徳川家康公正室旭姫墓【道標】
[西] 徳川家康公正室旭姫墓 在院
[東] 山門落慶紀念檀信徒一同
旭姫の墓
◆東福寺塔頭 光明院
南明院の2つ北にある塔頭。
作庭家・重森三玲の庭「波心庭」で知られ「虹の苔寺」とも呼ばれています。JR東海のキャンペーン「そうだ京都行こう」のポスターになって、有名になってしまいました。
春は桜とつつじ、夏は新緑、秋は紅葉、四季折々の顔を見せてくれます。
入り口の立て看板
「庭の自尊心」うーーーん。
お堂に入ったところに、志納を入れる竹筒があり、そこに自分で思う金額を入れます。お寺の方や案内の方は誰もいません。英語では、額が固定で命じされていました。曖昧な表現では、外国人に分かってもらえないからという配慮からでしょうか。
海外の観光客2人が、拝観料を払う窓口を探して右往左往していたので、竹筒に入れるのだよと教えてあげました。
波心庭
写っているのは私ではありません。
ここに来るといつも写真の枚数が多くなってしまいます。
◆東福寺塔頭 永明院
南明院と光明院の間にあります。非公開ですが、特別拝観があったこともあるようです。
また東福寺エリアを出て、伏見区歩きのときに行った、仲恭天皇陵に向かいます。
◆鳥羽伏見戦防長殉難者の墓
仲恭天皇陵の西隣にあります。
鳥羽伏見の戦いで長州軍は本陣を東福寺に置いて勝利をおさめましたが殉死者が出ました。戦死した石川厚狭介外長州藩及び支藩の藩士(防長藩士)48名の墓石が並ぶ戦没者招魂場です。
鳥羽伏見戦防長殉難者墓碑
[北]鳥羽伏見戦防長殉難者之墓
[東]昭和四十三年十一月 京都市
防長藩士崇忠碑
[南] 崇忠之碑【題額】
明治元年正月の戦にいたくはたらきて深草の露と消え
淀川の泡と失ににし健夫等か
墓所を此処とさため巖根木根払ひ清めて亡魂を招祭れるは
天下の大政鎌倉にうつりてより七百年を経て再ひ天皇か朝廷にかへり
朝日子の照栄あるか如く望月のみちたらへる如き大御世の安御代となれる
是皆健夫等かいそしみ勤めし功によれるを戚てなりけり
あはれ此役や吾軍薩摩の軍と共に呉竹の伏水の里白鳥の鳥羽の畷に出て都に入むとする賊を
(以下略)
◆仲恭天皇九條陵
仲恭天皇は鎌倉時代の天皇。
御名は懐成親王(カネナリ)父は順徳天皇。わずか3歳で践祚。これは祖父後鳥羽上皇が鎌倉幕府の討幕計画を画策し、父順徳天皇もこれに加わったための譲位であった。
しかし後鳥羽上皇軍は幕府執権北条泰時に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡に、また天皇の叔父の土御門上皇は加担していなかったが自ら望んで土佐に流された(承久の乱)。
祖父や父の配流に伴い、順徳上皇系の天皇は廃位、土御門上皇系の茂仁親王(後堀河天皇)が即位した。もちろん、天皇は幼少で政治的な判断は皆無に等しかったが、幕府の意向で廃位となったのである。17歳で崩御した。在位期間は歴代最短。
仲恭天皇御陵兆域原標
兆域原標とは、ここからここまでが墓地ですよという目印。
???
あとで調べようと写真に撮りましたが、不鮮明で結局不明。どなたかご存知でしたら教えてください。
◆皇嘉門院月輪南陵
皇嘉門院は平安時代末期からこの地を領地としていた九条家ゆかりの人物として知られます。皇嘉門院・藤原聖子(ふじわらのきよこ)は、平安時代末期の摂政・藤原忠通の娘で、後に崇徳天皇の中宮となりました。崇徳上皇が保元の乱で敗れて讃岐に配流された後も、京都に留まって出家しています。皇嘉門院は後に、異母弟の九条兼実に皇嘉門院領を相続させ、これが五摂家として知られる九条家の豊かな領地の基礎となりました。
参道を下ります。
九条陵・月輪南陵参道【道標】
[北] 九条陵 月輪南陵 参道
[南] 昭和四年十一月建之 大阪皇陵巡拝会
維新戦役防長藩士墓【道標】
[西]右 維新戦役 防長藩士之墓 道標
[東]昭和十一年七月 京都防長会建之
再び東福寺エリアに戻ります。
◆東福寺塔頭 正覚庵
位置的にはさきほどの光明院の北になります。
鎌倉時代の1290年、奥州伊達家4代当主・伊達政依(だてまさより)によって開かれました。正覚庵の特徴でもある筆塚は、最初のものは江戸時代の文化年間(1804-1818)に築かれたのだそうです。
「筆の寺」と言われる正覚庵。境内には古くなった筆の労に感謝するために作られた筆塚があり、今でも年に一度、勤労感謝の日に「筆供養」が行われています。
ちょうどご住職さんが帰って来られたところで、お疲れのところ申し訳なかったのですが、ご朱印をいただき、境内を拝観させていただきました。
お寺の外の東福寺本山境内に向かう角のところに藤原俊成の墓所を示す道標があります。伏見区歩きのときに訪問した所です。
五条三位俊成卿墓道【道標】
[西] 五条乃三位しゆんせいの卿のおはかみち
冷泉家門人建之
[東] 小沢光貞謹書 明治卅六年七百年御遠忌ニ付
東福寺本山に入ります。
◆東福寺
東福寺は、平安時代の延長2年(924年)に公卿の藤原忠平が建立した、法性寺(ほっしょうじ)をルーツに持つ寺院。その後、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)、四代将軍、藤原頼経の父である九条道家が、法性寺の地に高さ5丈(約15メートル)の釈迦像を祀る新寺院の建立を発願。宋から帰国した聖一国師こと円爾を開山として、東福寺を開きました。当時の東福寺は、天台仏教、真言仏教、そして禅を学ぶ兼学の道場だったといいます。
◆東福寺 勅使門
ここにも 仲恭天皇陵と維新戦役防長藩士之墓所の道標
があります。
[西] 維新戦役防長藩士之墓所(矢印)
[南] 明治維新防長殉難者顕彰会 昭和五十五年十月吉辰
仲恭天皇九条陵参道【道標】
[西] 仲恭天皇九条陵 崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵 参道
[東] 昭和四年十一月建之 大阪皇陵巡拝会
◆東福寺 六波羅門(重要文化財)
1221年(承久3年)の承久の乱後、朝廷の動きを監視するために設置された六波羅探題にあったものが移築されたと伝えられています。
◆東福寺 三門(国宝)
東福寺唯一の国宝建造物。
現存する東福寺三門は、元応元年の大火によってそれまでのものが失われた後、応永年間(1394年~1428年)に室町幕府四代将軍、足利義持によって再建されたものです。なお、三門とは三解脱門の略で、禅宗寺院の仏殿(本堂)前に建てられる中門。それは、仏殿という涅槃に入る前に解脱を得る(悟りを開く)目的で設けられています。三門は、無空、無相、無願という三つの解脱を表す為に三つの出入口を開けた三戸形式であるのが普通ですが、東福寺の三門もまたその様式を守っており、五間三戸の二重門となっています。屋根は本瓦葺きの入母屋造で、その高さは22メートル。両脇には山廊が付属し、そこから上層内部へ上る事ができるようになっています。前の池は「思遠池」と名付けられています。
禅宗寺院における三門の建築様式は、当然ながら禅宗様であるのが一般的です。しかし、東福寺三門は大仏様を基調とし、それに禅宗様と和様を折衷した、極めて独特な様式を採っています。大仏様の特徴が特に強く見られるのが軒下で、柱に穴を開けて水平材を通した貫(ぬき)の構造が多用されており、組物は三手先の挿肘木で前方に張り出し、通肘木で繋いでいます。柱は上下が細くなった粽柱(ちまきばしら)となっており、柱と礎石の間に礎盤を入れる点などは、禅宗様の特徴です。中備は平三斗(ひらみつど)であるが、それが通肘木の上にも乗っているのが印象的です。垂木は禅宗様の扇垂木ではなく、和様の平行垂木となっています。
三門の上層は仏堂となっています。柱や梁などには、半人半鳥の迦陵頻伽などが色鮮やかに描かれており、極彩色の世界を作り出しています。これらの壁画は、東福寺の画僧であった兆殿司こと吉山明兆、およびその弟子である寒殿司こと赤脚子(せっきゃくし)が描いたものと伝わっています。また、上層正面中央に掲げられた「妙雲閣」の扁額は、足利義持の筆によるものだといわれています。
◆維新戦役忠魂碑(東福寺三門東側)
慶応4(1868)年正月に勃発した鳥羽伏見の戦で,長州藩および支藩の兵(防長軍)は東福寺に陣を張り,伏見・淀方面に出張し会津藩を主力とする幕府軍と交戦しました。この時の戦死者48名は東福寺山内に葬られ,五十回忌にあたる大正6年に本碑が建立されました。碑文撰者は長州藩奇兵隊に所属し鳥羽伏見戦で戦った三浦梧楼(1846~1926)。
碑のかたわらに「防長忠魂碑」(西面)「墓地ハ此坂上約二丁」(北面)と記す石標が立つ
前述のように仲恭天皇九条陵の西隣に48名の墓地(招魂場)があります。
[西]維新戦役忠魂之碑【篆額】
正二位大勲位功一級公爵山縣有朋篆額
(碑文本文略)
[東]伏見鳥羽戦歿志士人名
(氏名略)
大正六年十一月防長有志者建之
碑文の大意~ http://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/gyoseilist_frame.html
◆防長忠魂碑(東福寺三門東側)
さきほどの南側にもう一つ碑があります。
長州出身の寺内正毅、田中義一、山県有朋の寄付により、4大正6年11月、長州藩殉難の士五十回忌に建立されました。表には戊辰戦争の概略と長州軍の活躍をたたえた文面、裏には鳥羽伏見で戦死した48名の名前が刻んであります。
◆東福寺 浴室(重要文化財)
1459年(長禄3年)に建てられた前面を入母屋造、後方を切妻造にした単層本瓦葺の建物で、現存する禅宗伽藍のものとしては最古のもの。東大寺の湯屋に次いで古い。内部は、東側に2つの蒸し風呂が並び、後方に釜と焚き口があって、今でいうところのサウナ風呂となっています。当時は、100人単位の僧が修行していたため、沐浴には湯を使用せず、蒸気で体の垢を擦り落とすことで、水や薪を節約していました。
◆最勝金剛院
九条家の墓を管理するために再興された東福寺の特別由緒寺院。東福寺で唯一伏見区に位置する寺院。
「月輪殿下兼実公本墓」の石柱
墓所の奥の八角堂は九条兼実の廟所。兼実は、平安末から鎌倉初期の公卿。別名は「月輪殿」、「後法性寺殿」。
1192年(建久2年)3月、後白河法皇が崩御すると関白となり、同年7月、源頼朝の征夷大将軍任官を実現させました。1207年(承元元年)4月5日没。法性寺に葬られました。法性寺内に東福寺を創建した九条道家は兼実の孫。
夕刻になったので、東福寺本坊や今回訪問できなかった塔頭は、次回訪問することにして、東福寺前からバスを乗り継いで帰宅しました。
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