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14「戦局逆転
」
8月22日に徳川家康が武田領の 駿河 田中城 へ侵攻したため(『 家忠日記 』)、勝頼は和平仲介を断念し、兵の一部を残し8月28日に撤兵した(『上越市史』別編(上杉氏史料集) - 1666号)。
勝頼が帰国すると間もなく景勝・景虎の和平は破綻。翌9月に入ると北条氏政がようやく本腰となり、 氏照 ・ 氏邦 が氏政の命を受け越後に向けて進軍を開始した。
北条 氏照 ( ほうじょう うじてる ) は、 戦国時代 から 安土桃山時代 にかけての 武将 。 北条氏康 の四男。
宗家の虎に呼応し、「如意成就」と刻まれた 龍 の印章を使用した。
大石家養子 [ 編集 ]
北条氏康の三男として生まれる。 弘治 元年( 1555 年 )11月に下総 葛西城 で行われた 古河公方 足利義氏 の元服式に、兄弟で唯一父と一緒に参加している。
弘治2年( 1556 年 )5月、大石家の領国に所在した相模座間郷の神社の再興にあたって大檀那を務め領国支配に関与し始める。また、この年元服したとされ、仮名の源三と氏照を名乗ることになる。
大石家に養子入りしてもしばらく、具体的な領国支配は氏康が管理し、家老としてつけられた 狩野泰光 (のちの法円宗円)と庄式部少輔が当たっている。
永禄 2 年( 1559 年 )11月、大石家の本城 由井城 に入り、自ら由井領の領国支配を開始する。この年 大石定久 の娘・比左を娶り、 養子 縁組をして大石源三氏照と名乗り、家督を譲られる。
自領であった現・相模原市方面の各村への文書では「油井源三」を名乗っている。
永禄5年( 1562 年 )3月、前年に北条氏に滅亡させられ、由井領に北接して展開していた国衆・ 三田氏 の領国であった勝沼領を与えられて由井領に併合した。それにともなって永禄6年から永禄10年までの間に、新たな本拠として 滝山城 を構築し、移っている。
永禄10年(1567年)からは北関東・南関東の取次を務めるようになり、北条家の外交・軍事において重要な役割を担い始めた。
この年の末に 武田信玄 の家臣・ 小山田信茂 らの軍勢が 小仏峠 を越え 相模国 に侵攻した。氏照は 中山家範 ・ 横地吉信 らに迎撃を命じたが、 高尾山 麗の廿里(現、 八王子市 廿里町、 廿里古戦場 )にて敗退。
その後余勢を駆って押し寄せた武田勢に攻め立てられ、 滝山城 は三の丸まで陥落し氏照は二の丸で指揮をとったという(この時、氏照と 武田勝頼 が槍をあわせたとも伝わる)。このような氏照の奮戦により、最終的には武田軍に 滝山城 の攻略を断念させている。
永禄12年( 1569 年 )、再度来襲した武田の軍勢が 小田原城 を囲んだ。撤退する武田勢を氏照・氏邦の軍勢が迎え撃ったが、小田原から追撃してきた本隊の動きが遅く挟撃体制は実現しなかった。
この間に武田別働隊が氏照・氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転、氏照・氏邦は敗北した。戦国最大規模の山岳戦として知られる 三増峠の戦い である。 この年の12月までに大石から北条姓に戻している。
北条復姓後
天正 2年( 1574 年 )1月以来、 下総国 関宿城 の攻撃を本格化させ、義重の斡旋で 簗田持助 も抵抗を諦め閏11月16日には抵抗を諦め、19日には開城させた。 これ以降 古河公方 ・ 足利義氏 の後見を務め、 利根川 水域を支配した。
天正3年( 1575 年 )6月氏政は 下野国 奪取を目論み、氏照らを下野に侵攻させ 榎本城 を攻めて落城させた。勢いに乗る北条軍は 小山秀綱 の本城を攻め、12月には小山城が落城し秀綱は 佐竹氏 のもとに落ち延びることになる。
この年頃から北条支城のみならず、小田原城の総奉行として働くようになり、同年から天正4年( 1576 年 )までの間に陸奥守を称するようになる。、天正6年( 1578 年 )、 上杉氏 の家督争い 御館の乱 が起こると実弟・ 上杉景虎 の援軍要請に応じた兄・ 北条氏政 の名代として、氏邦と共に 越後 に出陣。北条勢は 三国峠 を越えて 坂戸城 を指呼の間に望む 樺沢城 を奪取し、坂戸城攻略に着手した。
しかし 上杉景勝 方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・ 北条高広 らを置き、 北条景広 を遊軍として残置しての撤退を強いられた。そして景虎は翌年滅亡という悲運を辿った。
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