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「商人とは、経営者とは」最終回


挑戦への勇気

イトーヨーカ堂グループは年間売上高約6兆円、働いている人は
21万人の規模になった。家族を含めるとざっと50万~60万人が
グループから得た収入で暮らしを支えている。取引先まで含めて収入
の一部をグループに依存している人となると、その倍は軽く超え、
100万人以上に達するだろう。

この巨大なグループを伊藤は、60年で作り上げた。スタートは2坪
の店である。戦後の日本の小売業界を見渡すと、裸一貫からチェーン
ストア隆盛の波に乗り、大手に踊り出た創業経営者が何人かいるが、
代表的な1人、ダイエーの中内功は最後につまずいた。現在、
イトーヨーカ堂と並んで二強と称されるイオングループ(店名ジャスコ)
の岡田卓也は、老舗の呉服店からチェーンストアに転換した人だ。

徒手空拳、一代で「帝国」を築き上げた風雲児として、伊藤は第一番に
指を折らねばならない人になった。もっと広く産業界全体で見ても、
伊藤が何本かの指に入ることは間違いない。

商人としての伊藤が持つ特質の1つは、自分が商人になることに何の
疑問も、迷いも、不満も持たなかったことだろう。根っからの商人なのだ。
だから、商いの本道を迷わず歩くことができた。勃興した大手小売業の
経営者の中に、「根っからの商人」と言える人は実は案外少なかった
のではないか。

商いの本質を追求するより、立派な商人と「見せかける」ことに力が
入ってしまった経営者が多かった。自分を「大きく」見せることを嫌い、
「自分は無力な商人だ」というところから出発した伊藤は、オーナー
経営者としてむしろ、稀な存在だった。

大手小売業のオーナー経営者には、女性的な心性の持ち主が多いという
説がある。この説が言う「女性的心性」とは、嫉妬深くて、他人を容易に
信用しない、自分より力量のある人間を認めない、社内で起きている
すべてを知らないことには気がすまない、などを 意味する。小売業の
オーナーにそういう人が多いことについて、説得力のある理論的な根拠は
ないが、実態を見るとうなずかされるところがある。

伊藤はこの説からも外れている。特に力量のある人間に任せられる点で、
伊藤はなかなかに「男性的」である。「自分以上の力を持った人が社内
に何人もいた。そういう人達の努力で、イトーヨーカ堂は成長してこら
れた。自分の力だと思っていたら、会社は没落に向かっていただろう」。
最近の講演でも、伊藤はそう語っている。

オーナー経営者の
「恐怖心」

世間を見渡すと、オーナーというのは自信家でわがままをものであり、
自分を中心に世界が回っていると考えるタイプが多い。そういう人で
ないと、起業して成功するのは難しいのかもしれない。だが、伊藤は
それとは反対のタイプである。その意味では、異質の創業者と言える。

伊藤は「オーナーは背負っているものの重みが違う」と語る。
「背負っているもの」とは、投げ出したり、逃げたりすることのできない
立場であり、それに伴う責任であろう。

伊藤は2003年、日本経済新聞に連載した「私の履歴書」の中で、
オーナー経営者の「恐怖心」に触れている。イトーヨーカ堂を48歳の
時に上場したが、50歳になるまで会社の借金の個人保証を銀行に求め
られていた。経営に失敗すれば、身ぐるみはがされる「恐怖心」である。
伊藤はいまだにその緊張感から抜け出せない。

それは理解できる。同じ思いを吐露する中小企業の経営者は少なからず
いる。それは怖いことに違いあるまいが、2坪の店から年商6兆円に
成長する過程の喜びは、その怖さに匹敵する大きさだったのではないか。

伊藤に聞いても、その喜びについては明快な反応が返ってこない。
チェーンストナという業態を選んだ時、成長を目指したのだろうから、
大きな喜びだったに違いないが、伊藤にとっては背負ってきた重圧が
大きくて、そちらの印象ばかりが強いのかもしれない。

伊藤は「たたき上げ」の経営者である。若い頃、家族で旅行していても、
旅先でいい店があると、家族をほっぽりだして見学に行く。世界最大の
企業になった米国ウォルマートの創業者、サム・ウォルトンの自伝を読む
と、イメージが重なる部分が多い。

サム・ウォルトンも商売好きの現場好きで、旅行の途中、家族を置き去り
にして他店の見学に励んでいた。他店のいいところはどしどし取り入れ、
自分の店を改善していった。

伊藤は「恐怖」と戦いながらも、商売が好きだった。オーナーにも
いろいろなタイプがあると伊藤は言う。伊藤のように仕事が好きな
タイプ。お金が好きな人。事業を起こし、創り上げるのが好きな人。
経営そのものに惹かれる人。革命家タイプもいる。享楽を夢見る人
もいる。

「人は好みに滅ぶ」
日々反省、自ら戒め

伊藤はかつて、恩人であり、人生の指導者と仰いだ関口に注意された
「人は好みに滅ぶ」という言葉を忘れていない。仕事好きなら、
誰にも文句を言われないことのようだが、うっかりすると、自分の仕事
が一級だと思い込み、おごりの心が出てきかねない。

伊藤の好きを言葉に「冥利」がある。神仏が知らず知らずの内に与える
恩恵という意味だ。世の中に生かされ、多くの人々のおかげで商売が
でき、今日の自分があるのは自分一人の力によるのではないと考える
ことである。おごりこそ、伊藤が日々反省し、自ら戒めている心の敵だ。

伊藤は心血を注いでわが子のように育て上げたイトーヨーカ堂グループ
から「子離れ」しつつある。

イトーヨーカ堂はフェイス・トウ・フェイスの会議が多い会社だ。
世に知られている業務改革委員会は昭和57(1982)年から毎週1回、
欠かさず開かれてきた。20年以上になる。この会議には、伊藤は
最初から出席しなかった。取り仕切ったのは鈴木敏文(会長)である。
会議で鈴木は、基本の大切さと、変化への対応の重要さを吹き込み続けた。
この重要な会議を伊藤は鈴木に任せた。鈴木が説き続けたのは、伊藤と
全く同じ考え方だった。

グループのボードメンバーによる経営政策会議、常務以上によるEC
(エグゼクティブコミッティー)会、8500人が出席する年2回の
IYグループ経営方針説明会にも、昨年秋からは出なくなった。
役員会にも出ていない。

伊藤の希望というより、周囲から「そろそろ」と言われて身を退いてきた。
それでもオーナーの立場は変わらない。グループにとって、伊藤の存在は
何か。「重し石だよ」と伊藤は答えた。

それは伊藤が悩んだ末に見つけた答えに違いない。資本と経営の分離など
という理屈で割り切れる話ではないのだから。自分自身、割り切れている
わけではないことを伊藤は隠さない。「それが人間だ」と何度も繰り返した。

伊藤の長男、裕久は一昨年、専務の地位を捨てて会社を辞した。仕事で
失敗したわけではない。「他の仕事がしたい」というのが理由である。
今では「本人の意思がそうなら、それでよかったと思っている」と言う
伊藤だが、一時はさぞ気を落としただろう。

次男の順朗がセブンイレブンの取締役執行役員を張り切って務めている
姿が、あるいは慰めになっているのかもしれない。オーナーの息子
だからと特別の立場を与えられたわけではない。伊藤はいつの日か、
息子が経営者の立場に就くことを願っているかもしれないが、ごり押し
するつもりもない。オーナーとして節度ある態度を守る。

ヨーカ堂のDNA
「商人とは自由人」

昨年2月、IYグループ経営方針説明会で行ったスピーチが、伊藤が
社員に向けた最後のメッセージになった。この会合にはもう出ないと
決めたのはその後のことだから、最後のつもりで話したわけではない。
しかしそのスピーチは、最後にふさわしいものだった。

「二つのことをお願いしたい。第一に、もう一度創業の精神と気概を
持ってもらいたい。会社の規模が大きくなるほど、考え方を共有する
のが難しくなる。第二の創業期として、お客様に喜んでもらえるよう、
過去の経験にとらわれず、誠実に仕事に取り組んで欲しい。第二に、
未来を開くために積極的な姿勢で仕事をしてもらいたい。挑戦には勇気
が必要だ。一丸となってIYグループの明るい未来を築いていくことを、
強く願っている」

伊藤が後を託す若い人達に言いたいことの核心は、ここに詰まっている。
伊藤が今、最も心を砕いているのはまさに、どう乾かして創業の精神を
社員達の心に植え付けていきたいということなのだろう。創業の精神とは
伊藤が60年間、大切にしてきた「商いの心」「商いの道」である。
そのDNAをイトーヨーカ堂グループの経営にしっかり根付かせたいと、
伊藤は祈るような気持ちで願っているのではなかろうか。

「商人は自由人である」と伊藤は言う。何者かにしばられることはない。
お客様には頭を下げるが、誇りを持ち、胸を張って頭を下げる。自分を
卑しくして頭を下げる必要はない。

「戦後の大商人」と言っていい伊藤は、今でも勉強熱心だ。仕事が終われ
ば自宅で本を読む質実な生活を送っている。会社の仕事が楽になったから
と言って、顕職に就こうなどとは全く考えないところが、いかにも伊藤ら
しい。大商人は「大自由人」でもある。
     (おわり、文中敬称略)

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「ウォルマート」 の創業者、
サム・ウォルトン氏を訪ねて
(1991年)

全米小売業協会から国際賞を受賞した(1998年、ニューヨーク)

鈴木敏文会長(右)と。後継者として、日本の名経営者の一人に数えられる
鈴木氏に恵まれ、自由に活躍してもらったのは、伊藤氏の幸せであり、度量
の大きさを見せたことでもあった

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日経ベンチャー2004年3月号より

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