山田維史の遊卵画廊

山田維史の遊卵画廊

■(22)論文『遠近法の思想と視線の哲学』



   山田維史

(注)この掲載に当たって関連図像を付けなかったことをお断りします。図像は別ブログに掲載の英語版を参照していただければ幸いです。


 2016年10月、オランダのシーボルト博物館が、シーボルトが持ち帰った日本の風景を描いた6点の絵が、シーボルト自筆の書付に「北斎から贈られた」とあり、あらためて調査した結果、それが北斎の真筆であることを確証したと発表した。
 この6点のうち1点は石版画で、いずれも西洋画を研究して描かれている。
 この絵が重要な意味を持つのは、西洋画を模写したのではなく、江戸の風景、おそらく現実を写生したオリジナルだということ。そして、理論を理解した正確な遠近法で描かれているということだ。19世紀になって日本の絵のなかに「遠近法」が入って来た、ということが重要なのである。
 ちなみに日本で最初に油絵を描いたのは平賀源内(1728-1780)
とされている。18世紀後半に描かれた「西洋婦人図」で、これは模写と推測されている。

 私たちの日常において遠近法を用いたイメージは、あまりにも溢れていて、おそらく誰も気に留めないのではないだろうか。しかし、一方、現代アートにおいては、遠近法はほとんど用いられていない。なぜだろうか。遠近法がすでに宇宙を含めた現代空間を照射する技術、そして「思想」としての力を失ったと見なされているからである。
 私は今、遠近法を「思想」と言った。「思想」は時代とともに移り変わる。「思潮」という言葉があるとおり、「思想」は時代を反映し、あるいは「思想」を反映した時代が移り変わって行く。遠近法はまさに時代の「思想」が産み出した「技術」だった。また、思想がつくりだした「科学」として機能した時代もあった。
 しかしそれがすんなり受け入れられたわけではない。数世紀にわたる長い年月をかけて、「遠近法論」が自らを批評しながら、ヨーロッパ文明のなかで大変な葛藤を経て、いまや誰の目にもごく当たり前のイメージとして存在しているのである。
 そして遠近法理論は、平面幾何学である古代エジプトのギリシア系哲学者ユークリッドの幾何学に依拠しているのであるが、19世紀に非ユークリッド幾何学であるロバチェフスキー幾何学、ガウス幾何学、そして空間概念」を大きく変えたリーマン幾何学があらわれる。
 ここで問題にされたのは、「空間が真っ直ぐか、曲がっているか?」ということだった。リーマンとアインシュタインがその解答を出した。重力によって空間は曲がっていることが証明された。しかし100年以上経って現代数学は、リーマン空間を、もう狭過ぎると、新しい空間概念を求めている。

 ここでユークリッド幾何学の平行線公準とリーマン幾何学について簡単に説明しておこう。

 ユークリッド幾何学平行線公準の5原理
  1, 2点を直線で繋げる。
  2, 有限直線を無限に延長できる。
  3, 任意の点と距離について、点を中心として距離を半径とする円を描ける。
  4, 直角はすべて等しい。
  5, 一つの直線が2本の直線と交わり、同じ側の内角の和が2直角より小さいならば、この2直線を延長すると小さい角の側で交わる。

 私は遠近法に「ヨーロッパ文明」ちう限定句を付与した。
 じつは「遠近法」はヨーロッパ文化圏で生まれ、科学的思想、技術として、独自に発展した。イスラム文化圏や日本を含むアジア文化圏では、まったく存在も発展もしなかった「思想」であり「技術」なのである。
 以下に、その「遠近法」が生まれ、いまほそぼそと生き残っているかのように思える歴史的過程に、少し踏み込んでみようと思う。そして、現在の私たちは、どんな視覚体験をしているのか、そのあたりまで探っていこうと思う。

 初めに、遠近法の考えが芽生える前、人は自分が見たものや考えをどんなふうにイメージ(画像)にしていたのか、古代ギリシア(ヘレニズム)文化圏、エジプト文化圏、アラブ・イスラム文化圏、ヨーロッパ文化圏、そしてアジア文化圏、それぞれの絵を見ておおく。

 いずれの文化圏の画像も、平板で奥行きがないことに気がつく。エジプト絵画は人物を正面から描いていない。ギリシアも同様である。しかしこの二つの古代文明は、優れた3次元立体の彫刻を産み出している。それらは人間の姿や動物の姿の見ためを再現すると同時に、崇高さとか威厳とか美しさとか、理想の高みを表現しようという明確な意志を見て取ることができる。
 このギャップはすでに、芸術家や建築家や科学者たちが、現実を2次元平面に表現するためにはどうしたら良いのかという、葛藤を生み出す素地があったのである。
 しかし、その解決のための研究は、エジプトやギリシアで始まらず、その二つの文明から科学的思考や医学を輸入していたヨーロッパで始まった。

 ヨーロッパ文化圏で何が起っていたのであろうか? あるいは、何が起り始めていたのだろうか?
 それは、「知の統合」だった。あらゆる知識が、人間とは何であるかということを巡って、バラバラなものではなく大きな体系に組織化され始めていた。宗教教義との葛藤は長い闘いではあった。

 宗教改革については述べるまでもないと思うが、知の統合と関連している点について、少しだけ説明しておく。

 ドイツぁら使者としてローマに赴いたマルティン・ルーテル(ルター:1483-1546)は、権威主義の教皇制度の不合理に直面した。ルーテルは、1517年、教皇が贖宥状(免罪符)を販売していることに抗議する95カ条からなる意見書を提出した。ルーテルの主張は、ただ信仰だけが神の国に赴ける道であること、その道を示すのはただ聖書のみで、教皇の権威は必要がないというものだった。
 改革の要点は、次のようなことである。
 その当時のカトリック教会と教皇政治の根幹にあったのはスコラ哲学の神秘主義であった。宗教改革とは、まずそのような教会と教皇政治からの解放を意味していた。すなわち国家と市民社会を獲得し、自然と現実に目を向けること。信仰は教会権威による強制ではなくあくまでも一人一人に自律と思考する自己意識をもとめ、自分の良心、自分の確信のうえに成り立つ純粋に人間的な権利を主張したのである。このこちょは、救済もまた自己の心の内でおこなわれなければならず、罪の贖いも浄化も自らがおこなうということであった。これまで教会の権威のもとに祭司がおこなってきたことを排したのである。
 ルーテルはカトリック教会に対抗するプロテスタント教会を設立し、改革の灯はまたたくまにヨーロッパ全土に拡がった。決着がついたのは、ドイツにおいては1559年のアウグスブルグ宗教和議によって、また、フランスでは1598年のナントの勅令によってであった。

 このような宗教改革の嵐とあいまって「汝、汝自身を知れ」という古代の格言が、中世を脱却するヨーロッパを動かした。
 この時に会って、遠近法は、極小から極大まで全宇宙を包摂する思想に従う、全知識の構成要素である、と考えられたのである。

 ルネッサンス時代、完璧な人文主義者となるために書斎に備えなければならなかった五つの品物があった。三種の神器ならぬ五種の知性人の必携器具である。
 一つは羅針盤。二に直角定規。三に六分儀。四つめは、初めて動脈結紮法を発見したアンブロワーズ・パレの外科用メス。そして五つめは、遠近画法に使用する固定した接眼レンズ一枚とガラス板か格子窓と少量の糸のセット。後にはこれに六つめの望遠鏡が付け加えられた.

 地球が丸いという古代ギリシアのプラトンやアリストテレスの説が、11世紀から12世紀にかけてラテン語に翻訳されていた。トマス・アクゥイナスは著書『神学大全』のなかで、視界の対象物が遠く離れるに従って沈んでゆくと書いた。15世紀末期、カトリック司祭であり天文学者のポーランド人、ニコラウス・コペルニクス(1473-1543)が「宇宙は地球の周囲を回転しているのではない。地球が太陽の周囲を回っているのだ」と、紀元前3世紀以来信じられて来た天動説を覆す地動説を唱えた。同じ頃、イタリア人、クリストファー・コロンブス(ca.1451-1506)が、スペインのイザベル1世の援助を得て、新大陸アメリカ発見につながる航海に出発したのは1491年。
 スペインのカトリック国王フェルディナンドが、西インド探検航海を企画し、フィレンツェのアメリゴ・ベスプッチ(1454-1512) を要請したのは1497年だった。
 トマス・モアが1516年に『ユートピア』を出版した。その100年後の1623年にトマーゾ・カンパネッラが『太陽の都』を出版した。
 15世紀が終わり、ヨーロッパの大航海時代が幕を開けた。私はこれを「水平線の発見」と言いたい誘惑にかられる。もちろん遠近法の焦点、すなわち視線の消失点としての水平線を見越してのことである。
 私は先に、遠近法はユークリッド幾何学に依拠していると言った。じつは、この視線の消失点(焦点)は、感覚的にはユークリッドの幾何学の「平行線公準」に矛盾するものである。すなわち空間は3次元のなかで無限に広がっているというユークリッド幾何学の基本原理に、画家たちの現実を見る目の経験が完全に背いていることに、画家たちは気付いていた。
 人間の視覚の立体感は両眼視差(バイノキュラー・パララックス)の精度は500メートルが限度だと言われている。599メートルを超えると、対象物の立体感はもちろん奥行感を失い、位置関係が曖昧になってしまうのである。
 それでは見た目の現実を2次元平面に再現する方法――誰でもがそれを可能にする原理があるのか? 方法があるのか?
 ここには宗教にかかわる大きな問題が構えていた。

 遠近法は水平線の発見の中で発展したと言えるのであるが、じつは宗教的には視線は地上から天空へも向けられていた。画家たちは遠近法による効果を最大限に発揮して、神の支配を仰ぎ見る幻想的な視界を大聖堂のドーム建築や、神授権としての王の威厳を表現するための王宮の天井に描いた。
 この視線は、時代とともに変わってくるのだが、ひとまずそれは置いておき、遠近法の発展の歴史を先に述べよう。

 遠近法理論の歴史

 画家たちは、天空の神を仰ぎ見る絵を描いていたが、同時に、画家たちの経験が捉えた真実は、宇宙の中心は個々の人の視点である、ということだった。これは言い換えれば個々の人の意思的な立ち位置である。
 私は先に或る医療クリニックにおける連続美術講座の第1回に「精神障害者の絵について」講義した。そのとき私は。重度の統合失調症を発症するまで建築図面制作を職業にしていたアウグスト・ネッターの『魔女のいる風景』を紹介した。
 その絵をもう一度見てみよう。
 この絵の中の建物は、一つ一つはほぼ正確な2点透視図で描かれているが、全体的にはネターが立っている位置がばらばらで、その点に意識の分裂状態を指摘できる。この私の指摘に、私が先に述べた「画家たちの経験が捉えた真実は、宇宙の中心は個々人の視点である」ということの意味を重ねて理解されたい。

 さて、「水平線の発見」はまた、「風景の発見」ということでもある。
 この指摘を意外と思うかもしれない。しかしながら、イタリア初期ルネッサンスの頃まで、美術において「風景画」という分野はなかった。宗教画や肖像画の背景に風景が描かれることは普通にあったが、それは独立した「風景」として明確に意識されてはいなかった。

 独立した「風景画」の最初の研究は、レオナルド・ダ・ヴィンチであると言ってもいいかもしれない。レオナルドはさまざまな分野の膨大なスケッチを遺しているが、その中に風景の研究がある。
 しかし、その風景は、実際の風景ではない。彼はアルプス山脈を越えた世界に憧れていた。その憧れで空想の風景を描いたのである。ところが、そのためにそのスケッチは、宗教にも人物像にも属さない、いわば純粋風景となった。彼は背景としての風景に、特別な意味――-世界の縮図としての哲学的な意味を与えていたように私は思う。峨々たる岩山の地であったり、水蒸気が立ち込めこめている湿地であったり、茫漠たる湖沼の地が、レオナルドの絵のなかの風景である。それらは空気遠近法によって幽遠と描かれている。
 独立した最初の風景画は、ドイツのアルベルト・アルトドルファーだという説が今のところ有力である。

 最初に各文化圏で見た中世絵画は、対象物が歪んでいた。それらの絵の視点の歪みと比率の誤りは、イデオロギーとスタイルとテクニックの欠如によると言える。
 「事実を見たとおりに描け」とは、現代日本の学校教育の現場でもしばしば言われているようだが、じつは現実の3次元立体や空間を2次元平面に実現することはそんなに容易ではない。一つには技術の修練が必要であるということ、加えて、幼児や児童の絵を見れば分かるが、現実の遠近感(空間把握)には心理的発達と認識力の発達がおおきく関わっている、と私は思う。

 さて、遠近法のアイデアは、遅々とした歩みながら、レオナルド・ダ・ヴィンチより200年前、その実施に向けて動き出した画家がいた。中世イタリアのジョット(ca.1267-1337)、そしてピエトロ・ロレゼティ(ca.1280-1348)である。
 つづいて100年後、フランドルの細密彩飾画家リンブルク兄弟(ヘルマン、ジャン、パウル; 1376-80~1416)。
 更に50年後くらいに、フランスのジャン・フーケ(1420-1480)、ジョットから200年後にイタリアのアンブロジオ・ベルグゴン(ca.1470-1523/24)。
 これらの画家たちは段階的に遠近法技術の体系的発展に貢献したといえるであろう。
 そしてフランスのリンブルク兄弟と同時代、イタリア初期ルネッサンスの最初の建築家フィリッポ・ブルネレスキ(1377-1445)、同じく初期ルネッサンス人文主義者・建築理論家にして建築家・数学者・画家のレオンバッティスタ・アルベルチ(1404-1472)、ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1412-1492)。このイタリア初期ルネッサンスの三人は、事実を明確に記録したいという願いを最初に表明した。
 フィリッポ・ブルネレスキは、組織立ったデモンストレーションを行った。レオンバッティスタ・アルベルチとピエロ・デッラ・フランチェスカは、論文を書いた。この二人の論文が重要なのは、技術的な手続きを洗練された人文主義者の文章に高めたことである。
 洗練された人文主義者の文章ということが、どういう意味をもっているかというと、イタリア・ルネッサンスのあらゆる知の集積、その体系に「遠近法理論」が組み込まれ、いわば俎板の上の鯉のように、あらゆる方面から賛否両論の手がのびる状況を創りだしたということである。

 ヴィアトゥールの功績

 芸術における遠近法に関する最初の出版物は、16世紀初め、1505年に、フランス北東部の神聖ローマ帝国自由都市トゥールで出版されたジャン・ペラン(別名ヴィアトゥール : 1445以前-1524)
のラテン語テキストである。
 ヴィアトゥールはつづく1509年にも『遠近法の技法について』を刊行した。この本はすぐにニュールンベルクでドイツ語に翻訳され、更に1521年にトゥールで再刊されるという成功をおさめた。それだけで終わらず、初版から17年後の1626年に、ヴィアトゥールのこの著作が依然として有効であると考えた熱狂的ファンが、イラストレーションを付け加え,ラテン語とフランス語を併記して、原本より小さな現代的な体裁にして刊行した。
 この本には、その後何世紀にもわたって図解入りで出版された遠近法関連の本の全てのレパートリーのイラストレーションが網羅されていた。
 ちなみにこの極めて貴重な本は、現在、トゥール大学図書館のWebサイトで現物のすべてのページを閲覧できる。

 この本のイラストレーションで私は二つの点に注目する。
 一つは、大建築とまったく区別なく荷馬車のような日常的な物が描かれていること。
 これが意味するのは、遠近画法の特性は、当初から、著者の関心領域を描写したということである。もっと平明に言うと、著者の家の寝室構造や家具類も威厳のある大建築やその環境も、まったく同列だということである。
 二つめは、じつは後の時代の遠近法解説書のイラストレーションには、それを学ぶ者が疑問が生じないように、図像構築のためのガイドラインが引かれているのであるが、ヴィアトゥールのイラストレーションは、透視図法で見た幾何学的な平面図だけである。つまりヴィアトゥールは、遠近法という技術の妥当性を証明するよりも、それがどのように機能しているかに関心があったのだと指摘できる。

 世の中が遠近法という技術を充分に受け入れるにはまだ早かったのだが、ヴィアトゥールは芸術家というより、幾何学がやらなければならないあらゆる事に関心を向けた観察者だったのである。
 しかし、彼は確かに気づいていたと私は思う。芸術的創造の巨匠たち、―-建築家ブルネスキやアルベルチ、画家ピエロ・デッラ・フランチェスカ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ―-
こういう人たちと同じ道を並んで進んでいる、と。

 ここでヴィアトゥールの後の世代のアブラハム・ボッス(Abraham Bosse :1602-1676)の著書のイラストレーションを見ておく。
 ヴィアトゥールと異なるのは、遠近法が、学ぶ者の心に疑いを抱かせないように、正確な構築ガイドラインで示されている。

 私の説明が少し行きつ戻りつするが、ヴィアトゥールと同世代のドイツで遠近法の実施研究に取り組んでいた画家がいた。アルブレヒト・デューラー(1471-1528)である。
 アアルブレヒト・デューラーは、「神の比率」ということを考えていた。先に私は、「中世絵画の視点の歪みと比率の誤りは、イデオロギーとスタイルとテクニックの欠如による」と言った。デューラーは、現実を「神の比率」とし、その秘密に精通している学者を探しにイタリア旅行をしている。イタリアの遠近法に関する本がドイツ語に翻訳されて1522年にニュールンベルクで出版されたことが、その後のデューラーの道を開いた。デューラーは、正しい透視図を得るために、糸と格子スクリーンを使うことを考案した。そしてその様子を版画にして1525年に出版した。
 このイラストレーションは何度も複製されて、長い間、流通しつづけた。遠近法理論の本は、すぐに多くの言語に翻訳されて、ヨーロッパ各国間で相互に影響しあったのである。

 遠近法の生みの親ともいくべきイタリアは、デューラーが科学的に発展させたことを歓迎した。しかし、イタリアハ、建築も芸術も、まだルネッサンス様式を引きずっていた。デューラーの遠近法理論発達への寄与を喜ぶ一方で、彼の作品を「ゴシック様式の野蛮」と批判した。新しい秩序の美に入ることを望まなかったのである。これは当時のイタリア人の一般的な感覚であった。イタリア人にとっては、国境を越えると、すべてが野蛮だったのである。

 このように、遠近法はヨーロッパ各地に広まって行ったが、その発展の内実は、それぞれの国の国民性を表していたと言える。
 イタリアでは、遠近法は生活の中で普遍性を見据えていた。
 フランスは、生き方や考え方を追求した。イタリアで生まれた思想をすぐに翻訳して流通させたのもその現れであろう。
 ドイツは抽象的な幾何学的形体を追求する研究を進め、学習の努力によって、象牙細工や高価な工芸品やドイツ的装飾への応用、あるいは印刷体裁の研究などを進めた。言い換えれば、ドイツは遠近法を特別な仕事の領域に押し込めたのであった。
 北ヨーロッパは幾何学の道に進み、南ヨーロッパは自然に従ったが、北も南も共に遠近法の旗をかかげて更新した。

 イタリアの革命的都市景観の思想

 さて、ドイツ的ゴシック様式を野蛮と言い放ったイタリアだったが、遠近法によって普遍性を見据える思想の中で、都市景観に関する革命的な手法を創り出した。

 それは演劇の分野で生まれた。観客席の斜面から視線の人工的な消失点に向かうラインに、劇場空間のまったく新しい景観を創り出したのである。額縁舞台の奥に、地平線に向かって建物が小さく消えてゆく街路を出現させたのである。俳優たちは、もはや、絵具で塗られただけの書割の前に立ってはいなかった。俳優は彼らの背後の風景に完全に統合されていた。

 劇場というのは、観客が何を望んでいるか、何を楽しみに集まってくるか、その感性に鋭敏である。いまやイタリアの観客たちは、自分もまた俳優とともに劇場空間に呑み込まれ、劇が起こっている現場に立っていることを知った。

 ここからイタリアの都市景観は変貌をはじめる。ひいてはヨーロッパの都市景観が演劇的な空間へと変わって行くことになった。――現在、私たちはフィレンツェやヴェネチアに観光旅行に出かけるが、16世紀後半の遠近法理論による演劇空間としての都市景観に魅了されているわけである。

 これらの都市景観は短期間で成立した。建築家や舞台デザイナーや画家や、すべての人達が遠近法の力を信じていた。その力を握っていると感じていた。彼らは遠近法に従った同じ構成法則で、同じような空間環境をつくりあげた。
 とは言え、じつはこの劇場空間に、画家たちの心は一種の脅威を感じていた。自分の立っている場所、すなわち宇宙の中心である自分の目がとらえた現実の似姿としての絵画が、消滅するかもしれないという危機感である。
 しかしまた、画家たちは遠近法に別の側面があることに気がついていた。
 遠近法で描かれた作品は、画家と同じ立ち位置で鑑賞することを要求している。画家たちは実際の制作の中で、ある障害物が忍び寄って絵のなかに居座ることを知っていた。つまり遠近法の一つの視点で統御された絵の中に、別の第二の空間がこっそり出現し、第一の空間に混乱を起こさせる、ということである。
 その時から100年前にレオナルド・ダ・ヴィンチがこんなことを書いていた。「壁のシミや黴に、顔の形や風景の形を探せば、画家の想像力が刺激される」と。
 このレオナルドの言葉は、たとえばサルバドーリ・ダリのおとくいのダブル・イメージ(二重像)を指摘している。
 新しい劇場空間に脅威を抱きながら、画家は、遠近法を逆手にとるかのように、一つの絵画の中に第2の空間をもうけてイメージの反乱を起こさせ、既製の絵画理論を打破した。「アナモルフォーシス」というのがその絵画である。

 16世紀半ばまでに、遠近法理論とその技術は、ヨーロッパにおいて様々な領域にしっかりと居場所を確保したと言ってよいだろう。しかしながら遠近法の論文は、なおも自己批判しながら進化しつづけていた。それは様々な領域の専門家がお互いを認めあったということではない。時代の様式はゴシックから新古典主義に変わり、たとえば建築は直角と直線が厳格に多用されるようになった。新規で斬新なデザインは排除された。
 凱旋門や古代のモニュメンタルな建築物の画像を蒐集して論文を書いていたジャック・アンドルーエ・デュ・ケルソー(1515-1686)は、『フランスの最も優れた建築』という本を出版し、カトリーンヌ・ド・メヂチへの献辞に「遠近法の知識は、大いなる知識と喜びを併せ持つ芸術作品を生む事を保証いたします」と書いた。彼は自著の遠近法演習本に非常な自信をもっていたらしく、いままで出版された遠近法関連のすべての本の本質を蒸留している、と書いた。遠近画法は何の問題もない実務、その演習は容易だと考えていたようである。

 ところがミラノ大聖堂教会評議会に訴訟が提出されたのである。原告も建築家、被告も建築家のこの訴訟は、被告の浅浮彫りが神聖であるべきものを悪用している、というものだった。判決は原告の言い分は無効とした。
 後に原告の建築家は、この訴訟手続を出版した。それによって訴訟の本当の内容が明らかになった。遠近法に関することが問題にされていたのである。一つの作品の中で、地平線は一つでなければないらないのか、二つあってもよいのか、ということが重視されたのである。被告の浅浮彫には二つの地平線が存在していたからだった。

 遠近法理論は、その説明が精密さに欠けていたのだろうか? いたいぜんたい「遠近法」は科学なのだろうか?
 理論家たちは、画家たちが自分たちの視野を充分に理解していないのだ、よく教え込まなければならない、と情熱的に思った。できの悪い生徒を嘆くように、こいつらにはまともな言葉が通じない、と思ったのである。絵具を使うこともスケッチもできない数学者が、それでも遠近法を熟知しているから絵が描けるのだ、と主張したのである。
 一方で、ある画家は遠近法理論家から何年もの長い間、懇切丁寧な指導を受けたが、画家として学ぶものは何もなかったと述懐した。つまり、画家たちは、一貫性のある芸術作品が厳密な幾何学法則に従う必要がないことを、経験的に熟知していたのである。

 遠近法をめぐって、何が真実であるかという芸術的な問題は、17世紀のフランスで、2派に分かれて30年間も闘争が繰り広げられた。
 遠近法を科学的真実と主張したのは、聖職者や数学者ふぁった。虚偽と主張したのは芸術家だった。
 この問題の核心は、次のように言うことができる。
 すなわち、「現実」をとらえる技術の精度を上げるために、画家の「目」によって強化された厳密な幾何学、もしくは遠近画法を発見すること。
 17世紀のフランスでこの問題が30年間も議論されるほど、なぜ墳丘したかと言えば、この時代は「理性」のなかに「信仰」を置いていたからである。どんな信仰であろうか? 理性的であることという信仰である。
 その信仰があるかないかという詮索の目から誰も逃れることはできなかった。あらゆる仕事には法則があり、正しい法則によって人間はあらゆる現象の上に立つことができる――-これを理性と言うことができるであろうが、信仰でもある。その理性の担い手が数学者であり、物理学者であり、幾何学者であった。芸術家は、うまくすれば彼らの手から逃れられるかもしれない、と考えることが許されなかったのである。

 ルネ・デカルトが『方法序説』を出版したのは17世紀も半ば近い1637年である。デカルトは心身二元論による人間機械論を説いた。これは近代医学の発展を促し、現代の最先端医療の一つの方向性に繋がっている。また、もう一つの現代医学の哲学的な側面では攻撃の的になっている考え方である。
 サラに1641年、デカルトはパリで『省察』を刊行した。そのころから彼の名声は高くなってきていたのであるが、ユトレヒト大学神学教授ヴォエティウスは彼を無神論者と激しく非難した。そして1645年、ユトレヒト市は、デカルトの哲学に関する書物の出版と論議を一切禁じる命令を発効した。

 デカルトをめぐるこれらの事実が照射しているのは、理性的であることというフランス社会の信仰の真相である。なかなかややっこしい精神構造だが、人間は法則に則って理性的でなかえればならないが、それは「我思うがゆえに我あり」という理性ではなく、デューラーではないが「神の比率」を信仰する理性ということだった。

 デカルトの『方法序説』出版の前の年、1636年、現代射影幾何学の父と言われているジラール・デザルグが、『普遍的な遠近法に実際に与えられたオブジェクトを配置する方法、あるいは引用』という、長ったらしい題名の本を出版した。
 デザルグはある斬新な方法を考案した。2次元平面上の実際の空間位置に3次元オブジェクトを投影する方法である。
 画家たちは、以前、複雑で厄介な手続きを踏んで実現しなければならず、省略された正確さに欠ける構造に頼っていた。省略された構造は、視覚的には説得力があったのだが、デザルグの考案は数学的に絶対的な正確さを強調していた。デザルグは、「目」と「感性」の優位を維持していた多くの画家たちを強制し、画家たちを苛立たせた。
 フランス・ロイヤル・アカデミーをも巻き込んだ論争が終結したのは1670年だった。政治的な駆け引きや上に立っている者へのおべっかなどが、遠近法論争の中にも起こっていた。
 ルーベンスやシモン・ヴーエやセバスティアン・ブールドンの作品の銅版画制作者グレゴワール・ユーレが著書『肖像画と絵画の視覚』を出版し、そのなかでデザルグや同じ学統を論駁した。

 しかし、フランス新古典主義は、古代のモニュメントとパリの貧しい家々や職人の仕事場を同列に記録した。フランス人にとってはパリの生活と古代ローマの凱旋門とが文化的に同じ重さだったのである。これは前の世代のイタリアの精神をそのまま受け継いでいた、と言える。つまり、太陽王ルイ14世の時代、17世紀半ばから18世紀初頭にかけてのフランスは、自分たちの存在形態と過去のモデルとの完全な一致をもたらすことができる社会-----そういう「思考のシステム」が出現した、と考えていた。
 そして、まさにグッドタイミングで、ユークリッドの著書『遠近法』のフランス語訳がおおきな慶びをもってルイ14世に献呈された。科学的な国家として、ユークリッド幾何学の概念を正統化することになった。
 イタリアの劇場空間のように、フランスの都市空間は遠近法の中で建築され、劇場になった。さらに遠近法は宮廷のなかに置かれ、社会空間のなかに階級に応じて地位を割り当てた。キリスト教の礼儀書のなかでもそれは厳格に示された。日本の学校の名称にもなっているラ・サールによって1713年に書かれた礼儀手引書は、1825年まで112年間も再販されつづけた。遠近法の中の極端な厳格さは、フランス人を特徴付けた。

 18世紀に入っても遠近法論文は書かれ続けていた。行きつ戻りつ、と言ってよいだろう。まさに18世紀に入ったそのとき、遠近法の役目はもはや昔の風景をつくりだすことでしかない、という批難もあった。
 ところが、そうではなかったのである。遠近法にとって18世紀は肥沃な土地だったのである。と言うのは、18世紀は宮殿や古典的な建物の時代ではなく、都市の時代だった。人々はもう都市空間にに古代都市を再現しようとは思わなかった。遺跡は遺跡として認識され、そのように描かれた。人々は劇場の形式を自分たちの生活の場まで広げ、郊外にまで広げた。遠近法の中に設置された空間は、全住民に経験される、と信じられたのである。

 この時代の絵画のなかに、非常に多くのヨーロッパの都市景観を描いた作品が存在する。人々がヨーロッパのすべての都市の景観を収集しようと情熱を傾けたからである。
 最も有名な画家はヴェネチアのカナレットである。彼は舞台美術家としてキャリアを築いてきた画家だった。
 もう一人のヴェネチア人、建築家で画家のジョヴァンニ・フランチェスコ・コンスタのコレクションの中には、注目すべき人物が描かれている。その人物は「カメラ・オッティカ」あるいは「カメラ・オブスクラ」とも言い、英語で「オプチカル・カメラ」と呼ばれる機械に寄りかかっている。「カメラ・オッティカ」は、正しい遠近法視界を得るための光学機械装置である。

 アイザック・ニュートンが著書『光学(OPTICKS)』を出版したのは1740年である。ニュートンは光と色に特別な注意をはらっている。
 「カメラ・オッティカ」は、現代の望遠鏡と広角レンズの組合せのように、鏡とレンズが配置された箱に粗いガラス板を挿入し、その上に現実の風景や、人物や、物を、2次元的に投影できた。――-
ここまで来ると、残るは、その画像を永続的に固定することである。「写真」までもう一歩である。

 この新しい光学機器を画家たちはしばしば利用して、さまざまな風景を細密に正確に描いたが、じつはこれを利用した画家は公式の美術階級のなかで高い地位を占めてはいなかった。カナレWットがヴェネチア芸術院の会員として認められるまでかなりの長い年月があったようである。
 しかし現代の私たちの目と知識は、カナレットの風景画に18世紀が活写されていることを知る。しかも、第二次世界大戦で破壊されたワルシャワを再建するために、カナレットの絵が使われた。

 遠近法は18世紀に力を付けたと私は言ったが、古い議論は19世紀に続いた。「遠近法は幾何学者に属する」と主張する論者があり、ピエール=アンリ・ド・ヴァレンシエンヌは1800年の革命カレンダーで、「幾何学者は絵画について何も知らない」と告知した。
 ヴァレンシエンヌは、18世紀の末も末、1792年にスコットランドの画家ロバート・ベイカーが発明した大規模風景――パノラマに興味を抱いていた。それは現実の360度の視界を提供するものだった。
 わたしは先に「遠近法の中に設置された空間は、全住民に経験されると信じられた」と述べた。ところがそのうちに人々の意識にあることがおこった。従来の遠近法技術では、自分たちの背後の空間が見えない、という認識である。
 ロバート・ベイカーは、1792年にロンドンで、「ポーツマスとワイ島の間に停泊した英国艦隊のパノラマ」を公開して、ロンドンっ子の絶大な賞賛を博し、パノラマ館は連日大行列ができた。さらに1798年にはパリで「英国によるトゥーロン包囲」を公開し、パリっ子を熱狂させた。
 ある論評は、こう述べた。「遠近法の法則に反すること無く、全国の現状、あるいは都市全体を提示するこれは巧妙な方法であり、絵画に対するこの新しいアプローチは、知識への貴重な貢献である。」
 たしかにそのとおりだったが、この時、「後方視野」を与えられない絵画は、パノラマに脅かされていたのだった。

 絵画にとって悪いことに、遠近法による技術の進歩がもう一度絵画を時代遅れにする。
 1822年、フランスのルイ・ダゲールが「ジオラマ」と称するものを発明したのである。これは、塗装した布地を透明なスクリーンにアレンジすることによって造られた。彼は遠近法技術者の一団を組織して軍事面から連隊のヴィジョンを補佐した。
 これはまさにダゲールの労作だった。この実用性のある発明によって、ついに風景画家たちの混乱した考えに終止符が打たれるかに思われた。
 ところが物事、まことに一寸先は闇である。パノラマもジオラマも火災で消滅してしまったのである。
 現在、私たちはしばしば博物館などで細々とパノラマやジオラマの片鱗を目にする。しかし、ロバート・ベイカーが建設したようなトータル/ヴィジョンを提供する円形展示場はどこにもない。

 19世紀前半から始まる写真の世紀は、その前史はすでに述べたとおり「カメラ・オッティカ」に始まっていた。また銀版写真のもとになる塩化銀やハロゲン化銀などの銀化合物が、光を当てると色が変わるという現象は、18世紀前半に知られていた。ただしこの銀化合物の感光現象は、当時、写真と結びつけて考えられてはいなかった。
 近代写真史としては、フランス人発明家ジョセフ・ニセフォール・ニエプスが1825年に版画を撮影した写真が最古のものとされている。ニエプスの死後、彼の研究ノートが協力者だったダゲールに託された。あのジオラマを考案したダゲールである。彼は化学の素養はなかったのだが、現物そっくりな画像を創りだしたいという一心で化学的研究を重ね、銀版写真を発明した。彼の名前をとってダゲレオタイプと称した。

 遠近法を捨て始めた画家たち

 さて、このようにして絵画の中で育まれてきた遠近法であったが、画家たちはえんきんほうを捨てることを模索し始める。遠近法は絵画を離れ、写真の中に、テレヴィジョン画面の中に居場所をみyつけて生き続けることになる。そして、私たちはまったく新しい地平線と視界を得るようになる。そこに到った時、私たちに何が起こったのか、何が起ころうとしているのか、――-それについて少し検証する。

 写真の登場によって、画家たちは遠近画法を駆使した「写実主義(リアリズム)」は効力を減殺されたと感じた。また、同時に、新しい表現に鋭敏な芸術家のなかには、制作に積極的に写真を利用する人もいた。
 歴史画や王侯貴族の肖像画を最高の絵画と位置づけていたフランスのナポレオン3世時代のアカデミーに反旗を翻すように、新しいスタイルを戸外の光のなかに求めた画家たち、後に「印象派」と呼ばれる30人が、第一回展覧会を開いたのが写真家ナダールのスタジオだったということは、遠近法を見て来た私たちには何とも不思議な感じがするが、最初はその印象派に仲間入りしながらやがて離脱したのがセザンヌだった。
 セザンヌは20世紀絵画の思想を切り開いたと言ってよいと私は思うが、それはまさに遠近法からの解放を意味している。もちろん20世紀・21世紀の現代絵画がことごとく遠近法を排除したのではない。むしろごく普通に、あるいは現代美術の動向と混じり合って、あるいは逆手にとるかのように遠近法をより鋭くしている。
 作品を見てみる。
 まず、セザンヌ(1839-1906)を中心に、彼よ1歳若く20年長生きしたクロード・モネ(
1940-1926)、ちょうど30歳若いマティス(1869-1954)、50歳若いユトリロ(
1885-1955)、そしてオランダのエッシャー(
1898-1972)、セザンヌの死の2年前に生まれたダリ(1904-1989)を見てみる。
 セザンヌは、それ以前の風景画や静物画の遠近法に縛られた一焦点透視、あるいは二焦点透視のための画家の目の位置、つまり立脚視点を、ひとつの絵のなかに幾つも設定している。遠近法の正当性を破壊し、対象を色面構成することによって、絵画だけが可能な独自な世界を創りだしたと言ってよいだろう。そこに到達するための格闘が、作品を並べて見てみると推測できる。

 まったく同世代のモネは、印象派の巨匠と言われているが、実は印象派のなかでも認められるのは非常に遅かった。
 モネは外光の時間による微妙な変化を絵具で捉えようとした。セザンヌはモネのその目に驚嘆していた。しかし、彼らはまったく独自の道を切り開いた。遠近法に関して言うならばモネの風景画は遠近法のうちにある。
 しかし、私はそれはむしろ当然だと思う。日月の運行の時間軸に沿って、光は遠近法的な距離の間で変化しているからである。同時間であっても、地平線の彼方の光と近景空間を浸している光は違ってくる。対象物の色調もまったく違ってくる。モネは風景の概念を描こうとしたわけではない。セザンヌがモネの目に驚嘆したというのも頷ける。

 マティスの作品は、いかにもフランスらしい明るく軽快である。現代の広告グラフィック・デザインを先取りしているデザイン性は、彼の時代には他に類を見ない。
 しかしながらマティスの若い頃の絵は後の軽快さからは遠い。そしていささか暗い。たとえば室内の女性像を描いた数点の絵を並べてみるとどれも遠近法に則ったものである。明るく軽快になってきても、なかなか遠近法から離れられなかったらしいことも見て取れる。しかしやがて、切り紙を用いて構成するようになって、あるいはそれと前後しているかもしれないが、遠近法から離れた色面構成の装飾的な作品になってゆく。

 さて、パリの風景画家ユトリロ。彼の画家としての出発は、実はアルコール中毒の治療の一環として絵を描いていたのだったが、その描写力が認められたのだった。しかし、まったくのアマチュアとも言えない。彼の母親はシュザンヌ・パラドン。彼女は当時すでに知られた画家だったからである。
 しかし、何処から何処までも遠近法を抜け出していない風景画である。ただ、急いでいい添えると、油彩材料用法の科学的見地からは絵具の化学的特質を知り尽くした極めて知性的な絵である。たんに描写力だけで認められたのでは全然ないということである。

 冒頭で述べた葛飾北斎(1760-1849)は、セザンヌより80歳年上だが、フランスの上述の画家たちとほぼ同時期に輸入された西洋画に依拠して遠近法を研究していた。一方は芸術的に遠近法から脱却する格闘をし、一方は、ようやく遠近法の摂取に入っていたわけである。

 エッシャーは建築と装飾美術を学んだ人である。オランダのハーレムの学校でサミュエル・メスキータに才能を認められ、二人の関係はサミュエルの一家がナチスに殺害されるまでつづいた。エッシャーは1934年に妻と訪れたアルハンブラ宮殿のアラビック幾何学模様と、結晶学者だった兄から勧められた結晶学の本にあった結晶構造の連続性に関する論文に影響を受け、自らも『平面分割の正則性』という論文を発表した。エッシャーの作品は、前述したアナモルフォーシスであるが、もう一つの要素として錯視がある。じつはルーツとも言える先行作品がある。ウィリアム・ホガース(1697-1746)の綿密に描かれた下絵を弟子のルーク・サリバンがエッチングに仕立てて出版した『偽りの視点での風刺』である。この絵にホガースは次のようにキャプションを付けている。「デザインは、いかなる場合も、遠近法の知識がなくては、ここに掲げた絵のようにバカバカしさに陥るだろう」と。エッシャーの作品はこのバカバカしさを逆手に取って「おもしろさ」にしているのである。

 ダリは、知的に幻想を展開した画家であるが、その新奇性珍奇性は、むしろ古典技法の卓抜な応用と言える。テクニシャンというにふさわしい画家である。彼は遠近法を自在に使いこなした。シュルレアリスムが提唱した無意識の深い井戸を表現するために、ダリにとって遠近法はまさにピッタリの技術だったと言える。彼は、ハンス・ホルバインのように、遠近法に忍び寄るダブル・イメージを偏執狂を装うために利用した。

 さて、シュルレアリストは、むしろ理論的には遠近法理論の正反対を標榜していたと言える。遠近法は精神を硬直させる、と考えていたと私は思う。遠近法に縛られた社会制度、都市空間、建築、芸術――そこからはみ出たものに人間の本来的な自由があると看做したのである。
 シュルレアリスムはひとつの芸術運動で、時代における役目を終えて思潮は退いて行った。しかし、芸術に残したものは大きかったと私は思う。以後の芸術は、芸術家たちの自己告白が全面支配するようになった。乱暴な言い方だが、「何でも有り」が、個性の表現と認めれれるようになった。

 視線の哲学

 さて、ここで私は遠近法を「視線の哲学」という方向から考えてみる。

 私はこの論考の初めの方で、画家たちは地平線上に視界の焦点を設定して現実の視野を広げて行く一方で、神の玉座を仰ぎ見る天空への視線も遠近法の理論に則ったと述べた。その場合の画家(そして鑑賞者)の立ち位置は地上にあった。しかしやがて、と言うか、同時にと言ってもよいのだが、王権神授のシステムの中で神の命令よってとして人間支配をすすめる王たちは、戦場を一望する必要から、また、軍功を歴史に残すための絵を画家たちに絵描かせた。画家たちは想像力を駆使して、まるで神の目のように、地上を離れた視点を設定した。ここにはまさしく遠近法理論がはたらいている。
 前述した独立した風景画を最初に描いたとされるアルトドルファーの歴史画『アレクサンドロス大王の戦い』の視点は、高い位置にあるのだが空中に舞い上がっているのではなく、山の上からでも見ているようだ。注目するのは、この群像が意外に一人一人がはっきりしていることである。このことをしばらく記憶しておこう。

 ブリューゲルの視点も高い山の上のようなところにある。題名が示すとおり、海中に墜落するイカルスの足が見える。次に例示する『バベルの塔』は過日ボイスマンス美術館から日本に貸与され、展覧会が開かれた。2度目の来日だった。この絵の視点はかなり高くなっている。
 イカルスの墜落を描いた次の3点の視点は、ちょっと興味深い位置にある。あきらかに空中にあるのだが、イカルスを下方に見ているのではない。むしろ墜落するイカルスと同じ高さにあると言ってよいだろう。
 これら3点は、いずれも17世紀半ばまでに制作された作品である。

 さて、次の18世紀は知性と合理主義の時代だった。ルソーやディドロやヴォルテール、そしてゲーテ、『百科全書』の序説を執筆したダランベール、『精神について』の著者エルベシウス、『自然体系』の著者ドルバック、『博物誌』を執筆したビュフォンや『回想録』のカザノヴァの時代である。
 そして同時に彼らの光の世紀は、〈魔術と似而非(えせ)神秘主義思想、異様なほどの超自然主義などがアクティヴに横行した時代でもあった〉とナルセル・ブリヨンは言っている。すなわち、夜の闇を透かして人間意識の深淵を見つめたピラネージやゴヤの時代であった。また、生涯のうち27年間を10有余の牢獄を経巡って監禁されていたサド侯爵の時代でもあった。
 ミシェル・フーコーは「大監禁」の時代と言った。前世紀の古典主義は人間の非理性を閉じ込めてきたのだった。しかし閉じ込めたのは非理性だけではなかった。フーコーは次のように言う。
 〈社会の表面では監禁の砦が理性と非理性とを区分していたが、他方、その砦は深層部では、理性と非理性とが混じりあい一つになっている様々のイマージュを貯えていた。その砦は、いわば長らく沈黙を守ってきた大きな記憶力のように機能してきたのであり、人々が追放したと信じこんだ想像力を暗闇のなかで保持してきた〉と。

 そういう時代だったからであろうか、地上を離れ空を飛ぶ夢を実現しようとする人物が出現する。
 18世紀の初め、1709年にポルトガルの神父バルトロメウ・デ・グスマンが気球を考案した。しかし神父は異端者として告発された。
 それから74年後の1783年、フランスのモンゴフィエ兄弟が熱気球を発明する。「レヴェイヨン気球」と名付けられたそれは、実験と改良が加えられ、高度2000メートル、滞空時間10分間に成功する。王立科学アカデミーが注目し、ベルサイユ宮殿でルイ16世とマリー・アントワネットが見守るなかで、公開実験が行われた。羊や鶏やアヒルは乗せられ、高度460メートルで約3.5キロメートル飛行し、滞空時間は8分間だった。モンゴフィエ兄弟の熱気球は僅か2ヶ月後には人間が乗れるまでになった。

 こうして人類は、そしてもちろん画家たちは、想像力によるのではなく現実として天空からの視野を得ることになる。
 気球はさらに動力を備えて1900年に飛行船へと発展する。
 飛行船は軍事利用もされた。しかし飛行機の実用化がそれにとって変わる。
 このとき「視線の哲学」というテーマにとって重大なことが起こったと私は考えている。

 飛行機に乗って遥か上空から地上を見た時、人間はなんと小さく見えたことであろう。それは神の視点だったかもしれないが、その豆粒より小さい人間は、顔を失い、個性を失い、牧羊犬に追い立てられる羊の群れさながらに右往左往している。戦闘機乗りたちは、白兵戦の戦場で殺し殺されるのとはまったく違った、いわば心理的負担の少ない大量虐殺ができるようになった、ということである。
 ここにイギリスの戦闘機乗りで、自分の経験を描いた画家の作品がある。
 この戦争画は、かつて画家たちが想像力を駆使して描いた戦場画とはあきらかに違う。ここには人間の「臭い」は感じられない。兵士たちの汗の臭いも、血の臭いも、革の臭いも、硝煙の臭いもない。戦闘機乗り自身と繋がるものはない。
 こうして、現代美術のなかに、人間が無個性な群れとして、記号として表現されるようになる。基準線を失った遠近法が出現した、と私は考えている。それはたしかに遠くの物象が小さく表現されていることで視覚的には遠近法に則っているのである。
 現代社会はもはや人間の生理に頼っていることはできない。そこで登場したのが「電子の目」である。
 これに関しては、私が説明する必要はないだろう。人間は自らの目の代わりに、今や宇宙の彼方から地球上の地面に落ちている一本の鉛筆さへも識別できるのである。人間同士の殺戮はコンピューター・ゲームとまったく同じ遊戯感覚で行う。そのことは、あの湾岸戦争の折に、私たちの家庭のテレヴィジョンに、まるで打ち上げ花火のように豪勢にミサイルが飛び交っていたことで誰にも認識された。

 ここに19世紀イギリスのラファエロ前派のエドワード・ロバート・ヒューズ(1851-1914)のファンタジー作品がある。それからまた、つい最近の作者不明のコンピューター合成した作品がる。この作品を人間世界の現実として信じられるか否かは、鑑賞者の心に委ねなければならない。


(2017年記)

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: