《違いをもたらす40日 第22日目》

わたしがアメリカで
クリスチャンになったばかりの頃、
最初の一年の
わたしの心は
つぶやきで一杯
でした。
日曜日に教会へ行く度に
「 今日の礼拝はあまり恵まれなかった
」
「 今日の祈りはあまり心がついていかなかった
」
「 今日の賛美にはあまり感動がなかった
」
「 いつも仲良くしてる人が、今日は声をかけてくれなかった
」
「 奉仕をしてあげているのに、ねぎらいの言葉もなかった
」
「 今日の聖書のメッセージは、あまり心に響かなかった
」
などなど・・・
このように、
教会へ行く度に
わたしの心は
つぶやきや不平不満に満ち溢れ、
教会に来たときよりも
帰るときのほうが
より罪深くなってしまいながら、
教会に行ったり、行かなかったり、
他の教会をぐるぐる回っては、
延々と同じつぶやきを繰り返し、
生まれたばかりのクリスチャンだった
わたし自信にとっては、
とても苦しい日々だったのを思い出します。
今から振り返ってみれば、
その頃のわたしは、
「 礼拝の中心は神様であり、
神様の喜びのために捧げる
」はずであるのを、
礼拝の中心に自分を据えて、
自分の喜びと満足を最優先に求めていた
わたしの自己中心の結果が
そのような苦しみを自ら招いた
のだ、と
悔い改めるばかりですし、
そこに気づくまでの道のりは
とても長かったように思います。
あなたはいかがでしょうか。
もしかしたら、
教会の礼拝に行く度に
「 なぜ、わたしの信仰生活は、恵まれないんだろう
」
と感じてしまっているせいで、
悶々としたクリスチャンライフを
過ごしていらっしゃる方もいるかもしれません。
色々な方たちからお話を聞いてみると、
「 今日の〇〇は、あまり恵まれなかった・・・
」
と不満を洩らしながら、
神様の存在が遠く離れてしまった
ように感じたり、
神様の愛がどんどん薄れていく
ように感じたりして、
空しい思いに苦しんでいる方は、以外に多いようです。
しかし、
聖書の神様の約束に
今一度、目を向け直した時、
そのような思いはすべて
大きな勘違いであることを知らされるのです。
エレミヤ書31:3を通し、神様はこのように語りかけます。
「わたしは、
とこしえの愛
をもって
あなたを愛し、
変わることなく
慈しみを注ぐ。」
そうです、
あなたがどのように感じようとも
、
イエス・キリストを通して
あなたに示された愛は、
永遠に変わることがなく、
無限に注がれ続けている
、
というのが真実なのです。
つまり、
あなたが神様を小さく感じることで、
神様が小さく縮んでしまうのではありません。
あなたが神様が遠い存在に感じることで、
神様が遠くへ飛び去ってしまうわけでもありません。
あなたが、「 恵まれなかった
」と感じることで、
神様の恵みが薄れてしまうこともあり得ないのです。
あなたの気持ちの浮き沈みに振り回されて
神様の存在が浮き沈みすることはありません。
あなたがどのようの状況にあっても、
神の愛は永遠であり、
神の恵みは、
今この瞬間も
溢れるほど豊かに
注がれ続けているのです。
そのことを聖書ははっきりと証しています。
神は、あなたがたが いつもすべての点で
すべてのものに十分
あらゆる善い業
に満ちあふれるように、
あらゆる恵み
をあなたがたに
満ちあふれさせる
ことがおできになります。
(IIコリント9・8)
いかがでしょうか。
神様によって、
わたしたちは既に
溢れるほど豊かに
満ち足りている
素晴らしさを実感しませんか。
永遠に無限に
注がれ続ける
神の恵みが、
あなたの個人的な
気分しだいで
増えたり減ったりしないのであれば、
「 今日の〇〇〇は、
あまり恵まれなかった
」などと、
いったいどうして
つぶやけるでしょうか。
聖書は、そのような
移ろいやすい人の心を
「風に吹かれて揺れ動く海の波に似ている」(ヤコブ1:6)
と表現しています。
また、
「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人」(ヤコブ1:8)
とも、呼んで警告しています。
「神様の愛が遠く離れていく」ように感じているときや、
「神様の恵みが薄らいでいく」ように感じているときだからこそ、
決して変わらない
神の愛から絶対に目を離さず
、
ただただ
感謝と賛美の祈りを捧げるだけでよい
のです。
神様の本当の姿を
あなた自身の
魂の目で、
見つめ直すのは
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