【 秦の始皇帝は、鼻は高くて蜂のようなかっこう、切れ長の目、猛禽のように突き出た胸
豺(サイ)のような声で、恩愛は少なくて虎狼のような心だ
】と、
始皇帝の武官、リョウは始皇帝の ことを表現しています。
この形容と白皙、碧眼であったという始皇帝は、ユダヤ人と思われます。
ところで、中国史がオリエントの借史であるとして司馬遷らへの 原史料の提供者はというと、
アッシリアに囚われていた北朝イスラエルの人々【失われた10部族】 を始めとして、
バビロンの虜囚の一部かギリシアに移住してアレキサンダー王と共に東に 進んだ
ユダヤ人たちが考えられます。そもそも星占いは、オリエント、特にカルデアで発生して
その裏づけとしてオリエント史を利用したものですから、オリエント流の占者たちが秦の時代に
自分の国で占いの資料として使ったオリエント史をそのまま漢訳したようです。
秦の始皇帝、ディオドトスの父、呂不偉は、ユダヤ人のシメオン族でした。
【史記】を著した司馬遷が罪なくして宮刑に処せられたことは、中島敦の【李陵】という名作に
詳しい。私は、この本に深い感銘を受けました。
何をもって人が生きることをよしとするか、中島敦はこの作品で、李陵、蘇武、司馬遷という
3人の男を登場させて示しています。最後に救われたのは蘇武ですが、それぞれに生きる道を
全うしているのであって、どれが正しいというものではない。真に生きるには、どの道も苦しい
のだという問いを中島敦は、読者に与えているようです。
李陵は漢の国を脅かす匈奴討伐の願いを時の皇帝である武帝にゆるされて北征し、
勇猛果敢に戦いに挑むも、内通者の手引きによって彼の軍は壊滅、自身も捕虜となるが、
彼らのあくまで強き者に礼をつくすという気風や、武帝が彼の家族に対しておこなった処刑へ
の恨み、そして国から離れることで見えてくる漢という国の思い上がりや腐敗の構図などの要因
が、しだいに李陵の祖国への忠誠心を薄れさせていく。いつしか、彼は匈奴の人間として匈奴と
ともに生きる道を選んでいた。李陵が深く思い悩むことになるのは、同じように匈奴にとらえられ
しかしけっして彼らに組することを肯んぜずに厳しい捕虜生活をつづけている蘇武との出会いに
よるものだった。ただ純粋に祖国への、そして武帝への忠誠心を貫いていこうとする蘇武の態度
に接した李陵は、自身のなかに打算的な、ものの考え方があることに気がついてしまう。
そして気づいてしまった以上、彼ははたして自分が精神的に匈奴に降伏してしまったことが
正しかったのかどうか、考えずにはいられなくなってしまいます。
蘇武は李陵同様、匈奴に捕まるのですが、最後まで漢への忠誠を崩さず、ひたすら祖国、
その信念はきわめて明快です。信念に徹して剛毅、英雄的な生きざまです。
そして
も 野次馬と 化し、四面楚歌の李陵を弁護した、唯一の人物が司馬遷で、彼はそれがもとで
宮刑(去勢の刑)を受けます。絶望しながらも【史記】を昼夜兼行で完成させます。
読後に私が共感して、今でもその感が薄れずにいるのは司馬遷の好人物への怒り。
武帝に対し将軍として果敢な匈奴と戦って捕虜となった李陵を漢の宮廷にあって 李陵と友人でも
係わりもなかった司馬遷が唯一人褒め称えたために宮刑(宦官)にされてしまった。
そして宮刑を受けた司馬遷が呪うものは好人物であった。好人物は姦臣や酷吏よりも始末に悪い。
何か事が起きても弁護もしなければ反駁もしない。その上反省もなければ自責もない。
お人よしというのは阿諛迎合をしてもその自覚さえないのだと罵倒している。
これは現代にも通じます。平時にはニコニコ親切な人も 事が起きた時、 人は、
自分の損得を 瞬時に判断し有利な立場に付くか、見て見ぬふりをすることが多い気がします。
保身に右往左往し、多勢の意見に流される民衆の大きなうねりは、実はたいへん恐く
その大きな波に歴史は流されていくのです。戦争は、その最たるもので気づくと、もう抗うこと
ことができなくなっているのだと誰でもが思い当たると思います。
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