)の徐氏といい中国史では魏国になっています。
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3.高句麗は黒海北岸の草原地帯にいた遊牧民族スキタイや
匈奴の製鉄部族の高令で、チュルク族が中心でした。
文明は定着農業とともに始まりました。文明発生の地は、中東です。
約1万5000年前、ベーリング・アレレード温暖期という地球の温暖化が始まり、
その影響を受けて、不毛の砂漠だったシリアの北部に草原や森林が広がりました。
このシリアの環境は、木ノ実や小動物など、豊富な食糧を得て、狩猟採取民族は
ハルーラという場所で定着生活に入りました。
しかし、約1万1000年前に、ヤンガードリアス期と呼ばれる地球的規模の寒冷化の
揺り戻しがありました。
温暖化の傾向を受けて、それまで約25万年間も北米大陸の北部を覆っていた、
厚さ3000メートルの氷河が溶け出し、しかし大西洋への捌け口は、まだ氷で閉ざされて
いましたから、北米大陸の中心には巨大な湖、天然のダムが形成されたのです。
ところが、気温上昇のために、ある時、水の通路を塞いでいた氷の壁が融けて崩壊し
巨大な湖に蓄えられていた、膨大なる低温の淡水が一挙に大西洋に流れ込み、
広大なる海域に広がったのです。
この地球的規模の大異変は、世界的な気候に重大なる影響を与えました。
温暖化の傾向に一時的なブレーキがかけられ、気温は約10℃低くなり
温暖化が始まる前の元の水準になったのです。
大異変の前の気温に戻るのに1000年かかりました。寒冷期が約1000年続いたのです。
突然の寒冷化の理由も分からないまま狩猟採取民族の生活は突如重大な影響を受けました。
シリア北部の自然環境は、もはや、かっての生産性豊かなものではなくなって、その時には
定住生活により人口の増加をもたらしていたと想像できるので、この突如襲った環境の激変
と、それに伴う食糧の減少は、村落の住人を窮地に追い込んだに違いありません。
正に晴天の霹靂です。しかし彼らは、未曾有の困難に敢然と立ち向かったらしい。
この時代の地層の考古学的発掘が興味深い事実を発見しました。
約150種類の植物の種が発見されたのです。中には、クローバーの種など、とうてい食用
に耐えない植物の種も含まれていました。明かに彼らは、危機に直面して、ありとあらゆる
可能性を探ったのです。彼らにとって幸いだったのは、その中に小麦が含まれていたことです。
小麦は比較的寒さに強い。さらにラッキーなことは、野性の小麦の性質は、たった10年程度
の繰返し栽培でも、その性質をみるみる変え、粒が大きくなり殻は柔らかくなって、食用に適
したものになったのです。
この小麦の変幻自在の性質が、その後の文明の発展に決定的な影響を与えました。
死海の北、ヨルダン川沿いのオアシスの町、エリコは、世界最古の町として知られています。
その起源は古い。本格的な考古学的発掘が行なわれたのは、20世紀に入ってからです。
当初、エリコ発掘は、ユダヤ人たちのエジプト脱出との関連で興味が持たれ、エジプトを脱出
したユダヤ人たちが、パレスティナに侵入、占拠する時代の考古学的確認が目的でした。
ところが、エリコの起源は遥か古代に遡ることになってしまったのです。
放射性炭素年代測定法によれば BC 9250年まで遡るといいます。
エリコは、元々は人々が定期的に立ち寄る水呑み場でしたが、だんだんと人が住み着くように
なり、最古の建物は、信仰の対象を奉るためのものだったと考えられています。
エリコは、現在のイスラエル北部に広く住んでいた、中石器時代のナトゥフ人の文化圏から
継続的に発展してきたと考えられています。エリコの農業はナトゥフ人によって始められました。
エリコは元々大麦の野性種やエンメル小麦の先祖の生育地に属し、最初はそれらの野性種
が食用として試みられ、だんだんと栽培されるようになり、地元のエンメル小麦や大麦ばかり
でなく、遥か遠くアナトリアからザグロス山脈にかけての地域を野性地とするエイコン小麦も
栽培されるようになりました。
エリコは城壁を造った点に特徴があります。つまり何者かに備える必要が生じていたわけで
アナトリア産の黒曜石は、矢尻など武器に欠かすことができなかったと考えられます。
エリコの人々は黒曜石を得るためアナトリアへ出掛けて行き、そこでエイコン小麦に出合っ
たのだと思われます。エリコは、10エーカー以上の面積を持った城壁に囲まれた町に変身
し興味深いのは、この時代の城壁の下から、さらに古い住居跡が発掘されていることです。
それ故、城壁がつくられる直前のエリコの町は、すでに、かなり大きな規模に成長していたと
考えられます。農村は外敵に襲われやすく幼児死亡率が高い。その問題解決させたのが
城壁と考えますが、それには、城壁を造るためにはかなりの人数、城壁の前に、それ築造を
可能とする数の人間社会が成立していなければならない。
その頃中東に、数多く叢生したと考えられる多くの農民社会の中で、なぜエリコだけが
その条件を満たすことができたのでしょう。
それは、エリコがより広いナトゥフ人の文化圏の中で誕生し、ナトゥフ人の共同管理に
よって平和秩序を形成・維持されていたからと考えられます。
エリコだけは、ある規模の町に成長するまで、直接外敵と接触する機会が少なかった。
それ故、いざ外敵に襲われ始めた時には、その村落は城壁を造るために必要な人数
を十分動員できる規模にまで成長していたのです。
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