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花屋鋏とキリバシ花屋鋏とキリバシは、ほぼ形状が同じであるが目的が異なる。キリバシの足先は、花屋鋏より少々肉薄になっている。画像左は、先代の大隈製キリバシ、右側ズンギリの花屋鋏。それでは、キリバシにツル手が無いことの利点は何か?大隅氏の三つ折パンフレットにはキリバシの名称が根切りとなっている。これは掘り取り作業時、狭いところの根切り、余分な土を落とし整形する道具となる。また、移植時に根を巻くときの縄掛けにこのキリバシが都合よかったのだと思われる。通常の鋏では、ツル手巾があり縄通しがしにくい。その他、竹垣の雨直し(竹垣の縦入り)、クリ針通し時の挿し込み、そして枝抜きと鋏一つでこれだけの働きがあり、万能鋏といえる。左 先代大隈製のキリバシ全景と「京」の刻印 右 天地之心花屋鋏画像大隈製キリバシ、花屋鋏は、ズンギリの別名も持つ。足先は、ワラビの形ではなく「ずんぎり」になっているのが特徴であり、用途は花茎の切断が目的なので打ち当る部分は焼きが甘い。酷使すると足部分が変形し、刃先が開くようになる。花屋鋏の中にも8寸245ミリの花屋鋏の足の太さは9ミリ、先ず変形することはない。7寸210ミリの花屋鋏は、足部分に焼きが入っているので実践向きだ。左からズンギリの花屋鋏。225、245、215、200ミリ 225ミリ 245ミリ 215ミリ 200ミリ
2011年07月18日
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多義図形 : 地と図模写説の反証となる事実のもう一つの好例は図11に示されるような多義図形。(一方は斜め後方を向いている若い女性に見えたり、横を向いた老婆に見えたりする。まったく同じ図形でありながら、ときに応じて異なった見え方をするが、一方が見えるときは、他方が見えない。また,どちらか一方を見ようとしても,それは必ずしも見えない。 地と図の関係は、コントラストと対象物の認識が働いている。「引き立たせる又は、ひきたせない」いずれも、材質コントラストをコントロールすることができる。
2007年01月30日
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鋏が「なんばん」といわれる理由。詳しくは、種バサミの歴史を紐解けば種子島の精錬史が出てくるので特別に記す必要はないが、どうもこの当時の種子島は、様々な国の漂着があったようだ。この「南蛮」という云われ方は、本土から見た国外ものが「南蛮」つまり、どの国のものでも国外のもが「南蛮」といわれていたらしい。種子島では、当然中国の鋏も入っていた。南蛮渡来天文12年1543年九州の南、大隈の種子島に漂着した。鉄砲伝来の年、1549年ザビエル来朝1584年イスパニア商船がルソンより来航し、この頃から日本の鋏が西洋の鋏に影響されてきた。室町期に入って九州の南端種子島に、中国から中間支点の鋏が渡来し種子島鋏が生産された。清盛の曽孫にあたるといわれる種子島家の祖、平信基は、鎌倉時代ここに封ぜられると先進地ら工人を入れて鋳鉄の生業をはじめている。昔の種子島鋏は、砂鉄を使い、西之表東町で約30戸の家内工業としていたが後に泉州堺の商人が贋作を売り始めたので「本種」と改めたという。この鋏の優秀性は、砂鉄鍛錬の「はがね」のすばらしさであったといわれている。そのころもっと高い製作技術を誇っていた本土の鋏鍛冶は、そのままの形で作らず、合刃調子と美しい容姿をうちだして、日本流の木はさみ、花鋏、木綿鋏などを作り上げていったとされている。鋏を南蛮というのもこの一説にならうところがあるようだ。
2010年12月22日
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堺 市松型小鋏165ミリ 141グラム岡恒D型200ミリ国治が165ミリ190グラム、この市松型小鋏は165ミリ142グラム。国治がいかに華奢な鋏か判断できる。緑摘みがキチンとされ、積年手入れされた松やミズマ(孫芽揃い出し)の手入れには最適な鋏といえる。堺のほか京都、名古屋、全国レベルで比較したとき関東の特に東京物は、完成度が高い割には、現場での機能性が低く極めて評価が低い。低評価の第一番は、形が大久保タイプなので中指にマメができ易い。マメの出来る鋏、これ程最低な鋏はない。1、軽すぎる2、鋏が小さすぎる3、裏隙が無いため樹脂が付く4、華鋏と混同している5、どの様な手入れに必要な道具か解っていない以上が評価の低い理由になる。では、堺のほか京都、名古屋では、その様なことが無いのは何故か?それは、鋏みを打つ打ち手にウルサイ刃物屋主人のリクエスト、ウルサイ使い手との間にコミュニケーションがあり、好い鋏が出来上がっているからだ。その点、岡恒は、改良をかさね良く切れる刃角度を割り出し、現在国内に現存する鋏の好い処を取り入れている。もう、ご存知の方もいらっしゃると思うが、岡恒B型植木鋏は、何故ないのか?を調べた。なので、岡恒B型植木鋏は、何故ないのか?を直接工場に尋ねた。話しによるとこの岡恒にかつてB型があったということをお伝えしよう。先ず、B型の特徴は、現在のD型と同系であった。それでは、何が違うか? それは、つる手(華道鋏の足先をワラビ手、指輪部分をツル手という)の先端部分に三角形の小窓があった。しかし、その小窓が製造過程において鋳物巣が出来易かった。(恐らく折れ易く)製造中止に至り、改良された型としてD型が製造されたという。
2011年02月15日
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剪定鋏剪定鋏の歴史をひも解く前に、剪定鋏がどうやって日本に入って来たかを考証してみよう。まず、本格的な農産物生産の取り組み方針のうえ、リンゴとブドウ生産が官設農場としてこの日本にもたらされた。その際、海外から専門家を招致し、技術習得のため留学が交わされ、海外の剪定鋏がモデルとして国内生産に引き継がれてきた。剪定鋏の特徴は、2種類ある。一つは、ドイツSOLIGEN(ゾリンゲン)型、これは、リンゴ栽培導入時、ドイツ人技師の招致から鋏も影響された可能性もある。リンゴが日本に渡来したのは、平安時代中期(900年頃)とされ、野生種であったという。食用リンゴが普及したのは、アメリカから75品種を輸入、苗木を全国に配布した明治4年(1871年)以降。その後市場に出ているのは30品種。初栽培は青森と思われがちだが、北海道函館市に隣接する小さな町七重村(現:七飯町)が初栽培の地。明治元年にドイツ人の農業指導者R.ガルトネルが “七重村農場”を開設、翌年(明治2年)には母国から取り寄せた苗木を植え付けた。これこそが日本における最初の栽培といわれています。リンゴに関してhttp://www.ringomuseum.com/工藤農園ならびに「薬師堂国定」三国剪定鋏製作所のネットでは、このように紹介されている。はじめて剪定鋏が売り出されたのは明治35年(1902年)で、三遠農学社がフランスの園用鋏をもとに作ったものとされている。「薬師堂国定」三国剪定鋏製作所http://www2.ocn.ne.jp/~mikuni/工藤農園http://kudofarm.el2.jp/feature/apple/tools/001/よりだとすればワインづくりの際、ブドウ栽培の技術習得よりフランス留学によって影響された鋏の可能性が高い。しかし、フランスに老舗の鋏メーカーが見当たらない。フランス周辺だとドイツ、イギリスからフランスに渡ったのであろうか。それともバルト海沿岸工業国スェーデン鋼を産出している関係上スェーデンからフランスに渡来したものなのだろうか。これらに比べるとスイスFELCO(フェルコ)の剪定鋏は1945年製造なので、比較的新しいので除外するとイギリスかドイツになる。スエーデンBAHCO(バーコ)社は、130年以上の歴史がある会社で1888年に創立されている。工具でおなじみのモンキーレンチを発明し特許を取得した会社であるがフランスとの地理的な距離をみるとすぐにフランスに渡ったとは思えない。やはり、フランスに隣接するドイツからの流入経路と考えることが自然であろう。となると同じドイツからゾーリンゲン型とヘンケルス型が日本にもたらされた。イギリス、スイス、スェーデンの剪定鋏の多くは、ヘンケルス型の形状は共通点を見る。ちなみに岡恒の剪定鋏は、ヘンケル型。ヘンケル型 剪定鋏(プルーマン)ゾーリンゲンとは、日本でいうと「大阪堺の刃物」というように地名を示し、ヘンケルスは、堺の「佐助」というように突出したメーカーといった関係になる。つまり、ゾーリンゲンは、普及版という捉え方になるのだろうか。「薬師堂国定」(三国剪定鋏製作所、南津軽郡大鰐町)http://www2.ocn.ne.jp/~mikuni/history.htmlこの薬師堂初代三國定吉の剪定鋏をみるとゾーリンゲン型であったといえる。もう一つ忘れてはならないのがバラ栽培であろう。バラ栽培に付き物なのがバラの剪定である。このバラの剪定に使われた剪定鋏が一体どの様な鋏であったのか。当時、鋏の書として数少ない書物である昭和62年発行の「鋏読本」にも記されていない。
2011年07月23日
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