県外在住の対馬丸記念会協力会員から米や菓子が届き、祭壇に供えた。
保育園や県外遺族から寄せられた千羽鶴も掲げられ
記念会常務理事の外間邦子さん(82)は感謝の言葉を述べた。
語り部で生存者の照屋恒(ひさし)さん(81)は当時4歳。
共に乗船し犠牲となった母と姉を悼んだ。
1944年8月22日、眠っていた照屋さんは、米潜水艦の魚雷攻撃を受け
母に起こされ甲板へ急いだ。
2人で暗い海へ飛び込み、縄が結われた、しょうゆだるをつかんだ。
母は「絶対に手を離すなよ。姉さんを探してくるから」
とそばを離れ、戻らなかった。
「対馬丸で助かったのはこの子ね」。戦後、周囲の哀れみの目が胸をえぐり
長年事件について話すことを避けた。それでも、慰霊祭には毎年欠かさず参列した。70歳からは語り部として活動。ふたをしていた記憶を語り
子どもたちに命の尊さを伝えている。
コロナ禍で来館者が減った記念館は、経営が厳しい状況が続く。
照屋さんは「記念館があることにより、子どもたちが歴史を知る機会につながる」と館存続の意義を語った。
対馬丸記念会の高良政勝理事長(81)は「大きな問題は記念館と小桜の塔の
継承だ」と強調。
遺族の高齢化が進む中「国策により多くの人々が犠牲になった。
子どもたちに事実を伝えるため、行政が責任を持って管理してほしい」と語った。
対馬丸記念館によると、犠牲者は氏名が判明しただけで1484人で
そのうち学童は784人と確認されている。
対馬丸記念会の高良政勝理事長(81)は「例年であれば会場を埋め尽くすほどの大勢の遺族や生存者の方が参列したが、コロナの収束がまだ予測できず
例年通りの慰霊祭は不可能と判断した。対馬丸は子どもが多く犠牲になったことを知ってほしい。
慰霊祭を行うことが戦争の悲劇を後世に伝えることに役立っている」と話した。
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