昭和 PLAYBOYS

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August 16, 2006
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テーマ: 戦争反対(1248)
カテゴリ: 昭和いろいろ



おもいっきり8月15日に参拝結構いたしましたね、是か非かはここで論じませんが、

小泉さんらしい最後の強行突破でした。。。

いつになく便乗参拝者も多かった様ですが、私は違った側面から平和を希求する昭和天皇と

心を通い合わせ、二人三脚で戦争を終結に導いた一人の老宰相。

無条件降伏による第二次世界大戦の終結実現に大変苦労された、

戦前最後の第42代終戦内閣総理大臣 <鈴木貫太郎>先生の記念館 を観て参りました。

suzuki01.jpg

●1867(慶応3)年12月、泉州久世村伏尾(現在の大阪府堺市)の関宿藩の陣屋(大官所)で、大官・鈴木由哲の長男として出生。

●1871(明治7)年 本籍地の千葉県野田市関宿町に戻る。

●1884(明治17)年、海軍兵学校第14期生に合格。98年海軍大学(海大)卆。1923年に海軍大将に昇任、1925年に海軍軍令部長と順調に出世を続け、1929(昭和4)年には、予備役編入と同時に待従長(軍人出身としては初めて)件枢密顧問官に就任、昭和天皇に長く使えた。
●1930(昭和5)年のロンドン軍縮問題では穏健派と見られ、1936(昭和11)年、麹町三番町の鈴木邸で安藤輝三陸軍中尉以下80名の襲撃で4発の弾丸を受けた(2・26事件)が、孝子夫人の機転で九死に一生を得た(銃弾は一生体の中に)。

●1944(昭和19)年枢密院議長(旧憲法下における天皇の最高諮問機関)に就任後、1945(昭和20)年4月7日、(木炭自動車といわれた)小磯内閣瓦解の後継首班として天皇から指名され(大命降下)、一度は「政治にはまったく素人」と断ったが、天皇じきじきの説得で受諾する。鈴木78歳のときである

聖断がくだり、そして戦争は終わった――。

鈴木内閣は、45年7月28日に「ポツダム宣言」黙殺談話を発表する一方、戦争続行を主張する軍部(陸軍)との抗争の中で、明治憲法発令以来はじめて、天皇自らの御聖断という方法で、敗戦処理を行った(8月15日、軍の焼き討ちを受け、鈴木の自邸は全焼)。

その貫太郎は、(戦後初の)東久邇内閣誕生後(在職日数133日)、1946(昭和21)年まで再び枢密院議長に就任、その後は千葉県野田市関宿町に戻り、1948(昭和23)年4月17日に81歳で世を去るまで静かな余生を送った。


鈴木貫太郎2

鈴木内閣が誕生したとき、アメリカでも「親日ロビー」と呼ばれるグループが和平に期待を

かけ、大統領に対して「天皇の生命・地位の保全」を働きかけている。




必ず国家は復興できるのだ


鈴木貫太郎の独白であります。

聖断

鈴木貫太郎

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Last updated  May 22, 2008 12:34:02 AM
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