セレンディピティ

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2013/05/01
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カテゴリ: カテゴリ未分類
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ネアンデルタール人とクロマニヨン人との混血で中央アジアで発生したものが
ヨーロッパ人の骨格と似ていることから、これを【ユーロポイド】といいます。
おそらく後のアーリア族であったと考えられます。
日本人のルーツにはアーリア人も関係しています。
アーリア人は、どのように形成されていったのでしょう?
中央アジア(トルキスタン)は、ユーロポイドとモンゴロイドの二大人種
の分布した地域の境界領域をなしていました。
古くはトルキスタンの殆んど全域がユーロポイドによって占拠されていて、
ユーロポイドの厚い人種的基層が存在しました。
中央アジアのアジア的ユーロポイドは、新石器時代の直前にはすでに
インド的ユーロポイドとイラン的ユーロポイドに分化しています。
イラン的ユーロポイドは、パミールの西方、アラル海の東方という中央アジアにいました。
パミールの東のタリム、アラシャン、ゴビ、オルドス、中央アジアは砂漠化しましたが
彼らは新石器時代に入って、農耕、家畜の飼育と銅器文化
やがて、青銅器文化を開花させ始めました。
 
 
さて、中央アジア以前には、彼らは、どこにいたのでしょう。これは私の推測です。
氷期の終わりの約1万2千年前頃に温暖化していくなかで急激な戻り寒冷期が
ありました。ヤンガー・ドライアスと呼ばれている現象です。
中近東ではこの時の寒冷化によって採取できる食物が減りそれを補うために
農業技術が進歩したと考えられています。
最初に農業が開始されたのは、12500~10200年前に存在した地中海東部の
ナトゥフ文化といわれるパレスチナのエリコでした。
さらにエリコの人々はアナトリアのチャタルフュィックで自然銅を発見し
その銅を加工する高温技術を発明したとされます。
アナトリアではエリコの人々のチャタルフィックと北部のヴァン湖付近に
高地農耕が進みます。ヴァン湖の人々は、気候の激変により北方(ヨーロッパ)
から南下してきたと考えられます。
やがて彼らは農耕に最適な環境のメソポタミアに進出し
一方、銅を求めて移動していった人々との間に交易が始まり
それは、めざましい成長を遂げるのです。
 
 
メソポタミア北方の山地を廻る肥沃なる三角州を極めて早期に占領したのは
ナトゥフ文化の流れを汲む地中海人種ののエリコの人々でした。
長頭型の地中海人種はさらにスーサに於ける早期の住民を形成し
インダス文明に先行する時期に北部インドを占領しました。
アナトリア北部ヴァン湖付近にいたアルメノイドは地中海人種にやや遅れて
スーサやインドへ進入しました。シュメール、ハッティ、ミタンニ、フルリ、エラム
などがアルメノイドに属し、彩陶文化の担い手でした。
したがって肥沃なる三角州文明は早期から長頭型の地中海人種と
高短頭型のアルメノイドの混血された人種によって形成され
スーサでは最古のスメリア文明でした。
アルメノイドのフルリ人は、後のアーリア=印欧語族になったと考えられます。
 
 
エラムには数多くのフルリ人が関与していた記録が残されており、
ヒッタイト帝国と交流があった事が分かっています。
フルリ人は、メソポタミアのシュメールとアッカドから
アナトリアとヒッタイト王国までの間の広いエリアを支配していました。
フルリが、アーリア人かインド・ヨーロッパ語族起源であったと考えられます。
エラム各地にフルリ人が移住しており、エラムの諸都市にはフルリ人の王を
頂く都市が多数出ていて彼らの王たちはインド・ヨーロッパ語族の名前をもっていました。
そして、彼らの軍隊と騎兵用語は、インド・ヨーロッパ語族から生じています。
フルリ人は、文化的、宗教的にヒッタイト人に影響を与え、
ヒッタイトの神話が、フルリに由来することも解ってきました。
紀元前1300年、大規模な移住と侵略の圧力の中で、
フルリは自らの王国の北東の部分へ退き、バン湖の近くで彼らの新しい首都を
創出して、彼らの王国をウルアルトゥ(アララト)と呼びました。
 
 
スキタイ・サカ族とは、約6000年前、今のトルクメニア地方に興った
ナマヅカ文化という彩文土器文化の担い手で、牧畜と農耕を営む遊牧民の
ルーツともいうべき複合民族でした。
ナマヅカ彩文土器文化が熟成期を迎えた頃、アムダリヤ上流のバタフシャン産
ラピスラズリを商い、羊トーテムのサカ族と牛トーテムの月氏の隊商が、
馬や船などによって旅を続けバビロンの【スサ】から【ウル】に入りました。
彼らは後に、壇君教団グループと番韓(海の国交易商人・マカン人)の主力
となりました。彼らはユーロポイドと考えられます。
 
 
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やがて、ナマヅカの彩文土器文化は、サカ族によって東西に運ばれ、
イラン高原に於ける【プロト・エラム文化】に大きな影響を与えました。
ラピスラズリが、ハラッパ文化以前のコト・デイジ遺跡から発見されていることから
サカ族がインダス文明の原形をつくっていたことが分かっています。
またイラン高原文化を受容したナマヅカ文化が黄河流域のヤンシャオ文化あるいは
カラスク文化となりました。約5100年前には、イエニセイ河上流とアルタイ地方に
アフナシェヴァ文化と呼ばれる青銅器文明が起こりました。この文化の担い手は
クルガン人でしたが、その高塚墳墓の板石には、カラスク文化と中国のトーテツ
文様に似た【鷹と人面像】が刻まれていて、クルガン人は、すでに車輪付き馬車
を使用していました。 彼らはコーカサス地方に侵入して黒海に進み、
インド・ゲルマン的特徴の混合文化が生まれ、このアーリア人こそ、
後にインド・ヨーロッパ語族となった人々 とおもわれます。
同じ頃、小麦が、ドナウ河流域とライン河流域、および黒海の西海岸一帯と
南ロシア全域に広がり、5000年前頃には、小麦からパンを作る文化が、
ヨーロッパ全域を覆いました。
クルガンとは、日本列島や朝鮮半島に見られる古墳と同種と考えられます。
この古墳文化は、アジアからアナトリア、東ヨーロッパ~スカンジナビア半島
までユーラシア大陸全体にありました。
同様にインド・ヨーロッパ言語もユーラシアからヨーロッパにかけて広がっています。
即ち、クルガンを建設し、人々がインド・ヨーロッパ語族のルーツであると考えられます。





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最終更新日  2013/05/01 12:21:04 PM


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