全275件 (275件中 1-50件目)
僕の苗字は「比良(ひら)」というので、塾の先生をしていた大学生の頃は生徒から「ひま先生」と呼ばれていました。(語りたくない論理を飛ばしてます)今も同じような職業をしてますが、さすがに「ひま先生」とは呼ばれてません。(これを見た同僚が明日から呼んだりしてね)これを「貫禄がついたから」と読み取ってくれる人、僕以外にいませんか。そんな「ひまそうに見える」僕も(あ、言っちゃった)最近は地味に忙しくしてました。仕事って、「人手が足りない」が常態なんだなと、つくず(づ?)く思います。まあでも、やるべき仕事があるってのはいいもんだと思います。定年退職なんかしたら、今のままだったらきっとウツになるな。そう思い、早めに手を打とうということで、吉本隆明の「老いの幸福論」を読んでいます。まあ、ビジネスタームで言うところの、先行管理ってやつです。一緒に仕事をしていて楽しい人っていますよね。もちろん、気が合う、趣味が合う、そういう相性の要素もありますが、そういう「友達的」な部分だけじゃなく、信頼がおけたり、つい手伝いたくなったりする、いわば「仲間的」(言葉は何でもいいんですが)な結びつき。そういうのを一緒に働いている人に感じられる職場は、ハッピーな職場だと思います。(今の僕は、そうです)この結びつきはどうやって生まれるのかが、最近の考えるテーマです。今のところの僕の考えは、「オーバーアチーブ」という言葉を軸にしてます。「一人ひとりがオーバーアチーブしてる職場」こそ、居心地のいい職場である。「オーバーアチーブ」とは、わざわざ説明しなくてもいいかもしれないですが、「期待を超えた仕事をすること」と訳すことができます。こういうと難しいことに思えますが、具体的に考えるとそうでもありません。。。。と言いつつ、具体的な例を挙げづらいことに気づきました。それは例えば「これ、Aくんに渡せるようにして」と頼んだ資料に「あ、Aくんの忘れ物が届いてるから一緒に渡そう」と気付いてそれをそっと添えるような、そんなようなことなんですが、多分これ、例えば同じ職場内でしかなかなか共有できない、一般化が馴染まない性質のものなんでしょうね。(なんとなく、わかるよね?)それでも無理矢理一般化を試みるならば、ありふれた言葉ですが「気遣い」とか「気を利かせる」っていうのが分かりやすい表現なんだと思います。「期待を超える」っていうとやれ「月間売上額」だの「新規獲得顧客数」だの無粋なことを言い始める人がいますが、僕が好きなのはそういうのじゃなくて、思わず「おお、ありがとう」と言ってしまうような、そんな仕事をする人なのです。なぜ「オーバーアチーブ」が大事かというと、「『オーバーアチーブ』は『オーバーアチーブ』を呼ぶ」と思うからです。「オーバーアチーブ」をされて「おお、ありがとう」と思った人はほぼ必ず、「オレもなんかしなくちゃな」って思います。「贈り物」を贈られたら、自分も贈りかえさなきゃって思う。人間、そういう風にできてると思うんです。なので、一度「オーバーアチーブ」が習慣になると、かなり無敵な気がします。循環さえできてしまえばね。では、循環はどうすればできるか。それは、「最初のひとり」が、絶対にいるんです。「オーバーアチーブ」って、言葉にするとカッコいいけど、それをする人ってのは、最初は必ず「損をする」仕組みになってるんです。「期待を超える」わけだから、言ってみると「給料より多く働く」みたいなことになるわけです。これは、やれ「生涯賃金」とか「キャリアパス」だとか言って「いかに自分がいい待遇を得るか」を最優先課題にする最近流行の労働観ではきっと受け入れられないでしょう。そういった労働観がいちばん嫌うのが、いわゆる「割に合わない」仕事ですからね。でも、「働くこと」の面白さは、そういう労働観を超えたところにある気がします。「自分の仕事」と「誰かの仕事」を区別して考えないで、「みんなの仕事」の一部を自分が担っているような感覚というか、まだうまく言えないけれど、そんなような感じで、「自分が関与することで『みんなの仕事』のクオリティーを上げること」を「みんなと喜べる」そんな発想の下に、素敵な職場と呼ばれる場所はできているような気がします。というわけで、この「最初のひとり」にどんどんなっちゃおう、というのが僕が思うことです。「オーバーアチーブを始める人」に、どんどんなっちゃおう。損をするのは最初だけだし、そもそもそれを損だなんて思わなくなるさ。そんな風に僕は思うので、そんな風にやってみようっと。
2011年06月17日
コメント(2)
いやあ、強かったですね、バルセロナ。チャンピオンズリーグ決勝の話です。あのショートパスの回りっぷり、見ましたか。相手はマンチェスター・ユナイテッドですからね。尋常じゃないくらい、強かった。なぜバルサはあんなにパスが回るのか。そりゃあ、みんなの技術が高いからですよね。チャビ、イニエスタ、プスケス、ペドロにメッシ。ショートパスを回させたら世界一ってメンバーが揃ってる。でも、それだけじゃない。パスは「出す側」と「受ける側」がいて成立するプレーです。バルサはの選手は、この「受ける側」の仕事もとんでもなく上手い。「受ける側」の仕事というのは、「出す側が仕事をしやすいようにすること」に尽きます。それは、「出す側」が「そこにいてくれ」と思うところに、ちゃんといるということです。これは、大変に高度なことなんです。なぜなら、それが大変に高度な知性を必要とすることだからです。パスを「受ける側」に必要な知性とはなにか。それは、「味方」と「相手」と「ゲーム」の3つを感知する力と言うことができます。「味方」は自分がどこにいてくれれば仕事がしやすい(パスが出しやすい)のか。「相手」は自分がどこにいれば仕事がしにくい(守りにくい)のか。さらに、「ゲーム」は自分がどこにいることを望んでいるのか。最後のはそれだけじゃわかりにくいですよね。これ、アーセナルのベンゲル監督の言葉です。「ゲームを尊重するように」というのが彼の教えだそうで、これは観客やらなにやらを全部含んだ存在として「ゲーム(=試合)」を定義して、その「ゲーム」の望むことを選手は体現するべきだという考えです。うーん、サッカーは奥深いね。そして、僕は楽しげにパスを回すバルサを見て、強烈な「ジェラシー」を感じたのです。それは、「こんなに楽しく仕事をしている連中がいるのか!」という、「ジェラシー」です。「オレも、あんな風に楽しく仕事をしたいぜ」という、「ジェラシー」です。だって、そうでしょ。僕が見習おうと思ったのは、バルサの「受ける側」の仕事っぷり。「受ける側」のセンサーの研ぎ澄ませっぷりを、ぜひ真似したい。彼らの頭の使い方は、僕みたいな「ふつうの仕事」をしている人にも参考になると思うんです。僕みたいな「ふつうの仕事」をしていても、バルサを目指せます。それは、僕らも3つのこと知覚しながら仕事をすることを目指せるからです。3つのこととは、僕の独創ですが、「同僚」「顧客」「世界」です。自分がどんな仕事をすれば「同僚」が「顧客」が「世界」が喜んでくれるか。そんな風に考えながら工夫することで、職場をバルサにできます。最後の「世界」ってのは少し言いすぎかもしれませんが、せっかくやるならおっきいところを考えてもいいじゃないですか。自分がしている仕事が「世界」に与えてる影響を、ちゃんとしたサイズで、しっかり考える。そのサイズに応じた責任を、逃げないで考えてみる。そういうことも、大人になると愉しみとして思えてくるんです。「職場をバルサにする」って、自分で言ってていい言葉だな~と思います。やってる側も、見てる側も、楽しいチームに自分の職場をしていく。そんな夢みたいなことの第一歩は、僕らが仕掛ける「受ける側」の仕事なんです。それは、明日にすぐ始めたって誰も文句言わない、そういう仕事です。よし、やっちゃえ、やっちゃえ。ちなみに、だいぶ手前味噌ですが、今僕がいる職場は、「かなりバルサ」です。メンバーのみんなが、「受ける側」の仕事が上手なんです。僕は「そんなに上手くないパサー」ですが、僕でも仕事ができてるのはそれが故です。ホント、楽しくってしょうがない。この場を借りて、最大限の感謝と賞賛を、ささげちゃいますみんな、いつもどうもありがとう。
2011年06月01日
コメント(0)
僕は、「お買いもの」が好きです。というより、お金を使うことが好き。(おお、浪費家のようだ…)ものを買うことだけじゃなく、ご飯を食べに行ったり、髪を切ってもらいに行ったり、そういうことが、とても好きです。(みんな好きかもしれないけど)休日の今日はお気に入りのレストラン(いつものとこです)で豚しゃぶランチ ↓店長がサッカー好きで笑いが尽きない美容室で散髪 ↓セレクトセンスとお店の人の感じが最高なショップで夏のジャケットをお買い上げと、散財三昧。ああ、幸せ。財布からおっきいお金を出しながら考えたことなのですが、僕は好きなのは、正しく言うと、「なににお金を使うか考えて、決めること」なのかなと。それは、自分の価値観を自問自答して、それを表現するってことなんじゃないかと。商品だったり、お店だったりを前にして、「これ、買う?」とか「この店、入る?」とか考えることって、僕みたいな「ひとりっ子」(一人行動が好きって意味でも)にとって、常に自問自答の機会なんですよね。そりゃあ、いつも88円の納豆とか、考え込まずに惰性で買うものもありますが、多くの場合において、買い物ってのは自分にベクトルが向く行動なんです。それは、「お前、何がほしいんだ?」を自分に問いかけるってことです。だから、いわゆるウィンドウショッピングも、大好きなんですよ。お店をぶらぶらして、「今、自分が何に心惹かれるか」をウォッチする。これは「自分を知る」って難しそうなことが手軽にできちゃうお勧めのやり方です。ぶらぶらするお店は、できれば固定したほうがいいんですよ。そうしたほうが、自分の変化に気付きやすいんですね。いろんなジャンルのものがそろっていて、自分好みのテイストである、そんなお店がいいです。僕の場合、「無印良品」か「ジュンク堂書店」か「green label relaxing」です。でもでも、やっぱり「お買い上げ」が最高の愉悦です。財布から「ばーん」とお金を差し出す、そのおくゆかしさ!なんというか、そこに喜びがあるんですよね。お金を使うことそれ自体に、嬉しさがある。(浪費家ってわけじゃ、ないですよ…。)その喜びは、お金を「ばーん」と出すに至る以前の自問自答の質に比例する気がします。「これ、買っちゃう?」という問いに対して、いかに真剣に検討し誠実な返答をするか。その自問自答の過程で、自分が持っている価値観をじっと見つめて、時には疑って、それでも信じきることができたら、「お買い上げ!」のときが来る。「いろいろ考えたけど、オレはこれがいいと思う!」って心から言い切れるとき、僕はお金を「ばーん」と出します。そう考えると、「お買いもの」は表現活動だって気がしてきます。「なににお金を使うか」は「なにを大切に思うか」を貨幣っていうツールに乗せて、社会に示しているんです。僕は表現することが大好きな人間なので、自問自答とセットになったお買いものが、好きなんです。きっと、みんなもそうなんじゃないかな。「日本経済を元気にする」とか、逆に「まさかの事態に備えておく」とか、そんなこと考えるわけじゃなく、使えるお金をじゃんじゃん使っちゃいましょう~。面白いし、嬉しいし、ちょっと自分が深まって、いいこと尽くめ。いざ、散財!
2011年05月27日
コメント(0)
いつもおいしく昼ご飯を食べさせてもらってる「IOR?I/雲州堂」で、映画「幸せの経済学」の上映会が催されたので、いざ出陣。上映後はジャズバンド「HyunSwingWorld」のライブまで見れちゃって、まあお得。今日は、「国際生物多様性デー」だったんですねー。へ~。映画は、「グローバルからローカルへ」をテーマにしたドキュメンタリー。世界に一律の欲望を押し付けるグローバリゼーションって、無理があるよね。これからは、みんな一人ひとりの本当のニーズを満たせるローカルに帰ろうよ。そんなメッセージの、映画でした。僕はけっこう、「うんうん」って思いました。「ローカルへ」って動きは、それ自体面白いなあと思います。「グローバルからローカルへ」って動きは、言い換えとして、「おんなじからいろいろへ」とも表現できるんじゃないかな。グローバリゼーションって「人間はみんな同じようなものを欲しがるし、それを与えられれば幸せになれる」(たいがいの場合「それ」はお金だったり、便利でモダンなライフスタイルだったり)という人間観から生まれた思想だと思うのですがいざやってみると、思ったより人間は「いろいろ」だったんですね。真冬に「ガリガリくん」を食べるヤツとか、夏なのに革ジャン着込むヤツとか、いるわけです。(たとえが変ですね。許せっ。)すると、「グローバルからローカルへ」っていう動きは、この「いろいろ」をそれぞれ認めていくっていう考え方になると思うのです。しかし、それはグローバルと比べて、「ひじょうにめんどくさい」ことになります。それは、真夏になってもコンビニで肉まんを売り続けるようなものです。(全然たとえになってない気がします。許せっっ。)「いろいろ」を「いろいろ」のまま扱うと、「ひじょうにめんどくさい」ことになります。なぜなら、「いろいろ」が「いろいろ」のままでいると、様々な場面でいちいち対立が起こり、議論が必要になり、その都度和解や妥協がないとものごとが先に進まなかったりするからです。。(「3年B組金八先生」シリーズの3年B組のようなものです。)その点、グローバリゼーションの考え方は合理的です。「人間はみんな同じようなものを欲しがるだろう。欲しがらなければ、欲しがるように仕向けてしまえばいいさ。」という考え方のもとに設計された社会では、対立や議論を最小限に抑えることができます。(商いもしやすいんです。「同じようなもの」を売り続けることができます。)こうして考えてみると、「グローバル」の方が「ローカル」より理にかなってるようです。まあ、確かに理にはかなってるんです。でも、人間はそもそもそういうもんじゃないってことですよね。理には全然かなってなくたって、「ガリガリくん」が食べたくなるのが人間です。僕は、人間のそういうところが、好きだなあ。「グローバルからローカルへ」の動きの中で、「『いろいろ』を守る仕事」がきっと必要になってくると思います。「いろいろ」が「いろいろ」のままでいるためには、それによって生じる「ひじょうにめんどくさい」議論や、妥協や、和解などの作業を引き受ける人が、きっと要る。だれもそれをやらないと、きっと「いろいろ」はだんだん「おんなじ」に向かっていく。そう思います。「いろいろ」は手間がかかって、弱いんです。「ああ、僕はそれをしよう」って、映画を見ながら決めました。「『いろいろ』を守ること」を、僕はやっていきたい。僕は「いろいろ」が好きだからです。「『いろいろ』を守る仕事」は、どこにいても担うことができます。仕事だったり、消費だったりといった日常の生活の中であっても、僕ら「ふつうの人」には思ったよりたくさんの「表現の場」がある。「ふつうの会社員」を丸2年やった時点での、僕の思うところです。「ふつうの人」が社会に向けて示せることを、侮っちゃいけない。それを過小評価したり、逆に夢を持ちすぎたりしないで、僕はやっていきたいです。「ふつうの人」のまま、ちょびっとだけ誇りを持って。「HyunSwingWorld」、カッコよかったなあ。
2011年05月22日
コメント(1)
僕の休日の生息域はほぼ固定化されていて、この2月まで暮らしていた大阪の南森町周辺で「ランチ⇒本屋⇒カフェ」とめぐり、この3月から暮らしている大阪の淡路周辺で「餃子⇒スーパー⇒銭湯」としめます。今日は3日ぶりに広がった青空が嬉しくって、「淡路⇔南森町」を片道40分くらいで自転車ライド。ちょっと風が強かったけど、とにかく気持ちいい季節です。「こんにちは」を交わせるいつものお店でご飯を食べて、近くの公園に自転車を止めて本屋を漁ります。今日のお買い上げは、「Number」の最新号、「カズに学べ」。44歳にして現役を続ける選手の言葉は、熱くて、深くて、具体的なんだ。「人生には山や谷があって、僕は谷のときでもそこはそこで楽しんでるんだと思う。 プレーすることをやめない限り、僕には谷なんてないんだろうな、と思います。 とにかく、サッカーをやっていて、気持ちが落ちたことはないんです。」「サッカー一筋でやってきているんだけれど、そのためにはいろんなことをしてきているんです。 なんて言うか、基本的に自分の好きなことをやっているんだよね。だから続く。 外に出て、いろんな場所の空気を吸って、いろんな環境に飛び込む。いろんな人に会う。 それがいいんじゃないかと思う。 だから、脳がいつも刺激を受けているし、新鮮でいられる。」「出られなかった悔しさ、使われなかったことの悔しさ、 1分も使われなかったときのむしゃくしゃする気持ちというのは、 10代、20代のときとまったく変わらず、いまも持ってる。 『俺ももう44歳だし、まあ仕方ないや』なんて思ったことは一度もない。 なんで使わないんだよ、このクソ監督、ぐらい思ってやっている。」「だぶん、いま、僕がサッカーを続けていられるひとつの理由は、 毎日毎日まだ新しい発見があるからなんだと思う。 昔は、体の方が先にいっちゃってたけど、 いまは考えて体を動かして、何かを学んでいるという感じになる。 それはできなかったものができるようになったというわけじゃなくて、 あまりやってなかったことがコンディション次第ではまだできるんだ、という類の発見です。」「経験って、長くやって、試合をたくさんやってきたからじゃなくて、 精神的な、生活の落ち着きも含めて、人生で学んだことも入ってくるんです。 それも含めての経験なんです。」ひとつのことをずっと続けてきた人の、そのままが言葉になったって感じです。カズさんはずっとカズさんだもんなあ。それって言葉で言うほど簡単なことじゃなく、ものすごい工夫の試行錯誤と自問自答の結果だと、想像するのです。「自分を面白がること」において、カズさんほどストイックな人はどれだけいるだろう。カズさんのように年を重ねたいと思い、カズさんのように年を重ねられるなら、年を重ねることは怖くないなあと、思います。読み終わって、帰り道を漕ぎ出したペダルには、行きよりも明らかにパワーが。思わずギアを一段上げて、向かい風も気にせず。食べ物からとる栄養もあるけど、言葉からもらえる栄養も、あるよね。「とにかく、大事なのは、普段の自分の姿勢なんです。 地に足がついているか、浮き足立っていなかったか、調子に乗っていなかったか、 努力を怠っていなかったか……。 そんなことがちゃんとできて初めて、底に落ちたときも、底から這い上がってこられるんだと思う。 だから、もし運というものがあるとしたら、それもまた、 普段の生活や練習の態度が大きく関わってくるような気がする。 自分の態度、発言、振る舞いがしっかりしていれば、上がってくるような気がするんです。 それは結局、毎日の積み重ねなんです。」 ~サッカー選手・カズ~
2011年05月13日
コメント(1)
久しぶりに会う人に、「やあ、かわらないなあ」って言うことって、ありますよね。「かわらないなあ」は人によって、いいこととも、わるいこととも捉えられますが、今回東京に行って会った人たちとはみんな、「かわらないなあ」を嬉しく交換しました。中学生のときからの恩師、高校生のときの留学仲間、大学生のときの教え子。しょっちゅう会っているわけではない人たちと、「かわらないなあ」を交し合うことが、もう嬉しくって嬉しくって。「かわらないなあ」は、言うのも、言われるのも、嬉しい。それは、それぞれのときに、「一生懸命」とか「ありのまま」を共にした人と交わす「かわらないなあ」が、それぞれがそのとき大事にしていたものを、今でも大事にしているってことを、ことばを変えて表現しているからなんだなあと思うのです。僕はもう(いや、まだ)25歳なので言ってしまいますが、大人になるにつれ、僕らはいろいろ捨てていきます。それは、物理的な意味でもそうですし、もっとやわらかい部分、例えば「こうなりたい!」っていう希望だったりとか、でもそうです。それは決してわるいことじゃなく、むしろいろいろ捨ててもそれでも残ってしまうもの、そういうものが自分にとって本当に大事なものだとわかるので、いいことだと思います。そういう道のりを経て、「それでも残ってしまったもの」を共有できる人同士が、「かわらないなあ」を嬉しく交し合えるんですね。僕はもう(いや、まだまだ)25歳なので言ってしまうのですが、大人になって、子どものときに抱いた「こうなりたい!」「これがしたい!」を、子どものときのような鮮度というか、切迫感を持って抱くことは、きっとないのだと思います。それもまたわるいことじゃなく、子どものときに抱いた夢や憧れを自分のものにするための技術を身につけることが大人の仕事なので、全然いいんです。そうやって道を定めて、「自分の場所」を作っていくことに、愉しみがあります。だからこそ、「かわらないなあ」を交し合える人とは、これから先同じようなところに、「自分の場所」を作り合うんじゃないかなあと、思います。それって、とっても嬉しくて、楽しみなことなんです。大人になって、人と会うことがどんどん面白くなっています。これからも、嬉しい「かわらないなあ」を、何度でも、ね。
2011年05月10日
コメント(0)
なにげに連休なので、東京の実家に帰っています。「節電モード」の街に驚きつつ、旧友との再会なんか果たしちゃったり、実家のおいしいご飯をたらふく食べたり食べたり。「東京に来ること」はいま大阪に住んでいる僕にとって、他のどの場所に行くこととも違う意味合いを持って存在しています。それは「ああ、実家だなあ」ということだけではなくて、「人間のモード」が変わる、そんな体感がある。就職してすぐに大阪に移った僕にとって、大阪は「働く場所であり暮らす場所」です。大阪での僕は、基本的に「働いている」か「生活している」のどちらかなんですね。その状態は、基本的な構えとして、「なにかを背負ってる」状態です。仕事は言うに及ばずですが、生活だって、「洗濯物を外に干すべきか」とか、「大根をどのスーパーで買うべきか」とか、いろいろ決断して、リスクを受け入れるって構造は一緒ですからね。「労働者モード」や「生活者モード」であるとき、人はとても具体的になるんじゃないかと思います。僕はその「具体的であること」が、割と好きです。でも、思いもよらぬ気づきとして、「具体的じゃ考えられないこともあるなあ」とふと思うのです。実家にある東京にいると、僕は働いても生活してもいない、「ただの人」になります。あえて表現するならば、「あそんでる」状態になります。「あそんでる」状態というのは、働いてたり暮らしてたりする状態とだいぶ違うなあ。それは、「具体と抽象」、「理屈と感覚」、「正しさと楽しさ」のような、わかりやすい二項対立のテーゼが当てはまりそうなくらいです。この、「ただの人」として人に会って、おしゃべりする。すると、普段の「具体的な僕」が思いもつかないようなことを、「あそんでる僕」がしゃべり出すんです。それで、「オレ、こんなこと考えてたんだ…」ってなります。それはきっと、「具体的な僕」が考えてはいたけれど、「具体的な僕」のままでは語る言葉を持てなかった、そういう考えなのでしょう。嬉しくて、たくさんおしゃべりしてしまいましたとさ。暮らしてたり働いてたりする場所から離れて、あそぶ。そのことの豊かさがなんとなくわかった気がします。哲学とか思想がヨーロッパで深まったのは、バケーションの文化があるからじゃないかなあ。人間のモードが変わることがもたらす恵みに、やられてしまいました。「会ってくれた人たち」の素晴らしさについても、また語らせてくださいねー。
2011年05月03日
コメント(0)
そういえば4月なので、「新しいひと」の季節です。新入生・新社会人・新生活、いろいろですね。僕の働き場にも、「新しいひと」がいます。僕は、「新しいひと」を見ると、いつも「いいなあ」と思います。「新しいひと」は「新しいひと」でいるだけで、その場所になにかをちゃんと与えてると思うんです。その「なにか」をちゃんとわかる人で、僕はいたいです。「新しいひと」はたいてい、「できることが少ない」または「ほとんどない」ことが多いです。「できることが少ない」または「ほとんどない」ひとは、「もどかしさ」を覚えることが多いでしょう。その「もどかしさ」!それこそ宝物だよ、と僕は思うのです。「もどかしさ」の正体は、「実現されない想い」です。「こういうことをしたい。でも、やりかたがわからない」という状態。こういう状態の中で生まれる、はみ出した気持ちみたいなものを、大事にしてほしいなあ。なぜなら、それは「自分のできること」という枠組みに縛られないで存在している、ピュアな気持ちだと思うからです。それは、夢とか憧れとか、そういうものに言いかえることもできます。仕事を毎日して、それなりに経験なんかを積んでしまうと、「できること」はそれだけ増えていきます。それは、「成長」というよりももっと怠惰な、「変化」に過ぎないです。「できること」が増えることを「成長」と読み違えるひとは、「できること」にだんだん縛られていきます。「なにをしたいか」ではなく、「なにができるか」という方向から考える癖が、ついちゃうんですね。「なにができるか」から考えることは、それ自体楽しかったり心地よかったりします。「オレってこんなにできるんだ」って気持ちに、簡単になれます。「できること」から考えてるんだから、当たり前なのにね。そうやって、ほんとうの「成長」からは、実は遠ざかるんです。「成長」はいつだって、古い自分の殻を破ることだから。他ならぬ僕が、その勘違いに沈もうとしている気がするんですねー。「新しいひと」が隠し切れない「もどかしさ」は、大切なことを教えてくれます。「できること」の枠からはみ出した「やりたいこと」。「できること」は常に、「やりたいこと」の後追いであるべきなんですね。まず、気持ちがあって、次に技術がある。当たり前の説教のように聞こえますが、胸の奥に刺さってくる感じがするんです。「お前、今なにが『もどかしい』?」答えの数だけ、未来が広がっている気がします。もっともっと、心のままでいい、そんな気がします。「新しいひと」よ、もどかしいままであれ。「新しくないひと」も、一緒にもどかしくなっちゃえ。「『できない』と思っているということは、 『できたらいいな』と思ってるということ」 ~糸井重里/「羊どろぼう」~
2011年04月20日
コメント(0)
サッカーを見ていて、「いいチームだなあ」と思うチームには、「ボールを前に運ぶひと」が一人は必ずいます。ときに強引に、ときにでたらめに、ボールを前に運ぶのです。そういう選手がいるチームは、見ていて楽しいなあと思います。アジアカップの日本代表で言えば、本田圭佑だったり、長谷部誠だったり。バルセロナで言えば、イニエスタだったり、チャビだったり。当たり前ですが、ボールは前に運べば運ぶほど、失うリスクが高まります。相手の選手がいっぱい待ち構えてますからね。もちろん前に運ばなければゴールを奪えないので前に運びますが、できればそれは「誰か」がやってほしい。だって、ボールを失えば、たちまちゴールを奪われるかもしれないですからね。そう思うと、「敵の少ないところから攻めよう」っていう考えで、「横へ」の動きが生まれます。「横へ」はつまり「誰かへ」です。「オレのところじゃ無理だから、キミがやって」です。でも、100%安全なルートを選んでいるといつまでも相手ゴールに近づけないので、「誰か」がリスクを冒します。僕は、そんな「誰か」がいつも大好きです。「ボールを前に運ぶこと」はそれだけでドキドキするし、見てる方はワクワクします。応援している人はハラハラするかもしれませんね。相手に奪われるかもしれない、失敗してプレーが途切れるかもしれない、もしかしたら味方から文句を言われるかもしれない。それでも、前に運ぶのです。「前に運ばれたボール」は必ず何かを起こします。それは失敗だったり、成功だったり、どちらでもなかったりしますが、必ず“何か”が起こります。そうした“何か”が、試合をたまらなく面白くします。どんなに困った“何か”であっても、それに対処することそのものに、面白さがありますからね。「ボールを前に運ぶひと」は、それだけで何かを確実に生み出しています。それは言うならば可能性であり、希望であり、責任を伴った自由です。僕は、「ボールを前に運ぶひと」は、とにかくそれだけでえらいと思います。それは、「何かを起こす人」と言い換えることもできます。今、「なんだかつまんないなあ」と感じているならば、とにかくボールを前に運びましょう。そして、起こったことを全部楽しんでしまいましょう。文句を言うひとには、耳を貸さないでいいと思います。とにかく、でたらめなロングボールでも放り込みましょう。何かを、起こしてしまえ!妙に大胆な気分の、日曜日です。
2011年04月10日
コメント(0)
よく、「わたし、私が許せないの」とか、「今の自分が一番好き」とか言われてるときの許されてない「私」とか、好かれてる「自分」って、いったい誰のことなんでしょうね。誕生日を迎えた今日は、そんなことを思いました。いろんな方に「おめでとう」って言ってもらってる自分とは、「果たして、オレなのか?」という突然の疑問を持ったわけです。それは、25年前(まだ若いんですよ)に「おぎゃあ」と生まれた「オレ」を、みんなが祝福してくれているという絵を描くのは、ちょっと無理があるよなあと思ったからです。それを祝ってくれるのは家族くらいなもので、じゃあそうじゃない人が祝ってくれてるのは誰のことかといえば、それはきっと、「会社の中の自分」であったり、「ともだちの中の自分」であったり、「恋人との間の自分」であったり、するんだと思います。つまりは、「みんなの中の“オレ”」です。これは、とても大事なことのように思えます。「自分」っていうのは多面体なんです。「会社の中の自分」は「ともだちの中の自分」とは違うし、「恋人と間の自分」とはもっと違うでしょう。「自分」っていうのは、惑星としての地球がそうであるように(大きな例えだ)、「真ん中には何もないけど、表面はいろいろ」な存在だと思います。そして、この「いろいろ」な表面をつくるのが、「みんな」なんです。「会社の中の自分」は「会社のみんな」がいてはじめて存在し、「ともだちの中の自分」は「ともだちのみんな」がいてはじめて存在し、「恋人との間の自分:は「恋人」がいてはじめて存在します。この「存在」って部分を、「誕生」と置き換えてもいいくらいです。自分っていうのは、関係性の中にしかありえないんですね。そうなると、「自分が好き」っていうのはそのまま「みんなが好き」と言い換えられることに気付きます。そして、誰かに「おめでとう」と言うことは、そのまま自分たちにも「おめでとう」を言っていることになります。「わたしが好きです」を含まない「あなたが好きです」はないし、その逆もないってな具合です。いわば、「自分」と「みんな」を一続きにした、分けるのではなく一体として考える、そんな見方です。これは割りといいなあ、と一人ほくそ笑む25歳のはじまりはじまり。
2011年04月07日
コメント(3)
もう先週のことですが、職場の先輩の送別会がありました。その方は僕の社会人1年目の上司で、それはそれはお世話になった方なので、当時の思い出など語りながら感謝の気持ちを伝えてきたのであります。すごく厳しい基準を持った人でしたね。「当たり前」のレベルが高い。「まあいいや」という妥協に対する堤防も高い。その基準を下を含めた周りに押し付けることはせず、ひたすらご自身の中でそのレベルをクリアしようとされていた。クリアしたら、当たり前のようにもう一段ハードルを上げていた。その姿を見て周りは感化されていた。そんな方です。僕は感化されていた「周り」のひとりです。社会人1年目というのは、幼稚園に入りたての子どものようだと思います。「他者」との接し方を、まず学ぶ時期なんですね。子どもがいたずらをするのは、「大人相手にどこまで許されるのか」の基準を推し量っているように思えます。なりたての社会人もそれと同じで、「実社会では何が許され、許されないか」をまず学ぶんだと思います。その学びの先生は、それこそ出会う人すべて先生にすることができますが、子どもにとっての親がそうであるように、いちばん身近なひとからいちばん学びます。だから、社会人1年目を誰の下で過ごすかということは、どんな仕事をするかということよりも、大事な、重要なことであるように思います。その点において、僕は圧倒的に恵まれていた。必死になって身につけた先輩の基準が、今の僕を支えてくれています。よく言われるように、仕事とは終わりなく続く正解のない問題集のようなものですが、良い答えを出す人というのは、「参照先」をたくさん持っているように思います。自分だけの知識や価値観には、誰だって多分限界があります。そのとき他の「参照先」をどれくらい思いついて、そこにアクセスできるか。知性とは、おそらくそういう力のことを言うのだと思います。その点において、僕は今すごく心強い気持ちでいます。僕の考えは相変わらず狭くて拙い。でも、僕はもっと大きい考えを持つ人を知っている。その人のところにアクセス(物理的にしろ、抽象的にしろ)する方法も、知っている。そういう存在のことを、きっと「師」と呼ぶのでしょう。僕には幸せなことに、「師」が数多くいらっしゃいます。それが、僕のなによりの強みです。「教師が教壇から伝えなければいけないことは、ただ一つです。『私には師がいます。私がここでみなさんに伝えることは、 私が師から伝えていただいたことの一部分に過ぎません。』」~内田樹/「街場の教育論」~
2011年04月04日
コメント(0)
「ひとつになろう、日本」どこかで見かけたこのコピーに、「うぬぬ。。。」と思ってしまいました。「がんばろう、日本」はいいけど、「ひとつになろう、日本」は、う~ん。怒られるかもしれないけど、なんか違うな~と僕は考えます。ひとつになったら、いけない気がする。「ひとつになる」ことは、「少数の人が多数に合わせる」ようなことを要求します。逆はあまりに非効率なので、普通はしない。今の日本で「多数」の人とは、どんな人たちでしょう。「震災の被害で心を痛めている」「原発の恐怖におびえている」「計画停電に怒りと戸惑いを感じている」「自分も何かしなくてはと使命感を覚えている」こんな感じでしょうか。こんな感じにみんながなることが「ひとつになろう、日本」だとしたら、「それはやめとこうぜ、日本」と、僕は言います。それはなんとなく、「暑苦しい」感じがするからです。もっと言うと、「胡散臭い」というか、「きな臭い」というか、ね。全然わからないですが、なんとなく、「戦争のときって、こんな感じなのかなー」と思っています。今、なんとなくみんなが、「自分より大きなもの」に自分を委ねようとしている、そんな気がします。実際に自然の猛威を見せつけられたからだと思うのですが、外野の勝手な意見ですみませんが、「ひとりの力」をあきらめないでほしい、僕はそう思います。本当の意味での復興は、そこにしかないと思うんです。「政府のリーダーシップ」とか、「社長のカリスマ」とかに期待するんじゃなく、「俺は俺の場所でがんばるぜ」という人がたくさん出てくること、今必要なのはそういうことだと思うし、僕もそれをやります。「ひとつ」じゃなくて、「いろいろ」です。「それじゃあバラバラだ」という人もいそうですが、みんなの「いろいろ」を整理する人も自然に出てくると思っていて、そういう役割も色んな「いろいろ」の中のひとつなんだと、思うんですね。だから、声を大にはしませんが、西の方からひっそりと、つぶやいていきます。「いろいろでいよう、日本」「ひとつにならなくていいよ。認め合うことができるなら」~Mr.children “掌”~
2011年03月28日
コメント(0)
「仕事に夢を持つかどうか」について考えました。青臭い!なんて言わず、たまには考えてみるんです。とても大事なことのように、思います。僕の考えは、「気をつけながら持つのがいい」です。「気をつけながら」というのは、見せびらかしたり、大切にし過ぎたり、しないようにってことです。控えめに、どこか奥ゆかしく、持つのがいいと思います。「仕事」と「夢」は反対の性質といえます。「夢」はじぶんがしたいこと。「仕事」は誰かがじぶんにしてほしいと思っていること。ですもんね。「じぶんがしたいこと」と「じぶんが周りから望まれていること」が一致しているひとなんて、多分いません。みんな、矛盾とか、やるせなさとか、「こんなはずじゃなかった」とか、多かれ少なかれ、抱えてるでしょう。「仕事」が誰かがじぶんに望んでいることである限り、「夢」を全面に押し出しちゃいけないと思います。夢があろうとなかろうと、まじめに仕事をやる人がいちばんえらい、そう思います。「仕事をちゃんとやるひと」は、それだけで尊いというか、偉大というか。それは、「約束をちゃんと守るひと」に似ています。「夢を全面に押し出すこと」は、どんな崇高な夢でも、しちゃいけないと思います。例えそれが「私の夢は誰かによろこんでもらうことです」なんてもんであったとしても。なぜかはうまく言えないけれど、「夢だからがんばる」というのは仕事をする動機付けとしてなにか違う気がするのです。「自分はよくわかんないけど、みんな喜んでくれるから、なんとなくやる」くらいの方が実はちょうど良かったり、するんじゃないでしょうか。「仕事の質はそれにかける想いと比例しない」僕はそう思います。少なくとも、僕の場合はそうです。反比例するとは言わない、でも比例関係が常に成り立つわけでは、決してない。でも、僕は「夢」は必要だと思います。(だいぶ堂々巡りです)なぜなら、夢はひとを「途上」にするからです。「夢」は、絶対に「今よりもいいなにか」になります。夢なんだから、当然ですね。「今よりいいなにか」を思い描くことは、「今」を相対化してくれます。「今」がスタート地点になったり、通過地点になったりします。これは、とても大事なことのように思います。「今」に安心し切らないことが、「今」を越えていく力になる。「向上していく」ために、「夢」は要るんだと思います。でも、気をつけていないと、「夢」はついつい出たがりなので。「気をつけてお持ちください」ってことに、なるわけですねー。たまにはこういった空中論みたいなことを考えます。関西は、平和です。
2011年03月26日
コメント(2)
昨日家に帰ってからテレビをつけると、うれしいことがありました。民放局が、バラエティ番組を、やってる!おとといまではずっと、どのテレビも金太郎飴のように地震の特番をやってさ、原発の見取り図を深刻な顔した専門家とにらめっこしたり、してたわけです。そんな様子だからさ、テレビをつければ即地震モードでしょ。かといって、テレビをつけないでいるのも、なんとなく気が引ける。妙な義務感を感じながら、画面の中の人たちに合わせて、僕も神妙な顔してたものです。でも、それってあんまりよくないなあって、思ってたんです。知らん顔して、あっけらかんとしてるのがいいってわけじゃ、もちろんないけど、「一億総傷心」になることは、そろそろやめた方がいいと思う。これはなんとなく、病気になったときなんかに感じることなんですけど、必要なケアを受けているって前提で、「周りのひとが丈夫にしている」ってことが、ずいぶん助けになるんです。なんというか、それは、「いつか戻る場所」っていうんですかね。「元気になったら、みんなと一緒に遊べるんだ」って気持ちっていうか。そういう場所があるってことが、「大丈夫じゃないひと」が、「大丈夫になること」を思い描く助けになると思います。だから、「なんとか大丈夫なひと」は、思いっきり「大丈夫」であってほしい。気にしないわけでも、心を痛めないわけでもなく、そういう気持ちを真ん中に持ちつつも、「大丈夫」でいましょう。そうそう、地震が起きてから実家から届いたメールで、僕のもうすぐ80歳くらいのおばあちゃんの話を聞いたんですけど、おばあちゃん、「地震のせいでテレビがつまらない」って文句言って、ためていた韓国ドラマのDVDを見漁ってるそうです。やるなあ、おばあちゃん。。。
2011年03月17日
コメント(0)
みんな、大丈夫ですか?これ、「はい」「いいえ」で答えられない質問だって、知ってます。「全然大丈夫じゃない!」ひとも、「大丈夫だけど大丈夫じゃない」ひとも、いますよね。大阪に住んでる僕は、「もちろん大丈夫だけど、つらい」です。どうしてだかわからないのですが、この震災のニュースを見たり聞いたりする自分が、これまでのどの震災について考えていた自分よりも、心を痛めています。ニュージーランドや、新潟や、トルコを見ていたときと、明らかに違う気持ちがある。それは、不遜な言い方かもしれませんが、ニュース映像の中に「彼ら」ではなく「僕ら」を見ているっていう、確かな気持ちがあるんです。故郷の東京も被害を受けたからかもしれない、同じ会社の仲間が仙台にもいるからかもしれない、鹿島アントラーズのスタジアムも、被害を受けたらしい。理由はともあれ、安全な場所にいる人間の平和ボケしたことばだって思われてもいい、「被災したのは、僕らだ」っていうことを、僕は痛いほど感じています。だから、ニュースを見て聞いて、きっとたくさんの人がそうしたように、「なにができるのか」を考えました。具体的なことは、まだよくわかりません。「必要なもの」を挙げれば、きっときりがないと思います。お金も、食料も、毛布も、衣服も、住宅も、人手も、ライフラインも、足りてないはず。僕も、力の限りお手伝いしたいです。お米を運んだり、お年寄りを手伝ったり、力仕事要員になったり、したい。でも、それよりも先に、今すぐできることも、きっとあると思うんです。大阪に暮らして、毎日電車に乗って通勤して、終電で帰宅する僕のままでも、できること。それは、「よろこびを生み出すこと」なんじゃないか。地震によって、「僕ら」はあまりも多くを失っています。建物、町並み、命。そして、それらのかたちをした、たくさんの想い。失われたものの埋め合わせは、絶対にできないんだと思います。できることは、「かなしみ」と「よろこび」のバランスを取り戻すこと。今、「僕ら」のなかにあまりもたくさんの「かなしみ」が生まれてしまっています。それらの「かなしみ」を消すことは、きっとできません。でも、その「かなしみ」のとなりに、別の「よろこび」を置いてあげることはできる。「かなしみ」も「よろこび」もどっちもあるのが、生きることだと思うから。「かなしみだけじゃないよ」って言いたい。「よろこびも、きっといるよ」って言いたいです。だから、「よろこび」を生み出したい。それは同僚と仲良く仕事をすることであり、スーパーのレジで「どうも」って言ってみることだったり、友人に「+5%の笑顔」で接することだったり、します。それが、「震災を免れた“僕ら”」がまずできることだと思います。今のところ、僕はそれをやります。
2011年03月13日
コメント(0)
具体的なことは何にも書けないことも、ホントはこんな時間に日記を書いたりするべきじゃないのも、そもそもすっごい久しぶりの日記だったりすることも、ぜんぶぜんぶ承知で断って、書きます。いや、書かせてください、かな。今日、僕の働き場でとてもとても悲しい出来事がありました。それは電話で知らされ、その場にいた誰ものからだを駆け巡り、答えのないずっと続く問いかけを残して、去りました。だれかが、僕らの生きてる世界の一員ではなくなってしまったのです。それは、とてもとても突然で、理不尽で、絶対的な出来事でした。それを聞いた誰もが受け止められず、やり過ごせず、立ち尽くしました。そうするしかなかった、とも言えます。僕の働き場は、大学受験の予備校です。そこにいるのは、みんな「途上のひと」たちです。何者でもない自分を何者かにするために、「今より先」を目指すひとたちの集まる場です。今日のその瞬間まで、僕はそう思っていました。彼にその「先」はありません。少なくとも僕らが思うような「先」は、ですが。ともかく、僕の考えは、間違っていた。彼は、いや、みんな「途上のひと」でありながら、たどり着いているのです。「どこかを目指す道の上の、スタート地点より進んだどこか」に。瞬間瞬間、通過しながら、到達しているのです。「昨日のじぶん」にとっての「進んだ先」から、「今日のじぶん」が出発して、ちょっとだけ進んだその場所にたどり着いて、そこからは「明日のじぶん」にバトンを渡す。「明日のじぶん」はひょっとしたら気まぐれで、戻ったり、曲がったり、するかもしれない。でも、「昨日のじぶん」にも「今日のじぶん」にも、それを怒ったり、とがめたり、直したりする権利は、ない。「それはなぜだ」と問うならば、雲を眺めたり、川を見つめたりすれば、きっとわかる。「それはおかしい」と思うならば、永遠に潜水しようとしてみれば、きっとわかる。抗うとか、従うっていう価値観が通用しない、世界の「へそ」みたいな場所が、きっとある。そこに神様がいても仏様がいても、誰もいなくてもいい。聖書があってもコーランがあっても、何にもなくたっていい。ただそういう場所があるってことをわかることが、生きるってことだと思うんです。その場所は暖かくも寒くもちょうど良くもなく、優しくも冷酷でもない。手は届くけど触れない、目には映るけど見えない、そういう場所が、ある。ただ、ある。何も指図せず、すべてを支配する。何もせず、すべてをする。そういう場所に出会ったとき、僕らにできることはきっと、立ち尽くすことなんだと思う。僕らが「途中だ」と思ってなめてたり、バカにしていることが、「最後のこと」になる。「これから」があると思って油断していたことで、「これまで」になる。それは、しみじみとした教訓でもなんでもなく、「今夜のごはんはカレーライス」ということと同じ、ただの可能性なのです。僕は今日、その可能性ってやつに出会って、立ち尽くしました。まだ、立ち尽くしています。きっと、これからも。
2011年03月09日
コメント(0)
いやはや、久しぶりの更新です。ずっとずっと書きたかったんですが、書けませんでした。時間がなかったとか、何にもしていなかったのではありません。そうではなくて、このブログで書くに値するような、「スペシャルな出来事」の到来をずっと待ってたんです。「出来事」とは単に外来的なイベントのみを指すにとどまりません。いわば内的出来事、つまり心を大きく動かされるようなことも含めていいます。それは、過去僕がこのブログで書き連ねてきたようなものです。しかし、前回の更新からおよそ3ヶ月、「スペシャルな出来事」はいつまで待っても現れません。小学校でよく遊んだ友達が中学校に上がって急に疎遠になってしまうようなな感じで、仕事、遊び、読書、様々なところで出逢っていた「スペシャルくん」は、最近めっきり姿を見せてくれません。それは、旧友と疎遠になってしまう原因がたいがい自分側にもあるように、僕が「スペシャルくん」に会いに行くことを怠っているからでしょう。心をオープンにして、新しい刺激を求めて冒険の旅に出る、なんてことを今はまったくしなくなりました。むしろ、変わり映えしない日常の繰り返しに甘んじる日々です。結果、僕の心は運動をやめてしまったように思います。昔のように驚いたり、感動したり、奇跡を信じたり、未来に夢を描いたりしなくなりました。(こう書くと、昔の僕は「スーパー純粋ボーイ」です。笑)典型的な、「オトナ」になってしまったとも言えます。それは、かつての「スーパー純粋ボーイ」が「決してなるまい」と思っていたものでした。でもね、そんな「オトナ」が悪くないんですよ。「スーパー純粋ボーイ」が顔を真っ赤にして怒り出しそうですが、涼しい顔して流しましょう。「なりたくなかった自分」が、悪くないんですよ。「大きく動くフレッシュな心」が去って行った代わりに、「なんでもない幸せを見つける心」がやって来ました。「フットワークの軽い好奇心」が居なくなったあとには、「繰り返しを退屈と感じない静かな心」が居てくれています。「明るい未来を楽しみにする」代わりに、「明るくない未来でも受け入れる」ゆとりがあります。旧友と疎遠になってしまっても新しい友達ができるように、僕の心も新しい価値観をインストールしたようです。それは、昔の僕が望んでいた姿とはずいぶん違います。でも、「これでいいのだ」です。物心ついたとき(中学生くらいです)から、僕がしてきたことのほとんどは、「なりたい自分」に近付くためにあったように思います。24歳になった今、「なりたい自分」から自由になりつつある自分がいます。思いもよらない変化です。面白いなあ。
2010年12月05日
コメント(0)
昨日の夜、「プール」をDVDで見ていて、改めて、良い映画だなあと、思ったのです。そして、最近の僕の考えはこの映画に、結構影響受けてるんだなと。たとえば、大切なことを、言葉で語らないこととか。決して言葉が少ない映画ではないんです。ただ、大事な部分は語らないままにしている、そんな気がする映画です。見る人に、考える自由をくれているような、感じです。これは、僕が最近感じていることなのですが、言葉になっていない部分が何を語っているかというのが、大事だと思うんです。それは、「言葉の裏を読む」とか、そういう単純なことじゃなくて。言葉が文字通り「言の葉」である以上、それには「茎」とか「根」があるということです。「Noの顔してYesを言う」みたいなことは、よくよくあることなのですが、それが良い悪いを別として、考えなきゃなあと思います。それは、「言葉に頼り過ぎちゃだめだ」ってことなのです。つまり、「Noの顔してYesを言う」の例で言うと、「言う側」も「言われる側」も、Yesって言葉に全責任を負わせてるわけです。「Yesって言えばそれでいいだろう」「Yesって言ってるんだからいいんだろう」そこで思考を止めちゃうことが、あまりにも多いんじゃないか。「言う側」は、なぜNoと言わなかったのか、もしくは、Yesの気持ちにならなかったのか。「言われる側」は、なぜそのNoに気付かなかったのか、もしくは、気付いていたNoを無視したのか。こういった問いを投げかけることが、交わされる言葉に対して、僕たちが果たせる責任なんだと、思います。他にも、「ものをたくさん持たないこと」とか、「一つひとつの作業をゆっくりていねいにやること」とか、最近の僕の価値観は、結構この映画で作られてるなあと、思いました。よく「人生を変えた作品」とか言いますけど、僕が面白いなあと思うのは、「人生を変えた作品」を選んでいるのは、他でもない自分なんですよね。つまり、「人生を変えた作品」は、ある日突然受身的に現れるような感じがしますが、そうではなくて、それはある一定の程度で、「自分が選んでる」のです。選んでる時点ではそうとは知らない「自分」が、その後の「自分」を変えちゃう作品を選んでるんですねえ。「自分」の力、バカにしちゃいけないぞおって、思います。
2010年09月13日
コメント(0)
この前の日曜日のこと、「立ち止まらないとわからないことがある」ということについて、それこそお腹のそこからわかったような気がしました。この前の日曜日の夕方、掃除とか洗濯とかアイロンがけとか靴磨きが終わって、すごく気持ちがよかったので、散歩に出たんですね。なんていったってもう9月なので、気休めでもいいから秋っぽい気分になりたかったんです。そう、僕にとって、秋とは、午後から夕方の散歩であります。ラブリーでピースフルな「中之島公園」を歩いて、ちょうどよく置いてあるベンチなんか見つけて、ふうっと座って持ってきた本を広げて、読んではたそがれ、たそがれては読んで。そうやっておとなしくしていると、気まぐれに吹いてくる気持ちいい風とか、普段は耳を済ませないと聞こえない川の流れる音とか、上手にキャッチできました。なぜかジャンプする魚(飛び魚?)を何匹も見たりも、しました。歩いたり走ったりしてたら、きっとキャッチできないと思います。そういうものが、この世界にはいろいろあって、ほんとうの豊かさを作ってるんだけど、普段の僕はどうしても、歩いたり走ったり、しちゃいます。立ち止まったら、わかるのにね。立ち止まらないと、わからないのにね。だから、「立ち止まるきっかけ」は大事なんだと思います。なにげなく、いい感じに置いてあるベンチなんてのは、人間が持ってる、思いやりの心の、偉大な象徴ではないか、なんて、大きなことを思ったりもします。もっともっと、立ち止まれる人へ。立ち止まれる人を、もっともっと。そんなことを思った日曜日の夕方でした。
2010年09月07日
コメント(0)
僕は「内田樹」さんの書かれる本が大好きで、本屋で見かけるたびに迷わずお買い上げしちゃうヘビーリーダーなのですが、僕らの目の前で起きているものごとを解き明かすために、「そもそも」の部分をちゃんと、手を抜かずに掘り起こしてくれる、いわば、読み手の「わかった!」の部分にまで責任を持ってくれるというか、「伝えたいことを伝える」において相手の「もの分かりのよさ」に甘えない姿勢というのが、素晴らしいなあといつも思います。そして昨日まで「街場のメディア論」を読んでいたわけですが、その中で「贈与」の成り立ちについて書かれていた部分に「はは~ん」ときてしまったので、ちょっと紹介させてください。「贈与」というのは「贈る人」と「贈られる人」がいて初めて成立するのですが、その順序というのは「贈る人」→「贈られる人」という風に発生しているのではなく、「贈られた人」が出現してはじめて「贈った人」が「贈る人」となり、「贈与」の関係が成立するというのです。というのは、そもそも「贈与」というのは、相手方にとって「価値の分からないもの」を贈るという行為であって、その「よく分からないけど贈られたもの」に対して、「これはすごいものかもしれない」と価値を感じた人が出現したときにはじめて、その「贈られたもの」は「贈り物」になるんですって。(この辺の道筋はかなり省略しちゃってるので、詳しくは原書をぜひ!)つまり、「贈り物」の価値は受け取る人が「ありがとう」と言った瞬間に発生するのであって、「贈り手」が「これあげるよ」と言ったときに発生しているものではないんですねー。そもそもの起源をたどれば。僕はこれを「仕事」と関連付けたのですが、仕事じゃなくてもいい、2人以上の人が共同でやる行為のかなりの部分が、この「贈与の成り立ち」論から分かるんじゃないかと思ったのです。つまり、なぜ「ありがとう」が必要なのか、ということです。「仕事」=「贈り物」という等式を、僕は考えました。それは、あらゆる「仕事」というのがみんな「必要とされること」があってはじめて存在できるものだと思うからです。「仕事」の価値は「必要としている人」がいてはじめて発生する。いくら「ねえねえ、いいもの作ったんだよ」と言っても、みんなが「そんなの、いらないよ」と言えば、その「仕事」は対価が発生しないわけです。そして、これは「仕事」の周りにあるあらゆる行為にきっと適用できて、たとえばコピーをとってあげるとか、資料を揃えてあげるとか、そういうことも、「してあげる人」と「してもらう人」があって仕事になる。言葉からして、「してあげる」「してもらう」「させていただく」「やってください」などなど、みんな「あげる」とか「もらう」が入ってるんですよね。あらゆる仕事はきっと贈与の関係を持っている。これが僕が考えたことです。そして、贈与に価値を発生させるのは「贈られた側」である。だから、「ありがとう」が大事なんです。「ありがとう」がなければ、その仕事に価値がないってことに、なっちゃうんですもん。「贈られる側」、責任重大だな~。うっかり「ありがとう」を忘れることは、実は大きな意味をもっちゃうわけだ。でもでも、「贈る側」にだって自立が必要で。「ありがとう」はいつでも「ありがとう」のかたちをしているとは、限らないものだから。いろんな姿の「ありがとう」をキャッチできる心を、磨いていかなきゃ。世界が素晴らしい場所になれる可能性を、ちょっとだけ夢見ることができた朝です。本当に久しぶりに持てた、うれしい感覚。大事に大事に。
2010年08月29日
コメント(0)
信じられないくらい、というより、信じたくないくらい暑い日々ですねー。僕はすっかり、「夏バテ」してます。どちらかというと寝起きは良い方で、一度起きたらスッと起きられるタイプなのですが、最近、二度寝、しちゃうんですよー。この現象が始まった頃は、なにげにショックで、「俺の中の何かが衰えてるのか?!」なんて思ったものですが、今はすべてを「夏バテ」のせいにしています。夏が終われば、きっと、大丈夫。そんなこんなの「残暑」が続く日々ですが、吹く風が変わってきたと思いません?朝方、夕方、木陰、ちょっくら秋の匂いのする風が吹いてきたなあと、僕は感じてうれしくなっています。「春夏秋冬」という、カテゴリーの枠組みの中で僕らは季節を考えますけど、気持ちよく太陽が活躍していた7月の「夏」といい加減にして欲しい暑さの8月真っ盛りの「夏」と風に秋を感じられなくもない今の「夏」はほんのちょっとずつ、でも明らかに、違いますよねー。言ってみれば、今っていうのは、「夏:秋=9:1」の夏、みたいなね。これからその比率がせめぎあいを始めて、「夏:秋=4:5」の秋になったり、そうかと思ったら「夏:秋=5:4」の夏に戻ったり、するんでしょう。なにごとも「変わり目」が楽しい僕としては、うれしい季節になってきました。夕焼けを眺めたりしたあとに、線香花火とか、やりたいです。今度の休みは広ーい空を、きっと見にいくことにします。
2010年08月27日
コメント(4)
実家のテレビでおばちゃんが見ていた料理番組をつられて見ていたのですが、その中で「おいしいコーヒーの入れ方」をやってたんですね。コツはとにかく、「ゆっくり入れること」なんだそうです。いっぺんにお湯を注ぐと、粉の間を通過してしまって十分にコーヒーの味が浸透しないんだそうで、少しずつ、ゆっくりとお湯を注いでいくことがポイントなんだとか。なんだか、見ていて無性に嬉しくなったんです。「ゆっくりやらなきゃ上手くいかないことがある」っていう、なんとなくそうであって欲しいなあと思っていたことが、ちゃんとした理由と共に紹介されてくれたので。「それだけ」と言われればそれだけだし、「もっと大事なことがあるだろ」と言われればそうかもしれないですけど、僕はその「それだけ」が「それだけ」だとは思わないんですよ。「ゆっくりやらないと上手くいかないことがある」。言い換えれば、「早くやったら上手くいかないことがある」。「ゆっくりやってもいい」じゃなくて、「ゆっくりやらないといけない」。「早い>ゆっくり」の支配的な価値観に、ちょっとだけ「そうじゃないんじゃない?」って言える根拠を手に入れた気がして、無性に「よっしゃあ!」なんです。こういうもの、もっとあると思うんだよなあ。「ゆっくり>早い」をもっともっと。
2010年07月20日
コメント(0)
ワールドカップが終わって、セミも太陽もワールドカップ観てたんじゃない?!って感じのタイミングで活躍を始めて、いよいよ夏が夏らしくなってきましたねー。僕は世間の連休とは全く関係なくもらえた2連休を使って、実家に遊びに帰ってました。僕は彼をほとんどそのままコピーしてるんじゃないかってくらい影響を受けてる中学時代のサッカーコーチ「哲さん」に会ったり、そんな僕が先生を始めた大学生の頃に彼は中学生で、今大学生になって先生をやってるという「伊藤ちゃん」に会ったり、その「伊藤ちゃん」を含めて僕が大学生の頃お世話になっていた塾でがんばってる後輩たちと会ったりしました。その度に話し合ったのは、やっぱり楽しく毎日をすごしたいよねえってことだったり、なんだかんだ言って自分が成長することが一番楽しいんだよねえってことだったり、そのためにしんどいこととか、つらいこととかも役に立つんだよねえってことだったりして。なんかいいねえって感じになったのでした。僕は大阪での暮らしを始めてからだいたい半年に1回実家の東京に帰っているのですが、帰るたびに大阪での暮らしで自分に起こった変化を、眺めることができるんです。それはきっと、子どものころを過ごした実家っていう場所が、「変わらない場所」としてどっしりと構えていてくれるからだと思うのですが、今回帰って感じたのは、「会いたい人」「訪ねたい場所」がどんどん少なくなってるなあということです。そして、それがとっても嬉しいんだなあってことで。この変化は、自分が気持ちよく生きていくために何が必要なのかってことに対してずっとシンプルな答を用意できるようになってきたってことだと思うので、「いいぞいいぞ、オレ」って感じなわけです。でもでもそれは「オレ」が一人で起こした変化ではなくて、この1年ちょっとずっと一緒にいてくれた大好きで大切な人のおかげだと、その人が住む大阪を離れてみてとてもとても、感じたのです。だから、その人に、その人がくれる目に見えない大事ななにかに、ここぞとばかりに感謝して。これからも、「本当に大事なちょっとだけのもの」と暮らしていこうと思ったわけでした。
2010年07月18日
コメント(0)
いや~、やりましたね~、スペイン!面白いサッカーをするチームが優勝する。長い間多くのサッカーファンが望みながら、「やっぱりだめかあ」と阻まれてきた夢です。思うに、過去のどの優勝国よりも「母国以外の人まで喜ばせた」優勝国じゃないですかね。なんたってオランダ人の「クライフ」まで決勝の前にスペインの勝利を望んだくらいですもんね。それにしても、改めてワールドカップってのはすごいもんです。だってだって、あれだけ泥臭いオランダ、見たことありました?スペインの長所を消すために彼らがたどり着いた答がファウル覚悟の激しいタックルを仕掛けまくって相手のリズムを寸断するっていう、いわば昔の西ドイツのような肉弾戦サッカーだったわけでしょうが、オランダって国はいつも攻撃的で美しいサッカーにこだわるあまりにそういう現実主義的なやり方ができずに負けていったチームなんですよ。それが、退場者を出すほどにファイトしていた。それは、美しいオランダとして戦って欲しかったっていう残念な気持ちよりも、「オランダがここまで勝ちに執着するのか」っていう新鮮な驚きが強くて、ワールドカップという大会の価値とか存在意義っていうのを、強烈に印象付けてくれたんです。そして、そのワールドカップでスペインが勝利した。スペインは伝統的に「攻撃的」と言われるチームですが、今大会のスペインを表現するならば「創造的」っていう言葉がよりしっくりくるような気がします。相手が自陣にがっちりと作る守備の陣形に穴を空け、攻め崩す。そのままでは存在しないゴール前のスペースを、複数の選手の連動が連動したパスワークで創り出す。「組織」として作られた守備を「組織」として崩すチーム。90年代から始まった「守備戦術の時代」への20年越しの答じゃないですかね。もうちょっと語らせてくださいね~。スペインって、「組織」と「個人」が二項対立していないチームなんですよね。これってすごいことだと思うんです。従来、「組織」と「個人」は対立関係だったわけですよ。「組織」を重視すれば「個人」は輝かず、「個人」が主張を強めれば「組織」が機能しない。永遠のジレンマじゃないかという、対立関係だったわけですね。それが、スペインってチームはどうもそうじゃない。高度に「組織的」だってことは書いたとおりなのですが、個人もイキイキしている。攻撃に参加するディフェンダーもいるし、単独でドリブル突破する選手もいる。実に楽しそうにプレーしているチームなんです。「適材適所」とか、「仲間へのリスペクト」とか「最低限の約束事をみんなが守る」とか上手くいっている理由は様々あるのでしょうが、とにかく「組織」と「個人」は仲良くやっていけるんだってことが、大事なんです。それはサッカーに限った話では全然なくて、学校にも、職場にも、家庭にも、2人以上の人が一つの括りで暮らしているすべての場所に、当てはまる。スペインの優勝には、僕らの暮らしをハッピーにするためのヒントがいっぱい隠されている。そんな気がしたから、長々と語りまくってしまったわけです。これからサッカーの世界ではスペインが見せたサッカーを目指すチームが増えます。僕はサッカーの世界じゃなくても、スペインを目指しちゃいます。「みんな」も「わたし」もハッピーな場所を自分の周りにも。ビバ、スペイン!
2010年07月13日
コメント(0)
日本はすでに負けちゃったワールドカップですが、大会は続いてますよー。ベスト8から先の試合、「これぞワールドカップ!」てな光景が盛りだくさんです。深夜帯の時間が増えてきてしんどいけど、その価値があるから、見ちゃうんだ。今大会を見ていて感じるのですが、いわゆる「番狂わせ」と呼ばれるような試合を含め、「偶然」が勝負を分けるということは、ないんだなと思うのです。勝った側に勝った理由があるか、負けた側に負けた理由があるか、あるいはその両方か。「理由なき結果」というのは見つけることができないのです。面白いのは、その「理由」になるのが技術的な力量というよりも、チームや個人としての精神性であるところで。勝つためによりリスクを冒したチーム、集団としてまとまったチーム、誰もが献身的に走ったチーム、逆境に動じなかったチーム、そういったチームが勝ち進んでいるなあという感じがしているのです。それが顕著だったのが準々決勝「ブラジル-オランダ」の試合。前半素晴らしいプレーを見せてリードしたブラジルがオウンゴールと味方の退場で浮き足立ち、後半に逆転を許して敗退したあの試合。技術的な力比べでは、ブラジルが圧倒していたのです。「普通の試合」であれば、ブラジルが勝っていたはずでした。そこに2つのいわば「事故」が起こって、非常事態になったとき、ブラジルは脆かった。精神的に混乱をきたし、自分たちのプレーを忘れ、ゴールの匂いが全くしない攻撃を繰り返して試合終了。勝負の怖さをまざまざと見せられた試合でした。よくある「相手のシュートミスとゴールポストに助けられて虎の子の一点を守り切った」というような試合であれ、「シュートミスする理由」・「ゴールポストに当たる理由」が、相手側に存在しているものなんです。もしくは、そういった幸運に恵まれる理由が勝った側に存在しているってこともあります。勝利の女神がいるとして、多分すごく素直な人なんじゃないかな。それでもって、これは決してスポーツに限られた話じゃないぞと思うわけで。なにかしら「いいこと」に恵まれている人、その逆の人、それぞれにその結果を引き寄せている何かがあるんだろうなと。「自分の幸せをほんとうに真剣に考えているかどうか」がその何かだと僕は思うのですが、結果だけを見てそれを欲しがるのではなく、その後ろ側にある理由を自分のものにするような、そんな生き方で行きたいぜと思ったわけであります。そんなこんなで、ワールドカップもあと2試合。最後の勝者がどんな「理由」を見せてくれるか、楽しみにしながら。
2010年07月09日
コメント(2)
本当に久しぶりなんですけど、「おもちゃ」を買ったわけです。「SEGA TOYS」から出てる商品なので、立派な「おもちゃ」です。大人になっても、「おもちゃ」はワクワクであります。「HOMESTAR AQUA」というのですが、家庭用プラネタリウムですよ。お風呂に入りながら満天の星空を眺められるのであります。電池は別売りです。単4×4本です。お昼に買って、夜を待っていざ投影!すごいですよ~。七夕の夜空に設定されているので、天の川とか見れちゃいます。というかね、夜空にはこんなに星があるんだなと。それに何よりビックリしたというか、ショックだったというか。ショックだったのは、こんなに星があるのに普段は見えないってことで。眼鏡をかけたら視力が悪いことに気付いたような感じです。理由は空気が汚いとかいろいろあるんでしょうけど、一番基本的なところとして「夜が明るい」ってことがあると思うんですよね。僕が住んでる大阪のど真ん中。夜が本当に明るいんですよ。街灯、ネオン、車のライト、人が作る光でいっぱいで。遠く遠くから放たれる星の光が、負けちゃうんでしょうね。これって割と大事な問題であるぞと僕は思っていて、それは「闇」に対して僕らがとる態度の問題だと思うからです。特に都市の文化というのは、あらゆる「闇」をダメなものとして扱う文化なのかなと。夜という物理的な「闇」、社会的な「闇」、人間の心の「闇」、そういうものを否定して、「明るいことはいいことだ」の価値観を全面に押し広げようとする文化なのかなと。「明るい夜」はその象徴なんじゃないかと思うわけです。でもでも、僕はその価値観に賛成できなくって。闇のないところには光もないと思うからなのです。逆を言うと、光のない闇もきっとなくて。闇を怖がる必要はきっとなくて、闇を受け入れた先に本当の光があるんじゃないかって。人工の光を全部消したら、宇宙がとびきり奇麗な光を届けてくれるような感じで。これは具体的でもあり、比喩的でもある話なのです。というわけで、僕は自分の「闇」も誰かの「闇」もウェルカムな人間でありたいなと思います。「闇」が訪れたら、中途半端に明るくしないで、思いっきり暗くしちゃえと。そして、明るいときには見えない光に気付ければいい。そんなことを「おもちゃ」に教えてもらった24歳の夏でした。「時の流れが 生きてる意味に目隠しする理由は プラネタリウムと同じ 暗闇がくれる光を知るため」~BANK BAND/はるまついぶき~
2010年07月03日
コメント(2)
日本代表、お疲れ様でした。120分間ほとんどボールを支配されながらディフェンスが最後の集中力を切らさなかったこと、ときおり奪ったボールを迷いなくゴールに向かってプレーしていたこと、堂々と「弱者」のサッカーに徹していた今大会を象徴する試合だったと思います。勝敗を分けたのがクロスバー幅何十センチのボールの軌道だったのは、史上初のベスト8を成し遂げる国としてワールドカップがパラグアイを選んだからでしょう。日本のワールドカップ2010は終わりました。敗戦後の選手たちの姿を見ていると、月並みだけど「いいチーム」だなと思いました。だからこそ、僕らはこのチームで戦う彼らをもっと見ていたかったし、ベスト4を目指すというよりも、彼らもこのチームでもっと戦いたかったんだと思います。悔しさもあるけど、寂しさの方がもっと濃い、そんな敗戦。「いいチーム」もいつかは負ける。「勝者」は約200国の中の1国だけです。だからこそ、堂々と戦って負けた僕らの代表を誇りましょう。「いいチーム」のまま負けたグッドルーザー。きっと、日本が大会から去ることを日本人以外にも寂しく思っている人がいるでしょう。きっと、ワールドカップが終わってから世界のどこかのパブでサッカーの話をしたら、「日本はいいチームだったな」と言われるでしょう。すごく誇らしくて、嬉しいことじゃないですか。なによりも、このチームが子どもたちの心に種を蒔いてくれたと思うんです。放課後の校庭で“本田”や“遠藤”のフリーキックを真似する子ども、“大久保”や“松井”のドリブルを真似する子ども、増えてほしいなあ。彼らの中から、日本の次の歴史を作る選手が出てくるんです。史上初のベスト8に進んだパラグアイはワールドカップ出場8回目。日本が4回目なのでちょうど2倍です。ワールドカップは4年に1回なので、16年の歴史の差。それは、16年分の敗戦の歴史でもあるわけです。日本は、まだ歩みだしたばかり。思えば日本が初出場した98年のフランスワールドカップ。パラグアイは決勝トーナメント1回戦で優勝したフランスと当たり、昨晩の日本のように専守防衛に徹してフランスを苦しめ延長戦まで持ち込み、あと十何分でPK戦というところでゴールを許して敗退しました。パラグアイは、それから12年かけてその十何分の差を埋めてきたんですね。日本も、クロスバー幅何十センチの世界との差を埋める闘いの始まりです。今大会の僕らの代表のように、粘り強く、狙いを定めて、行きましょう。「何かの終わりは、いつも新しい何かの始まり」~GAKU-MC/スタートライン~
2010年06月30日
コメント(2)
大学生の頃から数えてかれこれ6年、僕は“塾・予備校”という職種に就いているわけですが、これまで飽きずに続けられているわけっていうのは言うまでもなく生徒くんたちなんですよね。中学生とか、高校生とか、浪人生とか、彼らと接するのが、たまらなく面白いわけです。で、その面白さって何なんだろうって、ふと、思ったもので考えたんです。きっとそれは、彼らが「まだ何者でもない」ことなんだなって。そして、これからまさにその「何者か」になりたい、現在進行形であることなんだなって。つまりは、彼らは社会的にはまだ何者でもないわけなんですよ。何ら生産的な役割を果たしていない、消費するだけの存在。本当はそうじゃないんだけど、当事者の彼らはそう考えてるんですよね。僕もその時期にはそう思ってましたもん。早く大人になりたいって思ってた。それは、早く生産の側になりたいっていう想いだったんだと思います。でも、自分が何を生み出せるのかは、全然分からない。生み出したいものがあっても、方法が分からない。そういう、暗中模索をしながら時間を前に進めていくことを、少なからず彼らの年代はしている。それはそれは不安になったり、時には絶望したり、大人から見たら小さなことに一喜一憂したり、するでしょう。そういう、ある種の脆さを、どこかに抱えながら時間を過ごしている。その脆さに対して、自分をごまかして笑い飛ばそうとするヤツもいるし、こっけいに映ってもいいから真正面から受け止めて必死にもがくヤツもいる。僕は後者みたいなヤツが大好きでね。そういうヤツこそ、カッコいいと思うんですよ。そういうヤツに、「お前、それでいいんだぞ」って言いたくて、この仕事してるんです。今日こういう日記を書いたのは、僕自身が一回立ち止まって確認したかったからで。「おいおい、大人になったとか言って高みの見物してないよな?」「おいおい、もう何かになっちまったつもりかよ?」「おいおい、必死こいてやることに腰引けてない?」てな感じの疑問を、自分に投げつけたかったからでした。
2010年06月21日
コメント(2)
やってくれましたね、日本代表!かつてない期待値の低さから始まった今大会。でもさ、なんだかんだ試合当日になったらみんな「勝つぞ!」なんて言ってるんだよね。僕は仕事を早めに切り上げて先輩と居酒屋のスクリーンで応援してました。特に嬉しかったのは日本代表が見せてくれた気持ちのあり方で。どう考えても1対1で勝てそうにないカメルーン人にも果敢に挑んでたでしょ。オフェンスの選手がひたすらに相手のボールを追っかけてたでしょ。奪ったボールをただ回すんじゃなく、ゴールを目指してプレーしてたでしょ。「勝つ」っていう目的に対して積極的に仕掛けることができたのが昨日の日本代表だったと思います。リスクを怖がらずに、労を惜しまずに、チームプレーに徹して。チームが「前」を向いてまとまっていたのが最高でした。そしてね、そんな日本代表を応援していた僕たち日本の人々も、ひとつになってたんです。知らない人と声を合わせて、いろんな感情を共有して、最後はともに喜んで。すごくすごく、幸せなことだな~っと、思っていました。ワールドカップが始まって何試合か見ている中で、改めて感じたのはこのワールドカップというのはすごい大会なんだなってことで。そこに渦巻いている感情のいろいろ加減が、ハンパない。超一流が信じられないミスをしたり、百戦錬磨が動揺を隠せなかったり。サッカーの技術・戦術を抜きにしたところで、それぞれのメンタルとかアイデンティティーの強さとか、そういった総合的な人間としての力がチーム単位で求められる大会だと思うのです。だから、そこに僕らの日本代表が出場していることって、それ自体が奇跡のような幸せなこと。そして、その日本代表の動向に一喜一憂できる僕らは、世界でもほんの一握りの幸せな人々なんだと思うのです。ましてや、その舞台で僕らの代表が強い気持ちを見せて、勝ってくれた。ワールドカップがある幸せ日本にサッカーがある幸せ誰に感謝していいか分からないけど、ありがとうです!ワールドカップが祝えるくらい平和な世界を作った人、なのかな。日本のサッカーを強くするためにがんばった人、なのかな。そして願わくば、すべての人がこの大会を祝える世界になりますように。すべての人がテレビの前で自国の代表を応援できる世界になりますように。平和を祈りたくなるのは、こんな日です。オランダ戦も、がんばろう!
2010年06月15日
コメント(2)
僕の仕事はお昼の1時に始まって夜の10時に定時を迎えるのですが、僕の仕事場が予備校の受付ということで上記時間は常に生徒がいたりするため、なかなかマイペースに仕事をして定時に帰宅という働き方は難しかったりしますが、そのぴったり10時に定時退社という離れ業をついに昨日成し遂げたのです。理由はそう、ワールドカップ開幕。終業前2時間くらいからすでに身体がうずき始め、心拍数がちょっとずつ上がり、このなんとも言えないワクワクドキドキ感。いよいよ、始まってくれちゃいました。職場のサッカー好き先輩と普段あまり話さない生徒とワールドカップについて話題沸騰。「先輩ー後輩」の関係も「生徒ー先生」の関係もなしで。うずうずしながら考えていたのは、きっと今この瞬間僕みたいにうずいている人が世界中に何億人といるんだろうなっていう想像。それってうれしくて、すごいこと。人間が何かを越えて繋がれるんだって信じられる、すごいことです。4年に一度1ヶ月の祭典。熱して、狂って、祝いましょーう。「戦争の対義語は文化である」~ジャーナリスト 木村元彦~
2010年06月12日
コメント(2)
“海遊館”とかがある大阪のウォーターフロント天保山にて、現代アート展示会「RESONANCE」を見てきました。現代アートは芸術の中でも特に好きなジャンルで、金沢にある「21世紀美術館」も最高だったし、今回も「やっぱりいいねー」なのでした。僕が好きなのは作品を見る側に与えられる自由の幅の広さで。「こういう風に見てね」っていう方向付けを限りなく少なくした形で成立しているアートなんですよね。一人旅にもどこか似ている、感じ方の自由が好きなんです。そんな訳でチケットを買って入場すると、入り口で美術館の人が簡単な見所解説をしてくれるとのことでせっかくだから聞いていくことに。それぞれの作品が作成された背景とか、そもそもどうやって作られた物なのかとか、へ~と思いながら聞いて、実物を見て回って。3~4年の月をかけて完成した作品極限の精神状態を作り出して撮影した作品何十人もの人を巻き込んで作られた作品それらの前で僕はせいぜい5分くらい立ちすくむわけです。強烈に感じちゃったんですよ。このギャップはなんなんだろう。その作品を作る側が費やしたものと、その作品を見る側が費やすもの。時間にしろ、お金にしろ、想いにしろ。ものすごい不等式が存在するわけですよね。作る側が費やした時間の何百分の一の時間で、その作品は見られる。作る側が込めた想いのほんの一部しか、見る側にはきっと伝わらない。「生産」と誤解を承知で言うならば「消費」の間のギャップを、まざまざと。だって、僕は「生産者」でもあり「消費者」でもあるわけだから。きっと「消費者」はその生産物の後ろにある何かに想いをめぐらせる想像力を持つべきだし、「生産者」もそれが消費されるときの儚さに対して準備をしておくべきなんでしょう。でも、僕はできるだけ、「消費者」としてのレベルを上げたいなと。「生産」の側の重みをできるだけ受け止められる消費者でありたいなと思います。現代は「消費」に合わせて「生産」の質が落とされているような時代だと思うから。そしてまた、「消費者」のレベルを引き上げちゃうような「生産」をもっともっと。期待して待つだけじゃなくて、自分からも。
2010年06月11日
コメント(2)

昨日夕方近くにカフェのオープンテラスでコーヒーとカレーパンを愉しんでるとふと通り雨に降られちゃってあわてて店内に避難して、雨が上がったかなってころにお店を出ると熱を持ったアスファルトが雨で冷まされた匂いが街中にして、「お、夏だな~」って強烈に想ったのです。そしたらちょっと気分がハイになってきて、部屋に帰ってお香を焚いてみたりしたらピッタリで、夏シフトに衣替えなんかしちゃって、来週くらいには扇風機でも出そうかと思ってて、今さっき花屋さんでひまわりの花を買ってきたのでした。↑こんなに立派じゃないですけどね。「駐車場の猫はあくびをしながら、今日も一日を過ごしている」~ゆず/夏色~
2010年06月04日
コメント(4)

「さて、休みの日だぜ。晴れてるぜ。」ってことで、久々に山へ。大阪府で一番高いらしい、“金剛山”に登ってきました。とびきり気合の入った早起きをして、1・5リットルのミネラルウォーターをザックに備え付けて、頂上で飲みたい上等なコーヒーを調達したりして。“山”に行く前のそんなプロセスから、僕は大好き。電車で移動しながらだんだん窓の外が緑色になっていく感じとか、ね。“金剛山”は学校の遠足で登ったりするポピュラーな山らしく、スニーカーでも登れちゃいそうな整備された登山道があるのですが、それとは別に割とスリルのあるコースがあると聞いて、「そっち行くっきゃねーだろ」となったわけで、登りはスリルコース・下りは楽ちんコースを選択。登りながら「うん、やっぱりこっちだったね」って感じで。誰かが来たら絶対にすれ違えないような獣道信じられないくらいずっと続く急坂“ここ、危険ですよ”って感じで張ってあるロープ。そういうワイルドなものに、飢えてたんだわ。汗だくになって、息も切れきれになりながら、「うんうん、人が通った跡が道になるんだよね」とか「うんうん、平坦で安全な道なんて本来ないんだよね」とか「うんうん、道はゆっくり歩く人の歩幅で作られるんだよね」とかいろんなインスピレーションに出逢えちゃって、アスファルトの上を歩いてたら決して出逢えない気付きで、ふと立ち止まったら川のせせらぎとホトトギスの鳴き声しか聞こえないような場所で、「贅沢ってこれだわ」って思ったのでした。自然の中で感じたことを都市での暮らしにも。いーや、都市で暮らしながらにして自然の中にいるような、静かな心でいられたら。そんな素敵なことはないぜ、そんな自由な心でいようじゃないか。↓ザックに遊びに来たミドリムシくん。カメラを向けるとひたすら逃げました。シャイボーイ。
2010年06月01日
コメント(2)

勤務時間の調整で夕方から出勤になった今日。突然時間をもらっちゃって、外は久々のいい天気で、最近身体を動かしてないじゃないかってことでランニングへゴー。いつもはなんとなくいつものコースを時間を決めて走っているのですが、今日はなんとなく、普段と変わったことをやってみようじゃないかって思って、そうだ!ってことで時計を付けないで行ってみたんです。走りたいところを走って、疲れたらやめちゃえって感じでペースも飛ばして、気が済むままに、自由に自由に。いつもだったら「あと20分あるしな」って感じでセーブする上り坂を全力ダッシュしてみたり、すっごい気持ちいい!走り終わった後は息も切れきれで、大きな木の下で寝転がって、ストレッチとかしてたら気持ちいい風が吹いてきて、気づいたらちょっとウトウトしちゃって。「それでもいいじゃなーい」って思って昼寝して、木漏れ日で目覚めて、その瞬間。自分の身体が信じられないくらい軽くて心が身体を突き抜けて空に浮かんじゃうような感じがしてこのまま空でも飛べちゃうんじゃないかってそんな気持ちになって。とにかく気持ちいい!に尽きるんです。ポジティブなものもネガティブなものも、そのままに受け入れられるような気持ち。いい仕事ができるのは、きっとこんな日のこんな自分だね。最近思うのは、自分が気持ちよくいられる場所を見つけていくことは、大事なことだなって。それは文字通りの「場所」だけではなくて、心の中にある「場所」も含めてね。心の中では“人”も「場所」だし“考え”も「場所」だし、“感情”も「場所」です。自分にとって気持ちいい、いい風が吹いていたり、やさしい日差しが降り注いだり、そんな「場所」をあちこち見つけて、そこに誰かを招待してあげるような、そんな感じで時間を重ねていけるなら、これからの人生も飽きることなく楽しんでいけそうだなって。だってだって、そういう「場所」は大人になった今、どんどん見つかるんですよ。大人なる楽しみは、きっとここにある。なってよかったぜ、大人。これからも、ね。
2010年05月28日
コメント(4)
この業界の特権である、平日のお休み。「おっしゃ、今日はちょっと遠出してやるぜー」ってことで、兵庫県は西宮市へ。電車で40分という絶妙な距離感を生かして、車内ではプリッツなんか食べちゃって。JR三田駅で降りて、駅まで迎えに来てくれてたお店のご夫婦の車で、目的の場所へ。なにかというと、結婚指輪を見に来たのです。別に式が決まったわけでも、入籍を済ませたわけでも、ないんです。あの「ゼクシィ」で指輪のページを見てるときに、二人して「ここっしょ!」ってお店があったので、ぜひ見に行ってみようじゃないかということで、ちょっと遠足へ。そのブランド、「輪-RIN-」のウェブサイトはこちら。ご夫婦がされているお店のブログはこちら。いわゆる“キラキラ”なだけの結婚指輪とは違う、それぞれ個性的な指輪たち。ごく自然にいろんなストーリーがこめられちゃうような、アイテムたち。実物を見ると、やっぱりテンションが上がる上がる。コーヒーハウスのような店内にあるカウンターに座って指輪の話を聞いてるうちに、いつしか僕らの身の上話が始まったり、ご夫婦のお子さんの話が始まったり、店を通じて広がった出逢いの話が始まったり、好きな本の話が始まったり。気づくとテーブルの上はいただいたコーヒーやらお菓子やらでいっぱいになっていて、気づくとお店滞在時間が5時間くらいになっていて、もはやお友達の家に遊びに来たような感覚になっちゃってました。ひとえに、ご夫婦のお人柄なんだよねー。出逢いに対する接し方が、とにかく素敵で。最低限の広告しか出さない ↓それを見て同じ感性を持つ人が集まる ↓お客さんと友達になる ↓客さん同士も自然と繋がるそんな“輪”の作り方、いいじゃないですか~。「一回きりってのがいややねん」ってところも、「商売よりも出逢いを大切にしたい」ってところも、「ゆっくりもてなせない数のお客さんが来ないサイズにしている」ってところも、うんうん、うんうん。素敵なあり方だよね。きっとお客さんも、その素敵さに惹かれて集まっている素敵な人たちなんでしょう。帰りの車内で奥さんが言ってました。「今まで“もう来ないで!”って思うお客さんは来たことがない」んですって。うんうん、全然驚かないですよ、それ。素敵な人を引き寄せる磁力が、強いからなんだよね。出逢うべき人とは出逢うべき時に必ず出逢うようになってるんでしょう。不思議だよね。素敵だよね。僕らが「ゼクシィ」のそのページに目を止めたのもそれだしお店の定休日が水曜日で僕の定休日が木曜日なのもそれだし、「ちょっと遠くても行こう!」ってなったのも、それなんでしょうね。そういえば、指輪はどうしよう…(笑)「人生とは違うことを計画している時に起こるそれとは別のこと」~ジョン・レノン “Beautiful Boy”~
2010年05月21日
コメント(7)
こちらの日記で紹介した大学時代の教え子“Iちゃん”が、大学生になり僕が働いていた塾で先生を始めたという、「いいねー」なニュースがありました。これから、がんばってほしいなあ。自分の色が出し放題な仕事なので、面白かったなあ。僕は、そりゃあもう、楽しませてもらいました。僕が先生だったころ、とにかく“楽しんでもらう”を追いかけてました。そのために授業の準備をして、所々に工夫を凝らして。“わかる”の先にある“楽しい・面白い”までたどり着こうとする作業。楽しくて楽しくて、夜が明けたこともあったっけ。それくらい、いわゆる没頭をしていたのです。あのころ、毎日「やったるでー」って感じで、ワクワクしながら仕事をしてました。熱い気持ちに引っ張られるままに、爆走するような感じで。社会人になった今はどうかと言うと、あのころの熱さはないんです。それは、ネガティブな意味では全然なくて。“熱さ”の替わりになる価値観を、ちょっくら持ってみようかなと。“あったかい”くらいの温度で、過ごしてみようかと思ったのです。どういう心境の変化か分からないですが、“熱血”よりも“柔和”を、“熱い”も“冷たい”も受け入れられる“あったかい”を、目指したいと思っています。心の“ちょうどいい”適温を探すような感じで。でもねー、“ちょうどいい”は難しいんだ。きっと長い道のりですが、ゆっくり探していこうと思ってます。それを知ってる大人、やっぱカッコいいんで。だからこそ、熱くなれた大学時代があってよかったなあと、本当に思います。自分の沸点を見つけた時間。いろんな感情にまみれた時間。“熱い”を“あったかい”にするのと、“冷たい”を“あったかい”にするのは別だからね。後者なら、いっそのこと沸きたてちゃえ。“熱い”も“冷たい”も知ってる“あったかい”を。誰かの未来も、自分の未来も、楽しみなもんだ。
2010年05月19日
コメント(4)
何もすることがなかった連休の最終日。本屋で適当に本を選んで、コンビニでミネラルウォーターを手にとって、なんとなくバス停へ。路線図を見て、一番距離がありそうな路線を選んで、乗車。なんとなく、バスに乗りたかったのです。目的地は、全然ないのですが。とにかく、バスに乗りたかった!後方の窓際シートに腰を下ろし文庫本に目を落としたり窓の外の景色を眺めたり暖かい晴れの日の昼下がりは日差しが柔らかくてバスが停まるたびにのんきな電子音が流れて車内はおじいちゃん・おばあちゃんばっかりでバスに乗っている間の、そんな「退屈」がこれまた贅沢で。なんとなく、自由の味がするんだよなあ。停まったバス停の数と同じくらいあくびをしながら、そんなことを考えたものです。終点でバスを降りて近辺を散策したけど特に何もなくて帰りのバスにまた乗って今度は音楽でも聴こうかなそんな往復400円の旅。なんとなくフリーダムな心もち。また乗ろう。
2010年05月07日
コメント(2)
うおー、だいたい2ヶ月くらいぶりの更新です。春の年度替わりは僕の業界の繁忙期なのです。忙しいときは、忙しいもんだ。さて、そんな繁忙期も終わり、ラブリーな週休2日の日々が戻ってきましたとさ。最近の僕はもっぱらローカル志向です。歩いて3分のレストランでご飯をたべて散歩がてら買い物をして途中の公園に芝生があるから寝転がって商店街の銭湯に入って。最近のお気に入りは特に最後の銭湯。「スーパー銭湯」とかじゃない、多分昭和~年からあるような昔ながらの銭湯。大人400円、小人150円の銭湯。「ケロリン」(合ってます?)とか書いてる黄色い洗面桶があってシャンプーや石鹸は当然備え付けられてなくてドライヤーは20円入れなきゃ動かない銭湯。恥ずかしながらというか、僕自身、そういう銭湯には行ったことがなかったわけですよ。ちょっと足を伸ばせば快適な「都心の温泉」があるわけだしね。でも、どういう心境の変化かわからないですが、最近こういう地場の匂いみたいなものに妙に惹かれていて。ゆっくりとした時間の流れ方というか。そういうのが、特に気になるんです。世界中できっとここにしかない時間の流れ。グローバル化が「世界中にあること」を良しとする考え方ならば、「世界中にないこと」を良しとする考え方も当然ありなわけで。グローバルなものでお腹いっぱいになりつつある今これから、僕たちはローカルなものの価値をまた見つけていくんでしょう。そもそも、僕たち一人ひとりは根本的にローカルな存在であるわけだし。グローバル化って必要な回り道だったのかもね。さて、僕はどんなローカルを作ろうか。そういうのが、今の楽しみです。
2010年04月30日
コメント(0)

前からずっと気になってた、うちの近くの大きな木気まぐれにカメラを向けてみたら、素敵な表情をしてくれちゃって 素敵だからカメラを向けることもあるしカメラを向けるから素敵になることもあるよね久しぶりに夜風を楽しめた春みたいな日、イエイ。
2010年02月23日
コメント(2)
結構疲れが出ちゃってた深夜の帰宅、開いたPCに一通のメールが。大学のとき働いていた塾での元教え子“Iちゃん”からでした。彼とは中3から高2までの付き合いで、今年はいよいよ受験の年。その“Iちゃん”からのメールが、もう、素晴らしくって。第一志望校の受験前夜。以前の自分なら悪いことばかり考えて気持ちを落としてしまっていたところ、そのときはすぐに「いいこと」を考えて気持ちを切り替えることができたとか。それは自分でもびっくりの変化で。そして自信を持って臨んだ本番で自分の力を出し切れたって。その試験の結果はまだ分からないのだけれど、そのことを教えてくれたのです。いやあ、もう、ねえ、嬉し過ぎるじゃないですか。「合格」「不合格」という“結果”だけでは見ることのできない、そしてそれよりもきっと重要な“過程”の部分で彼が何かをつかんだこと。そしてそれを“結果”っていう色づけがされる前に教えてくれたこと。もちろん、“結果”が素晴らしいものであれば言うことなし。でも、それはあくまで副次的なものだと思ってしまうのです。「どの大学に入ったか」が意味を成すのは、ほんのひととき。でも、“Iちゃん”がつかんだものは、間違いなく、一生もの。“Iちゃん”がつかんだもののうち、遠く離れたところにいる僕が推し量れるのはほんの一部ですが、僕が強く心を惹かれたのは、基準の持ち方であって。「偏差値」とかなんとか、他との比較を基準に自分の成長を測るんじゃなくてそれこそ「一年前の自分」っていう風に、自分の内側に成長の基準が持てていること。そこに基準を持てれば、その人はどこまでも成長できると、思うんです。しかも、周りに合わせたりすることなく、オリジナルにね。世界にまたひとり、楽しみな若手が登場してきましたよ。彼のこれからが、なにより楽しみ。
2010年02月20日
コメント(2)
就職活動でがんばっている友達から、いい話を聞きました。「味の素」のセミナーに参加したときの話。あの「あじものと」という調味料は、「AJINOMOTO」として、世界中で売られているんですって。なんでも、「あじのもと」に入っている“うま味”という味覚は、国籍を超えて共通する感覚なんだそうで。つまりは、“みんな”が「おいしい」と思うってことです。めちゃめちゃ、グローバルですわ。これってすごいと思いません?「文化」とか「宗教」とか「思想」とかに邪魔されることなく、みんなが「GOOD!」っていえるものがあるっていうこと。これって夢があるな~っと思うのです。イスラム過激派のひととキリスト教福音派のひとの間に、「AJINOMOTO~!」 (↑ドラえもんが道具を出すときの感じで)みたいなね。「言語」やら「国境」やら「法律」やらで世界が様々に分断されてしまった今となっては、僕らにんげんが元々みんなでアフリカ(たぶん)で暮らしてたんだってこと、思い描くのは、難しいです。そんな僕らがいろんなものを超えて今でもつながれるとしたら、「感覚」がきっとそれになると思います。「うれしい!」とか「きもちいい!」とか「おいしい!」とかね。高校生のとき留学したイギリスでは、周りの子の授業への意識の高さにびっくりして。みんな宿題やってくるし、発言はしまくるしで、「やっぱ違うな~」って思ったものですよ。でもね、ある日先生が学校を休んで授業がなくなったときのこと。教室に集まって休講が正式に決まる時間までみんなでカウントダウンして、その時間になった瞬間に「YEAH!!」ってみんなで校庭に駆け出して、そこで一気に壁が崩れましたよ。「なんだ、いっしょじゃん」ってね。その体験があるから、僕は今でもどこかで信じちゃうんです。みんなにとって「いいもの」が、きっとあるはずだってね。はじめから僕らを分断されたものって捉えるのは、違うんじゃない?僕はいつか、それを見つけちゃうよ~ってね。
2010年02月11日
コメント(4)
これは、きちゃった。あ~あ、きちゃったよ。そんな読後感のする本に、出会っちゃった。「リーダーが身につけたい25のこと」という本です。リーダーでもなんでもない新入社員ですが、とにかく読んだのです。そこに書かれていたことばが、スイッチを、押しちゃった。“Between stimulus and response there is a space. In that space lies our power to choose our response. In our response lies our growth and our freedom.” (刺激と反応との間には、いくばかの「間」が存在する。 私たちはこの「間」の中で、自分の反応を選択する。 私たちの成長と自由は、私たちが選ぶ反応にかかっているのだ。)第二次大戦中にアウシュビッツに収容されていた精神科医の言葉として、紹介されています。これは、きちゃった。特に一行目のフレーズにね、やられちゃった。“Between stimulus and response there is a space.”1年間社会人をやってみて、改めて気づかされたことがあって、それは、ああ~、オレって気分にめちゃめちゃ左右されるな~ってことです。当たり前すぎて見逃しちゃうくらい、その日のパフォーマンスとその日の気分が、比例してる。いい気分のときは、いい仕事ができるんです。でもね、この気分ってやつは扱いがやっかいじゃないですか。「よっしゃ、今日オレ絶好調!」って感じで1日を迎えても、最初に嫌~な電話を取っちゃうだけで、「オレ、今日はダメかも…」に変わったりする。そういうときに、「仕事だから切り替えよう!」っていうテーゼは、あんまり効かないことが分かってきました。「外的ななにか」をいくら使ってみても、どうもなあ。そんなこんなで、この気分ってやつとの闘いなんですよ。こいつさえどうにかなれば、いろんなことが大丈夫なんじゃないかって。こいつさえうまく使えちゃえば、いろいろこっちのもんだって。そんなことを考えているときに出会ったこのことばは、マジででかい。そうか、「嫌な電話を受ける」=「嫌な気分になる」じゃないんだ。その間にある「スペース」で、自分が選択してるんだ。これは、なんとかなるかもしれないぞ。一次方程式だって言ってたの、アインシュタインだったかな。y(反応)=x(刺激)じゃなくて、y=a(自分の選択)xって。反応は、外的な刺激と自分の反応のかけ合わせで決まるんだって。つながった、つながった。そう考えると、マイナス×マイナスがプラスになることとか、とても興味深いです。刺激と反応の間にある「スペース」に、素敵なaを入れられるひとになろう。これは、今年の僕のテーマかもしれない。「どんなときでも自分の状態は自分が選ぶことができる」 ~コーチ・エィ社長 鈴木義幸~
2010年02月09日
コメント(4)
レンタルDVDを借りて、「めがね」って映画を観たんです。いつかの日記にも書いた「プール」とか、「カモメ食堂」とかを作った人たちの映画です。僕は、この人たちの作る映画がとても好きで。“stillness”とか“静止感”とかって僕が名づけてる空気が、あふれてる。その「めがね」のなかにこんな感じのせりふがあるんです。「この島には、たそがれるのが上手なひとが集まってるんです」「たそがれるのが上手」って、そんなことば、生まれて初めて聞いたぞ。「たそがれる」も「上手」もたくさん聞いたけど、このことばは初めて。なんか、すごくないですか。23歳の社会人が「生まれて初めてのことば」に出会ったのであります。新しいことばが入ってきて、新しい着想が生まれて。それは、すごくミニマムな意味での、生まれかわりなんだと思うのであります。この生まれかわりがあって、今僕が思っているのが、「困るのが上手なひと」になろうってことで。というのもですね、僕が一緒に働いている人たちは、みんなすごい人たちですよ。すごく優秀で、頭がよくて、賢くて。僕が困ってることなんて、「ふふ~ん」って感じでやっつけちゃう。そのたびに僕は、「うわ~、かなわないや」って思ってしゅんとします。でもね、僕もこの春で社会人2年生になるんです。2年生がいるってことは1年生もいます。1年生がみんな最初からすごかったら、かわいくないです。僕が困ったこと、同じことで困るひとが、きっといるんじゃないかな。そういうひとに手を差し伸べることは、もしかしたら僕が上手にできるかもしれない。困ったことがあるひとじゃないと分からないこと、きっとあると思うんです。それならば、僕は困ったときにちゃんと困るっていうか。安易な横道に逃げないで、真正面から困るっていうか。そんな風に、「困るのが上手なひと」になろうかと思ったのです。それって、ちょっとオリジナルでおもしろいかもしれないって、ね。僕ん家のオーディオは安物で音質がぜんぜん良くないのですが、ビートルズとかクイーンとかエアロスミスなんかは、こっちの方が味が出て好きです。優秀であることがすべてじゃないぞ。自己肯定の、理論です。
2010年02月08日
コメント(7)
すごくすごく、お久しぶりです。ムラっ気気分屋の僕にしても、こんなに日記が中断したのは史上初です。短い歴史ですがね。別に病気だったわけでも、自分探しの旅に出てたわけでも、料金滞納でネットが使えなかったわけでもないです。身近でいろいろあって、いろいろなことを考え過ぎて、表現する間もなく過ぎていったような、そんな感じでした。やっと、それがちょっと、落ち着いてきたんですね。よし、という感じで、このブログも再開します!さてさて、最近考えていることは、僕の仕事って本当はなくなっちゃった方がいいんだよなってことです。僕は予備校で仕事をさせてもらってます。予備校は「受験」があるから成り立つ商売です。僕はこの「受験」がなくなっちゃえばいいのにと、本気で思ってるんです。というのはね、毎年この「受験」でがんばっているたくさんの高校生を見ていると、心のどこかにやるせない気持ちがいつもするのです。おしなべて言うと、「受験」って暗記力大会のようなものです。たくさんの知識を「忘れずに覚えていること」がすべての教科に求められます。思考力とか発想力とかより、なんだかんだ言ってそっちで勝負が決まっちゃうことが多いと、あれこれ教えながらも思ってしまうのです。でもね、この「忘れずに覚えている」能力って、人が様々に持っている力のうちのほんの一部ですよ。しかもね、この能力だけで言えば人間よりもパソコンのほうが絶対的に優れてるじゃないですか。機械で代用可能な能力を競うことに多感な10代のひとときを使うなんて、なんかもったいないと思うんです。実際ね、日本的な受験がなくてもうまくやってる国、たくさんあると思うんです。僕が高校生のころ留学したイギリスは、そんな国のひとつです。イギリスでは、学校の成績で進学先の大学が決まるんです。日本でいう推薦入試みたいな感じです。学校の成績のつけ方に国で統一の基準があるので、学校間の不平等がないようになってます。なので、イギリスの高校生たちは学校の勉強だけがんばります。学校のテストがすべてを決めるので、テスト前はみんな必死です。でもそれ以外は、日本の高校生よりずっとひまです。で、なにをするかというと、遊ぶのです。近所の広場にいくといつも誰かがボールを蹴ってます。僕もそれにそれとなく加わって、いつのまにか仕事上がりのおっちゃんたちも加わって、U-15なのかレジェンドチームなのか分からないチームができあがる。そんな風にして、いろんな人たちとかかわりました。そういう中で、いろんな人がいるんだな~ってことが自然とわかりました。大人げない大人でも、大人でやっていけるんだな、とかね。ちゃんとしてない上級生、いっぱいいるぞ、とかね。ひるがえってこっち日本では、学校→塾→家ってパターンが多いですよね。そこにいるのは基本的にみんな「ちゃんとした人たち」だと思うんです。曲がりなりにも、みんな「先生」ってつく人たちですからね。それって、子どもたちに無意識のプレッシャーを与えてないかなって、心配なんです。「ちゃんとしてない人」にはちゃんとしてない人なりの人生があるのに、そういうの、信じられない環境に置かれちゃってないかなって。「ちゃんとしなきゃ大人になれない」みたいに、思っちゃわないかなって。だから日本から今あるかたちの「受験」がなくなって、みんながもっといろんな人とかかわれるようになったらいいなって、思うんです。バイトしたり、カフェに入り浸ったり、ネットに没頭したっていい。それぞれにそれぞれなりの生活があって、それでまあなんとかなってるんだって、きっと感じられるようになると思うのです。そしたらもっと伸びやかな心で、大人になっていけるんじゃないかな。そんなときが来るまでは、僕は学校と家の間にあるこの場所で、がんばってやろうと思ってるんです。人生そんなにせまっくるしくないよって、自分の好きに生きて大丈夫だよって、伝えていきたい。そして僕の念願がかなったら、近くの公園で「サッカーおじさん」になろう。ああ、これが僕の夢だ。
2010年02月04日
コメント(4)
大好きなロックバンド“Manic Street Preachers”の結構好きな曲“From Despair to Where"はこんな風に始まるんです。“I write this alone in my bed.(この曲を独りベッドの中で書いている)”そう、僕も部屋の中でひとりこれを書いています。だから何だって感じですね。うん、書き出しに困ってくっつけただけです。わらい。今部屋の中でこれを書いていて今日買ったボサノヴァのCDが心地いいBGMで網戸から入ってくる夜風が絶妙で掃除したてのフローリングが気持ちいいです。今日は休日で朝ごはんを食べて彼女を見送って洗濯をして掃除をしてごみを捨てて自転車に乗って本屋に行って何冊か本を買ってついでにCDも買って先週出したクリーニングを取りに行っていつものカレー屋さんでご飯を食べて旅行の計画を立てて夕方から本を読みにカフェに行ってついでにドーナツも食べてこれからご飯の支度をして仕事上がりの彼女と一緒に食べる予定です。ザ・休みの日。こうやって書くと特別なんにもしてないんですが、すっごく満ち足りた気持ちなんです。それはきっといろんなことをしている間に浮かぶ考えのおかげ。朝時間がないのにベランダで日向ぼっこしちゃうのんびりな彼女のまねをして僕も歯ブラシくわえながら日向ぼっこしてみたんですが、すっごくやさしい日差しで、「ああ、生かされてるんだ~」って想いがこみ上げてきてね。その瞬間から、あったかい気持ちでいっぱいになって。考えてみたら、すごいことなんだよね。太陽の恵みをちょうどいい感じで与えられてる場所で暮らしていられること。緑があるおかげで息を吸ったら新鮮な空気が吸えること。考えてみたらぜんぜん当たり前じゃないのに、気づいたら当たり前のこととして見過ごしていつのまにか「自分ひとりで生きてるんだ」なんて、勘違いしてみたりする。おお、愚かだぞ、おれ。何言ってやがるんだい、あんたさん。生かされてるんだよ、僕たちは。なんかね、そんな風にふと思えたこと、とっても嬉しかったのです。こうやって書くと大したことない感じ。でもね、きっとどんな大イベントよりも、大事な日って、こういう日なんだよ。そんなとりとめもない日記、でした。
2009年10月29日
コメント(2)
「プール」という映画を見てきました。期待してた通りで、すっごくよかった~。ほとんど何にも起こらない映画なんですが、それがいいんだよね~。静かな暮らしがあり、いろんな感情があり、やわらかい時間があり。あんまりにも気に入って、帰りにサントラ購入しちゃいましたよ。何がよかったって言ったら、空気感なんだろうな~。速いものをゆっくりにする固いものをやわらかにするそんな感じで。もう、ほんとよかったんですよ~。最近思うのは、自分が目指すものが「なに」から「どんな」に変わりつつあるなってことで。「~になりたい」よりも「~な感じになりたい」っていう風になってるんです。分かるかな、この感じ。前はね、違ったんですよ。「指導者になりたい」っていうのが、僕の目標でした。それは、今だってそうなんですけどね。でもでも、ちょっとずつ芽生え始めた感覚もあって。それが「~な感じになりたい」っていう、なんていうか、言葉に表れないものに、憧れる気持ちなんですよ。具体的に言うとね、例えばすっごく気持ちいい風が吹いてきたときに、「あ~、こういう感じになりたいな~」って思うっていう、そんな感じ。おいしいコーヒーとか、誰かの心地よい笑顔とか。それに触れたときの「いいな~」っていう感覚に、憧れるんです。僕も、そんな空気をまとってみたいなあっていう、ね。その感じをがんばって言葉にすると、“ゆっくり”とか“やわらか”とか“やさしい”とかそんな感じの言葉になるんでしょう。今日見た「プール」は、そんな映画でしたよ~。そんな今日、偶然書店で手に取った本に、こんな言葉が。「とても大切なものに対するような、根気あるのんきな愛を持ってあげてくださいね」“のんきな愛”、なんて素敵なことば。
2009年10月22日
コメント(4)
台風、来ましたねえ。インフルエンザ、やってますねえ。やあやあ、忙しいもんです。こんな風に書くのはすごく不謹慎に聞こえるかもしれないのですが、僕はこういうのがくると「人が死なない程度に暴れてくれ」と思うタイプでして。あんまり見ないケータイのテレビで台風情報なんか眺めたりしちゃうんです。もちろん人が困ってるのを見て喜んだりしないですよ。ただ、たまにこういうのが来ることで「僕たちにはかなわないものがある」ってことに気づけるんじゃないかって。こういうことがない限り、僕らはいとも簡単に世界の王様気分でいちゃうんじゃないかって。そう思っているからなのです。無理やり晴れを作ろうとしたオリンピックなんて象徴的だったけど、僕らは身の回りにあるものすべてがコントロールできる世界を作ろうとしているしそれをすでに手にしたように感じている。すべてが思い通り。意思のままに、すべてが都合よく、計算の範囲内。数々の例外をもそのシステムに取り込んで。そんな世界に向かってるんだって、僕は感じてる。でもね、全然そんなの無理なんです。いくらがんばったって雨は降るし、季節は変わるし、雲は流れるのです。核兵器と違って、台風は迎撃ミサイルじゃ倒せないし。自然はもっとすごいんだぞう。もうちょっと謙虚になってもいいのかなって、思います。自然の強大さと僕らの無力さについて。かなわないんだよ、どうやったってさ。見苦しいよ、おやめなさいよ。思うに、自然は僕らの外側にもいて内側にもいるんです。僕らの中には「僕らを超えた何か」がいる。例えば、僕らの心。思うんですが、僕らは僕らの考えを思うほどコントロールできないんじゃないか。仕事の最中なのに、サッカーの結果が気になる。忘れたいのに、嫌なこと思い出す。そういうことが、いっぱいある。元気を出そうとしても、元気が出ない。その人を励まそうと思ったら、言葉が見つからない。もどかしいけど、どうしようもない。そういうことが、いっぱいないですか?きっとね、それが自然ってやつなんです。抗ったところでどうしようもできない。あるがままであるしかない。そういうものだって、思うのです。だから、「受け入れること」を学びたいのです。自分の思い通りにならないものごと達に対して。拒絶するでも絶賛するでもなく、ただそのまま「受け入れる」。そんなスタンスでものごと達と向き合えたら、どんなにか素敵だろうって。ああそうだ、僕らは生かされている。そう思ったからって何が変わるわけじゃないけど。そんなことを思った「ノルウェイの森」読後でした。
2009年10月09日
コメント(5)
雨の日っていろいろ不思議に思うのですが、例えば空をブンブン飛んでいる虫たちはどこかに避難してるんでしょうか。だって、姿を見かけないもんね。小鳥あたりは少雨決行してるところを見かけるけど、大雨ではまず見ない。あんなに忙しく電線でたむろしたり、ゴミをあさったりしてるのにね。猫なんか軒下で一日中丸くなったりしてるし。ま、彼らの場合天気に関係なくそんな感じですがね。何を考えているかというと、よくできてるよなあということなのです。いつもブイブイ飛び回ってるんじゃ疲れちゃうから、天気が休憩の日をくれるようになってる。鳥が空を飛んでなくても鳥でいていい日なんです。分かるかなあ。僕ら人間にも、そういう日があるのかなあ。そりゃ休日はあるんですけどね。それよりも、元気がないときに元気がないままいられる日とか、場所とか。気兼ねなく「元気がないオレ」でいられるような、ね。そういうのって、必要やと思うんです。よく「元気出せよ」って声をかけるじゃないですか。それもいいんだけど、たまには「元気出さなくてもいいよ」っていうのもね。自然がすごいなあって思うのは、自然はどっちも受け入れてくれることで。それは包容力ともいえるし、多様性ともいえるし。明るい部分も暗い部分もその中間も、みんなあってそれなんだと思うんです。僕はそれに、すごい憧れてるんだな~。「誰かに元気をあげられる人」はもちろん素敵。「元気のないままで一緒にいられる人」も同じように素敵。そのどっちにもなりたいなあっていうのは、贅沢ですかね。ギンギンの太陽の下汗まみれになるのが好きなのもカフェの奥まった席に引きこもって読書にふけるのもどっちも同じくらい僕なんだ。きっと、そういうことだ。
2009年10月03日
コメント(2)
「流れ星」って舞台を見てきたんです。職場の先輩に薦められるがまま足を運んだのですが、これが良くってね。人を思いやることと、その思いやりをちゃんと受け止めること。見た後で、ほっとあったかい気持ちになったのでした。今日は街でやたらとま新しいスーツの集団を見るなあっと思っていたら、10月1日の今日は多くの企業で内定式の日なのでした。おお~、僕ももうすぐ一年先輩になるんだな~。ようこそ、みんな。「選ぶこと」と「決めること」。就職に限らず、毎日の中にいろんな選択の場面があるんですよねえ。コーヒーをアイスにするかホットにするか、そろそろ迷い出す頃です。当たり前のことなんだけど、ホットを頼んだらアイスは飲めないんだよね。何かを選ぶことは、何かを選ばないことと常に一緒にある。だからこそ、「選ばなかった何か」が気になったりする。「もっといい会社があるんじゃないか」「もっといい恋人がいるんじゃないか」「もっといい人生があるんじゃないか」何かを決めた後に訪れるのはきっとこういった疑問たちで、それらには答えなんて存在していなくて、だからこそ無限ループになったりする。最近思うのは、疑問を抱いたままでも進んでいいんだってことで。答えを探しながら今を生きることは、今に対してそんな失礼じゃないぞってことで。「今」に疑問を持つことと「今」を大切にすることは、一緒にあっていいということで。そして、「今」を好きなれたらそれでいいのだってことで。なにが言いたいのかだんだん分からなくなってくるんですが、確かに感じている思いというのがありまして、それが僕の表現力を超えちゃってるんだなあ。だから、今は精一杯の表現ってことで。
2009年10月01日
コメント(2)
おっとっと、だいぶ久しぶりの更新になってしまいました。忙しかったとか、塞ぎこんでたとかじゃ、ないですよ。「書こう!」ってなる出来事が、なかったのかな。・いや、出来事じゃなくて心かな。最近何をしているかというと、相変わらずな暮らしをしているわけです。残業が長引いて朝方帰宅になったり食事がコンビニ依存体質になってきたり気づいたら郵便ポストが溢れんばかりになっていたりそんなこともありますが鍋を買ってみたり彼女の実家でご馳走になったり村上春樹を読み漁ったりそんなこともしていますもうすぐ10月、「社会人」と呼ばれるようになって早半年。いろいろあった気もするし、大したことは特になかった気もします。大きかれ小さかれ、自分の中にいろんな変化があったことは、しかし確かで。捉えきれてるもの、そうでないもの、きっといっぱいあります。そんな中で僕が「いいなあ」と思っている変化は、「幸」を見つけるセンサーの広がりで。「朝おいしくコーヒーを入れられた」だとか「ベランダに出たら風がひんやり気持ちよかった」だとか「今の気分にぴったりの音楽がCDから流れてる」だとかそういった瞬間瞬間、「いいなあ」って思うんですね。前だったらね、きっと素通りしちゃってたんじゃないかなって思うのです。「幸せ」ってもっと大きなものだって思ってましたから。でもね、それが変わっていって、そのあたりにある「幸」な瞬間をちゃんとつかまえられるようになってきた。「これでいいのだ」って、思えるようになってきた。これは僕がとっても嬉しいことで、きっと5月から一緒にいる彼女のおかげなのです。いつもありがとね。「遠くばっか探さなくていいんだ」って気づかせてくれて。沖縄で自然保護の活動をしている人がこんなこと言ってました。「自分たちが豊かに生きるうえで本当に必要なのは何かを考えて、選んでほしい」うんうん、うんうん。すっごく分かるんだ。毎日ちゃんと考えて、選ぼう。もう知ってるんだから、ね。 「幸せはなるものではなく、感じるもの」 ~自由人・高橋歩~
2009年09月27日
コメント(4)
全275件 (275件中 1-50件目)