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オットーフランクは1945年1月27日ソビエト赤軍により解放された。1953年11月10日にはエルフリーデ・ガイリンガー=マルコヴィッツというウイーン生まれのユダヤ人女性と再婚している。彼女もアウシュヴィッツ生き残りのユダヤ人だった。彼女はそこで夫と息子を失いエヴァという娘と二人でオランダに帰国してきた。アウシュヴィッツから解放された後、アムステルダムまでの帰路にオットーと知り会った。オットーは妻の死亡を聞いてショックを受けていた。オランダでどちらも家族の死の通知を同じころ受け取った。オットーはマルゴットとアンネの死を。エルフリーデは夫と息子の死を。エルフリーデとオットーは何日間も泣き明かした。エヴァはアンネやマルゴットと似てなくてものすごい勉強嫌いだった.「エヴァは勉強大嫌いだから高校に進学させずに就職させようと思う」というとオットーは「女でも高校は出てないと駄目だよ。」と言って高校に進学させた。エヴァは高校卒業後オットーの知り合いのロンドンの写真店で働く。イスラエル人と結婚して結婚後骨董品店を経営した。オットーはエヴァとエヴァの子供たちをわが子のように可愛がってくれたそうです。エルフリーデはアウシュビッツからオデッサまでの移動中変わった体験をした。貨物列車がウクライナの奥深く走ってた時一時停止したのでその間に用を足そうと列車外に出て用を足してたら列車が出発してしまった。呆然としながら次の駅コロムイヤまで歩き駅長に事情を話したら「シャローム。次のロシア行の列車が来るまで私の家に泊まりなさい」と言ってくれた。駅長は駅の地下室で暮らしていた。強制収容所から出てきた話をすると駅長は驚き「実は自分もユダヤ人だ。ロシアの奥地の避難先から最近戻ってきたばかりなのです。貴女の話を聞かせてください。」そしてユダヤ人が数家族で共同生活してる家に連れて行ってくれた。なんと大勢のユダヤ人が話を聞きに集まっていた。アウシュビッツでの体験を話し出すと全員震え上がり、ガス室や焼却炉の話に進むとわんわん泣き出した。噂は流れててもそこまでくわしく知らなかった。ウクライナのユダヤ人達は餞別のお金や食べ物を持ち寄って翌朝駅まで見送ってくれたのだった。母と娘はオデッサで無事再会できた。オデッサでテント貼ったシャワー室でユダヤ人の女たちはシャワーを浴びた。それからソ連兵は一人一人のおっぱいを念入りに触って「大!」「中!」「小!」と叫ぶのだった。大のおっぱいの人には大のブラジャーを。小のおっぱいの人には小のブラジャーをくれた。それから鎌とハンマーのアップリケのついたオリーブ色のTシャツとタイトスカートをくれた。これを着るとまるで女ソ連兵になたような気分になった。母は「オデッサ見たいの」と言い出し母娘はオデッサ観光に出かけた。エヴァの子供たちとオットー恋愛中の前夫とエルフリーデ。18歳夫15歳妻エヴァの兄ハインツ、この家では彼一人ユダヤっぽい顔してたため父と二人で隠れざるをえなかった。アムステルダムの小学校の記念写真エヴァ11歳
2015.03.18
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中仙道の宿場町に住んでた頃、土日になると伊吹山まで名水汲みに出かけた。伊吹山に向かってドライブすると琵琶湖側に伊吹山、鈴鹿側に霊仙山がそびえ神様みたいに神々しい。水を汲み終わってJR醒ヶ井駅までゆき、そこで宿場バイキングを食べるのが楽しみだった。レトロな宿場町で江戸時代の雰囲気がする。町を流れる丹生川に咲く梅花藻という花がかわいい。古代に、ヤマトタケル命はこの醒ヶ井に来てこの川の水で体を洗った。伊吹山の荒ぶる神と戦うことになった時、「この山の神は素手で殺して見せる」といって、その神剣である草薙剣を美夜受比売のもとにおいて出かけた。伊吹山の山の神が氷雨を降らせ霰雹で攻めたので王子たちは気絶してしまった。重傷を負いながら息も絶え絶えでこの醒ヶ井にたどりついた。ここの居醒の清水に体をつけたら回復してきた。ここから伊勢に向かう途中、倭建命は息絶えた。この時、命の魂は八尋白智鳥となって飛び去ったという。琵琶湖周辺の至る所で白い鳥を見かけた。白鷺とコハクチョウと。倭建の魂なのだろうか。魂が今も琵琶湖を流離ってるみたいに思えた。怖ろしく鳥の多い土地で、ユリカモメ、雁、アオサギ、ヒヨドリ、ノスリ、ハヤブサ。夕刻になると空一面を黒いビニールみたいなものが乱舞するのだが、、蝙蝠の大群だった。ドラキュラの晩みたい。奥琵琶湖に沼があったがそこは白鳥の沼だった。伊吹山の神の呪いか?倭建命の子孫はあまり残ってない。倭建命の息子仲哀天皇は短命だったし仲哀の兄?の香坂王、忍熊王も悲劇の最期を遂げている。仲哀天皇の妃神功皇后が息子応神を連れて九州から東征してきた時二人の皇子は仰天した。二人は自分こそ天皇と思ってたからである。香坂王は巨大な猪に食い殺され、忍熊王は皇后の軍に敗れて琵琶湖のさざ波まで逃げた時、追いつかれてしまった。忍熊王が最期に将軍に向かって詠んだ歌。「いざ吾君 振熊が 痛手負はずは 鳰鳥の 淡海の湖に 潜きせなわ」詠むなり二人は琵琶湖に漕ぎ出し手に手を取って入水したのである。
2008.02.19
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ヴィルム・ホーゼンフェルド ウワディスワフ・シュピルマン戦場のピアニストを助けた独軍のヴィルム・ホーゼンフェルド大尉が日記に書いてた。ヴィルム・ホーゼンフェルト(1895年5月2日 - 1952年8月13日)は、ドイツの陸軍大尉。当初ナチズムの信奉者であったが、のちに改心しウワディスワフ・シュピルマンら多くのユダヤ人をナチスの迫害から救った事で知られる。ルブリン近くの建物に電気室を作ってた。部屋に大量の電流流して電気で加熱する。生きながら焼き殺す火葬場だった。一日何千人もの人人が殺された。埋めたりする手間を省くためです。イタリア南部で米軍が芸術作品の収奪と移送を行ってるとして、ドイツの新聞が憤然と抗議の報道していた。ヴィルム・ホーゼンフェルドは日記に書いてる。「他人の行為への抗議などまことに滑稽千万であるではないか。我々がポーランドから盗み出したもの、ロシアで破壊した芸術品の数々。敵が知らないと思ってるのか。恥を知れ。恥を。ユダヤ人は衣服もなく厳寒の中終日コークスの山の上に立たされ最後に銃殺された。SSは燃えさかる建物から逃げ出すユダヤ人をいかにして仕留めたかを自慢していた。母親の目の前でユダヤ人の赤ん坊を壁に投げつけて殺す。ユダヤ人の子供の足をつかんで振り回し壁に脳天をうちつけて殺す。畜生どもはこんなやり方で戦争に勝てると思っている。ポーランド人なら誰しも我々に唾する権利がある。」私は詩編 137 のバビロン捕囚の歌を思い出した。われらバビロンの川のほとりに座り、シオンを思い涙を流しぬ。われらは川辺の柳にわれらの琴をかけた。われらを虜にした者が、われらに歌を求め、われらを苦しめる者が楽しみにしようと、「われらにシオンの歌を歌え」と言った。われらは異国にあって、どうして主の歌を歌えようか。エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください。もしわたしがあなたを思い出さないならば、もしわたしがエルサレムをわが最高の喜びとしないならば、わが舌をあごにつかせてください。主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と言ったことを覚えてください。破壊者であるバビロンの娘よ、あなたがわれらにしたことを、あなたに仕返しする者はさいわいである。あなたのみどりごを取って岩になげうつ者はさいわいである。 1970年12月7日、ヴィリー・ブラント西ドイツ首相はワルシャワを訪れ、ポーランドとの国交正常化基本条約に調印。その足でゲットー英雄記念碑に献花し、ひざまずいて黙祷を捧げた。 ドイツはユダヤ人迫害に対する謝罪の意味から1990年に旧ソ連からユダヤ人をドイツに出国させています。12年間に21万人に及ぶ。ドイツに出国してから米国やイスラエル目指す者。ドイツに根を下ろす場合は希望すれば国籍も与えた。 西独は謝罪として1952年からイスラエル政府に30億マルクの補償金を支払った。 イスラエル国外の被害者にも4億5千万マルクを支払う。 だけど 「金で何百万人のユダヤ人虐殺をつぐなうことはできない。殺されたユダヤ人は戻らない」と批判するユダヤ人もいる。 メルケル首相は何度も謝罪している。
2017.10.12
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フランツ・カフカバールーフ・デ・スピノザハインリッヒ・ハイネユダヤ教は天国地獄を言わない。天国に対する明確な概念がない。悪魔についても言わない。人は塵から生まれ塵に帰る。だから生きてる間苦しみの連続なのだ。ユダヤ人が商業、金融で食べていくには高い知力が必要だった。 AD64年にジョシュア・ベン・ガマラがユダヤ教を学習中心の宗教に変えた。 ゲットー内での基礎学習 男の子は朝から晩まで学習させられる。タルムードも中上級になるとかなりの知力が要求される。 学習が苦痛な子は脱落しユダヤ教徒をやめていった。多くはキリスト教に改宗して農民となった。 ローマ帝政初期には帝国総人口の7~8%、800万人もいたユダヤ人が1~6世紀の間に次々にその姿を消してしまった。 学問好きばっかり残ったが しかし迫害が起きれば真っ先に殺されるのはユダヤ人の中のリーダーたち。インテリゲンチャユダヤ人と商売上手な億万長者ユダヤ人。 どちらかというと商売下手で目立たない末端ユダヤ人のほうが標的にされないので逃げれた。 スペインの異端審問の時も億万長者とインテリユダヤ人は真っ先に火刑にされてしまった。貧乏なユダヤ人のほうが逃げれた。といってもイベリア半島のユダヤ人ときたら賢人だらけでしかも億万長者だらけなんだけどね。 ユダヤ人は十字架地帯では迫害に遭い殺戮されてきた。 一方三日月地帯では受け入れられてきた。あれだけ迫害された十字架地帯なのにいつの日か其処へ戻ってゆく。それは何故だろう?ユダヤ人のやむにやまれぬ知的欲求がそうさせるのだと感じたのです。 ブルガリア生まれのドイツ語作家、ノーベル文学賞受賞者エリアス・カネッテイは。 スペインを追われアフリカに逃げ死ぬほど苦しい旅を続けてオスマントルコに逃げ、 ブルガリアのドナウ河河岸ルスチュクのスパニオル街にたどり着いたユダヤ人の子孫だった。 スパニオル街のユダヤ人たちは15世紀のスペイン語でしゃべっていた。ここのユダヤ人たちは古いスペイン語を母語としながらドナウ河を4日間の船旅をしてウイーンから運ばれてくるドイツ語の新聞をむさぼり読むのだった。 知的欲求がそうさせるのです。 ウイーンの華やかな文化に憧れていたから。ドナウ河の向こうには真のヨーロッパがあるのだった。↑20世紀初頭のドナウ河風景神聖冒すべからざるものとしてドイツ語の新聞を読んでる両親を見て5歳のカネッテイも読みたくなりドイツ語を教えて欲しいと頼んだのに親は教えてくれなかった。 誰も教えてくれないので泣き叫び殺人未遂事件が起きた。5歳でドイツ語の新聞を読みたがるなんて! その後カネッテイ家は東欧の辺境を出てイギリスへ、マンチェスターに移動してゆく。 スペインで火刑に遭い世界各地に逃げ出したセファラデイムユダヤ人が英国で再会したのです。ポルトガルからロンドン、アムステルダムに向かったスペインユダヤ人たちとブルガリアのスペインユダヤ人たちが英国で合流できた時は泣いて感激した。 7歳で父が亡くなったので母に連れられウイーンに移動した。カネッテイはあんなに憧れたドイツ語を覚えウイーン大学を卒業してドイツ語作家になるのだった。カネッテイはスペインの異端審問の恐怖から逃れられなかった。火刑に処され昇天する瞬間まで学問追求してたマラーノのこと。アレキサンドリアの図書館焼失。焚書坑儒、アウシュビッツ、ユダヤ人を焼く火炎地獄を描き続けた。 カネッテイの末弟ジョルジュ・カネッテイはパスツール研究所の教授となり結核の権威者となった。エリアス・カネッテイ ジョルジュ・カネッテイユダヤ人は誰でもだけど祖先が焼き殺されてきた恐怖から逃れられない。祖先がたどった火刑の道を自分も明日たどるであろう。 スペインを追われたユダヤ人の恐怖がカネッテイにもあり、カフカにあり、スピノザにあり、ハインリッヒ・ハイネにもあった。ユダヤ人はいつの時代でも焚書坑儒に遭う儒者だったから。ユダヤ人が賢いのは。賢すぎて宇宙人と呼ばれたシュメール人の血が流れてるからだと考えます。ユダヤ人の太祖アブラハムとサラはシュメール人の都ウル出身の人だった。
2013.12.26
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