中東地域に現れた最初の人間と考えられるケバラン人が姿を現すのがBC1万8000年頃。
それは、ヨ-ロッパの氷河期の最盛期に当たっていました。
ヨ-ロッパは氷河期に一度ほとんど無人化した可能性があります。
寒冷化から逃げなければならなかった彼らの行き先は南にしかありませんでした。
彼らケバラン人は、中東、パレスチナに現れその後の文明の主流になりました。
約1万5000年前、地球の温暖化が始まり、不毛の砂漠だったシリアの北部に
草原や森林が広がりました。新しく出現したシリアの環境は、木ノ実や小動物など
豊富な食糧を供給し、周辺の狩猟採取民族が、ハルーラという場所で定着生活に入ります。
しかし、約1万1000年前に、地球的規模の寒気の揺り戻しがありました。
シリア北部の自然環境は、もはやかっての生産性豊かなものではなくなり
人類史上最初の定着生活を始めていた人々は、人口の増加をもたらし、そこへ突如襲った
環境の激変と、それに伴う食糧の減少は村落の住人を窮地に追い込んだに違いありません。
しかし彼らは、未曾有の困難に敢然と立ち向かったらしい。この時代の地層の考古学的発掘
が興味深い事実を発見しました。約150種類の植物の種が発見されたのです。
中には、クローバーの種など、とうてい食用に耐えない植物の種も含まれていました。
明らかに彼らは、危機に直面して、ありとあらゆる可能性を探ったとおもわれます。
彼らにとって幸いだったのは、その中に小麦が含まれていたことです。
小麦は比較的寒さに強い。さらに現代の専門家の研究によって、小麦の驚くべき性質が明か
になりました。野性の小麦は、たった10年程度の繰返し栽培でも、その性質を見る見る変え
粒が大きくなり殻は柔らかくなって、食用に適したものになったのです。
この小麦の変幻自在の性質が、その後の文明の発展に決定的な影響を与えました。
しかし、初期の農業村落のほとんどは、大きな規模の町に発展する前に消えていきました。
初期農業村落の幼児死亡率は高かったのです。
BC1万1000年頃、中東に現れたナトウフ人は、ケバラン人の系譜につながります。
世界最古の農業は、BC1万年より少し下がった頃、カルメル山の周辺に溯ります。
エリコの町は天然のオアシスで、エリシャの泉は、遊牧民たちの水飲み場でした。
人が集まりやすい場所だったのです。エリコの最初の住民ナトウフ人が、北西のカルメル山の
山麓からやって来たと考えられています。その周辺には、現在の大麦や小麦の先祖の野生
種が自生していて、最初は、野生の麦を動物の骨の柄に石の刃を埋め込んだ原始的な鎌で
採取し始めたと思われます。農業は通常の採取経済に比べて50倍もの生産性をもつといいます。
カルメル山からエリコへ移り、農業を始めたナトウフの人々は、共存共栄の元に平等に暮らし
生産性を高めましたから幼児死亡率を減らし2000人ほどにも人口を増やしました。
エリコの最初の文明は約1000年続きました。しかし、農業が安定し、穀物を貯蔵し、エリコが
繁栄し豊かになると外敵が出現し、城壁を造らなくては、ならなくなったと思われます。
ナトウフの人々は、アナトリアへ、武器を探しにいったようです。黒曜石です。
その時に、農業技術の情報もアナトリアへ、流れたと考えられます。
しかしBC7000年頃、その文明は急に終わります。新しい人たちがやって来たのです。
エリコとともに、パレスチナのいくつかの地点が同じ運命を辿りました。
侵入は、かなりの規模で行われたのでしょう。
新しい侵入者は北シリアからやって来たと考えられています。
この人々は、アナトリア方面から入って来たらしい。
エリコのそれまでの円形の家は方形の家にとって代わりました。
その方形の家の床の壁は、磨かれた「しっくい」で覆われていました。
この方形で磨かれたしっくいの床の家という、かなり特徴のある家が
アナトリアのチャタルフュイックの遺跡で発見されています。
黒曜石の原産地は、アナトリアですが、大きく分けて二つあり
一つはカッパドキア周辺、もう一つは、ヴァン湖の北岸地帯にありました。
カッパドキア系とヴァン湖系の分布は比較的はっきりと分かれており
前者はアナトリア南部からパレスティナにかけての地域、
後者はチグリス川とユーフラテス川流域が中心になります。
しかしヴァン湖系の分布は、一部がカッパドキア系の範囲(パレスティナとチャタルフュイック)
を中心としたアナトリアの一部)に混在しています。
一方、ヴァン湖系の黒曜石の産地は多数あり、チグリス川およびその支流地域を中心に
ユーフラテス川沿岸そしてイラン南西部のスーサ辺りから出土しています。
と、いうことは、パレスチナ(カナン)のエリコの人々の地域にヴァン湖系が侵略し
範囲を拡げたということです。そのヴァン湖系の人々が、アルメノイドだと思われます。
ハッティ・ミタンニ・フッリ族などと共にエラム族もアルメノイドに組み込まれます。
BC5100年から4300年までにバビロニア北部でハラフ文化が展開しました。
この文化の特徴は彩文土器、銅、円形のトロス(祠堂)、押捺印章などで
【分業】がはじまり、金属細工人、陶工、石工が生まれ、銅鉱石が交易されて、
農村の自給経済を変容させました。
この頃から銅鉱石を採集してハラフ農民と交換した人々が後にセム族
特にアッカド人として歴史に現れます。
北部にハラフ文化が展開しつつあった時、バビロニア南部ではエリドゥ期で沼沢地に
農耕社会が形成されました。シュメール人が現れる1000年も前のことです。
エラム族は、インドのドラヴィダ族と共に、地中海からインダスに至る広範囲な
地域を移動し、その一部はアルメノイドと混じりながらシュメール人となって
「史記」の伏犠氏は、この人々です。
アルメノイドとは、アナトリア東部のヴァン湖の北岸地帯にいた人々です。
それは、黒曜石の分布図で現在も解析できるようです。黒曜石は、火山性ガラスで
ナイフなど鋭利な刃として、中東では銅化合物に取って代られるまで使われました。
地中海人種は、シリアからペルシア湾に至るメソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を
極めて早期に占領し、スサに於ける早期の住民を形成しました。
肥沃なる三角州文明は、早期から 長頭型の地中海人種 と 高短頭型のアルメノイド の混血人種
によって形成され最も古いスメリア文明が発生していたのでした。
私は、 地中海人種をパレスチナのエリコから来た人々 、 アルメノイドをバン湖付近にいた人々 と
考えます。彼ら混血したスメル人(シュメール・ウル人牛頭)は、四方に散り、小アジア(トルコ)、
メソポタミア文明、クレタ文明、インド文明、エジプト文明にも共通の文化を及ぼしました。
彼らが中央アジアのトルキスタンに現れた最古のユーロポイドと考えられます。
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