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2024年11月26日
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カテゴリ: 古代史



藤原仲麻呂の乱


孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり危機感を抱いた仲麻呂は、天平宝字8年(764年)自らを都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てる。しかし謀反の密告があり、上皇方に先手を打たれて天皇のもとにあるべき御璽や駅鈴を奪われると、仲麻呂は平城京を脱出する。子の辛加知が国司を務めていた越前国に入り再起を図るが、官軍に阻まれて失敗。仲麻呂は近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北する。


敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだしてなおも逃れようとするが、官兵石村石楯に捕らえられて斬首された。享年59。僅か1週間前には完全に軍権を把握して意気揚々たる状態だったが、将棋倒しのように不運な敗戦と誤算が相次ぎ急転直下の滅亡となった。



死後


仲麻呂の一族はことごとく殺されたが、六男の刷雄は死刑を免れて隠岐国への流罪となり、のちに赦されて桓武天皇の時代に大学頭や陰陽頭を歴任している。また十一男と伝わる徳一も処刑されず東大寺に預けられて出家し、のちに筑波山知足院中禅寺の開山となり、やがて最澄や空海の論敵としてその名を馳せることになる。


仲麻呂の滅亡によって彼が推進してきた政策は、官名の唐風改称こそは廃されて旧制に戻されたものの、養老律令はじめとする先進的な政策の多くは一部修正を加えられながらもその後の政権によって継続されていくことになる。


東北地方への進出を強め、現地住民との軋轢を増してきた政府の政策に対する、蝦夷側の反作用というべき性格も持っている。


ただし反乱の舞台となった地域は完全に政府側の勢力が及んでいなかった地域でなく、首謀者の呰麻呂が受爵していたことからもわかる通り、ある程度政府の政治的・文化的な影響下にある地域であった。反乱は、それを踏まえた政府によるさらなる現地支配の強化に対しての抵抗と捉えられるものである。



4「乱の発生」


乱の発生は宝亀11年3月22日(780年5月1日)である。陸奥按察使であった紀広純は、覚鱉城造営のため、俘軍を率い、陸奥介大伴宿禰真綱、牡鹿郡大領道嶋大楯、そして反乱の首謀者となる上治郡大領伊治呰麻呂を従えて、伊治城に入った。


これを機会に呰麻呂は自ら内応して俘軍を誘い、反乱に至ったものである。呰麻呂はまず道嶋大楯を殺すと、ついで衆を率いて紀広純を囲み、攻めてこれも弑した。大伴真綱に対しては囲みを開いて多賀城まで護送した。これは真綱に多賀城の明け渡しを求めてのこととみられる。城下の住民が多賀城の中に競うようにして入り保護を求めたが、真綱は 陸奥掾の石川浄足 (いしかわのきよたり)



〇「掾」 (じょう)とは、日本の律令制下の四等官制において、国司の第三等官(中央政府における「判官」に相当する)を指す。


中世以後、職人・芸人に宮中・宮家から名誉称号として授けられるようになり、江戸時代中期以後はとくに浄瑠璃太夫の称号となった。



国司の官名


国司の四等官は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)という文字を用いた。本来「掾」という漢字の音読みは「エン」であるが、三等官は文字にかかわらず「じょう」と訓ぜられる。これは唐の一部官庁で三等官の呼称とされていた「丞」の借音とされる。


大宝令・養老令に定められた規則では、国の規模(国力)によって国司の制度が異なっており、四等官すべてが置かれないことがある。最も低い位置付けの下国には掾が置かれなかった。逆に、最も高い位置づけの大国には 大掾 少掾 が設置された。このため が設けられたのは上国・中国となる。


ただし実際の運用上は人員の増減があり、上国である下野国に大掾と少掾が配置されたり、下国である飛騨国に掾が置かれたりした(国司 # 国等級区分参照)。



職人・芸人の名誉称号


律令国司における掾(または大掾・少掾)が転じて、中世以後は職人・芸人に宮中・宮家から与えられる名誉称号になった(これは、目など他の国司の官名についても同様である)。近世には刀工など多様な職人・商人や芸人に対して、宮中・宮家からその技芸を顕彰する意味で下賜された。掾号を授けられることを「受領する」という。


浄瑠璃


職人・芸人の名誉称号としての掾号のうち、もっとも後代まで残存していたのは浄瑠璃太夫に授けられるものである。例えば、竹本義太夫は筑後掾を受領した。


江戸時代中期以後、掾号はもっぱら浄瑠璃太夫の称号とされた [1] 。掾号を授けられることは浄瑠璃太夫にとって最高の名誉とされた。称号としての掾は、大掾・掾・少掾の3等級に分かれる。


江戸時代は嵯峨御所(大覚寺門跡)、明治以後は宮家から与えられた。戦後では、1947年(昭和22年)に2代目豊竹古靱太夫が秩父宮家から山城少掾を、1956年(昭和31年)には4代目吉田文五郎が東久邇家から難波掾 [ 4] を受領している。




とともに後門から隠れて逃げたため、住民も散り散りになって逃れた。数日後には反乱軍が多賀城まで来襲し、府庫の物資を略奪した上、城に火を放って焼き払ったという。この時伊治城・多賀城ともに大規模な火災により焼失したことは、発掘調査によっても裏付けられている。



5「征東使の派遣と、それを巡る混乱


概要で述べたとおり、この事件は政府では大きな衝撃として受け止められた。天皇の現地代理人である按察使が殺害され、陸奥国府の多賀城を失陥したことは国家や天皇の権威を著しく損なうものだったからである。このため事件から6日後の3月28日には征東使の人事が行われ、 中納言の藤原継縄を征東大使に任じ、次いで大伴益立、紀古佐美を征東副使とし、さらに出羽国に動揺が波及しないようにするための出羽鎮狄将軍として安倍家麻呂を任じた。



〇「藤原 継縄」 (ふじわら の つぐただ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての公卿。藤原南家の祖である左大臣・藤原武智麻呂の孫。右大臣・藤原豊成の次男。官位は正二位・右大臣、贈従一位。 桃園右大臣 あるいは 中山 を号す。


出生から藤原仲麻呂の乱まで


天平宝字7年(763年)37歳で従五位下に叙爵する。末弟(四男)の縄麻呂は既に天平勝宝元年(749年)に20歳で従五位下に叙されているが、これは縄麻呂の母(参議・藤原房前の娘)の身分が高く、縄麻呂が嫡子として扱われた可能性があるのと、その後の藤原仲麻呂政権下で父と共に権力から排除されていたためと想定される。翌天平宝字8年(764年)正月に信濃守に任官するが、9月に藤原仲麻呂の乱が発生した際に、越前守であった藤原辛加知(仲麻呂の子)が佐伯伊多智に斬殺されると、継縄はその後任として越前守に転任した。藤原仲麻呂は北陸道への逃亡を企てており、越前は軍事的に重要な場所であった点から、軍事目的の任命と考えられる。また、この反乱を通じて大宰員外帥に左遷されていた父・豊成も右大臣に復帰している。


道鏡政権・光仁朝


道鏡政権に入ると急速に昇進し、天平神護元年(765年)正月に従五位上に進むと、同年11月の父・豊成の薨去に伴って三階昇進して従四位下に叙せられる。さらに翌天平神護2年(766年)には参議に任ぜられ公卿に列す傍ら、右大弁・外衛大将と文武の要職も兼帯した。


宝亀元年(770年)光仁天皇の即位に伴って従四位上に叙せられると、翌宝亀2年(771年)従三位と光仁朝初頭は引き続き順調に昇進する。また、光仁朝では外衛大将・左兵衛督・兵部卿など武官を歴任した。


宝亀10年(779年)に弟の中納言・藤原縄麻呂が薨去すると、継縄は藤原南家の氏上格となり、翌宝亀11年(780年)2月に中納言に昇進する。3月になると陸奥国で蝦夷の族長であった伊治呰麻呂が反乱を起こし、按察使・紀広純を殺害したため(宝亀の乱)、これを鎮圧すべく継縄は征東大使に任ぜられた。しかし継縄は準備不足などを理由にして平城京から出発しようとせず、遂に大使を罷免されてしまった(後任大使は藤原小黒麻呂)。ただし特に叱責を受けたり左遷されるなどの処分は受けていない。


桓武朝


天応元年(781年)桓武天皇が即位すると、同じ藤原南家の従兄弟・藤原是公が重用されるようになる。同年9月に2人は正三位・中納言となって肩を並べ、翌天応2年(782年)是公が先に大納言に昇進して官位面で後塵を拝することになった。


延暦2年(783年)には是公は右大臣に就任するが、後任の大納言には継縄が任ぜられ、藤原南家の公卿で太政官の首班・次席を占めた。延暦4年(785年)の藤原種継暗殺事件や、桓武天皇の皇后藤原乙牟漏・夫人旅子の相次ぐ死により藤原式家の勢力が衰えたためか昇進も順調で、大宰帥・皇太子傅・中衛大将を経て、延暦8年(789年)藤原是公の薨去により太政官の筆頭の地位に就き、延暦9年(790年)右大臣に至った。


継縄が太政官筆頭の時期の重要事項として、延暦11年(792年)全国の兵士を廃止して健児を置いたことがあげられる。延暦13年(794年)の平安京遷都に深く関わったとする説もある。『続日本紀』の編纂者としても名が挙げられているが、生前には一部分しか完成しておらず、実際に関与した部分は少なかったと見られている。


延暦15年(796年)7月16日薨去。享年70。最終官位は右大臣正二位兼行皇太子傅中衛大将。没後に従一位が贈られた。


夫人が百済系渡来氏族出身(百済王氏)であったためか、同じく百済系渡来氏族出身とされる高野新笠を母に持つ、桓武天皇からの個人的信頼が厚かった政治家の一人であり、天皇が継縄の邸に訪れることもしばしばであった。その際に百済王氏一族を率いて百済楽を演奏させたことがある。『日本後紀』の薨伝によれば凡庸な人物であるものの人柄はよかったというが、その点も桓武の信任を得た理由だという説がある。






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最終更新日  2024年11月26日 07時41分20秒
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