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徳川家康は徳川家がどうすれば永続できるかを考え抜いた男でした。外様大名には大封を与えましたが、その領地は日本の中心から遠く離れた僻地にしました。また彼らを政治に一切参画させませんでした。その一方譜代大名は幕府の政治に参画させましたが、領地は小さなままに留めました。軍事力と政治権力が集中しないようにしたわけです。大名の家族を江戸に住まわせて人質とし、さらに武家諸法度を制定して彼らを統制しました。このような用意周到な家康が、徳川家の潜在的な敵である天皇を見過ごすはずがありません。一般的には「禁中並びに公家諸法度」の制定が家康の天皇・公家統制策とされています。公家や天皇は「歌だけ詠んでいればよいので、そのほかの余計なことはするな」と命令したわけです。これらは徳川幕府を永続させるための政策です。しかし井沢元彦は、家康が徳川家永続のために考えた政策はこれだけではないと主張しています。江戸幕府という政権の永続を考えるだけでなく、徳川家そのものの永続も考えたというのです。そしてその仕組みが水戸徳川だというのです。
2007年05月26日
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風邪をひいていたのと何かと忙しかったのとで、日記をかなりサボってしまいました。先日、井沢元彦の「逆転の日本史」を読んでいました。江戸時代初期のことを書いていた部分で「なるほど」と思ったことがありましたので皆さんにご紹介しようと思います。徳川の御三家はご存知のように、尾張徳川、紀州徳川と水戸徳川です。尾張と紀州の徳川藩主は官位が大納言ですが水戸だけは中納言でした。水戸藩士としては同じ御三家なのに自分の殿様だけが中納言であることが悔しくて、主君を中納言と呼ばずに「黄門」と呼んでいました。「黄門」とは中納言の俗称です。また石高も尾張の62万石、紀州の56万石に対して水戸は35万石でした。御三家は徳川本家に跡継ぎがいないときは御三家の誰かが将軍を継ぐというものでしたが、水戸は明らかに尾張、紀州とは同列に扱われていませんでした。水戸は風変わりな家風で代々尊王の気持ちが強く、幕末には「水戸学」という尊皇攘夷の思想の本家になり明治維新を招来しました。二代藩主の水戸黄門(徳川光圀)は「大日本史」という尊王を表に出した歴史書の出版を決意し、歴代の藩主はその編纂事業を継続していました。この「大日本史」の編纂が一段落したのが幕末で最終的に完成したのは明治39年でその間に水戸藩が投入した費用は莫大なものでした。徳川光圀は、「徳川将軍は自分の本家というだけのことで、自分の主君は天皇である」という将軍から見れば危険思想の持ち主でした。彼の遥かな子孫が徳川慶喜で最後の将軍になったのですが、慶喜は鳥羽伏見の戦いで薩長軍に錦の御旗が翻っているのをみて戦わずに江戸に逃げて帰り、以後謹慎しました。水戸藩の尊王の伝統は光圀に始まるのですが、従来の歴史家は光圀の個人的なひねくれ根性から本家に対抗して「尊王」を唱えたのだと考えていました。しかし井沢元彦はそんな単純なものではないと言うのです。
2007年05月22日
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昨日は天気が良く連休後で人もそう多くはないと思い、東京の西奥の青梅にハイキングに行ってきました。吉祥寺から電車で青梅に着きました。青梅線の南を多摩川が流れているのですが、私は北側の丘陵を歩いて二つ奥の日向和田という駅まで歩いたのです。最後のところは下りがきつかったのですが、三分の二の道程はなだらかでこのコースがとても気に入りました。途中の休憩所から多摩川に沿った狭い平地が見えよい眺めでした。日本の山に登るといつも思うのですが、本当に日本は平地が少ないですね。ヨットから陸を見ると海岸線からいきなり山がそびえているように見えます。また山と平地の境がはっきりしていて平地は本当に真平に見えます。休憩所ではとかげさんや名前を知らない中年男のように大きなお腹をした虫とランチを食べました。良かったのでまた行こうと思っていますが、今度は途中で引き返してきつい下りを避けるようにします。日向和田に着いてから南下し多摩川に行きました。川岸までいける小道は急な下りでここでは多摩川は渓流です。川原で角の取れた可愛い石を四つ拾ってきました。今まで川原の石など何の興味もなかったのですが、昨日は石をひどく愛しく感じたのです。どういう心境の変化なのでしょう。
2007年05月09日
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新しい本を出版しようと考えています。企画書を書いて出版社にアプローチしているところですが、そう簡単には行かないというのが少しずつ分かってきています。
2007年05月07日
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