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蕎麦全書」は、この時代では唯一といえるそばの専門書である。その中の一文に蕎麦は、外二八であったと推測される一文がある。
「蕎麦切屋のそば小麦粉を入る割の事」のなかに 「 或る人の談に、 麪店家のそば、通例小麦粉四升にそば粉一升を入るる也
。四分一の割也。予、先年聞ける事あり。神田須田町伊勢屋茂兵衛と云穀物屋有り。そばを多く商ふ。出店に麪店家を出せり。彼人云、頃日は蕎麦をよくせり・割を多く入三分一にせりと。予問て日、そば三分にうどん一分なりやといへば、左にあらず。 小麦三分にそば一ッ分
入るるとなり。比談と相合す。今そば屋と云はじして、うどん屋と唱ふるは、うどんを多く主に遣うゆえにやとおかし。」などと当時のそばの商いの実例を挙げているのだ。すなわち蕎麦は、享保の頃、江戸では、すでに大衆食として定着し、田舎蕎麦のように高価な小麦粉を使わない蕎麦100%の蕎麦切といわれるほど短く切れるものではなく、都市型の小麦を多くし食感の優れた細く長い蕎麦を考案し、販売していたと見られる。当時の製粉技術では、一部の高級な製粉所以外では、全粒粉が主体であったであろう。小麦粉にしても全粒粉でうどんを打てば、外見は蕎麦と変わらないほど色黒である。小麦粉の増量材としてそば粉を混入し、コストダウンを図ったのであろうか。
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