歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年08月15日
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カテゴリ: 幕藩一揆の攻防





38、水争いから一揆打毀し多数処刑【紀州藩領文政6年一揆】


「紀州藩領文政6年一揆」紀ノ川流域の村々で発生した水争いから発展して、紀州藩にたいして農政政策の転換を要求した一揆。1823年(文政6)5月干ばつを契機に村々で水争いと打毀しが発生した。


6月8日伊都郡名倉村で蜂起以降は惣百姓一揆に転化し、酒屋、米屋、質屋などを襲撃するとともに、年貢の減免、商品流通を統制する御仕入れ方の廃止、他所米移入の許可などの要求を藩に突き付けた。


一揆勢はさらに紀ノ川沿いに西進し、和歌山城下北方で町奉行の説論を了承して居村へ引き返した。その直後有田郡でも小前農民が小作者としての要求を掲げて一揆に立ち上がった。一揆の終焉後、藩は「皮多身分」の者を含む33人を獄門に処するなど厳罰に処した。


「文政の百姓一揆」 財政に苦しむ紀州藩 18世紀に入ると,紀州 藩では藩の収入に比べて支出が多くなり,財政が苦しくなっていたので,たびたび節約の御お触れを出した。このような時期,1789(寛政元)年に徳川治宝が10代藩 主 になり,藩財政 の立直しに取り組んだ。まず武士の教育に力を入れ,才能がある武士を役人にして,役所の費用を減 らす工夫を命じた。


藩の収入を増やすために,橋本町(橋本市)などで御仕入方 という役所を新たに 設けて,特産物や他の藩から入ってくる米などを,御仕入方を通して売り買いさせるように改め、そのもうけの一部を藩へ納めさせました。


広がる百姓一揆 1823(文政6)年は、春先に雨が降ってからのち日照りが続き、各地で田植が出来なかった。植えた稲が枯れそうになる被害が広がった。


なかでも紀ノ川下 流 域の村々で水不足がひどく,宮井用水(和歌山市)の水を使う村々の農民が、大勢が上流の村へ押しかけ,用水の取入れ口や庄屋の家をこわすなど,さわぎを起しました。


同じころ,亀池(海南市)の水に頼 たよ る亀ノ川下流域の農民たちも、上流の村へ押し寄せ水争いをしまし た。こうして田植をめぐって,各地で村と村の水争いがしだいに広がりをみせてきた。 6月8日の朝,久しぶりに少しばかりの雨が降りましたが,伊都郡名倉村(橋本市)の農民たちが,雨 乞の祈りをしようと集まりまった。


話をしているうち に「米の値段が上がってきたのは,米屋が値を上げているからだ。」と不満の声が強まり,村中に呼びかけて,米 屋などを打ちこわし始めた。


当時一 揆 き はきびしく禁 止されていたが,彼らは,近くの村々へも参加す るよう強く働きかけ,多くの農民たちを引き連れて,庄 屋や米屋など豊かなくらしの家々を襲 った。そして 次の日には,騒動 は主に橋本市北岸から,大和国や河内国 付近まで広がった。


河原 に集まった一揆の群衆をしずめようと,伊都郡役 所の役人が出て行きたが,農民たちの要求は強く,農民の願いを取りまとめた農民の代表が,物資 の流通に深くかかわっていた御仕入方役所を廃 止することなどについて回答を求めた。


 水争いから始まった 第3章 紀州徳川家の時代 文政一揆の記録(個人蔵) 文政の百姓一揆153 一揆が,紀州藩の政治のやり方を改めてほしいと要求する一揆 へと,大きく変わって行った。 役人は,藩へ報告してから返答すると説得しましたが,一団 はすぐに回答するよう求め,一揆の勢いは強まるばかりで,役 人の態度に憤慨 した農民たちは,10日には和歌山城をめざして 進み,行く先々で金持ちの家をこわし,物を持ち出した。


 そして11日には数万人の農民が和歌山城近くの地 蔵 の辻 まで 押し寄せた。藩は鉄砲まで出して守りを固めて,農民たちを押しとどめた。藩は農民たちの代表が出した要求の受 入れを約束したので,4日間も続いた大百姓一揆は収まった。


 紀ノ川流域の一揆がしずまったころ,有 田 川流域の村々でも打ちこわしがおきましたが,藩は素早 い対 応をとり,藩役人の説得と藩 兵を出して守りを固め,一揆の広がりを防いだ。 今までにない紀ノ川流域の大百姓一揆で農民の願いは通ったが、藩は騒 動 を引き起こした中心者を つぎつぎと捕 とら え,その数は384人にものぼりった。


 きびしい取り調べが続き,死 刑 にされた者は33名に達した。一方長く藩の政治をおこなってきた治宝は,翌1824年に藩主を退 き,隠 居されらえた。


 これは百姓一 揆を招いた責任をとったからだと言われている。武士の支配が大変強い時代でしたが,農民がくらしを守るために,藩へ政治の改革を求めて立ち上がっ たことは紀州藩では例がなく,新しい時代の幕開けを予感させる出来事であった。 地元の役所へ訴えないで,直接幕府の役所などへ訴えでること。(和歌山の歴史より)



◎「皮多」中世期・近世の被差別部落の名称。皮田、河田とも書く。皮革業に従事したが、農村では農業で生計を立てるところも多かった。掃除・下級行刑・皮革の役を課せられ、斃牛馬処理を行った。1526年(大永6)駿河の今川氏親朱印状に「かわた彦八」小田原北条家領伊豆のにも「かわた」が見える。


◎「小前」元々も意味は大前に対して小前で、財産の少ない家、貧乏人。江戸時代の百姓について田畑を少ししか持たない者(小前百姓・小百姓)をさす。具体的には、①村役人を含めた本百姓。②村役人・村役人層以外の本百姓。③無高もふくめ弱小な百姓。④小作人、の4種類の者が見られる。幕府・領主が基本的な農民の階層として把握していた本百姓は、村の支配体制の上では、村を治める庄屋・名主あるいは組頭=小前という関係に置かれていた。①②はこうした関係に基ずいた用法である。村役人も退役すれば小前の身分とされる。



◎「村方騒動」江戸時代、村落内部に生じた百姓間の対立、紛争・村方出入り、小前騒動と言う。江戸時代の村々は、村内の身分階層に伴う地位・権利問題、村政の運営の方法や村入用の負担を巡って問題、地主・小作関係など、さまざま課題を抱えていた。これらの諸問題を大きく規定したのが、幕藩領主で採用されたのが村請負制であった。この制度により、近世の村は、百姓の生産・生活のための共同組織である。



「紀州藩領文政の百姓一揆」一揆は紀ノ川流域の水争から端を発し、藩財政の逼迫に節約の「お触れ」が出された。藩自体も財政立て直しに、役所の費用の減らす工夫を命じた。百姓自体も生活は困窮し、年貢の減免、商品流通を統制する御仕入れ方の廃止、他所米移入の許可などの要求を藩に突き付けた。


文政6年は天候が悪く、長雨から、日照り続きで、紀ノ川流域は水争いが生じ、用水取り入れ口で紛争し、百姓の不満は一挙噴出し、一揆勢は紀ノ川沿いを西進し、和歌山城下北方で藩の交渉で代表の出した要求は受け入れらえた。一揆が鎮静化して一揆を起こした責任を問う厳しい取り調べがあって、その数384人に登り、死罪など獄門に処する者33人に処罰が下された。







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最終更新日  2023年08月15日 09時05分49秒
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