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「脱・電話屋」を夢見て自滅。見切り発車…

NTTの特約店として業績を伸ばしたがあっさり倒産した。
原因は本業そっちのけで、新規事業にのめり込んだこと。
独自の通信サービスに巨額の資金を注ぎ込み、経営に行き詰まった。
社長は夢を膨らませる一方で、判断ミスを重ねてしまった。


1999年6月11日、東京・五反田にある通信機器販売会社、日本電子通信の
本社では、緊急の全社集会が開かれた。約200人の社員を前に、玉置 優社長
は、資金繰りに行き詰まり、倒産が避けられなくなった事実を報告した。
社員には同時に解雇が言い渡された。

4日後、日本電子通信は東京地裁に自己破産を申請した。負債総額は約14億円
だった。

メーンバンクや取引先は、「新規事業に浮気せず、本業だけをやっていれば、
潰れるはずがない会社だったのに」と口をそろえる。

同社の本業は、日本電信電話(NTT)等の電話機の販売と配線工事。
1998年3月期まで、決算は4年連続の増収増益で、経営が傾く兆候は見られ
なかった。それだけに、突然の倒産は、周囲にも大きな驚きを与えた。

日本電子通信の創業は85年。もともと福岡市で通信機器販売会社を経営して
いた玉置社長が、知人の会社の再建を頼まれ、部下3人と上京したのが
きっかけだ。その会社のテコ入れに成功した後、通信機器事業での東京進出を
決意し、新しい会社を興した。

会社設立後は、中小・零細企業に的を絞った飛び込み営業で、売上を伸ばした。
営業担当者の教育に力を入れ、「セールストークを徹底的に教え込んだことが、
他社にない強みになった」と玉置社長は話す。

本業を補完する自社製品の開発にも積極的に取り組み、93年10月には、
電話とファクスの自動切り替え装置「きりかわるんば」を発売。その後も、
オフィスにかかってきた電話を携帯電話に転送する装置などを相次いで売り出し、
品ぞろえを広げた。

これだけ順調に成長を続けていた会社が、たった1年で倒産してしまったのは、
なぜなのか。玉置社長は、「過当競争に陥っている業界の現状から考えて、
単なる『電話屋』では、いずれ業績が頭打ちになると危機感を抱いた。その
危機感から新規事業に乗り出したが、目論見が大きくはずれた」と言う。

強気の目標に疑問の声も

日本電子通信が98年12月から始めた新事業は、インターネットを使った
総合的な通信サービスだ。

「情報通信分野では新しいサービスが次から次へと出てくるが、中身がさっぱり
わからない」と嘆く顧客の声を聞き、中小企業でも利用しやすい独自のサービス
を企画した。

「イヴ・ネット」と名付けた新しいサービスは、格安料金の電話サービスと
インターネット接続サービスをセットにしたもの。1台の端末の簡単な操作で、
様々なサービスを使い分けられるように工夫した。

事業開始に先立って、日本電子通信は98年9月、新サービスを専門に手がける
子会社、エデンテレコムを設立し、記者発表会を開いた。

この席で玉置社長は、イヴ・ネットの売り上げについて、「初年度16億8000万円、
3年目には150億円を目指す」という強気の見通しを明らかにした。記者の間
では達成を疑問視する声も上がったが、玉置社長は「事業の将来性を信じて疑わ
なかった」と言う。

つまづきのもとになったのは、メニューの1つに組み込んだ国内の長距離電話
サービスだ。このサービスには、いわゆる「インターネット電話」の方式を
取り入れたため、全国各地に専用の中継基地を設置することが不可欠だった。

中継基地の設置には、1ヵ所当たり約1500万円の設備費がかかる。しかも、
基地はNTTをはじめとする電話会社の施設内に作るため、スペースの賃借料
などでランニングコストも月100万円近くにのぼる計算だった。にもかかわ
らず、計画では、それを最初の1年で60ヵ所以上に設置し、5年後には200ヵ所
に増やすとぶちあげた。

新サービスの立ち上げに巨額の資金が必要なことは、玉置社長自身も十分に予測
していた。そのため、エデンテレコムを設立する前から、商社や大手通信機器
メーカーなどに出資を依頼していたという。また、中継基地の設置については、
全国の通信機器販売会社を共同事業者として募り、初期の設備負担を肩代わり
してもらう青写真を描いていた。

しかし、そのシナリオはいずれも大きく崩れた。

玉置社長によると、子会社への98年9月の時点で、約40社が名乗りをあげ、
10月中旬と12月の2回に分けて増資を実施する予定だったという。

「ところが、最も大口の出資者になるはずだった商社が10月に態度を一変させた。
ロシアの経済危機や国内金融機関の破綻などを理由に、新規事業への投資を
全面的に見直すことになったと一方的に通告してきた。これをきっかけに、他の
企業も手を引いたため、増資計画自体を白紙に戻さざるを得なくなった」

中継基地の設置には、40社以上の同業者から、参加の申し出があった。しかし、
それらの会社が実際に設備のリースを申し込むと、財務基盤の弱さなどが問題と
なり、「リース会社から契約を断られるケースが続発した」(玉置社長)

結局、リース契約を結んで設備を導入できたのは、全体の3分の1以下。設置を
予定していながら、適当な共同事業者が見つからなかった中継基地は、日本電子
通信が自前で設備を入れ、運営コストを負担しなければならなくなった。

資金面だけでなく、機器の調達でもトラブルが発生した。

サービスに使う機器の開発を委託したカナダのメーカーが、通信機器大手のノキア
に買収され、完成までのスケジュールが大幅に遅れた。そのため、12月の
サービス開始時点でも、国際ファクスサービスが提供できない、接続可能な回線数
が制限されるなどの問題が残された。

体制が整っていなかったにもかかわらず、営業部隊は、本業と並行して、イヴ・ネット
のユーザー開拓を進めた。この見きり発車的な営業が、状況をさらに悪化させる
原因になった。

元常務の小森二郎氏は、「イヴ・ネットの勧誘で本業のセールスが中途半端になり、
99年1月から通信機器の売り上げが20%以上落ち込んでしまった」と話す。

イヴ・ネットへの投資が約7億円に膨らみ、サービス開始後は月間2000~3000
万円の運営コストがかかっているのに、収益はほとんどあがらない。それに加えて、
本業が販売不振に陥り、日本電子通信の経営は急速に苦しくなった。

慎重さ欠き、ミスを重ねる

玉置社長は、98年10月に創設された中小企業向け融資の特別保証制度を利用し、
限度いっぱいの5000万円を借り入れるなど、資金繰りに奔走したが、事態は一向に
好転しない。最後の手段として、エデンテレコムの売却も計画したが、結局買い手を
見つけられなかった。

99年5月には社員の給料が払えなくなり、6月には都税事務所と社会保険事務所に
振り出した小切手で不渡りを出すことが確実になった。この段階で、玉置社長は会社
の存続をあきらめた。

イヴ・ネットの失敗について、インターネット電話に詳しい業界関係者は、「たくさんの
先行企業がある中で、どこに優位性を見いだそうとしていたのか、疑問が残る。
出資を断った商社はロシア問題を理由にあげたというが、単なる口実だったのでは
ないか」と話す。玉置社長は「端末の使い勝手という面で、他社のサービスより格段
に優れている」と力説するが、関係者の見方は「もともと事業計画事態が甘すぎた」
という点で一致する。

具体的にいえば、零細企業が多い通信機器ディーラーを事業パートナーにしようとした
ことも過ちの一つだ。日本電子通信と同じように、中継基地の設置者を募集している
インターネット電話会社は、「基地をつくっても、しばらくはカネが出ていくだけ。
その負担に耐えられる企業であることが、共同事業者の最大の条件」と話す。
リース会社も、そのリスクを前提に審査すると考えるのが普通だろう。

また、当初の計画が狂った時に、なぜブレーキをかけられなかったのかという点にも
疑問が残る。

玉置社長は「中継基地の設備や端末の開発に先行投資をしてしまった以上、後には
退けなかった」と言うが、慎重さに欠けていたことは否めない。例えば、大手企業から
出資の約束を取り付ける前に、事実上、事業をスタートさせてしまったこと、機器の
開発を委託したメーカーから遅延に対する違約金を取れなかったことなどは、明らかな
経営上のミスといえる。

日本電子通信の倒産は、堅実だった本業そっちのけで、新事業に夢を見すぎた結果
だ。玉置社長は、それを反省しながらも、まだ夢の実現をあきらめていない。

日本電子通信は破産したが、子会社のエデンテレコムは存続し、事業のスポンサー
を引き続き探している。「イヴ・ネットの可能性を評価してくれる人は必ずいる。何と
しても支援先を見つけてみせる」と意気盛んな玉置社長は、7月末時点で内外の企業
3社と交渉を続けている。
                                      (終了)


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