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天正7年
この年前半、秀吉は、 2 月の播磨平井山の戦い(三木市)で長治の叔父別所吉親と、5月の摂津丹生山・淡河の戦い(神戸市北区)では明要寺の衆徒、および淡河定範と闘った。
前年の別所長治・荒木村重の寝返りは、毛利軍の東上を期待してのものであった。それまでも毛利は両氏に援軍を送っていたが、天正7年(1579年)正月にも救援軍の派遣を決定し、甲斐の武田勝頼と同時に信長を挟撃する予定を立てていた。
しかし、信長は豊後の大友義鎮(宗麟)と親交を結んで毛利の背後を脅かすことに成功し、正月、毛利氏の重臣で豊前松山城(福岡県京都郡苅田町)の城主であった杉重良が大友側に通じて北九州で挙兵し、これにより毛利勢の東上は阻まれた。
また、美作川上郡の高山城(岡山県高梁市)の城主草刈景継も信長方への寝返りが露見して吉川元春によって成敗された。
なお、信長は11月、宗麟の子大友義統に対し、毛利氏支配下の周防・長門をあたえるとの朱印状を出している。
同年、織田・毛利間にあって帰趨の定まらなかった伯耆東部羽衣石城(鳥取県東伯郡湯梨浜町)城主南条元続が 9 月に、毛利氏と同盟関係にあった備前の宇喜多直家が10月に信長に服属した。
南条と宇喜多は連携して毛利に対することを盟約したのである。この調略の過程で、同年9月に秀吉は直家の帰順によって信長に朱印状をあたえるよう要請したが、信長は許可せず、かえって秀吉の専断を叱責して、播磨に帰らせるという事態も生じている。
また、堺の豪商の家に生まれた小西行長は当時直家に仕えていたが、織田方への内通には行長のはたらきかけがあったともいわれている。
直家の寝返りによって備中・美作両国はそれまでとは一転、宇喜多・毛利両氏の抗争の場となった。
この年、直家は毛利氏と結んでいた三星城(岡山県美作市)の後藤勝基を攻め滅ぼしている。
こうして、敵対勢力を近くにかかえることとなった毛利氏は援軍を派遣することが困難となり、長治・村重はともに孤立の度を深めていった。
9月2日、村重は現状打開のため有岡城を出て嫡子荒木村次のまもる尼崎城(兵庫県尼崎市)に移った。
有岡城攻めの総大将をつとめた信忠は、軍を対有岡城・対尼崎城の2つに分け、滝川一益が双方に調略して織田方への離反を誘った。
信長はこのとき、次男信雄にも伊勢の兵を率いて出陣するよう命じたが、信雄は武士や百姓にとって負担であると考え、かわりに隣国伊賀に攻め込むことで取り繕おうとして敗戦し、信長からきびしい叱責を受けている。
10月15日、織田軍は有岡城総攻撃を開始し、守将荒木久左衛門に対し尼崎城・花隈城(神戸市中央区)を明け渡すならば本丸の一門・家臣の命を助けると呼びかけ、久左衛門は10月19日、有岡城を開城した。
開城に際しては、村重翻意のために秀吉によって派遣され、そのために有岡城内に抑留されていた黒田孝高が1年ぶりに救出された。
しかし村重自身は毛利輝元のもとへ逃れ、久左衛門も失踪したため有岡城の人質助命は反故にされた。
信長は、戦後の12月、有岡城の人質全員の処刑を断行した。村重の一門は京都六条河原で斬首、重臣の妻子は尼崎近郊で磔刑に処せられ、その他510名余は枯れ草を積んだ家屋に閉じ込めて焼き殺すという残酷な報復であった。
いっぽう別所長治との三木城攻囲戦は、秀吉によって兵糧攻めが採用され、これは後世「 三木の旱殺し 」とよばれた。村重方の花隈城から丹生山の砦(神戸市北区)と淡河城(神戸市北区)を経て三木城へと達する補給路は、5月、両城砦が秀吉によって落とされたため、機能しなくなった。
また、この年の9月10日には毛利方の生石中務少輔とのあいだで兵糧の補給路をめぐる平田砦の戦い(三木市)が起こっており、これは、三木合戦のなかでは最大の激戦となった。
山陰方面では、前年より明智光秀が丹波八上城(兵庫県丹波篠山市)を攻略しており、この年の6月、敗れた波多野秀治・秀尚の波多野兄弟は磔刑に処せられた。7月初旬から8月上旬にかけては細川藤孝・細川忠興・羽柴秀長・明智秀満らの諸将を加えた光秀軍が第二次黒井城の戦いで勝利して赤井忠家を破り(荻野直正は前年に死去)、10月、丹波・丹後両国の平定をほぼ成し遂げた。
これにより丹波は明智氏、丹後は細川氏の領国となり、山陰道からの毛利勢の東上路はふさがれることになった。
三木落城と播磨・但馬の平定 / 天正8年
「三木合戦」も参照
前年の平田砦の戦い以降、孤立無援となった別所方では兵糧が欠乏して三木城内からは餓死者が出はじめた。天正8年(1580年)1月、正月であるにもかかわらず城内から煙がたたないのを見た秀吉は、1月6日早朝、三木城の背後の八幡山への攻撃を開始した( 鷹の尾砦の戦い )。
八幡山には、三木城を南から見下ろす鷹の尾砦があり、長治の弟別所友之(彦進)が詰めていた。秀吉の攻撃に対し300余名が抗戦したが、充分な食糧のない兵は充分な武具も付けずに戦わざるをえなかったため、多くは討死に、老将36名は自害して砦は失われた。
1月17日、丸裸になった三木城は陥落し、別所長治、弟友之、叔父吉親が城兵助命を条件に自害して、2年におよぶ三木合戦が終わった。
なお、それに前後して、別所氏に与力していた魚住城(明石市)・高砂城(高砂市)・御着城(姫路市)も陥落している。
なお、秀吉は天正13年(1585年)、長治の叔父別所重宗に但馬城崎城(兵庫県豊岡市)1万2000石をあたえている。
いっぽう、大坂では閏3月5日に信長と顕如とが正親町天皇の勅命によって和睦し石山合戦が終了して、中国戦線にも転機がおとずれた。
戦後、顕如は紀伊雑賀(和歌山市)に去り、信長は摂津・和泉の両国で国内諸城の破棄(城割)を命じている。しかし講和に反対した顕如の子教如は、大坂に残って諸国に檄を発して一向宗門徒の再挙をはかった。
教如の蜂起に対しては、足利義昭は毛利輝元、小早川隆景に対して「新門跡」(教如)を支援するよう命じており、教如も義昭に謝意を表明していることから、両者が提携していたことはほぼ確実視される。
しかし、その教如も形勢不利とみて7月に信長と和睦した後、本願寺に火を放って雑賀に退去した。
東播磨およびその東方が安全となった秀吉は、閏3月29日から4月24日まで、播磨一向一揆の拠点であった英賀城(姫路市)を攻略してここを占拠、引き続いて赤松氏の一族宇野政頼・宇野祐清父子の立てこもる長水山城(宍粟市)も落城させて一揆を解体、播磨を再び平定して、その支配を強化した。
4月からは信長の命によって播磨の検地をおこない、手狭になった姫路山の近くに新城を築いて居城(姫路城)とし、浄土真宗の寺内町だった英賀から町人・百姓を呼び寄せて、城下町を整備した。
以後、秀吉は播州姫路を拠点に毛利氏との直接対決を迎えることとなった。
6月には、宇喜多直家と連合して美作攻略を開始し、枡形城の城主で毛利方の福田盛雅が守る祝山城(医王山城とも。岡山県津山市)を攻めた( 祝山城の戦い )。かつては浦上宗景の被官で、当初は毛利氏と結ぶことによって備前国内での勢力を伸張させた宇喜多直家は、今や織田方の先鋒となって山陽地方における毛利氏の前線を切り崩していった。
山陰方面では、朝来郡の竹田城を根拠として秀長部隊を主力とする羽柴勢によって但馬攻略が本格的に再開され、5月16日、山名堯熙の守る有子山城(兵庫県豊岡市)が落城した。その父で但馬守護山名祐豊はその中で死去、5月21日には山名氏の本城出石城(豊岡市)も落城した。これにより但馬は再び平定され、秀長には出石城があたえられた。同月、因幡にも侵攻し、第一次鳥取城攻めがおこなわれたが、その際、鳥取西方の鹿野城(鳥取県鳥取市)も攻略された。
戦後、秀吉は因幡進攻計画を練り直して若狭の商人に因幡の米や麦を買い占めさせた。これにより、穀物価格は急騰したという。
なお、この年の8月、信長は本願寺攻撃の責任者であった佐久間信盛を砦にこもって無為に過ごしたとして、「武篇道ふがいなし」と断じ、高野山に追放した。いっぽうで、明智光秀・羽柴秀吉・池田恒興のはたらきについては「天下の覚え」「天下の面目」と激賞した。
また、戦国時代史の研究者谷口克広は、羽柴軍が「中国方面軍」へと昇格したのは、播磨・但馬を統一した天正8年とみるのが妥当ではないかとしている。
鳥取城攻めと淡路平定 / 天正9年
天正9年(1581年)、秀吉は、3月に上洛して清水寺(京都市東山区)で京都所司代の村井貞勝や堺奉行の松井友閑らと能楽を楽しむ酒宴を催し、その後中国戦線にもどって因幡に転戦し、6月より因幡守護山名豊国の居城であった久松山の鳥取城(鳥取市)を攻略した。
鳥取城は前年、東からは秀長と宮部継潤の軍、南からは秀吉の軍が攻め入って包囲され、豊国は因幡一国の安堵を条件に開城をせまられたが、降伏に激しく反対する森下道誉や中村春続らの家臣団と対立し、単独で秀吉に投降した。家臣団は豊国を見限り、毛利家に対して、山陰地方での声望高く城兵をまとめる求心力をもつ存在として吉川氏の派遣を希望した。当主吉川元春は石見福光城(島根県大田市)の城主で一族の吉川経家の派遣を決定した。
天正9年7月には、宮部継潤が塩冶高清のまもる雁金城(鳥取市)を攻撃し、塩冶は丸山城(鳥取市)に逃亡した( 雁金城の戦い )。
包囲された鳥取城は、山陰地方における毛利方の難攻不落の要塞であったため、秀吉は後世「鳥取の渇殺し」と呼ばれる兵糧攻めを採用した。先述した穀物買い占めにともなう価格上昇により、鳥取城中の貯穀さえ売り出す者がいたといわれている。
秀吉は、鳥取城の周囲に深さ8メートルの空堀を全長12キロメートルにわたって築き、塀や柵を幾重にも設けて櫓を建て、夜間も入念に監視させたうえで河川での通交も遮断した。
そのうえで、昼夜の別なく鐘や太鼓、鬨(とき)の声をあげさせ、不意に鉄砲や火矢を放つなどして城内の不安を煽り、また、多数の商人を集めて城外で市を開かせて衣食にかかわるものを売買させ、芸人を呼び集めて盛大に歌舞音曲をおこなうなどして城内の厭戦気分の醸成に努めた。
9月16日、鳥取への兵糧補給における水上交通の要地、因幡千代川(湊川)河口の海戦において、細川藤孝の家臣松井康之が毛利水軍を破り、敵将鹿足元忠を斬った(湊川口の戦い)。
これにより、鳥取城は完全に食糧を絶たれ、水、草木、城内の犬・猫・鼠まで食い尽くし、死者の肉まで奪い合う修羅場となった。
10月24日、毛利氏は秀吉方に丸山城 [ 20] を開城、翌25日は鳥取城も開城した。開城交渉では、自らの生命に代えて城兵の助命を主張する経家と、経家を生かして森下・中村の切腹で充分と考える秀吉との意見がかみあわず、結局、経家と城内の有力な将士がそろって自害した( 鳥取城の戦い )。
切腹に際し、経家は「日本二ツの御弓箭の境(日本をふたつに分けるような重大な合戦の節目)において切腹に及び候事、末代の名誉たるべしと存じ候」と記した遺言状を故郷の石見に書き送っている。
秀吉はその後すぐさま伯耆に出兵し、羽衣石城の南条元続を救援しようとしたが、吉川元春は馬ノ山(鳥取県湯梨浜町)に布陣し、全面対決も辞さない構えを示したため、秀吉はいたずらに激戦して多数の将兵を損耗する事態を避け、羽衣石へ兵糧・弾薬などの補給をおこなったうえで、10月28日に全軍に早期撤兵を命じた( 馬ノ山の戦い )。
この年、秀吉は毛利氏の前線基地としての機能を担っていた淡路の平定にも乗り出している。
11月中旬、秀吉は自ら池田元助と共に淡路に渡って、安宅清康を由良城の戦い(兵庫県洲本市)で破り、つづいて11月15日の岩屋城の戦い(兵庫県淡路市)に勝利して、最終的に淡路の制圧に成功し、播磨灘の制海権をにぎった。岩屋城を生駒親正にあたえ、淡路国全体の支配は仙石秀久に委ねた。なお、安宅清康の服属により、安宅氏の勢力圏内であった小豆島も信長政権に帰属することとなった。
この年はまた、但馬で国人一揆がおこっているが、秀吉は配下の藤堂高虎を派遣して但馬一揆を平定している。
領国経営の面では、秀吉は播磨国内に城割命令を発して、かつての守護家の居城であった置塩城を廃城とした。破却された置塩城の建物や部材、石垣は自身の本拠地である姫路城に運び込まれた。
なお、前年からこの年にかけて、毛利氏と宇喜多氏の戦いが備前・備中・美作の各地で繰り広げられていた。そのうち最大の戦いとなったのは8月の八浜の戦い(岡山県玉野市)である。この年(天正9年)2月に直家が病死し、1年間死が伏せられた中での戦闘であったが、毛利主力は備前児島に兵を進め、麦医山(玉野市大崎)に拠る穂井田元清(輝元の叔父)に援軍を送って激しい戦いとなったが、村上水軍を動員した毛利氏によって宇喜多勢は総崩れとなって退却した。
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