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2024年07月30日
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カテゴリ: 明治維新





シベリア鉄道の計画は着々と推移していたが、チュメニを過ぎてシベリアまで延長するアムールスキーの案はいまだ停滞し、1875年、ウラジオストクよりハンカ湖に至る鉄道敷設の請願が出、政府もその必要性は認めたものの、財政の考慮から実行には至らなかった。


その間にも、本土の鉄道は随時拡張され、1877年にはオレンブルク鉄道、1878年にウラル鉄道が完成した。


1880年代


1880年、ロシア皇帝アレクサンドル2世の記念工事であるボルガ大鉄橋が完成され、またエカテリンブルク・チュメニ間の工事が着工された。エアテリンブルク - チュメニ間の鉄道はボルガ川とオビ川の水運を連結させるものであり、このため、もしオビ・エニセイ運河が完成されるなら、ボルガ川の水運はオビ川・エニセイ川と連なり、バイカル湖へ達する事になる。この水路の活用を見込んだ時、シベリア横断鉄道の工事は実現に明らかな展望が生じた。かくして、鉄道により水路を連結し、鉄道と水路を併用する計画が生まれた。


まず、第一に挙げねばならないのは、1880年の始めのオストロスキ技師の設計である。「現時の状態においては、ベルム トボリスク間の鉄道によりカマ川とイルチシュ川とを繋ぎ、オムスク バルナウル間鉄道によりイルチシュ川とオビ川を繋ぎ、トムスク  -  クラスノヤルスク間鉄道によりオビ川とエニセイ川を繋ぎ、かくして水路と鉄道を繋げる事によって廉価に交通を開発、しかる後にその輸送力をもって全通鉄道の工事に着手する事」が、大体その要点であった。


次いで、オビ川・エニセイ川間の測量を終えたシデルスチル技師は、これに更に水路を活用すべき事を述べ、「オビ・エニセイ運河の開発の後、アンガラ川下部の急流を治水する事で、チュメニからバイカル湖までの5000リベスタの長水路を開く。バイカルから湖畔に沿ってスレテンスクに至る道のりには950リベスタがあるが、最初の150はバイカルの湖水とセレンガ川の川水を用いて、中間の450は幾多の小流があるためにアレースク湖からタンシンスクへ向かうヤブロノヴォイ山地に18リベスタの鉄道を敷設するのみで事足りる、残り350はインゴダ川及びシルカ川の両流を用いる事により、ボルガより太平洋岸に至る貫通シベリア大水路を作る事」を主張した。


これらを皮切りに、路線選択に関わる様々な計画案が出始めた。シベリアの二人の提督、コルフとイグナチフもこの流れに乗り、イムスク - イルクーツク間鉄道及びバイカル・ストレンスク間鉄道の設計案を提出。次いで、ウラジオストクよりラズトロノエ・ニコラスコエ・アヌチノを経て、ブス・ボストへ至る線路の設計案が提出された。しかしながら、シベリア鉄道の建設の実行方法の選定には重要な問題があり、これらは実行に移されなかったものの、ウスリー線を第一に敷設する事は決定された。これに伴い、太平洋側の線路の起点はウラジオストクである事も決定された。


問題は西方の起点であった。この時、本土の東方の終点は3点、即ち、北のチュメニ、中央のミアス、南のオレンブルクであり、このいずれかを選択しなければならなかった。この選択は、1890年の委員会に託された。


1890 1891年


当時、隆盛の水路併設鉄道案はチュメニを起点とするものだった。それはおおよそ次のようなものである。


(水)カザン - ペルム2344㎞、(ウラル鉄)ペルム - チュメニ2010㎞、(水)チュメニ - トムスク7289㎞、(新鉄)トムスク - イルクーツク4060㎞、(水)イルクーツク - ムイソフスキー埠頭392㎞、(新鉄)ムイソフスキー埠頭 - ストレンスク2627㎞、(水)ストレンスク - グラフスキー5989㎞、(新鉄)グラフスキー - ウラジオストク1001㎞


全長は約2万5715㎞、内、水路は1万6015㎞、鉄道は9700㎞程度となる。ウラル鉄道は既に開発されているから、7690 km 程の新設で済み、費用は鉄道に関するもので1625万ルーブル、水路は735万ルーブルの合計約2360万ルーブルと試算されていた。欠点は運送時間の問題で、モスクワよりウラジオストクまで荷物を運ぶのに75日、旅客を運送するのには35日、これはともかく貫通鉄道までの輸送路確保であるにせよ、水路の氷結のため1年の内わずか4か月しか充分に使用できない事はこの鉄道の見通しを明るいものにはしていなかった。


委員会はチュメニ線は中央との連絡が不便であるとして否定した。またオレンブルク線は西半分は土地が荒れており、東半分は工事が困難であるとして否定した。1890年末、委員会は「サマラ  -  ウファ  -  ズラトウスト  -  オムスク  - トムスク - クラスノヤルスク - ニジニ・チウジンスク - イルクーツク」の中央路線案を採用した。


シベリア交通幹線はこれによって大体の方針を決定した。ロシア政府は、チュメニを西方の起点とする事を否定し、この間の線はボルガの水路のみによらないことを示した後、速やかに上述の水陸併用線の欠点を踏まえてこれを否定し、シベリア貫通大鉄道の敷設を決定した。


1891年3月29日、皇帝アレクサンドル3世は次の勅諭をアジア各地へ訪問中の皇太子ニコライに与えた。


「私は今日シベリア全土を貫通する鉄道敷設の詔勅を発し、天産富饒のこの地をロシアの線路に連絡させる。よって汝に命ず、東洋諸国の漫遊を終えた後に、シベリアに至ったならば、私のこの意を諸有司に告げて、兼ねてシベリア大線路ウスリー線の第一軌鉄をウラジオストクに布設するところに臨行せよ。この線路は国庫の財をもって布設し、その監督もまた官の任じるものであり、まさに国家事業である。汝がこの事業に参与するのは、私がシベリアと他の領内との交通を便にし、シベリアの平和的発達を図る希望切なるを世に知らしめるためである」


以上の勅諭を皇太子は5月12日、ウラジオストクにおいて宣揚し、シベリア鉄道定礎式の盛典を行った。






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最終更新日  2024年07月30日 06時00分23秒
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