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「商人とは、経営者とは」第1回


「商いの心」

伊藤雅俊(79)は、愚直で平凡な商人であり続けることによって、非凡な商人に
なり、非凡な経営者となった。

「平凡」は志の低さや無為を意味しない。ましてや無能を示すものでもない。

分を守り、基本に徹する強い意志がバックボーンにある。自分の立脚点を見失わず、
商人としての長い道のり、その原点を守り抜いた持続力が、「平凡」の中身である。

店がまだ小さかった頃、伊藤が商売の師とも仰ぐ母親、ゆきは、どんなに暇な時でも、
店の中でいすに腰掛けることを許さなかった。

手掛けていた洋品店は、客が途切れないという業種ではない。客の来ない店頭で
一日中立ち尽くしているのは「それはつらかった」と、今でも伊藤は振り返るが、
いつお客様が来てもいいように立って待つ「心の構え」こそ、商人にとって大事な
ものと、骨の髄までたたき込まれた。

昔から「商いは、飽きない」と言われてきた。商売の本質を端的に言い表し得た言葉
だろう。ほかの仕事も同じだが、特に商売では、基本を持続するエネルギーが大切で
ある。

「流通業は変化対応業」とも言う。これもまた、小売業の核心を突いている。変化の
スピードについていけず、消えていった商店が無数にある。変化に対応するにも、
多大なエネルギーが必要だ。

問題は、変化への対応に目を奪われると、いつの世にも変わらない要素である
「商いの心構え」がおろそかになりがちなことである。

伊藤はたたき込まれた商いの心を、ひと時も忘れなかった。イトーヨーカ堂が長くて
厳しい流通戦争を生き残り、ついにトップに踊り出たのは、ひとえにこのことによる
と思う。

大衆消費が生んだ
時代の申し子

イトーヨーカ堂(当時はヨーカ堂洋品店)が昭和30年代の初め、東京・北千住で小さな
小さな産声を上げた頃から、日本の流通業界は「流通革命」「流通戦争」と呼ばれる
疾風怒涛の時代を迎える。

かつて経験したことのない激動が、流通業界を襲った。大きな目で見れば、大衆消費
社会という新しい世の中の仕組みが出現したのであり、流通業界はその変化への対応を
迫られたのである。

流通業はそれぞれの社会に組み込まれた産業だから、地域により、国によって、違った
構造を持っている。欧米と日本の商業構造には大きな違いがあったが、その違いを越え
て、共通したうねりが生まれた。

“チェーン運営”という仕組みである。チェーン運営の発想が流通業のありようを
根本的に変え、大きく進歩させた。日本の流通業界はチェーン運営の思想と方法を米国
から学び、導入した。

伊藤は昭和36(1961)年、米国系のレジスターメーカー、NCR(日本金銭登録機)
が主催した欧米流通業界視察団に加わって、初めて海外を視察した。この時伊藤は、
日本に先駆けて大衆消費社会を迎えていた米国で、それにふさわしい業態としてチェーン
店組織が開発され、急速に発展しているのを目の当たりにした。

この視察旅行に旅立つ前、伊藤が夢見ていたのは、イトーヨーカ堂を百貨店に育て上げ
ることだった。当時は、百貨店こそが小売業の王者だった。やる気のある小売業者は皆、
百貨店を仰ぎ見て、いつかは自分も百貨店の経営者になりたいと夢を描いたのである。

ところが、米国で最も成長していたのはチェーン店だった。帰国後も伊藤は、百貨店へ
の夢をすぐには断ち切れずにいたが、結局、チェーン店での展開を決断した。決断して
からの動きは早かった。春に訪米し、秋には2号店となる赤羽店(東京)を開いている。

スーパーと呼ばれるチェーン業態はその後、日本の流通業界を席巻する。華々しく先頭
を走ったのは「西のダイエー、東の西友」だ。昭和53(1978)年、ダイエーの
売上高が三越を抜き、日本一の座を獲得したのは、流通業界史の象徴的な一場面である。

不器用な経常者の
美学

成功したスーパーの経営者の多くは、多角化の誘惑に駆られた。王者百貨店を凌駕し、
一番の小売業態を実現した後、次に掲げる目標や夢が必要だったのかもしれない。

「流通の革新者」「ロマンを求めて、暗黒大陸と言われる流通の荒野を切り拓く開拓者」
「新しい生活文化の創造者」―――。それは、世間や社員に新しい時代の小売業の姿を、
分かりやすく示すことでもあったろう。

伊藤はその大勢に流されなかった。

多角化に走らなかった理由を聞くと、「私は、そんなに色々なことができるほど器用じゃ
ない」と答える。だが、成長する小売業者には何事も可能で、何をやってもうまくいき
そうに見えたあの時代に、愚直に一業を守り抜くには、相当に強い意志が必要だったはず
である。

小売業の日々の業務に完成はない。昨日より今日、今日より明日と、一歩ずつでも前進
することが、多角化より大切と考えた。伊藤が続けていたのは、消費者の要望を見逃さ
ないように、社員に繰り返し「商いの心」を説き、取引先を大事にして、決して迷惑を
掛けないよう心配りをすることだった。

伊藤は平成4(1992)年、社長の座を鈴木敏文に譲る。伊藤と鈴木は「水と油」と
称されるほど、ものの考え方に違いがある。しかし、根幹の哲学は見事と言っていいほど、
鈴木に受け継がれた。

鈴木が最も重視した組織管理手法の「業務改革(業革)」の中心思想は「基本の徹底と
変化への対応」であり、伊藤の考えとびったり一致している。

二人の間には手法に差があるためか、伊藤は「ちっとも言うことを聞かない」と苦笑する
が、商人のあるべき姿を伊藤と全く同じに捉えた優れた後継者を得たのは、伊藤とイトー
ヨーカ堂にとっての幸運だろう。

多角化を志向するのは、善悪よりも経営者としての資質の違いかもしれない。しかし
現実には、その違いが勝敗を分けた。伊藤は恐らく、自分が商人であることに何の疑問
も抱かず、自分自身を商人と規定する以上の旗印が必要などとは考えもしなかっただろう。

断固とした
「しない決断」

伊藤には「決断の遅い経営者」という評がある。事実、ちゅうちょ、逡巡し、背中を
押されるようにして決断した場面がいくつもある。

今年9月に店舗数が1万店を超え、世界の小売業でも初めての快挙を実現したセブンイレブン
についても、当初、手掛けることをためらった。鈴木(現会長)が口説きに口説き、やっと
了承されたエピソードがある。

伊藤は何かをする決断に際しては、非常に慎重である。自ら「臆病」と言う。性格的な
面もあるが、いくつかの合理的な背景がある。

一つは、判断に際し、オーナーとしての責任感が強く出てくることだ。人様に迷惑を掛け
ないというのは、伊藤の基本的な人生観である。新しい事業の成功の確率を考える。
どんなに有望でも、100%はあり得ない。失敗した時、自分で責任を取れるか、人様に
迷惑を掛けずに済むか。

伊藤のところまで上がってくる案件は、事業の可能性については、その時点で見通しが
立っていたに違いない。伊藤は責任が取れるかどうかを、ぎりぎりまで検討していたの
ではないだろうか。ある時期までのイトーヨーカ堂は、借金について伊藤が個人保証して
いたが、伊藤が自分の財産を惜しんだとは思えない。

二つ目に、伊藤は日本経済に対して、いつまでも伸び続けるという根拠のない楽観は抱いて
いなかったし、経営が危機を迎えない保証などどこにもないと考えていた。高度成長時代の
最中にも、いつかデフレが来ないとは限らないと見ていた。幼い頃とは言え、経験した
デフレが、再び起きないとは言えないからだ。それだけに慎重だった。

視点を変えると、伊藤は「する決断」にはしばしば逡巡したが、「しない決断」は断固と
して実行した。むやみに多角化しない、バブルに踊らない。これらの重要な「しない決断」
が、イトーヨーカ堂が勝ち残るかどうかの分岐点だった。

「しない決断」の裏側には、伊藤の厳しい倫理観がある。金儲けのために筋を曲げない。
その場の利益より、志が大切だ。志を欠く経営を、伊藤は軽蔑する。

挑戦型か、
禁欲型か……

伊藤は真面目で律儀な人間だ。読書好きで、経済・経営・歴史などの硬い本を好んで読む。
数字をいじるのも好きで、このデータとこのデータを組み合わせると、こういうことが
見えてくるはずだ、などと考える。やってみて思った通りの結果が出ると、大いに満足
する。伊藤の手元には、こうして作った独自データがたくさんある。

いつの時代にも果敢な挑戦型の経営者がもてはやされる。しかし、百年の単位で見た場合、
本当に強い経営はどちらだろうか。規模を追わずに、日常の業務を大切に考える禁欲的な
経営にこそ、本当の強さがあるのではないか。

この稀有な経営者は、どのような背景から生まれてきたのか。
(文中敬称略)

日経ベンチャー2003年10月号より

次は、
伊藤雅俊 イトーヨーカ堂名誉会長
「商人とは、経営者とは」第2回です

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