匈奴には二部族あり。
チュルク族のシウ伊逗部とキンメリ族のシウ刀漫部です。
新石器時代の後期、BC3000年紀の初めにかけて、南シベリアの
イェニセイ河上流とアルタイ地方に、アフナシェバ文化が栄えました。
この文化の担い手は周囲のモンゴロイドと異なり、
パレオ・ユーロペオイド的(白人)でした。
アフナシェバ文化は、西シベリアのソンスク地方に
BC1750年~1200年の間分布したアンドロノヴォ文化という青銅文化
につながり、さらにアンドロノヴォ文化は、BC2000年紀末南シベリアの
カラスク文化と中央アジア北部のダザバギャプ文化に代わりました。
カラスク文化は、殷の青銅文化と同様に、西アジアに発達した金属文化
の東方流入によって発達したといわれます。
この人々は、アナトリア~メソポタミアから自然銅を求めて散って
いった人々の末裔と考えられます。
中国北部で【丁零】と呼ばれた人々が、殷の住民から借用した
様々な文化的要素、とくに青銅鋳造の技術を南シベリアに持ち込んだと
おもわれます。カラスク人につづくタガール人は(マイエミール人とともに)
西シベリアの古いユーロペオイド(白人)に属し、中国史の丁零です。
【丁零】は、チュルク族の一派ですが、カラスク文化の担い手が【丁零】
ならば、その祖型にあたるアンドロノヴォ文化、さらに、その祖型にあたる
アナシェヴァ文化も、同じくチュルク族の文化と考えられます。
学者の今岡十一郎氏は、シベリアにいた丁零と、
西はトルコ人と広大な範囲を包括するチュルク族は、
ウラル・アルタイ語族=ツラン族といい、この内、ツングース、蒙古、
サモエード、フィノウグリア、チュルクの五族があるといいます。
「 ツラン族は、BC8000年頃、シュメールの地にいたが、
BC3000年以降アフリカ民族がセム族を滅ぼして自らセム族となり、
BC2200~2000年頃シュメール帝国を滅ぼしてしまった。
この状況のもとで、ツラン族はBC3000年頃からインド、中央アジア、
東アジア方面に移動した」と述べて、そしてチュルク族については、
「往昔その原郷のアルタイ山脈から出発し、ほぼ北東と西に広がって、
主としてアジアに限局する地域を占めた。
西に進んだ一部はイデル・ウラルとクリミア地方からバルカン南東隅まで・・・
また他の一部はドナウ盆地にまで進出した。彼らの支配は、名目的には
メソポタミア、シリア、パレスチナ、北アラビアに及び、またかつて
一時的に、イラン、アフガニスタ、インドまで伸張し、さらにアルジェリア、
全バルカン半島全ハンガリー平野を領有していた時代があった
」
と述べています彼らはシルクロード全域に亘って分布し、
アレキサンダー大王が洛陽に侵入するまで中原の支配者だったのです。
のちの高句麗・百済・天皇家につながります。
この人々は後に分裂して【丁零】【殷庶の高令】【匈奴高令部】【高句麗】
などになりました。
シウ伊逗氏は、イシン王ミコ(国常立命)の孫が入って継いだもので
メルッハ人(穢族)やウラルトゥ人(伯族)のうち、匈奴に入った人々は、
つぶさにみて、これを王としました。しかし、その後衰退し、ミコ王の子孫は、
しばしば刀漫氏に養われました。
ミコ王(国常立命)の子孫の冒頓は幼くして異相を刀漫氏に嫌われ、
月氏に人質とされた後、襲われました。冒頓は走り逃れ、迂回して
殷(箕子朝鮮)に助けを求め、箕子は巧みに外部諸族と相談したので
ウラルトゥ(伯族)は、密かに匈奴内部から内応しました。
その結果、冒頓は、匈奴に入って単于となり、これが匈奴刀漫部となり
冒頓はキンメリ人漢軍を包囲して、まさに高祖をとりこにしようとし反転
して匈奴と箕子(殷)の間の諸族を追い払いましたので、のち箕子(殷)は亡び、
その遺民が高句麗となりましたが、その経緯は、漢が賄賂を使って冒頓の志を
失わしめたからでした。
ウラルトゥ(伯族)は、衰え、久しく辺境に潜んでいました。ここに至り、
辰王(馬韓王・もと箕子朝鮮の上将卓)が卒本川の流域、コツ升骨と
丸都の領域を提供したため、高令族がやってきて高句麗をたてました。
この時、楼蘭にいた月氏を滅ぼしたのですが、その時の様子が
漢代の史書に記されています。
【・・・月氏を亡ぼし、これをすべて斬殺し降服させ、楼蘭、烏孫、呼掲
および、その近くの国々三十六国を平定し皆、匈奴の国とした・・・
】
月氏王の骸を金杯にして酒を注いで飲んだという逸話は、
この時のものでしょう。
匈奴刀漫部は、【宮下文書】では面足尊の一族になっています。
この人々は、ウラルトゥ史に出てくるキンメリ人のことで、
のちにウラルトゥは、キンメリ人の刀漫単于をウガヤ王としています。
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匈奴国家は、単于の出身氏族を頂点とする幾つかの有力な氏族が
直接支配する部族集団とそれぞれの部族長(王)を通じて、
彼らが間接に支配する多くの部族、あるいは部族的集団とで構成された
部族国家で、動員できる兵力も三十余万にすぎませんでした。
それでも機動力に富んだ匈奴の騎兵部隊の侵入に対して、
長城の守りは、ほとんど無力でした。
漢の高祖も歩兵を主とする大軍を率いて遠征し平城に至りましたが
冒頓の術中に陥ってしまい単于の妻に賄賂を贈って、やっと危地を
脱することができたのでした
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