のんびり生きる。

のんびり生きる。

昔は話が簡単だったのよ


「錯覚?」
「ええ、そう」富美恵は両手のひらをパッと広げた。
「お金もない。学歴もない。とりたてて能力もない。顔だって、それだけで食べていけるほどきれいじゃない。頭もいいわけじゃない。三流以下の会社でしこしこ事務してる。そういう人間が、心の中に、テレビや小説や雑誌で見たり聞いたりするようなリッチな暮らしを思い描くわけですよ。昔はね、夢見てるだけで終わってた。さもなきゃ、なんとしても夢をかなえるぞって頑張った。それで実際に出世した人もいたでしょうし、悪い道へ入って手がうしろに回った人もいたでしょうよ。でも、昔は話が簡単だったのよ。方法はどうあれ、自力で夢をかなえるか、現状で諦めるか。でしょ?」
 保は黙っている。本間はうなずいて先を促した。
「だけど、今は違うじゃない。夢はかなえることができない。さりとて諦めるのは悔しい。だから、夢がかなったような気分になる。そういう気分にひたる。ね? そのための方法が、今はいろいろあるのよ。彰子の場合は、それがたまたま買物とか旅行とか、お金を使う方向へいっただけ。そこへ、見境なく気軽に貸してくれるクレジットやサラ金があっただけって話」
・ ・・
「昔は、そう誰もかれもが、そういう錯覚を推し進めてゆけるだけの軍資金を持ってなかったでしょう? その軍資金を注ぎ込む対象、錯覚を起こさせてくれる側も、種類が少なかった。たとえばエステも、美容整形も、強力な予備校も、ブランドものを並べたカタログ雑誌もなかったものね」
 富美恵はタバコに火をつけることを忘れていた。
「だけど、今はなんでもある。夢を見ようと思ったら簡単なの。だけど、それには軍資金がいるでしょう。お金を持ってる人は、自分のを使う。で、自分ではお金がなくて、『借金』という形で軍資金をつくっちゃった人間が、彰子みたいになるんですよ。あの娘に言ってやったことがありますよ。あんた、たとえ自転車操業でお金借りてても、いっぱい買物して、贅沢して、高級品に囲まれてれば、自分が夢見る高級な人生を実現できたような気になれて幸せだったんでしょうって」
「彼女はなんと答えましたか?」
「そうだったって。そのとおりだったって」
「俺―なんかー」
保は額を拭っていた。
「よくわかんないけど・・・俺にもそういうとこがあるんじゃないかって気がしてきた」
富美恵は微笑んだ。「当たり前よ。あたしだってあるもの。ただ、その限度を知ってるってだけの話」



               「火車」 P411

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