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人はただ一念貪私(どんし)なれば、すなわち剛を銷(しょう)して柔となし、智を塞ぎて昏となし、恩を変じて惨となし、潔を染めて汚となし、一生の人品を壞し了(おわ)る。 一念貪私とは激しい欲望で頭がいっぱいになっている状態。そうなってしまえば強固な意志は骨抜きとなり、澄んだ理性は曇り、愛情は残酷に変わり、潔癖が恥知らずとなり、人格のすべてが台なしとなってしまう。 だから欲望と離れることこそが、世の汚れから超越する道であると洪自誠は説く。 仏教では、人間のとどめない欲望こそが一切の苦の原因だと説いているが、確かに「貪」は人間の原罪かもしれない。鳥や獣は本能のままに生きているが、彼らの欲望は、自分の生命の維持と子孫を残すという必要の範囲内に限られている。野生動物が争うのは、わが身を守るためか、食物や配偶者を獲得するためのやむを得ぬ行為にすぎない。 それに比べれば、人間の欲望、とりわけ権力欲、支配欲はまさに際限がない。これを満たすためには、正義を名目とした大量虐殺さえも平気でやってきた。 そのような業(ごう)を背負った人間であることを自覚して、欲望のコントロールを忘れぬようにしたいものである。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.06.02
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泛駕(はんが)の馬も駆馳(くち)に就くべし。躍冶(やくや)の金もついに型範に帰す。ただ一に優游(ゆうゆう)して振わざるは、すなわち終身、個の進歩なし。 暴れ馬も調教次第で立派に乗りこなせるようになる。鋳型からとび出す金もやがては型に納まる。手に負えぬような人物も、のちにはけっこうものの役にたつものだ。 これに反して、手数はかけぬかわりに、何の意欲もみせず、のんべんだらりと日を送るような人物は、一生かかっても何の進歩も期待できないというわけである。 黄門さまこと徳川光圀はなかなかの人物通で、こんなことを言っている。「世間では、生まれつききまじめな者をすぐれた人物だと思っているが、本当に最上の徳を備えた人とは聖賢のことであって、今の世にはおられない。今どき、生まれつききまじめだと言われている者の多くは愚か者である。また、若いときは放蕩して手におえなかったようなのが、のちにはすぐれた人物となる例が多い」 人間としての生命力に恵まれている人物は、それを使いこなすコツがわからない若いうちは、とかく暴走しては問題を惹き起こしがちだ。だが、そのぐらいのバイタリティの持ち主でなかったらものの役にたたぬとする点で、洪自誠と光圀の見方はみごとに一致している。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.06.01
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心は虚ならざるべからず。虚なれば義理来たり居る。心は実ならざるべからず。実なれば物欲入らず。 人の心に雑念がなければ、正義感と理性がそこに育つ。人の心が理想に満ちていれば、欲望がつけ入る隙はないという意味だろう。 虚であれ、また実であれというのは矛盾した注文だが、心の中にあってならないものは何か、また、なくてはならないものは何かと考えてみれば納得がいく。 あってほしくないものの筆頭は、凝り固まった偏見や独善だろう。自分ではそれが正しいと信じきっているから、殻を閉じた貝のように、いっさいの批判や助言を拒否して我を押し通す。それに比べれば物欲や愛欲などは、そのとき時の状況次第で始終移り変わるから、よほど始末がよい。 また、心の中になくてはならないものといえば、みずからをより高めようとする意欲だろう。社会的な正義感、美への感受性、真理への探求心を磨き続ける気持ちを失うことがなければ、つまらぬ欲望に足を取られてつまずくおそれもあるまい。 人間、理想を抱くことは肝心だが、それが独善に陥るととんでもない害悪を流す結果となる。そうならないためには、自分自身が未完成であることを常に自覚して向上をめざしたい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.31
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一苦一楽、相磨練し、練極まりて福を成すは、その福始めて久し。一疑一信、相参勘し、勘極まりて知を成すは、その知始めて真なり。 あるときは喜び、あるときは苦しむ修行をし尽くした上で得た幸福であれば、いつまでも永続きする。あるときは疑い、あるときは信ずる検討、追究の果てに得た認識であれば、それは初めて真実といえよう。苦労の末に身についたものでなければ、本物とは言えぬということである。 将棋の大山康晴永世名人が、かってこう言っておられた。「私が今でも幸せだったと思っているのは、伸びざかりの時期に升田(幸三)さんにさんざんいじめられたことです。修業時代にたいしたライバルがいなくて、すーっと出てきた人は、どうも永続きしませんね」 知識や技術の習得も、人生修業も、苦しんだり悩んだりしながらの中身の濃い体験を経てこそゆるがぬものとなる。 その点、緻密に計算されたマニュアルに従って短時間に効率よく進められる現代の職業教育には、いささか頼りなさを感じずにはいられない。成功の喜びと失敗の苦さを味わいつつ仕事を身につけていくOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)の普及は、その反省によるものだろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.30
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十語九中(あた)るも、いまだ必ずしも奇と称せず。一語中らざればすなわち愆尤(けんゆう)駢(なら)び集まる。十謀九成るも、いまだ必ずしも功を帰せず。一謀成らざればすなわち訾議(しぎ)叢(むら)がり興る。 愆尤は過ちをとがめること、訾議は非難する議論のこと。この言葉も会社の中などでよく見る風景である。 人が物事を予測したとき、十中八九は的中しても「そんなことは誰でもわかっていたさ」とさして感心しなかったのが、一つでも見通しがはずれると「そんな不確かな予測でどうするんだ」「データはきちんと取ったのか」などと責めたてる。十の計画を立てたうち九つまで成功してもあたりまえのような顔をしていた連中が、一つでも失敗した計画があると、「どうしてそんなことになったんだ」「この責任はどうする」などと騒ぎたてる。 要は、ひとの功績はおもしろくなく、失敗すると鬼の首を取ったようにはしゃぎ回る手合いが、昔も多かったということだ。彼らの根性を改めるのがむずかしい以上、組織の中ではあまり先見性をひけらかしたり、企画力を誇ったりしないほうがよさそうだ。すぐれた着眼やアイデアは有力な上司に進呈して功を譲っておいたほうが無難である。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.29
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悪をなして人の知らんことを畏るるは悪中なお善路あり。善をなして人の知らんことを急ぐは、善処すなわちこれ悪根なり。 悪事を働いても、それが露見するのを恐れているようであれば、まだ一片の良心を抱いているといえる。善行を積んでも、それが早く人に知られればよいと願っているようでは、善行の中に悪の芽が潜んでいるのだという。『論語』にも「免れて恥なし」(ばれさえしなければ恥ずかしいとも思わない)とあるように、多くの場合、悪いことをしたときには、それを悔いる心より、露顕しなければよいがという心配のほうが先に立つ。だが、それを気にするだけでも、まったく何も感じないよりははるかにましだというのだ。発覚を恐れる心の中には、少なくとも悪いことをしたという自覚があるからだ。その自覚が反省の土台となり、立ち直りのきっかけとなることを洪自誠は期待したらしい。 一方、いくら善行に努めていても、それを自己PRの種にしようとする人物に対しては洪自誠の目はきびしい。どんな善行を積んでいようとも、それが俗っぽい欲望の手段となっている以上、いつ、どんな拍子でひっくり返るかわかったものではないからだ。 悪行の中に善の芽を見、善行の中に悪への傾斜を見た彼は、すぐれたリアリストだった。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.28
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人は名位の楽しみたるを知りて、名なく位なきの楽しみの最も真たるを知らず。人は饑寒(きかん)の憂いたるを知りて、饑えず寒(こご)えざるの憂いのさらに甚しきを知らず。 高い地位と知名度を得ることは、とりわけ自己顕示ばやりの現代において、多くの人の理想とするところだろう。だが、いざそれを手に入れてみると、よいことずくめとはいかないようだ。地位が高ければ高いほど負わされる責任は重く、世間の見る目はきびしくなる。 ある女性議員は「少し派手にするとけばけばしいと言われ、地味にするとダサいと言われ、服装やお化粧にまでひどく気を遣います」とこぼしていた。有名人の私行のすっぱ抜きが大流行の昨今、たいていのことではニュースにならない平凡人の自由さがうらやましいのではないか。 生活は苦しいより楽なほうがよいにきまっている。食べものにも住む家にもこと欠いた四十年前のような体験は、もうこりごりである。だが、当時から見ればまるで天国のような満たされた生活の中で、人々は本当に幸福を満喫しているだろうか。周囲から羨望されていた模範家庭があっさりと崩壊したり、働きざかりの有能な管理者がうつ病で自殺したりするのを見ると、物質的には満たされた中での不安や悩みの深刻さに、考えこまざるをえない。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.27
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名根(めいこん)いまだ脱けざるは、たとえ千乗を軽んじ一瓢に甘んずるも、すべて塵情に墜(お)つ。客気(かくき)いまだ融けざるは、四海を沢(たく)し万世を利すといえども、ついに剰技(じょうぎ)となる。 何万石もの地位に見向きもせず清貧に甘んじているように見えても、心の底にまだ名誉心が残っているうちは、ただの俗物根性だ。 天下に恵みを垂れ、後世にまで功績を残しても、それが功名心から出たものならば、野心を遂げるための手段にすぎない。 この項に見るとおり洪自誠は、動機の純粋さについて非常にきびしい見方をしている。 現代においてとりわけ支配的となった功利主義的な価値観のもとでは、ひたすら結果、それも目に見える物質的な成果だけで人間が評価され、動機や途中の経過は無視されがちである。 だが、その功績がどれほどすばらしくとも、動機に不純なものをもつ人間は、状況次第でどう転ぶかわからない。その危険を見落としていると、とんだ事態を招かぬとも限るまい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.26
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欹器(いき)は満をもって覆り、撲満は空をもって全し。 欹器とは、水を半分入れればちゃんと立つが、いっぱいに満たせば倒れるように作られた器。古代中国の天子はこれを用いて自戒したという伝説(『孔子家語』など)がある。撲満とは、わが国のダルマの貯金箱のような焼きものの貯金箱。いっぱいになれば割られてしまう。 人生もそれと同じで、頂上まで登りつめればあとは下り坂しかない。 藤原氏の栄華は、あの道長が「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることのなしと思へば」と詠んだ寛仁二年(一〇一八)を頂点として、次第に下降線をたどっていった。 この名高い歌は、道長の第三女威子(いし)を後一条天皇の中宮とした儀式ののちの祝宴で詠まれたもの。これによって道長は、その三人の娘をそれぞれ天皇の后とし、また二人の天皇の外祖父となった。だがそれ以後の藤原家では、一族の病死が相つぎ、関東、東北の兵乱、朝廷からの巻き返し等によって、さしもの栄華にもかげりがめだっていくのである。 組織も、また個人も、欲望の百%の充足を目ざすことは、しばしば危険を招く。爪先立ちした足もとは不安定で、ちょっとの衝撃にも平衡を失ってぐらりと揺れる。 何事も七、八分にとどめて地力を養う心がけは、人生全般に必要ではなかろうか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.25
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真廉(しんれん)は廉名なし。名を立つるはまさに貪となすゆえんなり。大巧は巧術なし。術を用うるはすなわち拙となすゆえんなり。 本当に清潔な人というものは、そのような評判をたてられることはない。しきりと潔癖を売りものにするのは、実は名誉欲の強い人なのだ。 最高のわざを身につけた人は、小手先細工はしない。器用さをひけらかすのは未熟者の証拠だ。 あるとき一休禅師が小僧を連れて歩いていると、道端のうなぎ屋からいい匂いがしてきた。禅師、目を細めて「うまそうだな」とつぶやく。二、三丁過ぎてから小僧がおそるおそる尋ねた。「ご出家があのようなことを言われてもよいものでしょうか」 一休禅師、笑って曰く「なんだ、おまえはまだうなぎをぶらさげていたのか。わしは店の前に捨ててきたぞ」 潔癖と見られたい、みごとな腕前とほめそやされたいというこだわりの心があるうちは、道々うなぎのことばかり考えていた小僧さんのように、どこまでいっても自然自在の境地に達することはむずかしそうだ。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.24
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士君子、幸いに頭角に列し、また温飽(おんぽう)に遇う。好言を立て好事を行なうことを思わざれば、これ世にあること百年なりといえども、あたかもいまだ一日も生きざるに似たり。 春ともなれば無心の花や鳥でさえ、美しく咲き、楽しげに歌う。人にとっての春とは、幸いにも選ばれて高い社会的地位に昇り、豊かな生活を保証されたときだろう。 そのような恵まれた立場にありながら、すぐれた発言、立派な行動によってみずからの責任を果たそうとしなければ、この世に生きているかいがないではないかと洪自誠は憤るのである。 この項は私たちに、出世は何のためにするのかという問題をつきつける。 組織の中でも世の中でも、同じことを言ってもしても、地位があるとなしでは、その影響力は大違いである。だから自分の理想を実現しようとするなら、努力して高い地位に昇ることで、その影響力を大きくせねばならない。これが本来の意味での立身出世の目的だろう。地位の向上に伴う名誉や富は、結果としての副産物にすぎないはずだ。それなのにそちらばかりを出世の目的と考えて、立身ののちはもっぱら特権をむさぼることしか考えぬやからが多いから、立身出世という言葉まで、すっかり俗っぽく手垢にまみれてしまったのではないだろうか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.21
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富貴名誉の、道徳より来たるは、山林中の花のごとし、おのずからこれ舒除繁衍(じょじょはんえん)す。功績より来たるは盆檻中の花のごとし。すなわち遷徙廃興(せんしはいこう)あり。もし権力をもって得るは、瓶鉢(へいよう)中の花のごとし。その根植えざれば、その萎むこと立ちて待つべし。 誰もが願う地位と名誉を、人生の花にたとえてその三態を示す名句。 すぐれた人格によって得た地位名誉は山野に咲く花。放っておいても伸び伸び栄える。 功績によって得た地位名誉は鉢植えの花。ご主人の一存で植えかえられたり捨てられたり。 権力にとり入って得た地位名誉は花瓶にさした花。見ているうちにたちまちしおれる。 だがさて、鉢植えの花、花瓶の花の運命はよくわかるが、すぐれた人格は果たしてゆるがぬ地位名誉を保障してくれるものだろうか。 すぐれた人格によって山野の花のように伸び伸びと栄えるのは、世間的な蓄財や立身出世などではなくて、みずからの良心を偽ることなしに生きる心の満足のように思われる。 さもないと善人栄え、悪人亡びるの俗っぽい教訓になってしまう。文章の妙に酔って、いささか筆がすべったようだ。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.20
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人心に一部の真文章あり、すべて残編断簡に封錮しおわる。一部の真鼓吹あり、すべて妖歌艶舞に湮没しおわる。 すべての人の心の底には、必ず真の文章、すなわち生まれながらの理性が備わっている。だが多くの場合、それらはがらくたのような知識のかけらに覆われて、その真価を発揮していない。 すべての人の心の奥には、必ず真の音楽、すなわち天から授かった感性が備わっている。だがたいていそれは、怪しげな芸術によってかき曇らされている。 ひとさまのことはあまり言えないが、もの知りとか知識人とか言われている人の中には、よくまあ、そんなことまで知っていると感心させられても、より次元の高い、洞察力や創造性は一向に感じさせてくれない例が少なくない。 もちろん、知識、教養は豊であればあるほどいいのだが、それが豊かであることだけに自己満足して天狗になってはならない。一度、余計なものをさっぱり捨て去って、自分の目で見、自分の頭で考えてみたらどうかと、洪自誠は言っているのではないだろうか。 芸術の道についてもそのとおり。本当の名人にとって、なまはんかな通の批判はこわくないが、しろうとさんの直感的な指摘が一番こたえるという。情報過多の時代、心しておきたい教えである。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.19
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能者は労しても而も怨みを府(あつ)む。何ぞ拙者の逸にして真を全うするにしかん。 ビルのエレベーターの中でよく耳にする会話。「お忙しいですか」「いやぁ、貧乏暇なしでバタバタしております」 こんな場合、忙しいだろうと言われると悪い気はしないようだ。自分がこんなに忙しいのは、それだけ能力を認められ、期待されているからだという自負心をくすぐられるからである。だから口では「貧乏暇なし」などと言いながら、自然と鼻の穴がふくらむのである。 だが、能力を買われて忙しく追い回されるのが、そんなにいいことだろうか。それは自分が備えていた能力が、、たまたま世間様のニーズに合っていたからにすぎない。得意になっている自分の陰には、日の当たらない大勢の人たちが、隙あらば引きずりおろしてやろうと狙っている。 そして情勢の変化の中で忘れられ、お声がかからなくなったとき、過去が華やかであればあるほど、辛い思いをさせられるのが、かっての「能者」の宿命である。 そこへいくと、特別のとりえもない「拙者」は気楽なものだ。むりに檜舞台に出ようとする気もなく、置かれた条件に安んじて、誰からも怨まれたり羨まれたりすることなく、一生を終わることができる。そのほうがよほど価値ある人生ではないかというのである。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.18
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一の善行を見ては竊(ぬす)みてもって私を済(な)し、一の善言を聞いては仮りでもって短を覆う。 これは昔の書物を読むときの誤った態度を批判した言葉だ。書物を読むのなら心の中を清浄にして、古人の善行や名言を自分の修養、向上のために役立てねばならない。曲がった根性の者がなまじ勉強すると、善行や名言を自分の欲望を遂げるヒントにしたり、よからぬ行為を合理化する口実に使ったりするというわけだ。 古今東西にわたる情報量が昔とはけた違いに多くなった現代では、「私を済し、短を覆う」ための材料にはこと欠かない。 これを最も恥知らずにやってのけるのが政治屋と称される人たちだ。どす黒い策謀を胸に秘めて「光風霽月」とうそぶいたり、ぬきさしならぬ汚職の証拠をつきつけられても「青天白日」を信じたりすることに、何のやましさも感じないらしい。 歴史ブーム、古典ブームで、東西の英雄豪傑の波瀾万丈の生涯が小説やテレビドラマで人気を集めているが、これも受け手の人格次第では手放しで喜べない。動乱の世に生きた古人が生き残るために権謀術数を尽くした事跡を、自分が野望を遂げるための手練手管の手本にしようという向きが少なくないからだ。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.17
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人の際遇(さいぐう)は斉(ひと)しきあり斉しからざるあり、而してよく己をして独り斉しからしめんや。己の情理は、順なるあり順ならざるあり、而してよく人をしてみな順ならしめんや。 際遇は置かれている環境、情理は心理状態と理解しておけばわかりがいい。 私たち一人ひとりが置かれている環境条件を見れば、まさに十人十色、これが人並みという線など、どこにも引けるものではない。それなのに各人が、自分なりの“人並み環境”を胸に描いて、満足したり、不満を抱いたりしているように思われる。むしろ、育ってきた環境も、現在の生活条件も、さまざまであることをすなおに認めて、個性ある人生を心がけたい。 また、人間の気持ちというものは、そのときどきに千変万化する。自分のことを考えてみても、機嫌のよいときはばかに寛容になるし、いらいらしているときはカラスがカアと鳴いても腹が立つ。これは他人さまと同じことで、どんなときにも同じ態度で接してくれるのを期待するほうがそもそもむりなのだ。 だから、その時々の相手の出方に一喜一憂することなく、出方次第で自由自在に対応すればよろしいというのである。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.15
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恩を施すには、内、己を見ず、外、人を見ざれば、すなわち斗粟(とぞく)も万鍾(ばんしょう)の恵(けい)に当つべし。物を利するには、己の施しを計り、人の報いを責むれば、百鎰(ひゃくいつ)といえども一文の功を成しがたし。 これも前項と同じく、人に恩を与えるときの心がまえだ。そのときにあたって、自分の行ないの美しさを意識せず、人々の感謝や称賛を期待しないようであれば、わずか粟一斗の施しでも何万石もの価値がある。 それに反して、人に施すことによって自分の利益を図ったり、見返りを期待するとしたら、何万両の金を与えても、ビタ一文の価値もないというのである。 とはいうものの、何らかの自己満足や報酬への期待を抱くことなしに身銭を切るなどということは、われら凡人には、ちょっとできそうにない。たとえ目に見える効果は期待せず、純粋な善意からの行為であっても「ああ、いいことをした」と「内、おのれを見」てご機嫌になるのではなかろうか。 洪自誠もむずかしい注文をするものだ。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.13
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われ、人に功あるも念(おも)うべからず、而して過ちはすなわち念わざるべからず。人、われに恩あらば忘るべからず、而して怨みはすなわち忘れざるべからず。 自分が与えた恩は忘れよ、犯した過ちは忘れるな。受けた恩は忘れるな、受けた怨みは忘れ去れという、一見平凡な人生訓だが、これがなかなかむずかしい。 誰しも、自分が何らかの犠牲を払い、負担を受けたときには、たとえ自発的にしたことでも、有形無形の“お返し”を期待せずにはいられない。早い話が、歳暮中元の贈り物だって、上司や得意先に贈るときは何らかの効き目を期待し、知人や親戚に贈ったときはお返しは何が来るかしらと思ってしまう。 よく、近ごろの若い人は世話をしてやっても報告ひとつしてこないと腹を立てているおとながいるが、これもやはり精神的なお返しへの期待を裏切られたくやしさが先に立っているようだ。 反面、受けた恩を返すことはついつい忘れ、受けた怨みはなかなか忘れられないのも人情の常で、ちょっと反省してみれば、私などもお世話をかけた方々にずいぶんと不義理をしてきた。 だがそれだけに、万事について義理固く世話になった挨拶を欠かさぬ人は、今の世では稀少価値があるから、信用され、かわいがられて、大いに得をするのではないだろうか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.12
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治世に処してはよろしく方なるべく、乱世に処してはよろしく円なるべく、叔季(しゅくき)の世に処してはまさに方円並び用うべし。 正しい秩序が確立した時代には、姿勢を正して生きよ。秩序が乱れた時代には柔軟に生きよ。混沌とした末世には、正しい姿勢を保ちつつも柔軟な対応を忘れるな。 時代時代に応じての生き方を洪自誠はこう説いたが、おそらく官僚、政治家を念頭に置いての言葉であろう。 会社に当てはめれば、治世とは、明確な企業理念のもとに、経営陣、管理層、一般社員が一致結束して社業に励んでいる企業。ここではリーダーの指導に従って、まじめに努力すればそれなりに報いられる。 だがそんな理想的な職場はめったにない。社内の派閥抗争が絶えず、年中、ずったもんだしている「乱世」のような組織で生き残ろうと思ったら、世渡り上手だ、八方美人だと言われても気にせず、できる限り敵を作らず、しかも、いなくてはならぬ存在になるのが賢い。また、企業が一つの曲がり角にさしかかって、これからどうなるかわからぬ「叔季の世」にあっては、自分の所信、方向性だけは堅持しつつも、全天候型で状況の変化に対応できる柔軟さが求められよう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.11
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福は事少なきより福なるはなく、禍は心多きより禍なるはなし。ただ事に苦しむものは、まさに事少なきの福たるを知る。ただ心を平らかにするものは、始めて心多きの禍いたるを知る。 人生の幸不幸を分ける判断基準はさまざまだが、洪自誠はここで「事が少ないこと」と「心が平らかなこと」を幸福の最大の要件としてあげている。彼はいう。 幸福といえば、わずらわしい出来事が少ないことにまさる幸福はない。不幸といえば欲望が多いことにまさる不幸はない。いろいろな事で苦労をしたあげくに、面倒が少ないことの幸福を悟り、心を平穏にすることができて、初めて欲望が多いことの不幸を悟るというのである。 だがこれは、いささか引っこみ事案の考えではあるまいか。人間、この世に生きていくからには、ある程度の外界の刺激は心身の活性化に不可欠だし、欲望がすっかり枯れてしまっては生きているかいがない。 そう思ってもう一度読み直してみると「ただ事に苦しむものは」の句が目に入った。おそらく筆者は人生の後半に入って、みずからは望もしなかった権力争いの渦中に巻きこまれて心身ともに疲れ果て、そこからのがれて、初めて「事少なきの福」を得たのではないだろうか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.10
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もし徳を修めて意を事功名誉に留むれば、必ず実詣なし。書を読みて興を吟詠風雅に寄すれば、定めて深心ならず。 人格の修養を目ざしながら、一方で功績や名声にあこがれるようでは、向上はおぼつかない。学問を学んでも得た教養を風流ごとの楽しみにばかり用いていては、神髄を体得できない。 何事をするにつけても、見失ってならないのは、その本来の目的だ。 利益追求を本分とする企業家が利潤獲得に骨身を削るのは仕事熱心として評価されるが、真理の追求や美の表現に生きるはずの学者や芸術家が、なまぐさい勢力争いや財産づくりに血眼になっているのはみっともない。 若い人たちに言いたいのは、職業の選択にあたっても、何を求めてその仕事を撰ぶのかを考えてほしいということだ。 自分の適性に合った仕事を求めるのは結構だが、生活のための職業である以上、気の向くことしかやりたくない、でも、お金はたっぷり下さいというのは、少々ムシがよすぎはしないか。好きな道に打ちこむのなら貧乏暮らしは覚悟の上、豊かな生活を願うなら多少の不満はこれも世渡りのためと割り切っていかないと、欲求不満ばかりが昂じるだろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.08
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身を立つるには一歩を高くして立たずんば、塵裡(じんり)に衣を振い、泥中に足を濯(あら)うがごとし。いかんぞ超達(ちょうたつ)せん。世に処するに一歩を退いて処(お)らずんば、飛蛾(ひが)の燭(しょく)に投じ、羝羊(ていよう)の藩(まがき)に触るるがごとし。いかんぞ安楽ならん。 自己の向上を図るならば、周囲より一段高い理想をめざすことだ。さもなければ、塵の中で着物を払い、泥水で足を洗うようなもの、人格の成長は望めない。 だが、社会生活にあっては足どりは慎重にし、人より一歩遅れるほどがちょうどよい。さもなければ光を求める蛾が火の中に飛びこんだり、盲進した牡羊が垣根に角を引っかけて進退きわまるような始末となろうというのだ。 手短にいえば、内面の充実のためには誇り高く、積極進取の姿勢で、社会生活の上では慎重な態度で災いを防げということだが、これはなかなかむずかしい。 自分の内面を磨く自己啓発には一向に不熱心なくせに、めだちたがるのが大好きという傾向は、一億総タレント化の昨今の風潮のもとで、一層拍車がかかっている。いつもスポットライトを浴びてないと気がすまぬ向きは、光に目がくらんで火にいる夏の虫にならぬよう、ご用心、ご用心。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.07
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かれは富、われは仁、かれは爵、われは義。君子もとより君相(くんしょう)のために牢籠(ろうろう)せられず。 富によって屈服を迫る者に対しては、仁によって対抗しよう。権勢によって支配しようとする者に対しては道義によって対抗しよう。君子たるもの、支配者の思うままにはならないぞという決意の表明である。 私たちが、何らかの面で自分よりすぐれていると思う相手に対して、敗北感、劣等感を抱くのは、相手と同じものさしで自分を計ってしまうからだ。 人間の価値観は一人ひとり違っていてこそおもしろいのだ。学問や芸術の世界でも、それぞれが得意とする分野を持っていれば、それ以外の面で劣っていようとも、自分も平気だし、他から軽蔑されることもあるまい。 人間として守るべき道を知り、そして実践しているという確固たる自信があるならば、富だ、権勢だ、外見だ、才能だといった優劣の比較に、心を動かされずにすむだろう。 富者に対して卑屈になるのは、そのおこぼれにあずかろうとする心があるから、権力者に追随するのは、その力にすがって保護を求めようとするからである。彼らと同じ土俵、同じ価値観のもとに接するならば、所詮、勝ち目はなく、手先に使われるほかはないだろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.06
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念頭濃やかなるはずみから待つこと厚く、人を待つこともまた厚く、処々みな濃やかなり。念頭淡きは、みずから待つこと薄く、人を待つこともまた薄く、事々みな淡し。 自分を大切にし、人にも至れり尽くせりで万事に行き届いている人物がいる。かと思えば自分のことは一向にかまわず、人のことにも無関心な人物がいる。 だが、どちらも行き過ぎるのは感心しない。あまりに親切すぎる人は、とかく相手の立場を考えずに、ありがた迷惑な善意の押しつけをしがちだ。また、人に対する期待感が強くて、冷淡だ、不親切だと不満を抱くことが多い。 そうかといって、あまりに淡々としすぎているのも考えものだ。「人、生まれて群なきこと能わず」(『荀子』)で、社会的存在である人間は、所詮、一人では生きられない。お互いに補い合い、助け合う中こそ、この世に生きる喜びがあるのではなかろうか。 干渉過多を招くべたべたした関係に陥らず、さりとて、てんでんばらばらに孤立することもなく、ほどほどの親密さと、ほどほどの距離を保った人づきあいというのは、意外とむずかしい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.05
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魔を降すには、まず自心を降す。心伏すれば、群魔退き聴く。横を駆(ぎょ)するには、まずこの気を駆す。気平らかなれば、外横侵さず。 まず、みずからの心にうち勝とう。そうすれば、どんな誘惑でも退散するだろう。まず、みずからの心をコントロールしよう。そうすれば、どんな妨害もつけ入ることはできない。 この項は、お釈迦様が最高の悟りを得るのを妨害するため、欲界(物質的な欲望の支配する世界)の王、マーラが秘術を尽くし、ことごとく失敗したという仏教説話を思い出させる。マーラは、端座して瞑想するお釈迦様を怪物の大群で威嚇し、妖艶な美女で誘惑するが、何の効果もない。矢を射かければその矢は美しい花束となり、炎を吹きかければ炎はみごとな天蓋となってお釈迦様をますます神々しくするばかりである。ついにマーラは、お釈迦様を俗界の世界の王者とすることで、その悟りを捨てさせようとするが、相手とされず完全に敗北する。 この「降魔成道(ごうまじょうどう)」の物語は、人々一人ひとりの心の中にマーラが住みついており、日々の生活は、このマーラとの戦いにほかならないことを教えている。 お釈迦様の高遠な悟りにはほど遠くとも、みずからの内面にしっかりとした拠りどころをもつことによって、外からの誘惑や妨害にいちいち心を動かされぬようしたいものである。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.04
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むしろ渾噩(こんがく)を守りて、聡明を黜(しりぞ)け、些(さ)の正気を留めて天地に還せ。むしろ紛華(ふんか)を謝して、澹白(たんぱく)に甘んじ、個の清名を遺して乾坤にあれ。 利口ぶるのはやめて、無骨な率直さを守り、自分の本心を見きわめて、天地と一体となって生きよう。華美な暮らしには背を向けて、さっぱりとした境涯に安住し、そのすがすがしい一生を長く天地にとどめよう。 一度だけの人生なのだから、悔いはできるだけ少ないほうがよろしい。あと味の悪い悔恨にさいなまれるのは、多くの場合、自分を実力以上に見せようとして才能をひけらかしたり、見栄を張って派手な言動をしたりした罰である。 調子に乗ってついつい本音を出した放言が国際的な批判を招き、あわてて陳謝して世界の不信を買うような人物がその典型だろう。 自分の知の限界を知るというのは案外とむずかしい。孔子様も「知らざるを知らずとなせ。これ知るなり」(『論語』為政篇)と言っておられるが、自分の知識も、才能も、人格も、まずはこの程度のものだと心得て、身の丈相応、へたに背伸びしなければ、いつでも、誰とでも、正味そのままにつきあえてすこぶる気が楽ではなかろうか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.03
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小人を待つは、厳に難からずして、悪まざるに難し。君子を待つは、恭に難からずして、礼あるに難し。 くだらぬ人物に対して厳しく接するのはたやすいが、愛情を失わずに接するのは難しい。すぐれた人物に対しては、うやうやしく接するのはやさしいが、卑屈にならずに礼節を守ることは難しいという意味である。 対人関係において、社会的な序列に従ってのマナーは、おとなだったら誰しもひととおりは心得ている。上司や得意先に対してと、部下や下請けに対してとでは、それなりに違った言葉や態度で接しているはずだ。 だが、このような社会的な序列と人格とは必ずしも一致しない。目上の人の中にも尊敬に値しない人物もいれば、目下の人の中にも一目も二目も置かねばならぬ人がいるものだ。 人が人を評価するほどむずかしいことはない。簡単にレッテルを貼って全面否定したり、ベタ惚れしたりすることなく、寛容と節度をもって接するよう心がけたい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.02
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利欲はいまだ尽くは心を害せず、意見はすなわち心を害するの蟊賊(ぼうぞく)なり。声色はいまだ必ずしも道を妨げず、聡明はすなわち道を障(さまた)げるの藩屏(はんぺい)なり。 利益を求める心は、さして人の本心を傷つけるものではない。それよりもっと恐ろしいのは偏見に凝り固まることだ。愛欲の心は、それほど人の成長を妨げはしない。それよりはるかに有害なのは知ったかぶりの独善だ。 一見、皮肉な反語のように思える言葉だが、小は私たちの周囲の人間関係から、大は歴史や国際政治の上にも、これを立証する例はいくらでもある。 人間、物欲や男女の愛欲に駆られてやることは、だいたい決まりきっていて、一応、欲望が満たされてしまえば、個人的な次元でかたがついてしまう場合が多い。 これに反して、独善的な使命感、正義感は、これに凝り固まった人々をしばしば集団の狂気に駆りたてて、みずからと周囲にはかり知れない被害を及ぼしてきた。 このような「意見」と「聡明」は、人々からみずからを反省する謙虚さと、事実を事実として見る冷静さを失わせて、孤立化と破滅の道を突進させる。彼ら「確信犯」の危険性に比べれば、そのときどきの利害でどうにもなる打算主義者のほうが、よほど始末がよいのではなかろうか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.05.01
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功名富貴の心を放ち得下して、すなわち凡を脱すべし。道徳仁義の心を放ち得下して、わずかに聖に入るべし。 名声、富、地位、それらに執着する心を洗い流すことができれば、俗物の境地を脱出できたといえる。だが、道徳や仁義を守ろうと苦労しているうちは、まだほんものとはいえない。そのようなことにこだわらず、天地とともにありのままに生きる境地に達したとき、ようやく聖人の域に達したといえよう。 老荘の哲学からいえば、道徳や仁義とは人間のありのままの生き方を規制する人為的な枠であり、そのしめつけを強めれば強めるほど、人間の本性は損なわれるとしている。 こうした立場からすれば、道徳や仁義を声高く唱える者は、誤った優越意識に凝り固まった偽善者ということになるだろう。 洪自誠が理想としたのは、道徳、仁義を意識してこだわるのではなく、自分の心のままに振舞って、それが結果として人の道にかない、言わず語らずのうちに人々を感化するような生き方であったに違いない。 そこに至るまでの道は限りなく遠いものであろうとも。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.30
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静を守りて後に動を好むの労に過ぐるを知る。默を養いて後に多言の躁(そう)たるを知る。 自然の営みにも、人間の生活にも、動と静、生と死の循環がある。私たちは一日のうちにも、活動と休息、死と再生のリズムを経験しているのではないか。 よく、完全燃焼という言葉が使われるが、のべつ幕なしにガタガタと動き回ることを指しているとしたら、それは好ましいことではあるまい。そのような生き方の中でわれを忘れていると、いつかある日、これまでの人生は何であったのかと愕然とするはめとなるだろう。 主体的、創造的な生き方を求めるならば、さまざまなサイクルで休止と内省のときをもちたい。 周りからはスランプだ、落ちこんでいると思われても結構。一見、死んだように見える蛹(さなぎ)の内部で、華麗な蝶の羽根が人知れず形づくられていることを思おう。 心のうちにもやもやと湧いてくるあるものを、より明確なイメージにふくらませ、さらにそれに形を与えていくという営みは、沈潜と混沌の中でのみ可能なのだ。 活動的なことも、多弁なことも、それ自体としては決して悪いことではない。だが、ひっきりなしに動き回り、しゃべりちらしているだけの人間だけにはなりたくない。それではみずからの魂を誰かに預けっ放しにした道具に過ぎなくなるのだから。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.29
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卑(ひく)きに居りて後に高きに登るの危うきを知る。晦(くら)きに処(お)りて後に明るきに向うの太だ露(あら)わるるを知る。 ビジネスマンの世界でよく言われるのが、「上から下を見ていては三年たってもわからないことが、下から上を見れば三日でわかる」ということだ。 リーダー、マネージャーによって必須の資質は、人を見る目と的確な状況判断だが、これが以外と満たされていない場合が多い。 あれほどすぐれた成功者が、なんであの程度の側近に丸めこまれているのか、会社が置かれている深刻な状況にどうして気づかないのかと、ひとごとながら腹が立ったり、気の毒になったりすることが少なくない。 それというのも、固定した立場だけからものごとを見て、いろいろな立場からの複眼的視点をもたないからだろう。たとえば社長であっても、ときには新入社員や、下請け企業のおやじさんや、お客様である一般消費者の立場に身を置いて、企業の実態を見直すべきではないだろうか。 能楽の大成者、世阿弥の言葉に「離見の見(りけんのけん)」ということがある。みずからが舞台で演じている姿を、もう一人の自分が客席からじっと見つめているようでなければ、本当の芸はできないというのだ。自己を客観視して、ときには見たくないものもはっきり見すえる心の修行が望ましい。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.27
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聡明の人はよろしく斂蔵(れんぞう)すべくして、反って炫耀(げんよう)す。これ聡明にしてその病を愚もうにするなり。いかんぞ敗れざらん。 能ある鷹は爪を隠す。知識や才能はひけらかすべきものではなく、いよいよというときまでは、あってもないような顔をしているのが奥ゆかしいとされてきた。 だがそれは、謙譲の美徳などというきれいごとだけを意味しない。『老子』の「良賈は深く蔵して虚しきがごとく、君子は盛徳ありて容貌愚かなるがごとし」(すぐれた商人は品物を奥にしまってむやみと見せない。君子はすばらしい徳を内に秘めて外見は愚人のようだ)に始まる「深く蔵する」思想は、中国数千年の文明が生んだしたたかな処世の知恵だ。 人間、やれることには限りがある。あれもやれます、これもできますの自己PRに努めれば、思わず知らず実力以上の背伸びをしてしまう。 その結果は、見る人が見れば、なにをえらそうにと軽蔑されるし、まともに信じてくれた人からは、やがて失望と不信をぶつけられる。 大金を投じた広告で信用と知名度を高めるのに成功した企業ほどちょっとした失策によって取り返しのつかぬイメージダウンを招きがちなものだ。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.26
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富貴の家はよろしく寛厚なるべくして、反って忌刻(きこく)なり。これ富貴にしてその行ないを貧賤にするなり。いかんぞよく享(う)けん。 寛厚は心が豊かで温かいこと、忌刻は疑い深くて不人情なことをいう。 恵まれた境涯にある人が、かえって心が冷たいのはなぜだろう。それは物質的にはゆたかであっても、心が貧しく卑しいためだと洪自誠はいう。 世の中を見てみると「富貴にして忌刻」には二つのタイプがあるようだ。 一つは恵まれぬ境涯から、運と努力で浮かび上がった成功者によく見られる成りあがり根性。成功に自信をもつあまり、恵まれないのは怠けているからだときめつけてしまう。 もう一つは、幼いときから恵まれた環境に育ったお坊ちゃん、お嬢ちゃんで、親のしつけができていない場合。他人の身になって考える訓練がまるでできていないから、恵まれない人の気持ちがわからず、冷酷なことを平気で言う。子供がアリを踏みつぶすような無邪気な残酷さだ。 どちらにせよ、人徳というものの欠けた、この種の人物の周囲に集まってくるのは、金力、権力のおこぼれにあずかろうという連中ばかりだ。風向き次第でどこへ行くかわからない。 情勢が一変したとき、富貴にして忌刻の人は、ひとりぼっちの悲哀を味わうこととなるだろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.25
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事窮まり勢い蹙(ちぢ)まるの人は、まさにその初心を原(たず)ぬべし。功成り行ない満つるの士は、その末路を観ることを要す。 人生は山登りに似ている。行く手がふさがって、にっちもさっちもいかなくなったときは、潔く引き返して、出発点に戻るのが勇気というものだ。むきになって前進し続けようとしたり、うろうろと迷い続けたりしていたら遭難することまちがいない。 首尾よく頂上を極めて目的を達したと思ったら、そこで下山にかかるべきだ。ここまで来られたのだからと欲を出して、そのままつぎの峰に挑むならば、時間と体力を使い果たして、とんでもない窮地に陥ってしまうだろう。 勇気といえば、やみくもに前に出ることだけを考えがちだが、どうやらそうではなさそうだ。 行きづまったときは出発点に引き返す勇気、ひとまず目的を達したら切りあげどきを考える勇気というのもあるのではないか。 やる気がないと思われるのを恐れて、引きべきときに引かず取り返しのつかぬ事態を招くなどは、一見、威勢がよさそうで、実はすこぶる自信のない証拠ではないだろうか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.24
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憂勤(ゆうきん)はこれ美徳なれども、太だ苦しめば以て性に適(かな)い情を怡(よろこ)ばしむることなし。澹泊(たんぱく)はこれ高風なれども、太だ枯るればもって人を済(すく)い物を利することなし。 世の中の苦労を一身に引き受けたような深刻な表情、反論のしようのない筋の通った言葉、非のうちどころのない生活態度・・・・、なるほど、まことのご立派だが、お相手していてなんとも息がつまってくる。ご当人だってあれでは疲れてしまうのじゃないかと思わせる人物がいる。 そうかと思えば、なにごとにもこだわらず無関心、何を考えているのか、つかみどころのないようなお人もいる。こんな相手では、相談したいことがあっても、とりつくしまもない。 使命感に燃えてがんばるのも結構、ものごとにとらわれず悠々と生きるのも結構だが、なにごとにもほどというものがある。あまりに度が過ぎてしまっては奇人、変人の部類に入って相手にされなくなり、せっかくの理想も生かされぬままに終わってしまうだろう。 とはいえ、昨今のように、あまりにも世間並み志向が強くなって、ファミリーレストランの一皿のような紳士淑女ばかりが増えてくると、たまには、強烈な個性をもった奇人変人にお目にかかりたくもなるのだが。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.23
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世に処しては必ずしも功を邀(もと)めざれ。過ちなきはすなわちこれ功なり。人に与えて徳に感ずることを求めざれ。怨みなきはすなわちこれ徳なり。 社会生活においては、むりに功績をあげようと努めることはない。失敗を犯さなければ、それが立派な功績ではないか。 対人関係においては、強いて恩を施して感謝されようと思うな。人から怨みを受けずにすめば、それが人に感謝されることなのだ。 これは現代の一般的な価値観からいえば、あまりにも消極的な教えと受け取られるだろう。そんなやる気のないことで、価値ある人生といえるか・・・・といった反論が、たちまち出てきそうだ。 だが、積極が常に正しく、消極が常にまちがっているというものではない。階段におどり場があるように、人生にも足踏みや休止が必要なときと場合があるのだ。 客観条件と自分の力量を見誤った"攻め”や相手の立場を考えない善意の押しつけが、大きな失敗を招き、自分をも周囲をも傷つけたことはなかっただろうか。 そんなとき、やるだけやったのだから悔いはないと居直って、また同じあやまちを繰り返すより、やはり、ああいうことはすべきではなかったと、すなおに反省すべきだと思うのだが。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.22
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軒冕(けんべん)の中(うち)に居りては、山林の気味なかるべからず。林泉の下に処(お)りては、すべからく廊廟(ろうびょう)の経綸(けいりん)を懐(いだ)くことを要すべし。 軒は高官の乗る車、冕は高官の冠、廊廟は朝廷のこと。重い責任を負って政務に没頭している中でも、山林をそぞろ歩きするような悠々たる心を失ってはならない、第一線を引退して閑居を楽しむ境涯となっても、天下の政治に対する関心を忘れてはならないという意味である。 私たちの意識が、置かれている外的環境に大きく左右されるのは当然のことだが、さりとて、外界の刺激に反射運動をくり返すだけでは、主体的に生きることはできまい。 現在の環境をひとまず離れて、より広く、高い立場から自分を見直すことができるのが、下等動物とは違う人間の特権だろう。 洪自誠は、そのために現実の環境とは正反対の状況を想定してみよと勧めている。 ビジネスの現場で奮闘している合間にも、窓の外を流れる雲に季節のうつろいを感じるゆとりを失わない人なら、働き中毒に陥って部下や家族への思いやりを忘れることもあるまい。第一線をリタイアしたのちにも社会的関心を失わず、できる形での社会参加をくふうする人がいつまでも若々しいことは、今や常識となっている。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.21
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飽後に味いを思えば、濃淡の境すべて消え、色後に婬を思えば、男女の見(けん)尽(ことごと)く絶ゆ。 『菜根譚』といえば道徳的なお説教と枯淡な風流談義の書ときめてかかって読み進んできた人は、こういう人間くさい言葉にぶつかってびっくりし、すこぶる愉快になるだろう。 あれを食いたい、これを飲みたいと思うのは腹をすかせているときだけで、存分にごちそうになってしまえば「ご遠慮なくもっとどうぞ」と言われても迷惑以外のなにものでもない。 おさえつけるのに苦労する情欲も、ことが終わってしまえばあとかたもなく消える。安らかな幸福感に浸ればよいが、多くの場合、よせばよかったのにという悔恨と不安に責められて、一時の迷いに思慮を失った自分に愛想を尽かすのがおちである。 芥川竜之介の名作『芋粥』の主人公は、一生に一度でよいから、当時のごちそうであった芋粥を飽きるほど食べたいと願っていた。だが、偶然の機会からその夢が満たされて、いくらでも食べてくれと勧められたとたん、彼の食欲はまったく失われてしまう。そして、ささやかな夢を抱いていたかっての自分を懐かしく、いとおしく思うのである。 多くの欲望は、それが満たされたとたんに、充足の空しさを味わうか、さもなければ、さらに欲望をかきたてられて、がつがつとつぎなる目標を求めるようになるのではないだろうか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.20
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矜高倨傲(きょうこうきょごう)は、客気(かくき)にあらざるはなし。客気を降伏し得下(えくだ)して、後に正気伸ぶ。情欲意識は、尽く妄心(ぼうしん)に属す。妄心を消殺し得尽くして、後に真心現わる。 自分自身の心ほど、わかっているようでわからないものはない。矜高倨傲とはのぼせあがって他人を見下し、おれが、おれがで何でもできると思いこんでいる状態。 その誤った自信がいったん崩れると完全に落ちこんで、二度と立ち上がれなくなる。子供のときからおだてられてエリートコースを歩んできた秀才が、ちょっとしたトラブルから自信喪失しておかしくなってしまうという例は少なくない。そうした思いあがりを捨てて、自分にできること、できないことをはっきり見定めることが、謙虚さに裏打ちされた本当の自信の出発点となる。 情欲意識とは、とらわれた先入観、思いこみのことだ。 能楽の大成者、世阿弥は、その『風姿花伝書』の中でしきりと「情識を捨て、虚心になって稽古に励め」と説いているが、まさにその意味だろう。 固定観念、先入観で凝り固まっている頭には、どのような新しい情報も入りこむ余地はなく、人間的成長は停止、後退するほかはないだろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.19
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糞虫は至穢(しあい)なるも、変じて蝉となりて露を秋風に飲む。腐草は光なきも、化して螢となり采(さい)を夏月に耀(かがや)かす。 科学知識が未発達だった時代には「仮生」といって、無生物が化して生物となると広く信じられていた。『礼記』にも「腐草、蛍となる」の句がある。 汚らしいゴミの中から湧いた虫がセミとなって高らかに歌い、腐った草からはホタルが生まれて夏の夜空に光をともすのを見れば、外見にとらわれてものごとの本質を見失うのが、どれほどおろかなことかわかるだろうというのだ。 神戸の貧民窟にとびこんでどん底に生きる人々への奉仕に貢献した賀川豊彦は、その自伝的小説で大正から昭和初年の大ベストセラーになった『死線を越えて』の中で言っている。世間からは落伍者、生活破綻者として軽蔑されている貧民窟の住民の中に、実は、自分などよりよほど純粋で高貴な人間性、キリストの教えに対する深い理解をしばしば見出す。それによって力づけられるからこそ、私はこの活動を続けていられるのだと。 外見の醜さにまどわされずに本質の美しさを見る目は、同時に、いつわりの美しさの陰に隠された醜さをも見抜くに違いない。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.16
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人の悪を攻むるは、太(はなは)だ厳なることなかれ、その受くるに堪えんことを思うを要す。人に教うるに善をもってするは、高きに過ぐることなかれ、まさにそれをして従うべからしむべし。 批判と教訓の心得である。人を批判するにあたって、まず考えねばならぬことは、相手がそれを受け入れて、過ちを改めてくれるにはどうしたらよいかということだろう。 だが、とかく他人の欠陥が目について、言わずにいられないというときは、この第一の前提が忘れられがちである。相手を納得させるのではなくて言い負かすためとなっては、批判ではなくて非難だ。ああじゃないか、こうじゃないか、この前だってああだった等々、ヒステリーの母親が子供を責めたてるようにとことん追いつめねば気のすまない向きが多いのは困りものだ。 言いだすとブレーキがきかなくなるこの手の人物は、日ごろ気になっていることを、その場でさりげなく注意することもせず、むりに腹に納めておき、ときたま暴発したときに、あれも、これもと言いつのる癖があるようだが、これでは言われるほうはたまったものではない。 このあたりの心得は、上から下への批判、教育だけでなく下から上への提言、忠告にあたっても忘れぬようにしたい。うっぷんばらしのための批判には実りは期待できないのだから。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.15
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動を好むは雲電風灯(うんでんふうとう)、寂(せき)を嗜むは死灰槁木(しかいこうぼく)。すべからく定雲止水の中に、鳶飛び魚躍るの気象あるべし。 むやみと動き回ってばかりいては、雲間の稲妻か風に吹かれる灯火のように、落ち着きというものがまるでなくなる。といって、静寂ばかりを愛していては、冷えきった灰か枯れ木のように生気が失われてしまう。動かぬ雲の間を鳶が舞い、静かな水の中に魚が躍るように、静と動とがひとつに融け合った境地こそ望ましいものだ。 この「鳶飛び魚躍る」は『詩経』大雅旱麓(たいがかんろく)編の「鳶、飛んで天に戻(いた)り、魚、淵に躍る」の句から出た。大自然の生き生きとした趣の表現として、よく引かれる。 私たちの生活には、一日のうちにも、また週単位、月単位、さらには生涯を通じて見ても、静と動の循環がある。このチェンジ・オブ・ペースのたくみな人は心身ともに疲れること少なく、実り多い人生を送っているようだ。そのためには、ここに説かれているように、活動に打ちこんでいる中でも心のゆとりを失わず、休息の中でもつぎの活動に備える心がけが大切である。 せっかく休息をたっぷりとっても、そのあとが休暇ボケだ、月曜病だとなかなかエンジンがかからないとすれば、どこかでリズムのとり方をまちがっているのだろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.14
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人よく誠心和気、愉色婉言(ゆしょくえんげん)父母兄弟の間をして、形骸ふたつながら釈(と)け、意気こもごも流れしめば、調息観心(ちょうそくかんしん)に勝ること万倍なり。 洪自誠は「まことの仏はありふれた家庭の中におられ、まことの道は日ごろのくらしの中にこそある」として、このように説いている。 一家中が誠実に、平和に、表情も言葉も穏やかに、心をひとつにとけ合わせて暮らしていくならば、その功徳は、むずかしい座禅の修業よりもはるかにまさっているというのだ。 戦後四十年、物質的充足が進んだのとうらはらに、家族のきずなの危機が憂慮されている。 身勝手な自分本位を個人の自立とはきちがえて、お互いの思いやりを忘れてしまったのがその原因だ。かっての家父長制のような上からの権威による圧制ではなく、家族一人ひとりの平等と相互尊重にもとづく新しい家族関係の再構築が、今こそ求められているのではないだろうか。 その第一歩は、洪自誠が説くとおり、穏やかな笑顔と和やかな言葉による心のコミュニケートであろう。 朝夕の挨拶や食事のときの「いただきます」「ごちそうさま」が自然にでるようであってこそ、おとなにとっても、子供にとっても、家庭が真の安息の場となるように思われる。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.13
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もし業は必ず満を求め、功は必ず盈(えい)を求むれば、内変を生ぜざれば必ず外憂を召(まね)かん。 完璧主義への警告である。ものごとや人間を評価するとき、プラス焦点で見るか、マイナス焦点で見るかによって、判断は大きく食い違ってくる。 プラス焦点とは、対象のすぐれた点をまず評価し、欠陥や弱点については「これはこうしておけばもっとよかったのに」と、残された課題として指摘する見方をいう。 これに対してマイナス焦点とは、欠陥や弱点をとことんつついて、たとえすぐれた面があろうとも帳消しにしてしまう見方だ。 完璧主義者というのは、ほとんどがマイナス焦点の目の持ち主である。彼は猟犬のように嗅ぎ回って欠陥を見つけ出すと、喜び勇んでおおげさに騒ぎ立て、弁解の余地を与えない。 こんな上司を持ったサラリーマンこそ災難で、そのエネルギーの大半は上司への対応にすりへらされ、創造的な仕事にとりくむゆとりなど出てこない。上司としても、部下の持てる力をつまらぬところですりへらし、結局は自分の足を自分で引っぱっているわけだ。 他人を伸ばし、自分を生かすためには、ことごとにケチをつける完璧主義を捨てて、よい意味での大まかさを身につけるべきではないだろうか。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.12
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完名美節は、よろしく独り任ずべからず。辱行汚名は、よろしく全く推すべからず。 功績や名声は独り占めするものではない。他人にもいくらか花をもたせることによって、羨望や嫉妬の害を受けないようにすべきだ。失敗や汚名をすべて他人にかぶらせてはならぬ。自分もいくらかはその責めを負うことによって謙遜の心を養い、人格を磨くべきであるという。 よいことは、ひとがやったことでも自分の手柄にし、自分の失敗の責任はひとにかぶせて恥じない手合いもいるが、これは論外として、たとえ十分な自信があるときでも、功は人に譲り、泥は自分がかぶるという心がけは忘れたくないものだ。 バレーボールの三屋裕子選手は、「スパイクがきまったとき、自分の手柄だと天狗になったらそれでおしまい。みんなが(球を)拾ってくれたおかげで、自分も力を出せたのだと思えと、繰り返し教えられてきました」と語っていた。 ものごとがうまくいったとき「皆さんのおかげです」と心から思うことのできる人、他人が失敗して苦境にあるとき「おれも悪かったんだ。できるだけ力を貸すよ」とおざなりでなく言える人の周囲には、自然と力を貸し、智恵を貸す協力者が集まってきて、一人ではとてもできない大きな仕事をも成し遂げることができるだろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.11
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世を蓋(おお)うの功労も、一個の矜(きょう)の字に当たり得ず。天に弥(わた)るの罪過も、一個の悔(かい)の字に当たり得ず。 天下に鳴りひびくほどの功績を立てても、それを鼻にかければ何の値うちもなくなってしまう。天の神の怒りを買うほどの罪を犯しても、心からそれを反省すれば、罪は残らず消え去ってしまうという意味だ。 何事も目に見えた結果のよしあしで計る現代の風潮からすれば的はずれな見方で、功績は功績、罪は罪、当人の心情がどうあろうと関係ないといわれそうである。 だが、少し長い目で見ると、この当人の意識というものが意外と大きな意味を持ってくる。 肥前平戸の殿様で心形刀流の剣の名人だった松浦静山は「勝に不思議の勝あり。負に不思議の負なし」の名言を残したが、成功の真の要因は、案外と当人の目には見えにくい。自分の実力以外の偶然の幸運によるケガ勝ちを、すべて自分の功績と思い違えてうぬぼれていると、つぎには手ひどい失敗を招くことがあるだろう。 反対に、大きな失敗を犯しても、そこから十分に教訓を引き出して二度と同じ過ちを繰り返さぬ心がけの持ち主にとっては、失敗の痛手はつぎの前進への授業料となる。 組織にとっても、個人にとっても、成功と失敗に処する姿勢ほど大切なものはない。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.10
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世に処するには一歩を譲るを高しとなす。人を待つには一分を寛にするはこれ福なり。 これもまた「お先にどうぞ」の処世訓である。洪自誠は続けていう。「一歩下がることが、さらに前進するための土台となる。人のためを考えることが自分に利益をもたらす基礎となる」 同じ土俵で力ずくでせり合ってばかりいると、競争相手の動きしか目に入らず、知らず知らず視野が狭くなってしまう。 市場でのシェア争いも、新製品の開発競争も、身近なライバルとの抜きつ抜かれつに気をとられているうちに、思わぬ第三者に漁夫の利を占められて、してやられる例が少なくない。ときとしては、ここのところはお任せしますと、さっさと競争から降りて、より広い視野から新しい課題にとりくむことが「歩を進むるの張本」となる場合だってあろう。「ひとのためが自分のため」というのは、いささか功利的、偽善的な匂いがしてあまり好きな発想ではないが、現実にはよくあることだ。こちらが優位に立ったとき、とことん追いつめて敵に回してしまうよりほどほどのところで相手の顔も立て、恩を売って見方にしてしまう寛容さは、古来、大きな事業を成功させた人物の共通点である。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.09
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寵利(ちょうり)は人の前に居ることなかれ。徳業は人の後に落つることなかれ。 人情の常は、「仕事はおおぜいで、うまいものは一人で」だが、これはその反対だ。 名誉、利益が得られるときは、できるだけ後ろのほうに引っこんで遠慮せよ、ひとさまのためになる仕事なら尻ごみせずに率先して力を尽くせというのである。 これを単なる道徳的なお説教としてだけみてはおもしろくない。洪自誠はこの心得を世渡りのノウハウとして説いているように思われる。 とりわけ役所や会社など組織の中に生きる人間にとって、この心がけは大切だ。今は自己PRの時代だというけれども、自分の能力や業績のPRに成功して脚光を浴びた人が、永続してその地位を確保している例は案外多くない。たいていの場合、みずから招いた周囲からの風当たりによって、些細な失点を理由に舞台を降ろされがちである。 それからみると、強いておれが、おれがと出しゃばることなく、こつこつと実績を積んできた人は強い。空気か水のようなめだたぬ存在でありながら、その人がいないことにはことが運ばない。上司も同僚も、あいつのおかげでおれたちも務まっているのだと認めざるをえないようであれば、組織の中での地位はゆらぐことはないだろう。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.08
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友に交わるにはすべからく三分の俠気を帯ぶべし。人となるには一点の素心を存するを要す。 情熱の詩人、与謝野鉄幹の『人を恋ふる歌』の一節「友を撰ばば書を読みて、六分の俠気、四分の熱」を思わせる一句である。 私たちが実社会の中で結ぶ人間関係の大部分は、ギブ・アンド・テークの相互利用、利益交換である。それが対等、公正に行われれば、この世の中は円滑に回っていくというのが支配的な考え方だろう。だが、本当にそれだけで、私たちは満足できるものだろうか。 利害打算を忘れ、報いられることを期待せずに「あの人のためならやってあげたい」という俠気にめざめたとき、私たちは友とするに足りる人と出会ったのだ。そして、この気持ちは相手にも通じて、その精神の最も美しい部分を呼びさまし、お互いの心のきずなが結ばれて、まことの友人関係が生まれるのである。 人間関係における俠気を生み出す原動力は、一人一人の心に潜んでいる「一点の素心」つまり純真な心である。 俗世間の波にもまれ、生活を守るために心ならずも妥協や変節を重ねながらも、やはりどこかで、みずからに恥じて踏みとどまる純粋な気骨だけは失いたくない。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.07
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欲情を擺脱(はいだつ)し得れば、すなわち名流に入る。物累を減除し得れば、すなわち聖境を超ゆ。 人格の向上をめざすなら、世間の目を驚かすような功績を立てるより、くだらぬ欲望を捨てることだ。学問の道を志すなら、知識才能を磨くことより先に、つまらぬ雑事にとらわれぬことだ。それができれば、おのずとすぐれた人物となることができるというのである。 思えば、さまざまな分野で、尊敬に価する業績をあげながら、そのわりには評判のよろしくない人物が少なくない。名誉欲が強すぎてボスにならねば気のすまぬ人、金銭に汚くて嫌われる人、えこひいきが強くて自分の肉親や子分ばかりを重用する人等々、あれではどうもね・・・・と顔をしかめられて、せっかくの業績まで割引されている例をよく見かける。 もちろん、業績は業績、人間性は人間性で、一応別のことがらなのだから、その仕事に対しては、きちんと評価すべきだろう。 だが、欲情の強すぎる人物というものは、とかく自分をも本業をも、欲望満足のための手段としてしか考えない傾向があるから、時流に迎合したり、粗製乱造に陥ったり、みずから信用を失墜していくことが多い。※ 出典 吉田豊(責任編集村山孚・守屋洋) 「中国古典百言百話1菜根譚」
2026.04.05
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