被災者から被災者へ そしてみんなへ
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初めましての方、また宜しく!の方、いらっしゃいませ。 今回は震災で本名が出てしまい、本名を使ってブログを始めよう、と言う企画が持ち上がりまして。 詳しくはFM沖縄さんのブログ「一朝入魂(106)」で紹介されています。 また津波の写真を辿ってきた方、どうぞ! 4月の15日に私は「沖縄県被災者一時受け入れ」の第1回目受け入れで那覇入りしました。 福島県郡山で一泊して、震災の影響で開いているお店が少ない中、一件の居酒屋で夕飯を食べたんですね。板さんと、店長さんと、震災の話でしんみりしました。 お互いに涙を流しながら「頑張ろう!」と約束して……。 4月15日の福島空港発、伊丹行きのCRJは物凄く静かです。 被災地からのフライト。狭い機内ですが、この機に乗っている全員が今回の震災を経験しているのでしょうか?または、地震の後の風景を見たのでしょうか? リアジェットのエンジン音だけがやけに響き渡るフライトです。 乗り換えの大阪伊丹空港は真逆な光景が広がっていました。そこには賑わいがあり、特に私達が乗り換えた「那覇行き」は大阪からの観光客で一杯です。 これから向かう、沖縄での遊びの話、見えるであろう青い海の話。 機内でも、ロビーの様に、いやエンジン音がやかましいので大声で話をしています。 嫌でも聞こえる話し声には、「震災」の話題は飛び込んできませんでした。 経済が上向きになるのなら、観光はどんどんして欲しいと思いますが、「私達が経験した震災って?原発事故って?いったいどうなっているの?」ずんずん気持ちが沈みこみます。 那覇空港での副知事の出迎えを受けた私達は、バラバラのホテルへ送迎されました。 私は、独身ですが両親と同居。 4月12日、地震の翌日に「ドン」と言う地響きと音がした後に、消防車が「原発が爆発したぞ」と言う中で、着のみ着のまま福島市へ逃げました。 福島市内にワンルームのアパートを借り、後にやはり原発から20km内の祖父と叔母が逃げ遅れているのが分かり、一緒に住んでしました。 私の寝床は台所でした。贅沢は言えません。 実は「適応性障害」を持っていますので、あまり団体の中に長く居ると発作を起こすのです。避難所がダメなら入院。でも震災後は病院もパニックで精神系では入院は無理です。 大人、しかも親族でのワンルームでも息が詰まりかけて、発作を起こして倒れこみましたので……。 今回、沖縄への一時避難に来たのは、ゆっくり休養を取ることでした。 沖縄には以前にも来ています。かれこれ10年前?ゆいレールはまだ有りませんでした。 ホテル到着後、風呂、食事、でコンビニでビールを買ってきて飲んで寝ました。 せっかく来たのに、また懐かしいし、と国際通りを歩きますが、何か違和感を感じます。10年前と変わった?確かに、お店などは微妙に変わりました。ですが違うんですよ。 それは、常に倒壊、半壊した建物ばかりを見てきたので、何も建物に被害が無いと言う当たり前な光景が異様に見えてしまったんです。 笑い声に溢れた観光地。励ましあい前を向くのに精一杯だった日々とは全く異なる光景です。 私の感覚のほうが崩壊していました。何か、見てはいけないものを視たような。自分達ってもう忘れられているのかなぁ?あの地震と津波って? 落ち込みつつ、三越に向かいます。 理由は昨夜はビールを飲んでしまったので、オリオンの発泡酒を買うためです。 沖縄に来て「やろう!」と思ったことが一つありました。郡山の駅前で、津波の写真を大量にプリントしてきたんですよ。 出会った人に渡して、風化を防ぎたかったんです。 でも、観光地の風に負けてました。三越で発泡酒を買った後に、牧志公設市場へ向かおうと、平和通に抜ける出口から出ると、幟が目に入りました。 制服の違う高校生達が、募金活動をしています。そう、震災への募金活動です。 変なオッサンと思われたかも知れませんが、声をかけて代表の方へ持ってきた写真をお渡ししました。 心の中で、「俺達忘れられていない、まだいける。自分も頑張れる!」 そのままの勢いで公設市場へ行き、お願いして募金箱へ写真を貼っていただきました。 この高校生達に出会わなければ、私は何も変わらずに本当の意味で「休養」だけをして沖縄を後にしたでしょう。 ですがこれを境に、積極的に声をかけながら写真を手渡して、話をする事になります。 それはまた別の話で。 これからも宜しくお願いします。
2011年05月07日
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